板倉重昌書状
(寛永二年)九月三日 / 冊子 829頁
板倉重昌が島津家久へ、家久の書状を拝見し、明後日五日に招かれたことを過分の厚意として謝した書状。家久の意向に従い、城での用向きが済み次第申し上げると伝えた。
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(寛永二年)九月三日 / 冊子 829頁
板倉重昌が島津家久へ、家久の書状を拝見し、明後日五日に招かれたことを過分の厚意として謝した書状。家久の意向に従い、城での用向きが済み次第申し上げると伝えた。
(寛永三年)正月廿三日 / 冊子 3頁
島津家久が板倉重昌へ、小幡長門を京都に残して能を勤めさせるよう四辻中納言・飛鳥井中将から勅命が伝えられた件を相談した書状。京都には能役者が多いため長門へ命じにくいが、勅定である以上拒めないとして、重昌の内意を求める。
天正二年二月廿五日 / 冊子 336頁
下大隅の戦が終息した天正二年二月二十五日、伊地知重昌が鹿児島へ参上した経緯を記す。垂水の辺りまで老臣らの出迎えを受け、船元では川上意釣に迎えられ、その夜義久に謁見して縫殿助の名を与えられ、伊地知家が繁昌したとする。
天正13年11月8日 / 冊子 122頁
馬原重昌ら三名が、入田・三田井両家をめぐって前代から続く深い相談関係を、子孫の代まで変えず維持すると誓った連署起請文。互いに別心を抱かず、異変があれば使者を通じて知らせ、従来の取り決めに従って遅滞なく対応することを約束する。在地勢力の情報共有と相互援助を神仏への誓約で保証した盟約である。
慶長十二年六月吉祥日 / 冊子 122頁
慶長十二年六月吉祥日、白濱重昌が弓箭の古儀を守り、同僚を重んじ、秘密を漏らさず、上意に忠実であることを諸神に誓った起請文。
四月十九日 / 冊子 66頁
川口重昌が新納仲左衛門尉に、向町與三右衛門尉による禁制違反の処置について返答した書状。横目衆が披露したため公儀から詳しい裁定が出るのを待ち、その際に相手の書状内容を申し入れ、年行司へも通達するとする。
元亀三年九月廿七日 / 冊子 320頁
元亀三年九月二十七日に島津軍が早崎へ着陣して新城を落とした際、伊地知方の各城から島津陣へ内通した者を列挙する。新城一人、本城四人、田上城二人、垂水城九人の計十六人とし、矢文や使者によって連絡した人物名を具体的に記録する。
(寛永十四年)十二月三日 / 冊子 700頁
島原一揆鎮圧の上使として肥前島原領内の神代へ到着したことを知らせる。薩摩勢が天草近くに配置されたと聞き、牧野伝蔵・林丹波守の指図に従って早急に天草へ加勢するよう要請した。
(寛永十四年)十二月十九日 / 冊子 717頁
獅子島まで出していた薩摩勢を国境まで引き取るよう牧野・林から伝えたことを了承する。天草にはキリシタンが残らず、細川越中守の人数も一部を残して川尻へ入り、島原の古城に籠る一揆勢を近く攻める予定と報告した。
年月日未詳 / 冊子 708頁
享禄三年の諸合戦で、山口重昌・北郷忠眞・井上半左衛門らが戦死し、島津忠明が大口城攻めで戦死したことを月日別に記す。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
島津家久が江戸から帰国する途上、正月下旬に伏見へ着いて休息した際、家臣小幡長門の舞を天皇が叡覧したことを記す。四辻中納言・飛鳥井中将を通じて、長門を京都に残して舞わせるよう勅命が伝えられたため、家久が板倉重昌に対応の可否を尋ねた経緯を述べる譜記事。
寛永十二年十二月四日 / 冊子 506~507頁
壱岐右近将監幸光・川崎大学助祐宣・肥田木主馬佑重昌が島津弾正へ、キリシタン改めに伴う往来管理について志布志方面と相談したうえで、清武と高岡の間で同様の取扱いを定めるよう求めた連署書状。清武側では平渡長右衛門・田中四郎左衛門の印判により奉公人・町人・百姓以下を往来させ、高岡側も同じ定めとするよう求める。本文日付は寛永十二年十一月十七日で、索引の十二月四日とは相違する。
(寛永十二年)十二月十五日 / 冊子 512~513頁
壱岐幸光ら三名が、キリシタン宗旨改めのため隣国間の往来者に手形を用いていたが、十二月十六日から従前の扱いへ戻すとの通知を了承し、自領側も同様に申し付けると答えた書状。
年月日未詳 / 冊子 324~326頁/原整理番号 295
『柳生但馬守宗矩の伝』を引き、島原上使となった板倉重昌が、宗矩に籠城勢を攻める心得を問うた逸話を載せる。宗矩は大坂の陣や伊勢長嶋攻めの例を挙げ、功を急いで軍勢を損なわぬよう戒めたが、重昌は後に討死したと論じる。
年月日未詳 / 冊子 82~83頁/原整理番号 9
如竹が白濱重昌へ、小春の寒さのなか柴火で身を暖める近況を伝え、旧交を懐かしみつつ面会を望んだ書状。末尾に『養善院 如竹』と署名する。後続に元和丙辰の試筆詩と編集注記を付し、如竹の文雅と交友を伝える。
寛永14年12月19日 / 冊子 492頁/原整理番号 495
板倉重昌が島津家久へ、十二日付書札の十八日参着を受けて返書する。獅子島まで出した人数を国境へ引き取るよう牧野傳蔵・林丹波が申し遣わした旨を承知。天草に切支丹が居らず、細川勢を少し残して川尻まで進入したこと、当所古城の籠城者を攻撃する予定を報告する。道服二つの受納を辞退し、三原左衛門佐の口頭説明に委ねる。
正月元日 / 冊子 539頁/原整理番号 547の6
板倉重昌が石谷十蔵へ送った書状。前年の元日は江戸城で年頭の緒を締めたが、今年は原城で朝を迎え、早打ちに臨む心境を歌に詠む。正月元日付。
七月二日 / 冊子 470~471頁/原整理番号 602
東郷重方・川越重昌は、長崎へ多数の船が集まり水手が大量に必要なため、出水御曖衆に管内の雇水手を調べ、確認できた人数を速やかに久見崎御船手へ送るよう命じる。特別の急用なので遅延を禁じる。
七月二日 / 冊子 471~472頁/原整理番号 605-1
東郷重方・川越重昌は、長崎への船派遣で水手が大量に必要なため、年齢を問わず櫓取ができる者を当日中に久見崎御船手へ集めるよう命じる。さらに三枚帆以上で長崎まで渡れる船を調べて確保し、艘数を書き立て、廻状を走飛脚で回して各所の通過時刻を記すよう求める。
宝永二年十二月廿日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 7
伊地知重昌は、宝永二年十二月、正月の椀飯と五節供の調製を、伊地知家に伝わる古式の書を基に御包丁人頭が行うことになった経緯を記す。それまで鎌倉流と称して担当した重信家には古い書がないと判明し、伊地知家の書を御包丁人頭へ示し、写本を提出して返却を受けたという。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年秋、新納忠元が肥後方面へ出陣し、阿蘇方との戦いや堅志田城攻めに関与した経過を記す。田宗和へ帰順を促す書状を送り、十二月には島津家久の書状、古川主膳入道宗忍の来訪を受けた。さらに島津義久の家督継承を祝う使者・贈答にも触れ、戦闘と外交・家中儀礼が連続して進む様子が分かる。
十二月七日 / 冊子 182~183頁
肥前松倉領の百姓がキリシタン宗門を掲げて蜂起し、天草でも党類が蜂起した島原・天草一揆について、薩摩勢を境目まで出し、幕府上使の指示次第で細川勢と相談して加勢するよう命じた。薩摩領内の禁教と流入キリシタンの摘発を厳重に行うことも確認した老中四名連署状。
七月四日 / 冊子 458~459頁/原整理番号 576
島津久慶から、瀬之浦へ赴く山田民部少輔の乗船として二艘ほどを送るよう命じられたため、人数を確認して船賦する意向を伝える。しかし近辺の水手は長崎へ出て不在なので、出水諸浦の水主を残らず久見崎御船手へ急ぎ集め、乗船を米之津へ回すか別所へ回すか山田民部少輔に確認して返答するよう求める。
七月朔日 / 冊子 469~470頁/原整理番号 600
京泊・西方・阿久根・出水の御曖衆に、管内の三枚帆から八反帆までの船を差し出し、昼夜を問わず至急久見崎御船手へ送るよう命じる。廻状を順次下へ回し、通過時刻を付けて差出地へ返送させる。
七月三日 / 冊子 474~475頁/原整理番号 611
前日の命令にもかかわらず水手の久見崎集合が遅れているため、年齢を問わず櫓取ができる者を追い立てて送るよう重ねて命じる。長崎へ向かう人数は既に向田へ着いており、水手が参集しなければ御用に支障を来して各担当者の落度になると警告する。
七月三日 / 冊子 475頁/原整理番号 612-1
鹿児島から、長崎へ送る人数・船を当面召し置くとの指示が届いたため、各御曖管内の船と加子を差し留めるよう宿次で知らせる廻状。
七月三日 / 冊子 475頁/原整理番号 612-2
前文書1通を宿次で速やかに送り、少しも遅延しないよう命じる添状。京泊・西方・網津・阿久根・野田などの通過時刻を記す。
万治三年正月吉日 / 冊子 72~75頁/原整理番号 1
『御旧式類抄』の冒頭で、元日から年中行事に至る島津家の旧儀を項目ごとに列挙する。年頭の出仕・社参・福昌寺との往来、御吉書・椀飯・三献、諏訪神事、琉球使節の接遇、元服や代祝などを挙げ、いくつかの項目には出典や人物比定に関する書入れを付す。儀礼の本文を一件ずつ記した文書ではなく、旧式の項目と注記を集めた目録的な部分。
11月26日 / 冊子 422頁/原整理番号 391の2
板倉重昌・石谷貞清が細川越中守家老中へ、小倉到着を知らせる。天草のキリシタン一揆に寺沢兵庫頭方が敗れ、残兵が富岡城に籠もるとの報を受け、細川勢を早急に渡海させて鎮圧するよう命ずる。高瀬の牧野伝蔵・林丹波も同行させ、土地に不案内な両人と相談するよう求める。天草を鎮めても上使の指示前に島原へ取り掛からず、その指図に従うべきことを示す。
12月3日 / 冊子 442頁/原整理番号 417の2
板倉重昌が島津家久の飛札を受け、島原一揆の上使として本日神代へ到着したと知らせる。薩摩の兵が天草近辺へ出ているとの牧野伝蔵・林丹波守の報告を受け、早く天草へ加勢するよう両目付に伝えたと述べ、以後の指図は両人からの連絡に従うよう求める。
寛永14年12月27日 / 冊子 504~505頁/原整理番号 515の1
『藤掛集書』所収の上使掟書。キリシタン徒党討伐では上使の指図に従うこと、喧嘩・口論・狼藉を停止すること、郷人との間で不法な物具取引や自然の味方討ちを避けること、違反を急度申し付け、物頭が堅く守らせることを定める。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永14年12月27日 / 冊子 505頁/原整理番号 515の2
島原のキリシタン徒党謀叛への加勢に際する条書。喧嘩・口論と狼藉を堅く停止し、竹木の無断伐採を禁じ、宿賃・人馬賃銭は定めどおり支払うこと、島原へ逗留する者が帰国後に沙汰を受けないよう条々を守ることを命ずる。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永14年12月29日 / 冊子 510頁/原整理番号 521の2
翌日の島原城攻撃に関する上使衆の軍令。七つ時から人数を出し、鉄砲・石火矢を合図に攻撃すること、陣中の騒動を禁ずること、大将以外は歩行すること、合印を右肩へ付けること、合言葉、跡からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。十二月二十九日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
12月晦日 / 冊子 511~512頁/原整理番号 523の2
元日城攻めに際して諸勢へ示した連署達。明七つ時から人数を出し、石火矢・鉄砲を順次撃つこと、陣中の騒動を禁じ、大将以外は徒歩とすること、右肩の合印、合言葉、後方からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。極月晦日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
11月27日 / 冊子 423~424頁/原整理番号 394の2
島原へ出向する家中に対し、キリシタン討伐の指図を板倉・石谷両人が行うと定める。両人に知らせず戦闘を始めることを禁じ、抜け駆けは物頭の責任とし、喧嘩・口論・濫妨・狼藉も禁止する。一揆勢は在郷人で、武具を帯び侍同様の姿でも身分にかかわらず討つよう命じる一方、味方討ちがあれば落ち度として厳しく処分するとする。十一月二十七日付。
11月27日 / 冊子 424頁/原整理番号 394の3
肥前島原のキリシタン討伐に加勢する者へ五か条を命ずる。喧嘩・口論、婦女への加害、濫妨・狼藉・押買いを禁止し、宿賃・人馬駄賃は定めどおり支払い、島原滞留中は人を返さず帰国後に処置するとする。『寛明日記』では婦女の条が竹木の無断伐採禁止となり、濫妨等の条はないとの異文注がある。十一月二十七日、板倉・石谷連署。
12月5日 / 冊子 454頁/原整理番号 435の2
原城陣中の法度。陣場・内膳と十蔵の指図に従い備えを崩さず、騎馬での出入り、勝手な出陣、切支丹への私的攻撃を禁じる。男女の処置は公儀の指図に従い、違反者を捕縛して届けるよう命じた十二月五日付の連署掟書。
「寛永十八年」九月廿八日 / 冊子 166~167頁
山田有栄が島原・天草一揆に際する薩摩勢の行動を時系列で記した覚書。新納加賀守らが三百人で獅子島へ渡って肥後境の下知を待ったこと、板倉内膳正重昌・石谷十蔵への使者として松橋・三角を経て有馬へ赴いたこと、正月十四日に薩摩勢が天草へ渡ったことを記す。有栄自身も松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄への使者として有馬へ詰め、二月二十八日の原城落城後、三月八日に帰国したとしている。
寛永十九年六月吉日 / 冊子 200~202頁
杉田伊与秀次・植木三右衛門尉正勝・根占権丞重昌の三名が島津光久・虎寿丸へ忠節を誓った起請文。別心なく奉公し、秘密を漏らさず、悪事の企てを知れば届け出ることを誓い、違反時には天地の神仏・薩摩国諸社・日本国中の神仏の罰を受けるとして、神名と罰文を詳細に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 315頁/原整理番号 284
『平塞録』。八日、島原家老岡本新兵衛・田中宗夫らが主君へ籠城経過を注進した記事。近隣の加勢動員、幕府使者、鍋島勝茂らへの要請、病中の板倉重昌をめぐる対応を記す。
年月日未詳 / 冊子 318~320頁/原整理番号 288
『平塞録』。板倉重昌らが西国一揆征伐の上使に任じられた経緯を記す。重昌の病気申立と登城、江戸から西国へ下る上使・家来の編成、馬具・鉄砲の支度、道中の人馬調達と出発までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 320頁/原整理番号 289
『板倉重矩常行記』。父板倉重昌が島原上使を命じられた際、松平信綱・酒井忠勝らと応対した経緯を記す。重昌の出仕・御礼、同日午刻の登城、今晩江戸を発つよう命じられたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 320~322頁/原整理番号 290
『武野燭談』。板倉重昌の島原上使任命にまつわる僧・土屋宗蔵の逸話を批判的に検討する。酒井忠勝・大久保彦左衛門らの言説、宗蔵の讒言と処置、重昌の切支丹討死をめぐる風説を論じる。
年月日未詳 / 冊子 324頁/原整理番号 294
十日、寺沢方の三宅藤右衛門らが鉄砲六十挺と雑兵百余を率いて小嶋子へ向かい、本戸側の侍・足軽も加勢したことを記す。続いて一揆退治の上使板倉内膳正重昌らが江戸を発足した記事を掲げ、十一日条へ移る。
年月日未詳 / 冊子 350~351頁/原整理番号 321
十六日、上使板倉重昌・石谷貞清が伏見へ到着し、京都で警固・加勢人数を整えたことを記す。西国諸家の兵力と目付の動きを列挙し、天草・島原一揆討伐のため近国家老を招集する方針を述べる。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 323
十七日辰刻、板倉重昌・石谷貞清が大坂へ到着し、出船・出陣の準備を整えたことを記す。幕府からの書状、近国勢の加勢とともに、板倉重昌父子の人数・馬乗侍七十人を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 357頁/原整理番号 332の1
十八日、板倉重昌らが乗船準備を進め、肥後の家老中へ書面を贈った経緯を記す。道中案内を依頼する書状の導入部で、次文書の連署書状本文へ続く。
11月18日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 332の2
石谷貞清・板倉重昌が細川忠利家老中へ、大坂に十七日到着し、十八日夜に出船する予定であることを知らせた連署書状である。天草方面への進軍に際する道中案内などの支援を求める。
年月日未詳 / 冊子 360頁/原整理番号 337
十九日、板倉重昌・石谷貞清が出船しようとしたが大風のため滞留したことを記す。同日、一揆勢が富岡城へ押し寄せて激しい鉄砲戦となり、城方がこれを防いだものの、一揆勢は遠くへ逃げず志岐村へ再集結した。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 352の2
米田是季が山田有栄へ、島原一乱のため板倉重昌・石谷貞清が上使として下向したことを知らせた書状である。熊本側の使者往来と薩摩側の対応、境目の警備や連絡の迅速化を求める。