貴久公記
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
38 件 (全巻)/ 1–38件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 857~859頁
『貴久公記』が、天文十七年三月に本田紀伊守が姫木城を構えた後の大隅情勢を記す。島津貴久・伊集院忠朗方と北原・本田方が清水周辺で攻防し、戦火で神社・寺院が焼失したこと、諸勢が出兵と退却を重ねて戦線が変化した過程を追う。
年月日未詳 / 冊子 920~921頁
『貴久公記』が、天文二十三年の加治木・帖佐・岩剣方面における蒲生・祁答院方との戦争を記す。貴久方諸勢の集結、陣所の移動、城兵の出撃への迎撃、使者を介した交渉を追い、攻城と退陣を重ねながら包囲を進めた経過をまとめる。
天文七年霜月二十八日条ほか / 冊子 263~265頁/原整理番号 24の13
『貴久公御軍記』から天文七年霜月二十八日の加世田城攻撃を抄出し、猿渡筑前守らの戦功を記す。軍記・旧記・寺社記録と村山自伯家の伝承を照合し、猿渡宗阿弥の所領・奉公と、自伯家が宗阿弥流に当たるという系譜を考証する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):八月二十三日 小字・補記(別層):年號不傳 補記(正文と別層):年號不傳 / 冊子 125頁/整理ID KW1-G000087
久豊公の儲君又三郎貴久公が清平に書を与えたと記し、下条に掲げる。 貴久公に後称陸奥守忠国公の小字を添え、年号不伝、八月二十三日とする。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):永享八年丙辰八月三日・同九年丁巳二月二十八日・同年八月一日 記事内参照年紀:永享八年丙辰八月三日 記事内参照年紀:同九年丁巳二月二十八日 記事内参照年紀:同年八月一日 / 冊子 129頁/整理ID KW1-G000093
島津家九代の太守陸奥守貴久公が領知の正判を与えたと記す。 三つの年紀を挙げ、その文書を後に収録する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):嘉吉元年辛酉十二月十二日 / 冊子 130頁/整理ID KW1-G000094
管領細川右京大夫持之の書を挙げ、「屬太守貴久公、傳可軍功台命簡牘」と記す。 その書を左に記す。
記事成立日:未確認 / 冊子 610頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A071
元祖維遠以来は鎮守府将軍家に属し、行政以降は鎌倉・足利将軍家に仕えたと述べる。 高祖父行貞が田布施城地を元久公へ献じ、その後の封邑に触れつつ家声は未だ墜ちていないと記す。 大永・天文の国郡大乱と戦の継続を述べる。 その時に行治が太守貴久公へ盟約の起請を献じ、本藩に仕え始めたと叙述する。
記事成立日:未確認 / 冊子 610頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A072
「所獻」に続き貴久公起請文前書卽案三通を挙げる。 その三通が家に蔵されていると記す。 「記左」として左方へ文書を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 732頁
天文四年、貴久が人知れず鹿児島へ帰り、川上大和守らの動きとともに市中へ火が放たれ、煙が七日間絶えなかったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年、島津忠良・貴久方と実久方の戦いに伴う伊集院城攻防を記す。夜襲、城下への放火、籠城、伊集院氏家臣の戦死を追い、忠朗・忠栄・梅久らのうち忠栄らが退去した経緯と後裔の系譜を掲げ、敗戦後の伊集院氏の分裂と継承を示す。
年月日未詳 / 冊子 751頁
天文六年正月から八月、竹之山・福山などの柵や城をめぐって貴久方が攻撃し、多数を討ち取った戦況を月日順に記す。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年四月以降、実久・加世田方との和睦と所領処置、伊集院・鹿児島・谷山・吉田方面の統治や防備について記す。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 780頁
天文八年閏六月十七日以降の島津貴久軍の市来方面作戦を記す。忠将・樺山玄佐・蒲生宮内少輔・伊集院大和守・三原下総守らの配置、城攻め、八月四日の再戦を追い、九月朔日に本城を奪取して守備兵を配置し、地域支配を固めた。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年三月、島津忠良と貴久が伊勢守・樺山氏らの軍勢を率いて大隅方面へ進み、北原方との合戦に臨んだ経過を記す。敵味方に死傷者が生じる中、豪雨で進軍と攻城の継続が困難となり、部隊をまとめて帰陣した判断と損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 802頁
天文十一年三月二十三日、種子島父子の争いを鎮めるため、貴久が新納伊勢守を大将として軍勢を派遣した経過を記す。父子の和解後、軍船は帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 806頁
凶徒がたびたび城下へ来襲したため、日新公・貴久が樺山安藝守に城の守備を命じ、所領を与えて勝久旧領の回復と忠節を求めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 818頁
天文十三年、肝付忠勤の動向を契機として郡山周辺に生じた争乱を記す。入来院・伊集院・蒲生・加治木・本田など複数勢力の帰属と軍勢移動を追い、島津貴久方が使者・出兵によって敵味方を整理し、防戦と鎮定を進めた対応をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 823頁
国中の混乱を収めるため島津貴久を太守に推戴し、忠良・忠廣らが国政を補佐した経過を記す。伊集院氏・本田氏を含む諸勢との関係を調整し、各地の城主と所領配置を定め、軍事拠点と知行秩序を再編して領国統治の体制を整えた。
年月日未詳 / 冊子 849頁
天文十七年、大隅国清水で反乱が起こり、本田氏の旧臣らが政道を乱したため、貴久方が討伐・処罰した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月廿一日、島津貴久方が清水から飫肥へ向かい、伊集院忠朗らと協議して敵陣を攻め、敵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 881頁
島津貴久方が加治木城を攻めた際、伊集院忠朗・肝付兼盛らが黒川崎へ布陣して蒲生・渋谷方と戦った経過を記す。敵陣への火矢射撃と周辺への放火、城方の出撃への迎撃を重ね、加治木城を孤立させるための前線構築と攻防を伝える。
年月日未詳 / 冊子 920頁
本文がNo.2749記事の前半と同文であるため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 11~12頁
天文二十四年三月以降の帖佐別府川・平松・山田・高尾などの戦闘を記す。島津方諸勢の出陣、敵兵の討取りと味方の戦死、帖佐・新城・山田の確保、北郷・根占・肝付勢の来援をまとめる。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同二十三年丙申九月九日 小字・補記(別層):(應永) 補記(正文と別層):(應永) / 冊子 124頁/整理ID KW1-G000084
島津荘大隅方大祢寝院瀬筒村の領掌について、尊久公が証帖を与えたと記す。 按文で、忠国公の実名は始め貴久といい当書では尊久とすること、貴・尊の文字は異なるが花押に異同がないと論じる。 諸家所蔵の御正判の「尊」字と比較し、貴・尊の同訓によるものかと疑問を示す。
年月日未詳 / 冊子 13頁
『貴久公御譜中』に収める島津貴久の立願四箇条。一国無事のための調義、一国を久分とすること、二三国で弓矢を励ますことを掲げ、第四条は原文『しら國可相様事』と記す。第四条には割注があり、語義を推測で補わず原文表記のまま記録する。
明治3年午11月知政所 / 冊子 770頁/原整理番号 986の1/整理ID 986-1
御軍神社の改造に伴い、社号を皇軍神社とし、武甕槌神・経津主神・橘正成卿・忠久公・忠良公・貴久公・義久公・義弘公・斉興公・斉彬公の十座を祭神と定める。皇国武道の祖神以下十座を祭祀するよう軍務局へ申し渡し、関係向々にも知らせる。明治三年午十一月知政所。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
年月日未詳 / 冊子 56頁/原整理番号 51の1
大永六年の記事として、忠良が伊集院へ参上し、勝久が鹿児島へ帰宅するのに忠良も供奉した経緯を記す。勝久の御剣を忠良家臣の阿多加賀守、忠良の御太刀を本田紀伊守が持ち、両者が以後の契約を結んだことを述べる。
文治2年8月1日、大永年間、天文14年冬、天文15年2月23日、天文16年 / 冊子 26~29頁/原整理番号 9
鎌田権頭通清の三代の孫・蔵人太夫光政の二男である加賀守政重の流れを引く、鎌田愛大夫政詮家の略系図。島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向三州を領するに際し、政重が難波・長野・石塚・福崎氏ら三州の御家人と協議して薩摩へ下向し、五子をまとめて関東へ報告したのち、文治二年八月一日の忠久入国に供奉した由緒を記す。後裔を末吉・串良・穆佐・田布施・鶴田・加治木・財部などの庶流とともに掲げる。政真は川辺の神殿に生まれ、島津実久に属したのち神殿を日新公へ献じて貴久に仕え、天文十五年二月二十三日に伊集院から開聞山へ赴いて出家し、諸国へ法華経を奉納する六百八十日の廻国を天文十六年に成就した。末尾に槿花の化生女性が現れて消えた奇瑞と朝顔を詠む二首の和歌を収める。
年月日未詳 / 冊子 603頁
島津貴久の系譜記事として、貴久公御譜中および日新斎の子女に関する記載を掲げる。
正徳四年八月廿一日 / 冊子 149~150頁/整理ID 367
肝付兼柄が兵具所に、島津家の御旗二流の由緒と伝来を記す。一流は八幡大菩薩の文字と文覚上人筆と伝える旗、もう一流は貴久公以来の旗として、保管や差し出しの経緯を述べる。
永禄3年10月吉日 / 冊子 48~49頁/原整理番号 49の1
忠久下向時以来の役人の由緒を記す。本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御剣役人とし、東条・西条・鎌田・山田とあわせ下向役人七人という。旗指は真幸ツハノの相京方(原注は愛甲)にあったが、氏久代の國合合戦で討死し、その後左近が旗指となったと伝える。永禄三年十月吉日付で、正文は貴久公御譜にあるとの注記を伴う。
天文23年9月、天正6年、天正14年12月8日、文禄4年7月18日、慶長元年5月23日、慶長4年12月8日、慶長6年8月9日、慶長14年、慶長19年、承応2年6月5日、元禄4年 / 冊子 23~26頁/原整理番号 8
出自不詳ながら、信濃守重宣の孫・丹波守実親の弟である部左衛門親行の法名ではないかと考証される古簾(道号越岩、異伝では越山永超居士)を祖とする本田氏系図。親尚は日新公に奉仕して戦功を重ね伊集院地頭となり、親吉は日新公・貴久公に仕えて感状を受けた。親貞は兄の死後、太守の命で正嫡を継ぎ、義久の家老、吉田・加世田等の地頭となり、吉野・磯を領して家臣を配置し、岩剣城攻め、大友氏の日州侵攻、九州征伐で軍務を担った。後裔について、豊後戸次城下・瀧ヶ水・庄内安永での戦死、九州・高麗・庄内役、琉球征伐・大坂の陣、曽木・福山等の地頭職、大坪流馬術の相伝、婚姻・養子関係を記す。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。