半松斎宗養書状
天文廿一年七月九日 / 冊子 900頁
半松斎宗養が古市長門守に、前年に預かった旧書を返却し、来春の上洛時に再び借覧したいことなどを伝えた書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
209 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 5
天文廿一年七月九日 / 冊子 900頁
半松斎宗養が古市長門守に、前年に預かった旧書を返却し、来春の上洛時に再び借覧したいことなどを伝えた書状。
天文廿一年七月十八日 / 冊子 900頁
法印日承が古市長門守に、家門に関する願いとその取り次ぎ、青蓮院宮への働きかけなどについて伝えた書状。
八月十九日 / 冊子 128頁
八月十九日、島津家久が小長門守へ、船で届いた鹿を受け取ったことを伝え、京での用にもなるよう、亭主への対応を含めてよく取り計らうよう求めた書状。
慶長十三年二月廿三日 / 冊子 161頁
慶長十三年二月二十三日、島津家久が小幡長門守へ、少進法印から相伝された「童舞抄」の書写を許されたことに謝し、八幡大菩薩に誓って他人へ見せないと約した書下。
(慶長十七年)五月廿日 / 冊子 361頁
慶長十七年五月二十日、島津義弘が秋月長門守へ、書状への返答と墨跡に関する申し入れ、関係者の処置について相談した書状。
十月二日 / 冊子 404頁
佐々木宗綱が秋月長門守へ、久しく音信を欠いたことを詫び、病気と回復の知らせを聞いたので遠方から使者を遣わしたと伝える。追而書では、従来どおり練子三端を贈るとした書状。
十一月廿日 / 冊子 346頁
島津忠良が、このたびの戦で抜群の忠勤を尽くしたことを賞し、永く忘れないと誓った書状。和議や凶害に関わる事情が生じても面談して率直に話し合うとして、諸軍神を証人に偽りのないことを誓う。
十月二日 / 冊子 211頁
久しく音信がなかったことを詫び、病気と聞いて案じていたが早く快復したことを祝い、遠方ゆえ連絡が途絶えたため使者を立て、見舞いとして織物三端を贈った書状案。
六月廿二日 / 冊子 384頁
小さな刀を拵えたいので、適切な寸法を考えて尺を書き付けてほしいと依頼した島津忠恒書状。
年月日未詳 / 冊子 65頁
本田重親が島津氏久に従って各地の合戦・城攻めに参加した軍歴を記す。伊集院長門守・河上太郎・税所某らが関わる戦場での働きに加え、敵軍来襲時に十分な装備を整える間もなく軽装で出撃して防戦した逸話を挙げ、重親の忠節と実戦経験を伝える。
年月日未詳 / 冊子 516~517頁
鹿児島をめぐる雑説と対立が収まらず、島津相模守忠幸・薩摩守重久らが参越して拠点を築いた経過を記す。祁答院・北原長門守・菱刈孫三郎方と緊張が高まり、築城・軍勢配置と使者交渉を繰り返して、武力衝突を避けながら鹿児島支配を調整した。
年月日未詳 / 冊子 517頁
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。
年月日未詳 / 冊子 518頁
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 528頁
文明十六年十一月、伊東祐国・伊作久逸・北原長門守らが新納近江守の飫肥城を攻めたため、北郷敏久が救援に赴いた経過を記す。越験山で敵軍を破って多数を討ち取り、包囲された城を救った。援軍の進路、決戦地、戦果を明記する北郷氏の戦功記事。
天文廿一年六月廿七日 / 冊子 898頁
近衛植家が日新軒に、家門と相手国との旧好を踏まえて書状を送り、詳細は古市長門守から伝えると述べた書状。
天文廿一年六月廿八日 / 冊子 899頁
進藤長治が樺山安藝守に、上洛後の滞在予定を問い、古市長門守のもとへ赴いて相談するよう求めた書状。
天文廿一年七月三日 / 冊子 899~900頁
近衛植家が島津修理大夫貴久に、上洛の計画を喜び、古市長門守を介して今後の来洛・対面を待つ旨を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁
天文二十四年から弘治元年の戦闘における島津方の戦死者を補記する。九月五日の新納尾張守忠征・新納河内守忠照、十一月十六日の本田宗左衛門、十二月五日の前田長門守らについて、日付・所属・従者の戦死を列記する。
(永禄七年)六月廿七日 / 冊子 134頁
近衛稙家が島津家との旧好を重んじ、これまで疎意なく尽力してきた日新へ、今後も取り成しを頼むと伝えた書状。色紙一枚に筆を染めて贈り、詳細は古市長門守に言い含めたとする。
元亀二年十一月廿三日 / 冊子 258~259頁
島津忠平が上原長門守の書状を読み、懸念していた一件に変化がないと知って安心した旨を伝える。詳細は川上三河守との相談内容に合わせ、適当な時機に面会して協議するよう求めた書状。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262頁
元亀三年三月中旬の岩瀬戸口合戦に参加した島津方の将兵を列記する。川上上野守・肝付弾正忠兼盛・野村兵部少輔・樺山兵部太輔・上原長門守・鎌田少外記のほか、猿渡越中守・喜入摂津守、島津右馬頭歳久・島津図書頭忠長らを掲げる。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
天正二年正月中旬~廿日 / 冊子 392頁
天正二年正月中旬に肝付大勢が牛根へ来攻した際の従軍者と役割を記す。島津家久以下の守備・戦功者、牛根城攻めの先陣大将島津忠長、後陣の島津歳久、侍大将上原長門守、切岸を掘って降伏へ導いた逆瀬川喜兵衛尉・伴五左衛門らを列挙する。
天正六年十月~十一月 / 冊子 613~625頁
高城籠城中の島津家久と大友陣との応酬を伝える。志賀勘六が見舞いの酒樽・菓子を送り、家久方は釣り上げた鯉と酒で返礼し、使者が陣と城の間で乱舞した。さらに星野長門守・川原山執行良観が矢文で大友氏の暴政への憤りと島津方への内応意志を伝え、合図を笛音と定めた。
慶長五年十月廿四日 / 冊子 601頁
板波忠成・内田実久が、従前どおり島津家の意向に背かず、長門守の妻子を惟新が召し連れて当地へ渡した厚意を忘れず、龍伯・惟新・少将以下へ疎略なく奉仕することを神仏に誓う。
年月日未詳 / 冊子 34頁
大久保忠隣と本多正信が九月二十五日付の連署奉書を島津忠恒へ送り、領国内にある五百石積み以上の船は商船であっても献上し、淡路国岩屋で九鬼長門守へ引き渡すよう命じた記事。久永源兵衛尉・向井将監も現地にいると伝える。
(慶長十年)十一月廿日 / 冊子 39頁
久永重勝と向井忠勝が島津忠恒に、五百石積み以上の船が領内にないなら両人宛ての証明書を出すよう求めた連署状。十六端帆・十四端帆でも五百石を超える船は淡路由良湊へ届け九鬼長門守・小浜久太へ渡し、それ以下は回航不要と指示する。
年月日未詳 / 冊子 175頁
京極忠高の家臣沖長門守道極が過失のため、本多正純の命を受けた山口直友の手配で薩摩へ護送され、島津家久に預けられたことを記す系譜記事。
(慶長十三年)七月十九日 / 冊子 175~176頁
慶長十三年七月十九日、山口直友が島津家久に、京極忠高家臣の沖長門守道極を薩摩へ送る件について、本多正純の書状と自身の書状を添え、事情を理解して受け入れるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 609頁
元和元年九月二十一日夜半、江戸で大火が起こり、松平長門守邸をはじめ諸大名・家臣の屋敷が焼失したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 692頁
難波兼勝が家久へ禁裏で猿楽を奏する勅命を伝え、家久が小幡長門守に命じて四月二十七日・二十八日の両日に禁裏で猿楽を演じさせたことを記す。
(元和五年)四月十五日 / 冊子 693頁
難波兼勝が家久へ、禁中の能を小幡長門守に申し付けて進上するよう求め、家久が理性院へ赴いたことを喜び、院主も満足するだろうと伝えた書状。
(元和六年)九月廿日 / 冊子 736頁
秋月種有が三原左衛門らに、細島に置いた者が帰着し、十九日に長門守が細島へ着いたこと、上使の船が下関へ到着して西目への下向が決まったとの情報を急報した書状。
(寛永十一年)七月十九日 / 冊子 436~438頁
中西長門守秀長が児玉筑州へ、七月二十四日の京都出立予定を知らせ、借銀増加に伴う諸士知行の上地・再配当をめぐる自身の処遇について内々の取成しを求めた書状。上伊集院・鹿児島衆への配当、荒地・上地の扱い、北山村三百八十石や残余七百石余の知行、伊敷を宮之浦の御蔵入と交換して伊敷を拙子へ与える案などを挙げ、他方の下手同然となることへの不満と、公儀・黄門様への申開き、知行確保を訴える。
六月廿八日 / 冊子 5頁
進藤長治が、相手方の上洛後に連絡が途絶えたことを詫び、修理大夫の使者として古市長門守が上洛したと伝えた書状。修理大夫が筆を染めた短冊十枚を進上し、詳しくは後便で述べるとする。
六月廿六日 / 冊子 204頁
北郷某が、八代長門守に関する照会へ答えた書状。天文元年十一月七日、島津豊後守・北原氏・北郷讃岐守忠相の三家が高城へ向かって合戦し、長門守以下伊東一門と雑兵三百八十人余を討ち取ったとの伝承を報告する。
九月朔日(天文十一年) / 冊子 326頁
近衛稙家が島津修理大夫に、古市長門守の下向時に委細を申し伝えたこと、小河越前守が上洛して思いがけず対面できたことを喜ぶ。あわせて扇子三本を贈り、後便を期した書状。
六月廿八日 / 冊子 741頁
島津修理大夫の使者古市長門守が上洛し、近衛家門への贈物として御書と色紙二十枚を進上したので、その旨を承知して申し伝えるよう求めた進藤長治書状。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
六月廿七日 / 冊子 898~899頁
近衛植家が河上野守に、前年の上洛時に対面できなかったことを惜しみ、今後の上洛を待つ旨などを伝えた書状。
元禄三年一月十一日 / 冊子 852頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2265
島津綱貴が三浦長門守へ、同姓修理大夫吉貴の前年の官位下命に対する祝詞と使者派遣に謝意を述べ、その礼を伝えるよう求めた書状。
11月25日 / 冊子 418~419頁/原整理番号 383
十一月二十五日、熊本家老の長岡監物・有吉頼母・長岡佐渡守が松倉長門守へ返信する。二十四日付書状の到着を知らせ、帰城の報告と江戸注進のための訴状・文箱は、傳蔵・丹波から府内へ送られていると述べる。目付衆への連絡や次飛脚による江戸送付を約し、留守家老への見舞いにも触れる。城内の兵糧不足と聞いて少量の米を送ったが返されたため、気遣い無用と伝える。
年月日未詳 / 冊子 39頁
島津元久の譜として、貞治二年五月二十日に大姶良で生まれたこと、母が伊集院長門守忠國の娘であること、幼少期の居所・移住と地域の由緒を記す。
永享六年九月廿日 / 冊子 367~368頁
沙弥天用が、島津長門守久俊の御伴料として、薩摩国給黎院下長吉内にある鈴源兵衛の塩屋一宇、三百文相当を伊集院廣済寺へ寄進し、先例どおり知行するよう定めた文書。
十一月朔日 / 冊子 444頁
伊東大和守・秋月長門守領内沖に異国船二艘が漂泊し、その後薩摩領岸良沖で石火矢を数発放って行方不明となったとの注進を上聞に達し、入念な報告を将軍が喜んだ旨を伝えた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年の伊集院城をめぐる島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久らの抗争を記す。夜襲、城下への放火、籠城戦、家臣の戦死を追い、忠栄らが城を退去した後の処遇と伊集院氏の系譜まで記して、城の争奪が一族の継承に及ぼした影響を示す。
年月日未詳 / 冊子 845~846頁
天文十六年、飫肥・清水城などの戦闘で討死した北郷忠直ら島津方の武士を日付・戦場とともに列記する。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁
永禄元年十一月四日に新山城が攻め落とされ、多数が戦死したことと、十二月二十三日に薩摩・飫肥・庄内三家の軍が反撃した戦闘を記す。島津忠将を大将とする諸将の槍働きや負傷を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 65~67頁
新山城落城後、豊州家の要請を受けた島津貴久が島津忠将を大将に三千の援軍を飫肥へ送った記事。十二月二十三日、伊東勢との激戦で島津方の物頭らが討たれた一方、伊東方は百九十八の首級を挙げたとする。