島津氏老臣連署坪付
天正八年閏三月吉日 / 冊子 651~652頁
薩摩国加世田の津貫名にある牧野段之門・天満・午牟田・谷口・山下・宮田・尻陰俣などの公田九町余を上原隼人佑へ示した坪付。確定版年月日は『年間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正八年閏三月吉日 / 冊子 651~652頁
薩摩国加世田の津貫名にある牧野段之門・天満・午牟田・谷口・山下・宮田・尻陰俣などの公田九町余を上原隼人佑へ示した坪付。確定版年月日は『年間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
元和三年七月廿五日 / 冊子 651頁
薩摩国加世田内山田村の田頭屋敷について、定高十五石七升七合と浮免二石九斗五升三合、合計十八石三升を公役負担の知行として前田隼人佑へ宛行った連署知行目録。
(寛永九年)七月十二日 / 冊子 295頁
新納忠清が有村隼人に、肥後からの風説を出水経由で聞いたため、事情を念入りに聞き合わせるよう命じた機密書状。熊本周辺の動向、百石までの者が馬に乗って退去するとの風聞、秋月勢の出立などを報じ、他言せず読後は火中に投ずるよう求めた。
十一月五日 / 冊子 356~357頁
今岡通詮が徳永隼人佐へ、三宅和泉守が公方の命で琉球国へ赴こうとして薩州で不慮の死を遂げた後の経緯を述べた書状。三宅方の遺族・被官や津浦での借財・兵糧をめぐる問題について、取り成しと返報を求める。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が加久藤の大明寺口を破ったため、島津義弘が飯野勢を率いて木崎原へ進み、敵を繰り返し追い詰めた戦いを記す。上野隼人佐が伊東方の大将米良筑後守を討ち取った戦功を特記し、敵を小林郷まで追撃して多数の首級を飯野へ持ち帰ったとする。
天正四年 / 冊子 471~472頁
天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 188頁
天正十四年七月六日辰刻の鷹取城攻撃で、二十九歳の上野隼人佑が土師兵部と一歩も退かず戦い、互いに刺し違えて討死したことを記す覚書。末尾の歌は、その名を「高取の露」として後世に残す忠節をたたえる。個人の年齢・対戦相手・最期が具体的に分かる短い戦功・討死記事である。
年月日未詳 / 冊子 309頁
上野隼人が幼少期から島津家に仕え、高城合戦や豊臣軍との戦いを経て、戦後も奉公と所領給付を受けた歩みを記す覚書。家族・養子、役職、知行の変遷にも触れ、一家臣の履歴を短くまとめた記録である。
年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
年月日未詳 / 冊子 670-671頁
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。
天正四年十二月七日 / 冊子 503頁
野尻地頭福永丹波守が島津方の高原地頭上原尚近へ人質を出して内応し、天正四年十二月七日に島津軍が野尻へ入った経緯を記す。伊東義祐は綾城で抗戦を望んだが領内放火を受け、一日で国を捨てて豊後の大友氏を頼ったという。
年月日未詳 / 冊子 831頁
文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と土地支配を知る史料。
天明三年十一月三日 / 冊子 707頁/原整理番号 1994/整理ID 1994
島津重豪が比志嶋彦一の加冠に際し、仮名を隼人とするよう定めた書出。天明三年卯十一月三日付、御判。正文は比志島静馬にあるとの保管注記を伴う。
朱辰八月16日 / 冊子 593頁/原整理番号 773/整理ID 773
通達留。嶋津隼人を越後方面の出兵惣督に任じ、応援隊を付けると告げる。船の都合がつき次第出軍し、万事を西郷吉之助と相談して成功を遂げるよう命じ、その旨を向々へ周知するよう求める。末は朱辰八月十六日、内膳。任命と出軍の条件・指示を記し、この日すでに出航したとは補わない。
9月6日 / 冊子 196頁/原整理番号 116
御旗・御馬印は吉例どおり用い、前条朱書のとおり取り計らうよう達する文書。覚書の内容でよいとの意向を伝え、9月6日、某より比志島隼人宛で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 650頁
本田親尚が本田兼親を島津勝久に讒訴して所領を収公させたことや、清水隼人城など本田氏一族の動向を記す記事。
天文三年九月十六日 / 冊子 727~728頁
島津家老臣らが、徳永隼人佐・今岡民部大輔らを通じて幕府側へ窮状を訴えた連署状。薩州方との対立で通航と軍事行動が妨げられている事情を述べ、安来殿らの取り成しによる上洛・将軍拝謁、幕府の援助と家中安定への沙汰を求める。
年月日未詳 / 冊子 667~668頁
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内を鎮静化したという。損害と戦後処理まで伝える朝鮮出兵記事。
年月日未詳 / 冊子 479~519頁
米良隼人所持本をもとに天保七年に伊地知小十郎季安が書き留めた古高帳の写。慶長十五年または十八年の高帳とされ、家臣・寺社等をいろは順に掲げ、各人の高・内高・役分・職分などを大量に記録する。
(元和元年)六月五日 / 冊子 586~587頁
大坂方が敗れて真田氏・後藤又兵衛・木村重成・薄田隼人らが討死し、上方が泰平となったことを伝え、京都での滞在・上洛を祝した渡辺茂の書状。
寛永九年三月朔日 / 冊子 259頁
小森隼人佐と時任右京亮が、本田助之丞の蔵に関し、真米三石三斗六升六合六勺七才を加治木蔵へ、銀子二百八匁を鹿児島御蔵へ納め、石高分を含む合銀二百七十七匁四分四厘を皆済したことを証した連署請取状。
天文三年九月十六日 / 冊子 728頁
本文は前掲No.2227と同案文であるため省略され、別本もあることだけを注記する島津家老臣連署状。
四月廿八日 / 冊子 87頁
求められた品を十分に所持していないため、好便に数多く送ってほしいと頼み、本田源右衛門への指示を喜んだうえ、預かった花入・水指・茶入二つなどの茶道具を返上した書状。
享保五年十月六日 / 冊子 446頁/整理ID 無番号_0001
島津淡路守惟久が比志嶋隼人へ、家来石谷左平次の名乗りに関する申立てと証書の提出を伝え、その取扱いを求める。
元文元年 / 冊子 397頁/整理ID 928
長年の相替わらぬ奉公、御所方の動静、三郎らの勤め、大納言の上使参向などについて、藤えら三名が比志島隼人・島津登へ返答する。
8月26日但馬(末尾申渡) / 冊子 380頁/原整理番号 542の3/整理ID 542-3
長州征討に付いて、先陣惣督嶋津又六郎へ諸隊を指揮し機先を察して勝利と威武を保つよう命じ、先陣副惣督嶋津主殿へ惣督と相談して軍謀を誤らず指揮するよう命じる。続いて一陣惣物主島津隼人に伊集院一組の人数を召し付けて出軍させる指示を向々へ伝え、地頭・用達にも知らせる八月廿六日但馬の申渡。命令内容と組の召集を記録し、戦闘の結果や出軍人数はここから確定しない。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
正徳二年八月廿六日 / 冊子 25~32頁/整理ID 72
島津久明・久貫が、満君の登城に伴う城内での席次、御目見、贈答・拝領の順序を先例と照らして詳記し、献上物とその配分先、儀礼の差図を申し送る。
元文元年八月二日 / 冊子 400頁/整理ID 931
四月十五日付書状への返事として、姫君・子らの様子、上総入道の機嫌、鹿児島への帰着と藩邸の近況について藤えら三名が知らせる。
延享元年(月日記載なし) / 冊子 764頁/整理ID 1993
藤ゑらは土用の厳しい暑さの中での書状に答え、相手方の健勝を喜び、大守・姫君・子らの無事を伝える。贈られた箱入りの品にも謝意を示し、引き続き暑さに障りがないよう気遣った。
延享元年五月十七日 / 冊子 764~765頁/整理ID 1994
藤ゑらは七夕の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫らの健勝を喜ぶ。こちらも大守らがにぎやかに祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ健勝を願う。
延享元年五月十七日 / 冊子 765頁/整理ID 1995
藤ゑらは本文で「御生身玉」と記す祝儀の書状に答え、相手方の健勝を喜ぶ。こちらも目録どおりの品を進めたことを感謝し、これからも変わらず健勝・繁昌であるよう願う。
延享元年五月十七日 / 冊子 765~766頁/整理ID 1996
藤ゑらは八朔の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫の健勝を喜ぶ。こちらも大守らがそろって祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ繁栄を願う。
享保六年六月十五日 / 冊子 477頁/整理ID 1277
比志嶋隼人が吉貴の使者として、歴代の譲物を継豊へ進める旨を伝え、表方の家老に申し越すよう求める書状。
承応二年七月十六日 / 冊子 400~404頁/原整理番号 65
上野隼人入道宗秋が七十三歳でまとめた覚書。桓武平氏・高望王にさかのぼる家の由緒、自身の誕生と父祖、島津氏への奉公、各地の合戦・軍忠、役務や知行、寺社関係を回顧する。承応二年七月十六日付で、末尾は次文書『瀬戸口壱岐入道自記』の中表紙へ続く。
年月日未詳 / 冊子 425~426頁/原整理番号 172
有村隼人が尋書に応じて奉公を申し上げた記録。ほうの川内や阿蘇方の城を忍び取る仕掛けと、豊後方との交渉を述べる。野尻の親類を人質に取り高森城を得たこと、入田との使者・僧・軍勢を介した談合、城主を見切らせるための交渉を記す。豊州方の六人が大口勢の仕掛けで召された一方、味方十八人が討死したという。山元・池田を含む犠牲者と離反した人々を挙げ、次本田方へ回答を届ける。
永禄六年七月七日 / 冊子 124頁
島津家の重宝・文書類を列挙した目録。御幡、十文字立物、銀、兵書十六巻、鳳凰の羽、鎧・甲・太刀・鞍鐙、諸大名目録、神仏画像、論旨・御内書・足利尊氏判形などと、櫛間院給分坪付の関係者を記す。
元亀三年九月廿七日 / 冊子 320頁
元亀三年九月二十七日に島津軍が早崎へ着陣して新城を落とした際、伊地知方の各城から島津陣へ内通した者を列挙する。新城一人、本城四人、田上城二人、垂水城九人の計十六人とし、矢文や使者によって連絡した人物名を具体的に記録する。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
慶長十一年十一月自廿五至廿七 / 冊子 98~99頁
十一月二十五日から二十七日までの犬追物に用いた馬・馬具・武具・装束などを記す伊地知権左衛門家蔵文書。馬の毛色と担当者、鞍・鐙・弓・太刀・腰物・沓・鞭・行騰・籠手などの品目と、それを扱う人物を詳しく列挙する。
(慶長十二年)三月十六日 / 冊子 108頁
慶長十二年三月十六日、片桐貞隆が清須下野守忠吉の江戸での死去を知らせ、弔問使者を送るべきか島津家久に相談した書状。徳川家康の小田原・駿河方面への移動や畿内の平穏にも触れる。
年月日不詳 / 冊子 79-80頁
八重尾氏の人物が、木浦木への移住と小林・須木間の山林境界、狩場利用の先例を記した覚書。先祖以来の境を示し、須木衆による木場利用、村尾殿への鹿倉貸与、地頭上井次郎左衛門時代の境界神事、米十五石・銭十五貫文の支給などを詳述する。
七月日 / 冊子 729頁
秋の合戦について諸軍衆の疲弊を踏まえ、豊州家を仲介に北郷氏と新納氏が和融するよう提案する。三俣数か所と吉松の処置をよく勘案し、今秋の弓箭を休止して将来も堅固に相談することを求めた伊東祐修書状。
元文元年十二月十六日 / 冊子 412~413頁/整理ID 961
寒中の健康と日記・記録の進捗、当地の寒気や近況について、藤ゑら三名が比志島隼人・島津登へ返答する。
元文四年 / 冊子 534頁/整理ID 1322
藤え・岡だ・とみの連署消息。島津隼人と島津権左衛門に、三月六日付の返書や祝いの手紙への礼を述べる。土用の暑さの中、吉貴をはじめ家中の健康を問い、御前様・太守・姫君・子らの近況を伝えて、引き続き知らせてほしいと頼む。
元文五年十一月九日 / 冊子 16頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の5)
島津但馬守忠雅が十一月九日、比志嶋隼人らへ、系図の問い合わせと自家の系図提出について総州が考慮しており、提出の際は事前に知らせるよう以前申し渡されたことを記す。頴娃左京の説明は隼人にも伝えたが、江戸からはまだ返答がないと述べる。一万田次右衛門の派遣に際して樺山典膳が問い合わせた件への隼人の報告から、現在は藤原氏だが源氏への復姓を願うのがよいとの内意と、他に意向がないことを承知したと伝える。江戸から連絡が来れば復姓願を申し上げたいと述べ、時宜のよい取り計らいを頼む。
元文五年十一月九日 / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の6)
樺山典膳が十一月九日、比隼人へ、但馬守の系図提出について総州が考慮しているので事前に知らせるよう左京から伝えられ、系図を差し出すよう一万田次右衛門へ頼んだと記す。但馬守家は現在藤原氏だが源氏への復姓を願うのがよいとの内意を次右衛門から聞き、但馬守へ伝えたところ、早速取り計らう旨の礼と江戸の返答を待って願いたいとの書状があったと知らせる。
元文五年十二月四日 / 冊子 17頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の8)
樺山典膳が十二月四日、比隼人へ、但馬守家の口宣に藤原とあるかという問い合わせに答える。元祖右馬頭以久の口宣は以前から見当たらないが、二代目右馬頭忠興以来、現在の但馬守までの口宣はいずれも藤原と記されると知らせる。詳しく別紙に記し、但馬守とも話したと述べ、この旨を伝えて配慮してほしいと頼む。
元文五年十二月六日 / 冊子 18頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の9)
島津但馬守忠雅が十二月六日、比志嶋隼人らへ、系図の問い合わせには江戸からまだ連絡がなく、樺山典膳宛の飛札による姓の照会には詳しい返答があったと伝える。以前から伝え置いた通り、差し支えなければ源氏への復姓を願いたいと記す。願いの方法は隼人らの指図に任せるので、使者によって何らかの願いを申し上げることを求める。これらはあらかじめ内談した事柄であり、指図を頼む。
元文六年正月朔日 / 冊子 19頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の12)
島津但馬守が正月朔日、比志嶋隼人へ、十二月二十五日付の書状と記録方の申し出を受けたと返答する。姓の変更には勅命が必要で、現在願う機会がないため、萬壽丸の初官の際に口宣の姓を正す願いを相談して申し上げたいと述べる。林大学頭から問い合わせがあれば別紙の通り江戸の家老へ伝える方針と、今すぐの願いを見合わせて使者も不要とする意向を承知したと伝える。別紙一通を受け取ったことと度々の世話への謝意を記し、時節を見て願い出たいので今後も内意を知らせてほしいと頼む。