琉球国三司官書状
万暦六年四月五日 / 冊子 540頁
琉球国三司官が鹿児島奉行へ年頭を賀し、七島船の使者から山東の人々が皆無事に参上したと聞いたことを喜ぶ。祝使として妙厳寺を派遣し、太平布五十端を贈るので、使僧をしかるべく取り計らうよう依頼した。
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万暦六年四月五日 / 冊子 540頁
琉球国三司官が鹿児島奉行へ年頭を賀し、七島船の使者から山東の人々が皆無事に参上したと聞いたことを喜ぶ。祝使として妙厳寺を派遣し、太平布五十端を贈るので、使僧をしかるべく取り計らうよう依頼した。
(慶長八年)七月廿三日 / 冊子 901頁
伊勢貞成が虎皮・豹皮・小人島・水牛角・明礬・鹿皮・山馬皮・砂糖・紅木の数量を列記し、鹿児島と帖佐へ分配するよう命じた注文。唐人側と価格を確定し、商人へ引き渡すことも指示する。
九月廿九日 / 冊子 19頁
指定された諸城をただちに明け渡し、上使衆の意向に従うことを薩摩・鹿児島・日置などの城持衆へ命じた直書。
隆慶三(永禄十二)年正月十一日 / 冊子 211頁
琉球国三司官が、前年初夏に年貢物輸送中の太平島船が逆風で加世田片浦へ漂着した際、乗員を保護して琉球へ送り届けた島津方の厚意に謝した書状。古来の盟約が続くものとして両国の往来を望み、使節として天龍寺僧官を派遣し、国王からの綿織物六端などを贈っている。
(慶長七年)十月六日 / 冊子 849-850頁
伊地知重行と有川貞政が、少将忠恒の上洛中の安全を祈るため、毎月諏訪大明神で神楽を行うよう依頼した連署状。十月から十二月まで三か月分の費用として八木五斗二升五合を送った。
(元和元年)六月廿四日 / 冊子 595頁
到着を重ねて喜び、炎暑の時節の労をねぎらって近年の交誼を深めることを望み、二種の双樽を贈った近衛信尹の書状。
寛正六年 / 冊子 450~451頁
鹿児島諏訪社の御祭について、寛正六年から始めた七廻の輪番と、同年に始めた五月祭の五廻を、担当する村・寺院・名主等とともに列挙した祭礼次第。
慶長十八年四月廿六日 / 冊子 397頁
慶長十八年四月二十六日、鹿児島支配所の加増地として飯野杉水流村内の屋敷・田畠を所付ごとに石高・面積・名請人とともに列記した加増名寄帳。
(慶長廿年)一月十六日 / 冊子 574頁
鹿児島御支配所の知行名寄帳。大口小木原村などの屋敷・田畠について、名請人、面積、石高、給付先を列記し、合計高と知行割付を示す。
年月日不詳 / 冊子 116頁
渋谷氏が鹿児島へ参仕した際の座配を書き立てた文書。忠隆公の御代における主居・客居の配置を示し、入来院・伊地知・高城・祁答院・東郷・樺山・北郷など各家の席次を図示する。
(慶長三年)十一月廿三日 / 冊子 288頁
石田三成が鹿児島・富隈・帖佐の代官へ、島津三殿の蔵入年々算用が進まないのは代官の油断によるとして、三方役人・奉行の指示に従って出頭し、怠慢な代官名を報告するよう命じる。後日、義久・兵庫頭との談合で処分するとし、当年貢も定めた免合と期限どおり皆済するよう厳命する。
寛永十五年正月五日 / 冊子 724頁
島原への加勢として大口衆二百二十人を出立させる手形。分限衆は人数が整い次第、無足衆は三人につき夫一人を用意し、鉄砲・弓・鑓と普請道具を携行すること、飯米は出水船本で物頭の差出により受け取ることなどを命じる。
辛未8月15日鹿児島県庁 / 冊子 837頁/原整理番号 1053の3/整理ID 1053-3
鹿児島および諸郷に掲げていた御制札の副札を取り除き、旧藩境に設置した標木に記す「藩」の字を「県」に書き改めるよう命じる。辛未八月十五日、鹿児島県庁。
辛未9月2日鹿児島県庁 / 冊子 839~840頁/原整理番号 1058の1/整理ID 1057-6
大山格之助を鹿児島県権大参事に任じる宣下があった旨を伝える。宣下に伴う奉命と、関係者の妻その他の身分取扱いについても併せて申し渡す。辛未九月二日鹿児島県庁。
壬申5月28日鹿児島県庁・5月29日庶務課 / 冊子 885頁/原整理番号 1099の1/整理ID 1099-1
明治天皇が中西国巡幸のため当月二十三日に東京を出航し、鹿児島県にも巡幸する予定であると告げる。士民は聖意を奉戴して各自の職務を尽くし、怠慢のないよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 162頁
鹿児島康友から康村・康兼らへ続く系統を簡略に示し、鹿児島郡司職・執印職をめぐる関係人物を整理した系図記事。
九月兵部省、九月14日写の16日受取指示/明治2年十月17日知政所(朱年) / 冊子 706~707頁/原整理番号 924/整理ID 924
九月兵部省文は、箱館で官軍に抗敵し降伏した別紙の者を鹿児島藩へ預け、国元へ引き取り禁錮とするが見込みにより使役を認める。九月十四日写は明後十六日に芝山内で一之宮藩から受け取るよう指示し、櫻井莊三郎ら十五人の名簿を掲げる。十月十七日知政所達は原「櫻井莊三郎外二十四人」を到着後上南林寺脇寮へ置き、町役人一両人を付け、歩行等に付き添い、監察方が請持・取扱いをして徳政への感化を求める。到着後才器に応じ召仕える場合もあると但書で述べる。十五人と外二十四人の対象対応を確定せず、受取・到着・使役・感化完了は補わない。
壬申4月 / 冊子 880頁/原整理番号 1095の2/整理ID 1095-2
布告受領後、人口・戸数取調帳を期限までに提出させる。鹿児島城下を岩崎谷県庁辺、平馬場、高見馬場、西田等の四区と小区に分け、戸長・副戸長を任命する。
明治12年4月30日 / 冊子 979頁/原整理番号 1264の1/整理ID 1264-1
鹿児島県の警察課を警察本署と改称することを、甲第六十一号として管内へ布達する。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁
応永二十四年、河邊松尾城と鹿児島・谷山方面で起きた攻防を記す。伊集院・伊作方と久豊方が城を奪い合い、鹿児島・谷山の軍勢が出動し、多数の戦死者を出しながら援軍・包囲・退却を繰り返した経過を述べる。
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
二月七日 / 冊子 649頁
北原久兼が肝付兼興に、贈答への謝意を述べ、鹿児島・高山・新城などをめぐる調停と今後の相談を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺に現れた桑波田孫六を先約どおり鹿児島へ迎え、翌十九日に羽狩のため山へ登る留守を機に南郷城を平定したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 720~721頁
鹿児島方面の合戦で新納勢が敗北し、敵方諸将が処刑・戦死した経過を箕輪伊賀が記す。相州家の危急を訴え、梅岳君・勝久らの動向を述べる一方、討伐された者の子が後年に召し出され、父祖の奉公を考慮して恩賞を受けた戦後処遇までを伝える。
(天文八年)十月一日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、河辺衆が谷山へ攻め入り鹿児島勢百人を討ち、郡山宇良を破った戦況を報じ、市来浦方面の措置と出陣を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 736頁
天文四年十月十日、実久方の軍勢が鹿児島へ乱入して村市を焼き、勝久が退去するなか、石谷梅久父子が密かに勝久を支援したことを記す。
天文六年十二月廿四日 / 冊子 758~759頁
島津勝久が本田宣親に、鹿児島荒田・松浦・藤野・赤水などの所領を宛行い、忠節を尽くすよう命じた宛行状。
天正15年5月 / 冊子 328頁
本文はNo.309の豊臣秀吉禁制と同文であるため省略されている。鹿児島における軍勢の乱妨狼藉や放火などを禁じ、違反者を処罰して戦後の秩序を維持する趣旨の文書である。
文禄4年12月朔日 / 冊子 924~925頁
義弘は島津又八郎(忠恒)へ、法元からの報告、佐左平次の帰朝、鹿児島衆の配置、帖佐の普請など、帰朝後の家中処置を細かく指示する。 船の手配、知行・人員移動、医師や鷹に関する用件まで盛り込み、領国再編の実務が同時並行で進む様子を伝える長文書状。
慶長三年(四月) / 冊子 203~204頁
島津家久の事書案。留守居の談合衆は諸事を容赦なく法に従って処理し、公領の町・浜に住む者へ公役を怠りなく課すこと、船役は船奉行が現地で船を確認して命じ、高麗渡海船の選定に贔屓・偏頗がないよう入念に行うことを定める。鹿児島衆には従前どおり普請へ出るよう命じ、怠惰や難渋があれば役人が厳しく申し付けて言上すること、代官衆の公役、濱市・帖佐・鹿児島三方の協議による決定も規定する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 272頁
慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。
慶長三年 / 冊子 307頁
島津家久が、領国留守中の行政・公役・船舶運用について定めた事書案。留守居の協議では容赦なく法度を施行し、公領内の町・浜の住民に公役を滞りなく負担させるよう命じる。船奉行は船元に出向き、高麗渡海船をえこひいきなく監督すること、鹿児島衆は従前どおり普請に出ること、怠慢者や難渋者を報告すること、代官衆は公役を確実に実施すること、濱市・帖佐・鹿児島の三者が協議して決定することを規定する。
(慶長六年)十二月五日 / 冊子 790-791頁
島津惟新が家の行末をよく吟味するよう諭し、図書殿の上洛をめぐって鹿児島衆が三原諸右衛門尉宅で武力行使を相談したとの風聞を問題視する。騒動を止め、船・酒宴・喧嘩などにも油断なく統制を徹底するよう命じる。
(慶長七年)九月十一日 / 冊子 845-846頁
島津龍伯が忠恒へ、上之山城の処置、鹿児島老中衆との意思疎通、馬の調達、鎌田源左衛門尉から聞いた諸案件などについて意見を伝える。南林寺関係の訴えや福山の馬の扱いにも触れ、関係者へ適切に命じるよう求めた。
(慶長十一年)五月朔日 / 冊子 70~72頁
島津義弘が島津忠恒に、四月八日付書状を同月二十三日に受領し、忠恒が無事在京していることを喜んだうえで、鹿児島を中心とする国絵図・田帳作成の遅延と役人の怠慢を厳しく批判した長文書状。田地・知行・年貢の処理、渡海船・材木・銀子の手配、関係者間の争論など領国行政上の諸案件を列挙し、吟味・裁定と迅速な報告を求める。
元和六年五月十三日 / 冊子 731頁
家久留守中の職務・鹿児島警固・寄合・酒色・喧嘩口論・夜行・辻斬り・火の用心・辻歌・走者・耕作などについて、禁止事項と報告義務を列挙した覚書。
年月日未詳 / 冊子 774頁
十月中旬に徳川秀忠が島津家久へ暇を告げ、秀忠から黄金三百枚・絹百端・脇刀一柄、家光から白銀千枚・時服百領・駿馬三匹を拝領したこと、家老島津久元・伊勢貞昌が供奉し、十月下旬に江戸を発って十一月下旬に鹿児島へ入ったとみられることを記す系譜記事。
(寛永九年)十月十一日 / 冊子 321~322頁
島津氏の軍役賦。乗馬衆・陸衆・鉄砲衆・弓衆・長刀衆・外城衆・船頭水手・鹿児島騎馬衆などの人数と、鉄砲玉・硫黄・塩焔等の軍需品、鉄砲・弓・鎧・長刀・具足の数量を表形式で掲げ、外城から指し出す諸所も列記した。
(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
寛永十二年十二月十五日 / 冊子 507頁
鹿児島町奉行の新納加賀守(忠清)が島津弾正へ、肥後へ商売に赴き宗門改めで留め置かれた鹿児島町の三官を迎えるため与四郎を派遣する旨を伝えた文書。与四郎について「貴師旦宗ニ而無御座通」と記し、五人組側の証文を取ってあるので判形を下すよう願う。本文日付は寛永十二年十二月四日で、索引の十二月十五日と相違する。
九月十八日 / 冊子 47頁
平田宗親と喜入久正が、新田宮への社参や鹿児島方への連絡などについて連署した書状。現地の扱いは旧冬の申し付けを維持し、内々の書札を用いること、名の処置については五大村の希望に応じて行う方針を伝える。
十月十六日 / 冊子 90-91頁
新納忠清が司馬老・自閑老に、遠路からの書状への礼を述べ、道純作の籠について以前取り次いだ件の首尾を尋ねた書状。当分当地に滞在しているため喜入休右衛門尉にも書状を送り、詳しく言い含めるよう求める。道純の病状が快方に向かわないことを惜しみ、今月中も変わらなければ翌月早々に鹿児島へ赴いて世話をすると述べる。
十一月一日 / 冊子 273~274頁
島津勝久が、河辺・谷山方面へ進軍して鹿児島衆と合流し、敵約二百人を討ち取り谷山神前城まで追い詰めた戦果を入来院殿へ報じた書状。
十月十六日 / 冊子 276頁
島津勝久が、女房が乗船して鹿児島に滞留しているとの報を受け、船の手配を命じて三艘を参らせるよう樺山殿へ依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 330頁
鹿児島福昌寺の釈尊八相画像を修復し、表絹に金襴を用い、さらに寄進を行ったとの記事。
年月日未詳 / 冊子 332頁
過去帳三幅を作り、上段に阿弥陀三尊を描き、下段に戦死した士卒・陪臣・奴僕の姓名をすべて記して鹿児島福昌寺へ納めた記事。頓証菩提を弔わせるため水田三町も寄進し、毎朝・時々の供養を絶やさせなかった。
年月日未詳 / 冊子 355頁
島津貴久が、虫気のため詳しい返答を後日に回し、翌日の喜入行きや鹿児島へ赴く予定について述べた書状。相手の来訪が難しいとの話を受け、事情をよく承知したいと伝える。
三月六日 / 冊子 130頁
上洛の予定を当面中止し、京都の用務は使節によって申し上げるべきだと重ねて諫め、国の立場や鹿児島の老名衆が頻りに引き留めていることから、この時期の上洛をぜひ停止するよう求めた書状。第二七六号と同文。