松平信綱外二名連署書状写
(寛永八年)九月十一日 / 冊子 232~233頁
松平薩摩守が寛永八年四月朔日に四位侍従へ任じられたものの口宣の手続が延引しているため、同年月日付で口宣を整えるよう侍奏へ申し入れてほしいと依頼した三名連署書状の写。
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(寛永八年)九月十一日 / 冊子 232~233頁
松平薩摩守が寛永八年四月朔日に四位侍従へ任じられたものの口宣の手続が延引しているため、同年月日付で口宣を整えるよう侍奏へ申し入れてほしいと依頼した三名連署書状の写。
応永廿五年十二月二日 / 冊子 307頁
平田重宗が一味同心と忠節を誓い、大小の事を隠さず、凶害や違背の申入れがあれば直ちに報告し、二心なく奉公することを神仏に誓った契状。
嘉吉二年十一月十五日 / 冊子 406頁
大口高城氏蔵の名字状。本文欄には独立した文言を載せず、嘉吉二年十一月十五日の年紀と発給者・渋谷出雲彦太郎平重宗の署名を記す。
(元和八年)二月十一日 / 冊子 777頁
板倉重宗が島津家久へ、中宮冊立の祝儀を申し上げる際の進上物は樽代銀子二十枚が適当であり、他の者も同様に樽代を用いていると助言した回状。
(寛永十五年)七月廿日 / 冊子 812頁
音信として贈られた琉球布二巻に礼を述べ、江戸で薩摩守の家督相続の御礼が滞りなく済んだことを祝い、詳しくは後日申し述べるとした板倉重宗の書状。
正月廿九日 / 冊子 307頁
正月二十四日寅刻、尾張中納言徳川義直の屋敷から出火し、島津家久を含む二十家余りの大名屋敷が全焼・部分焼となった範囲と、その他は無事であることを一覧で知らせた板倉重宗書状。
十一月廿五日 / 冊子 352頁
薩摩産の蜜柑五百個入り二籠を遠路から贈られたことに、過分の厚意として謝した板倉重宗書状。
(寛永十四年)五月十一日 / 冊子 658頁
家久の書状を受け、腫物治療のため慶祐法印が早速薩摩へ到着して療治していると承知したこと、ほどなく平癒するだろうと期待しつつ油断なく養生するよう述べた見舞書状。
(寛永十四年)十一月八日 / 冊子 688頁
肥前松倉領で切支丹宗門の者が蜂起し、城下に放火して有馬の城へ四、五千人が籠ったとの報告を伝える。確実な情報が届いていない可能性があるため内々に知らせ、武具・道具を携行しないよう心得を求めた四名連署の回状写。
年月日未詳 / 冊子 241頁
島津元久譜が、元久の伊勢参宮と諸関通行、帰途の贈答を記す。京都で国役納入を求められると平田重宗が島津氏に先例なしと主張し、赤松殿も支持したため旧規が保たれ、元久は九月に帰国して久豊と和したとする。
年月日未詳 / 冊子 322~323頁
山門院での反乱と軍勢召集を受け、島津久豊が貴久を大将として派遣した経過を記す。平田重宗・伊地知久安・山田氏ら諸将が部隊を率いて城の攻撃・守備に当たり、伊集院頼久方の動向を警戒しながら反乱鎮圧と山門院の支配回復を進めた。
年月日未詳 / 冊子 327頁
油津周辺で伊東方の守備と輸送を遮断するため、島津久豊方が船団・騎兵を動員した戦闘記事。平田重宗・伊地知久安・大寺美作守らが海路と陸上の陣地を分担し、宮崎・油津間の船運を押さえながら敵の補給と援軍を妨げようとした攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 242頁
入来院氏文書中に掲げる略系図。重宗を起点に重門・重継へ続き、弾正少弼、村尾刑部少輔、美濃五郎左衛門尉らの系譜関係を図示する。No.550の島津師久書状とは別の独立文書である。
応永廿八年三月十五日 / 冊子 317~318頁
大寺元幸らが、田布施を一円に譲られたことを受け、屋形への遺恨を残さず、讒言があれば衆中で相談して軽率な振舞いを避けると伊作殿に誓った連署契状。
年月日未詳 / 冊子 318~319頁
隈城の島津忠朝が流言に動揺して兵を動かしたものの防戦できず城へ退き、自害も考えるなか、久豊の招きに応じて麑島へ帰還するまでを記す。
永享六年六月廿四日 / 冊子 365頁
平田姓宗が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公し、無理な訴えには同調せず、境目所務などの紛争では互いに相談・協力し、大小の事を隠さず伝えることを神仏に誓った契状。本文年紀は『永享六年六月廿三日』。
永享十一年二月十八日 / 冊子 385~386頁
慧燈院に伝わる複数の寄進状・寺領関係文書について、鹿児島郡花棚村琵琶田・西田村・住吉・谷山福本などの所領と寄進者・証判を列挙し、島津持久(用久)が袖判を据えて証明した文書。前惣持中翁老衲が記録した。
(寛永八年)七月廿三日 / 冊子 219~220頁
帰国後の家久の無事を喜び、京都に届いた徳川秀忠の病状を報告する。上方の諸大名も心配しているが、十七日に家光が社参したことから差し迫った状況ではないとみて、見舞いの使者を急いで送るのが妥当だと助言した松平定綱の書状。
年月日未詳 / 冊子 234~236頁
応永十七年、島津元久が波見筑後守・樺山教宗らを京都へ派遣した上洛・進献記事。将軍と赤松殿へ太刀、馬、金銀、衣類など多数の品を献じ、伊集院頼久・平田重宗ほか随行者の役割、道中と帰国までを記す。進献品の構成と奉仕者の序列から、島津家の幕府外交を具体的に確認できる。
年月日未詳 / 冊子 315~317頁
島津久豊と伊集院頼久の長期抗争を中心に、薩摩・日向各地の城郭攻防と佐多親久・平田重宗らの働きを記す。伊東祐安との和約に至った一方、久豊は上京を果たせず、応永三十二年正月二日に薨去した。軍歴と晩年を一連の伝記としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
応永三十年春、幕府の伊東氏征討命令を受けた島津久豊・貴久方の戦役を記す。平田重宗・伊地知久安らが加江田城・油津方面へ進軍し、陸海から攻城したが、兵站と輸送に苦しんで撤退し、軍勢を再編して再進軍を試みた経過を追う。
(寛文二年)五月二日 / 冊子 448頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0971
板倉重宗が島津光久へ、禁裏火災後の築地普請について入札と試し築地を命じたが悪天候で遅れていると報告し、落札額が定まり次第京都の家臣へ知らせること、費用は知行高に応じて割り付け別途の人夫は不要であることを伝えた書状。
(寛文二年)五月廿一日 / 冊子 449頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0973
板倉重宗が松平大隅守へ、江戸で首尾よく暇を得て昨日伏見に着いたことを喜び、祝儀の太刀・馬代黄金一枚・帷子十の内単物二重に謝するが、普段から御上下等を辞退しているので返進すると伝える。禁裏築地の入札は未定で、決まれば当地に置く家臣へ知らせるとする。五月二十一日付。年次の朱書「寛文二年」に「寛文三年カ」との傍注がある。
寛永14年11月8日 / 冊子 317頁/原整理番号 286の2
「正文本在文庫、御廻文之写」として、松倉領島原で宗門の者が蜂起し、城下へ放火して籠城したことを報じる板倉重宗外三名連署書状写。各地から人数を遣わし、宗門の者と武具の所在を確認するよう命じ、十一月八日付で結ぶ。
寛永14年11月8日 / 冊子 317~318頁/原整理番号 287
松倉勝家領の肥前で切支丹宗門の者が蜂起し、城下を放火して四、五千人が籠城したことを知らせる御廻文写。諸大名家老中に宗門の者と武具の所在を内談・取締するよう命じ、十一月八日付で板倉重宗ら四名が連署する。
年月日未詳 / 冊子 243~244頁
『西藩野史』が、渋谷氏蜂起に対する元久の出兵と発病・清水城での死去を記す。元久没後、後継となった久豊に伊集院頼久が対立し、島津一族・諸将が分裂するなか、久豊が河辺へ移った経過を述べる。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
応永二十四年秋、伊集院頼久方が松尾城・谷山城をめぐって島津久豊方と戦った記事。久豊が援軍を送り、山田・阿多・田代・吉田・蒲生・新納・平田らが交戦し、多数の死傷者を出しながら城の救援と奪回を図った経過を記す。
元弘三年十一月九日 / 冊子 619頁
渋谷平三重宗後家祖舜の当知行地について、相違なく領掌させるよう命じた後醍醐天皇の綸旨。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 286の1
京都所司代板倉重宗・大坂城代阿部正次らが島原一揆の飛報を受けた伊地知季安の記事。四国・中国・九州の守相への廻状、街道・港の警戒と巡回、上使下向時の備えを記す。
天正15年(1587)ほか / 冊子 420~421頁/原整理番号 8
秩父氏二十四代又太郎重豊の四男・淡路守入道心岳を祖とし、出羽守・淡路守重宗以下へ分かれる伊地知氏庶流の系図。重政は門川地頭として島津義久に仕え、天正十五年に豊後で戦死し、重張は朝鮮で戦死したと記すほか、種子島氏からの養子が義久・義弘・家久の三代に仕えたこと、各支流の官途・婚姻・養子・戦死を載せる。後半は手串良・牛根・栗野・曽木・飯野・倉岡・国分などへの移住、根城攻めでの戦功と前田給付、前田家との由緒から前田または伊地知を称した重悦・重通の系統、重氏・重行・元重・重慶・季定らの系線を示す。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 305~307頁/原整理番号 143
久豊譜が、松尾城を守る酒匂紀伊守が変心し、知覧七木場へ来た長門守の知らせで守備と援兵を整えたと記す。頼久も三百余を率いて来て城は堅く、諸地域から集まる救援軍は平川などに分かれて陣を張り、兵糧を運び渡海して近づいた。城中は兵糧と水路が絶え、脱出・和睦を相談したが頼久は戦場の勝敗は時の運だと答えた。九月十一日、渡河して垣を越えた戦いでは先発隊が敗れ、隈江・上井・安楽・川野土佐らの戦死、平田重宗が近江守を救い敵中へ切り込んだ奮戦、双方の多くの死傷を詳記する。吉田・蒲生が頼久と解囲を相談し、鹿児島・谷山・給黎をめぐる領有を条件として松尾方が城を明けて帰った。久豊は戦死者を悼み親類に報恩を求め、頼久の降伏後は谷山・給黎・石谷・雪松尾などを領したという。
年月日未詳 / 冊子 307~309頁/原整理番号 144
山田聖栄自記が、川野辺松尾城は谷山・鹿児島・下大隅の兵で強固に守られ、長門守も七木場から急いで来たと記す。諸地域の兵が集まり匠作は平川にいたが、兵の到着や救援は遅れ、城は兵糧と水路を失って父兄・親類を介する脱出や和睦の相談が起きた。両軍は二手に分かれて野原と川を隔てて陣を置き、九月十一日には垣を越え、開いた城戸から出た兵と太刀打ちになった。隈江・上井・八ヶ代らが戦死し、平田重宗は近江守の軍勢を救って城を切り通し、長野・田代・伊地知将監など双方の死傷を記す。吉田・蒲生が頼久へ、大太郎のために命を惜しまず戦った恩を忘れないよう訴え、谷山・給黎の領有をめぐって交渉した。平田方への働きかけもあり、松尾・谷山・給黎の兵が引き退き、鹿児島へ帰って苦労をねぎらったという。
年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 152
山田聖栄自記が、総州山城守は隈城に住み、軍勢に囲まれて城戸で太刀打ちした後、残る兵も少なくなったと記す。山城守は自害して城を譲り他国を巡ることを相談したが、家と近臣の立場が危ぶまれ、近所に屋敷を預ける案も出た。平田重宗が伊集院方へ事情を披露して調整し、山城守は佐多氏の近くにある鹿児島和泉崎へ移り、道聖と称して子彦三郎と住んだ。その後の御屋形や伊集院方とのやり取りを聖栄自身の奉公体験として語る。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 156
久豊譜が、上総山城守忠朝は隈城の状況を不快として自害を望み、応永二十八年八月廿日に貴久を将とする軍が山北へ来て隈城を攻めたと記す。忠朝は城門で防戦したが少勢で退き、自害の期限を延ばして鹿児島に家を得、浮世の事を絶って念仏しながら死期を待つと訴えた。存忠の遅参兵が伊集院に居り、平田重宗が忠朝の訴えを御屋形へ伝えた。御屋形が訴えを受け入れると忠朝は下城して道世と称し、鹿児島和泉崎へ移り、子彦三郎と同居した。佐多氏の近隣に住み扶助を受けたという。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
本文末年紀:建長七年十二月廿五日 / 冊子 650~651頁/原整理番号 〇五/整理ID TMP-OF-P04-D005
伊作庄預所側の重宗代盛景法師(刊本小字「法名淨空」)と、下司側の則純法師(刊本小字「法名念西」)代孫有純の相論条々を記す。 下司職について双方の申述と提出文書を検討し、常陸後家への召問を経て「可爲領家進止焉」と述べる。 続く惣公文・田所両職、給田、未進、作田、収納等の十五箇条を列挙する。 下司職が領家成敗である上は「非沙汰之限矣」とし、将軍家の仰せによる下知と記す。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
文書日付:永和三年十月廿八日 日付留保:日付字面は永和三年十月廿八日を保持。年号前記号・年数細画・正文年紀と補注の区分は未確定。 / 冊子 254~256頁/原整理番号 三一四/整理ID TMP-P02-NENE2-D0314
将軍家御方として同心し忠節を尽くす。島津伊久・氏久の降参が治定した場合、今後の両人退治には改めて公方御意を請うとする。 両人が御方に参っていても、一揆人の知行への競望・合戦時には、公方御意を待たず現地に馳せて防戦する。 所領相論などは合議し、多分の議と理運によって扱う。契約違背者への対応と、本領再住・恩地入部に公方御意・衆議を要することを定める。 「一揆衆中お憑楚忽沙汰候時者」には合力しないとし、公方への訴訟は理運により共同で申し立てる。違反には神罰を受けると誓う。
本文文書日付:應永廿八年三月十五日 / 冊子 624~625頁/原整理番号 一三五/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0135
大寺元幸ら六名の連署契状は、田布施の事に言及する。 「田布施之事一圓ニ被去給候上者」を条件とし、屋形の所存を述べる。 應永廿八年三月十五日付で、誓約と六名の署判を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 658頁
家久の病気が治らず喉にも腫物ができて痛んだため、京都の外科医を招くことになり、老中が京都所司代板倉重宗へ連絡した結果、慶祐法印が五月二十日に薩摩へ到着したことを記す記事。後掲の老中奉書に接続する。
(寛永十四年)五月廿九日 / 冊子 660頁
外科医慶祐が五月二十日に薩摩へ到着し腫物を治療しているとの報告を受けた。先に久志本式部を派遣し、さらに京都から外科医を下向させるよう板倉重宗へ依頼した経緯を確認し、家久の丁重な礼に将軍が満足した旨を伝えた四名連署書状。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。