散位某施行状
康暦元年十二月十七日 / 冊子 141頁
散位某が中田氏部大夫入道・斎藤左衛門大夫に、肥前国三根西郷内の東津・泉空閑両村を、先度の安堵に任せて渋谷肥本摂津守へ沙汰付けるよう命じた施行状。
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康暦元年十二月十七日 / 冊子 141頁
散位某が中田氏部大夫入道・斎藤左衛門大夫に、肥前国三根西郷内の東津・泉空閑両村を、先度の安堵に任せて渋谷肥本摂津守へ沙汰付けるよう命じた施行状。
八月 / 冊子 341頁
島津貴久が公方の大鷹所望を受け、書状の趣旨を承知して大鷹一羽を進上した書状。さらに私蔵の大鷹一羽も献上するので、その旨を披露するよう進藤左衛門大夫に依頼する。
(天正五年) / 冊子 521頁
島津氏老臣が、近衛前久下向時の領地に関する約束に基づき、前年は竹下宗怡を通じて黄金二枚、今回は津留讃岐介を通じてさらに二枚を調達したので受領してほしいと伝える。今後も永く文通したいとする書状案。
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
延徳四年十一月十三日 / 冊子 560~561頁
島津忠昌が肝付をめぐる情勢に関し、上原藤左衛門尉・伊地知周防守を派遣したことを伝え、相良方・江候間の動向を含めて重ねて申すよう求めた書状。
三月五日 / 冊子 727頁
近衛植家が恩谷軒に、進藤左衛門大夫の上洛時に受けた懇報と段子二端の到来を喜び、後音を期すと伝えた書状。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
近衛前久が喜入季久の上洛を喜び、滞在中に必ず来訪するよう求めた書状。島津義久からの音信も受け取り祝着していると伝えるよう依頼し、詳細は進藤左衛門大夫が申し伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 209頁
慶長三年四月中旬、敵方の唐人龍海が和平使として晋州の番所へ来たため、島津義弘・忠恒が面会して饗応した。しかし敵方が和平の約を翻して大軍を出すとの報により、晋州・猿羽見の番衆を泗川新城へ引き入れた。また小西行長との内談のため鎌田蔵人・敷根藤左衛門を夜船で順天へ遣わしたところ、船が瀬に乗り上げて両名は死亡し、船頭らは新城へ帰還したと記す。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
三月十五日 / 冊子 9頁
不断光院清誉が、使者の進藤左衛門大夫を通じて伝授の件を整えたと知らせた書状。大閤が病気で自筆できないため原本を送り、相手方で書写してこの便で返すよう求め、詳細は岩崎新介が説明するとする。
三月十七日 / 冊子 10頁
不断光院清誉が、当年の下向を予定していたが近衛殿の強い要請で延期したと詫びた書状。翌年の下国を期し、進藤左衛門大夫への厚遇に感謝し、大閤の死去や御聞書の受領にも触れ、岩崎新介が詳述するとする。
三月五日(永禄八年) / 冊子 322頁
近衛稙家が愚谷軒に、進藤左衛門大夫が上洛して懇切な報告を披見したことを述べ、贈られた緞子二端の到来を喜び、後日の音信を期した書状。
三月十三日 / 冊子 325頁
近衛稙家が島津忠良(日新斎)に、久しく音信が途絶えたことを詫びる。修理大夫の受領と又三郎の官途について公武へ申し調えたことを伝え、詳細は進藤左衛門大夫から説明させるとした書状。
(天正十年)六月十七日 / 冊子 382頁
近衛前久が島津修理大夫に、天下の情勢と自身がその後蟄居していることを述べ、非常時の助力を頼んだ書状。若鷹は不要とし、沈香百両の厚意を謝し、進藤左衛門大夫を介して追って連絡すると伝える。
三月十三日 / 冊子 423頁
某が島津修理大夫へ、疎遠が続いたことを遺憾とし、官途の件が遅れているため申し調えたことを伝える。短冊十枚を求められ、拙筆ながら染筆して送り、詳細は進藤左衛門大夫に託した書状。
九月九日 / 冊子 297頁
将軍の上使が近日到着する予定なので家久の参上は不要との意向を了承し、まだ伝わっていない上意の内容をぜひ知りたいとして、中村藤左衛門を介して連絡を求めた寺沢広高書状。
慶長八年八月廿四日 / 冊子 905頁
服部加兵衛ら三名が連署した鹿児島御物の買物日記。福島で鹿皮三百枚・明礬・大小の角・鐙を銀七百九十三匁六分で購入し、別に公用百九十八匁四分を計上する。
(元亀元年)八月十日 / 冊子 381~382頁
近衛前久が島津陸奥守入道に、唐鑑玉・台銀の贈答を謝した書状。足利義昭の京都退去と織田信長による帰洛勧告、近江・越前・四国勢の動向を述べ、自身も出張して本意を遂げる見通しを伝える。
正徳三年三月廿五日 / 冊子 82頁/整理ID 193
相馬藤左衛門らに、家号と家筋の扱いを示し、名乗り字の使用と改名の願い出について申渡す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
日新斎が実久領の加世田城を攻めた際、忠将が将帥として指揮し、自ら大敵へ馬を進めて奮戦したため敵兵が敗走し城が陥落したこと、追撃と味方の戦死者を記す。
慶長四年五月朔日 / 冊子 379頁
大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。
(慶長四年) / 冊子 380~381頁
島津義弘の覚書で、内府から借りた黄金二百枚による借銀利分の返済と国元での本銀皆済、出水移衆への支配、金子百枚の返弁を記す。さらに渡唐の仕立て、納戸の品と船荷の売却奉行、南林寺・日新寺・雪窓院への年頭礼、太田六右衛門尉と前田新三の知行、路地の植栽や『源氏』一部の進上など、具体的な処置を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 170頁/原整理番号 63
『島津摂津介忠春古日記』享禄二年二月二十・二十一日の記事。二十日に例講神狩があり、鹿二頭と猪一頭を得たと記す。与四郎・弥二郎らが赴き、翌日には藤左衛門が帰ったことなど、参加者の動向も記録する。
書上一〇六正保三年九月十九日 / 冊子 187頁/原整理番号 106
正保三年九月十九日付、山奉行所から吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林の郷中への書状。飯野御城山での御狩には衆中が取り計らって参加するよう命じ、日程は飯野と相談して定めるとする。狩奉行は弟子丸右京亮と伊地知主膳正であると追記する。季安は、百姓の狩立を免じ、衆中中心の狩りとなった例と注す。
寛永廿一年八月九日 / 冊子 192頁/原整理番号 114
万治二年十月十五日付、加久藤の行司による御狩倉の書上。南山に飯森山・黒ヶ山・大谷山など六か所、北山に黒原・飯田川地・山ヶ城の三か所、計九か所の狩倉を挙げる。このほかに御狩倉はないとし、山奉行所へ報告する。
万治二年十月十五日 / 冊子 27頁/原整理番号 31
加久藤行司の竹之内志丞・岩崎藤左衛門尉が、南山・北山の御狩倉を山ごとに書き上げ、合計九狩倉として山奉行所へ提出する。ほかに御狩倉はないと記す十月十五日付差出。
(嘉禄三年)十一月四日 / 冊子 248頁
島津忠時が、魔嶋太郎康村が上司へ見参することを望んでいる旨を後藤左衛門尉へ取り次ぎ、面会を許すよう求めた挙状。
二月十四日 / 冊子 133頁/原整理番号 220
川上久国・三原重庸が山田有栄・伊勢貞昌・島津久元へ、有川藤左衛門尉の赦免をめぐる照会を伝える。有川は先年、御成の際の植木の入組により流罪となり、年数を経たため召し帰すことになったが、東郷肥前守が、同罪と聞く川上泰介との扱いの違いを問い、両人が江戸での穿鑿の事情を知らないため返答を求めたもの。回答次第で鹿児島へ伝えるという。
延徳4年11月13日 / 冊子 255~256頁/原整理番号 98
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと結ぶ。写本は伊地知越右衛門家蔵で、上原休兵衛家にあったものを、菱刈孫兵衛の文書らしいと聞き、休兵衛へ懇望して書写したとの伝来注記を伴う。『旧記雑録前編二』一七一三号文書と同一とされる。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
年月日未詳 / 冊子 168~169頁/原整理番号 512
高尾野の肝付伴右衛門家系図。肝付如心入道(右近藤左衛門、実名不詳)は慶長五年に帖佐から出水へ召し移され、高尾野城地頭宮原秋扇(景晴)の談合衆として徳永・樅所らと旧高尾野城内へ移住して奉公したという。以下、兼盛・兼行・兼平・兼経らの分岐、養子、母方、婚姻を列記する。
明暦元年7月28日(目録) / 冊子 494頁/原整理番号 17
竹内藤左衛門・伊地知軍弥らへの首尾を命じ、急ぎ飛脚で寺社の改めに関する書付を送る。帳面の形や宛先を確認して返答を求め、七月二十八日の日付を付す。
寛文三年七月十九日 / 冊子 467~468頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1033
町田久則が、高崎四郎兵衛・蒲生正左衛門を国元の見分役に任命すること、旱魃と井戸・用水、琉球船不参、銀不足、知行・扶持米、借銀と金山資金などについて鎌田蔵人らへ指示・協議した書状。
(寛永二十一年)二月十六日 / 冊子 15~16頁/原整理番号 8
山奉行方の仁礼藤左衛門ら四名が横川・栗野の曖衆中へ、算用のため行司衆がまだ参上しないことを催促する。六度の御狩の代銭と鹿皮の受取、以前算用に合わなかった時の目録を持参させ、速やかに精算するよう求める寛永二十一年二月十六日付の達書である。
年月日未詳 / 冊子 351頁/原整理番号 50
近衛父子の吹挙によって貴久と義久が官途を得た際、忠元が取次を務めたことを記す。進藤左衛門太夫長治が取次の書類を持参し、忠元がその用件を取りまとめた。三月十三日付で近衛父子から銘と判物が下され、それを家に蔵しているという。
「永禄七年」三月十三日 / 冊子 351~352頁/原整理番号 52
近衛植家が忠元に、長く連絡がなく疎遠になったことに触れ、修理太夫の受領と又三郎の官途に関する用件を伝える書状。公武に関わる時なので奔走するよう求め、取りまとめが肝要だと述べる。詳しいことは進藤左衛門太夫から伝えるとしている。
「永禄」(七年)三月十三日 / 冊子 352頁/原整理番号 53
先に連絡した用件を改めて伝え、修理太夫の受領と又三郎の官途について、状況に応じた取りまとめが肝要だと忠元に求める書状。詳しい内容は進藤左衛門太夫長治から伝えるとする。
記事成立日:未確認 / 冊子 614頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A075
天明四年の注記を伴う同年夏に、相州鎌倉相承院で文書の写一通を得たと記す。 小字は北條相模守貞時から當家十代隠岐守泰行および工藤左衛門入道への書簡と説明する。 正安元年七月十一日の年紀を掲げ、正文は相承院にあると記す。 「住持密信副證状、以贈之」に続き、回翰を記す。
三月廿五日 / 冊子 77~78頁/整理ID 193
島津氏庶家の名字・名乗りについて、二男以下に用いる字の願い出と申渡しの手順、御家の字の扱いを定める。
明和二年乙酉九月廿五日(朱注) / 冊子 106~107頁/原整理番号 216/整理ID 216
藩主が着城した時の年頭御礼を受ける規式について、古帳と記録奉行への照会で先例を調べた覚書。古帳は断片的で、古来の作法を定めた記録や書留は見当たらないとする。宝永元年、大玄院(綱貴)の家督中に浄国院(吉貴)が着城して諸地頭の年頭太刀を受け、同年七月十一日に二日組の諸士の御目見を命じた記録を挙げる。宝永二年九月朔日の着城・同月十日の年頭御礼、宝永四年九月朔日の同様の御受と諸士の節句日御目見、宝永六年八月十三日の外城衆御目見の指示を列記する。ただし最後の実施の跡はなく、外城寺院衆の年頭拝謁を命じたのもこの時かとする。嶋津将監から年首の礼をその後も漏れなく行うと聞いたこと、正徳五年八月晦日着城時に諸地頭の納太刀を命じたこと、山田新助らの持参太刀と享保十八年の同類例を挙げる。浄国院から当代まで帰着時の御受の筋はあるが、近代の年頭御礼の順序とは並ばないともいう。去る未九月の在府時には、江戸詰家老・家格ある者の太刀進上、目付以上等の初月次御礼、当国の寺院・組中諸士・外城衆の登城祝儀などを行い、祝儀帳を江戸へ送った。着城時の一門・役人・諸地頭・家筋付・町人等の御目見が年頭規式と重なる状態を述べ、在府時の区分に即して着城時の納太刀と年頭御礼を整理する案を吟味する。ただしその年の年頭規式に欠ける部分も生じ得ると認める。浄国院以来代々受けてきた規式なので、今後は藩主の賢慮次第で命じるべきと家老中にも相談したと結ぶ。朱注では酉九月廿五日、宮之原甚五太夫が調査結果を取り次ぎ、吟味のとおり命じる旨を受け、式部が承知したと記す。
(寛永15年)正月11日 / 冊子 597~602頁/原整理番号 655
島原へ出陣する諸士について、主従人数、乗馬、具足、鉄砲・弓・長刀・槍などの武具と弾薬数を個人別に列記し、総人数百九拾人、乗馬六騎、鉄砲五十六挺などを集計した人数差出帳。
年月日未詳 / 冊子 692頁/原整理番号 718の1
黎明に世子が江戸を出て西国へ急いだことと、家老・使衆・兵具奉行・代官などの随員を記す。右筆がいなかったため伊勢貞昌与力の有川喜左衛門が兼務した。神谷山三郎らは従行を許されず、後から自力で下り大坂で追いついたという。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
(寛永二十一年)六月五日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 11
山奉行方の新納久親らが横川から日州表穆佐までの曖衆・行司衆へ、前年から地頭狩の夫役を公儀に召し上げたことを受け、十五歳から六十歳までの在郷の人々を新しい改札帳に記すよう命じる。曖衆と行司衆が奥書・連判し、翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ差し出す。病者を別扱いする申し立てを認めない旨の追而書が付く。
正保三年九月朔日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 26
山奉行方が横川から倉岡まで十五か所の曖衆へ、六度御狩のうち一度を当月十日までに行い、獲物の皮を十五日までに上納するよう命じる。皮は御用のむかはきに使うため、遅延を禁じる九月朔日付達書。