島津義久書状
(永禄九年)十月十一日 / 冊子 150頁
島津義久が三之山攻撃に備え、肝付兼盛に他行せず待機し、真幸直からの注進次第に軍勢を催して速やかに駆け付けるよう求めた書状。自身の到着が一、二日遅れても、義弘と相談して時宜を整えるよう指示する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
37 件 (全巻)/ 1–37件を表示
ページ 1 / 1
(永禄九年)十月十一日 / 冊子 150頁
島津義久が三之山攻撃に備え、肝付兼盛に他行せず待機し、真幸直からの注進次第に軍勢を催して速やかに駆け付けるよう求めた書状。自身の到着が一、二日遅れても、義弘と相談して時宜を整えるよう指示する。
永禄十二年十月九日 / 冊子 227頁
島津義久が肝付兼盛の軍忠を比類ないものと賞し、親類や年来の家臣十人が戦死・粉骨したことに感心して、大隅国曽於郡内の上三蓋堂名を宛行った文書。速やかな知行と今後の戦功を命じる。
天文十八年十二月廿九日 / 冊子 886頁
肝付兼盛が和融の仲介と守護、相互の信頼を誓い、梵天・帝釈や諸神の罰を掲げて違背しないことを誓約した起請文。
九月三日 / 冊子 412頁
新納忠元・肝付兼盛が勝軍坊へ、弓箭をめぐって長く音信が途絶えたことを不審とし、内村八兵衛尉の子二人が召し越され押し置かれた件について、相当の人質を留めるなどして返還・調停するよう求め、島津義久の意向に沿うことを願った連署書状。
年月日未詳 / 冊子 880~881頁
『樺山玄佐譜』が、天文十八年の加治木・高城方面の攻防を記す。樺山善久・伊集院忠朗らが肝付兼盛・蒲生方の城内へ働き掛け、敵勢の減退を見て降伏条件を調整し、使者・人質を介した和議から帰順、城の受け取りへ至った経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 881頁
島津貴久方が加治木城を攻めた際、伊集院忠朗・肝付兼盛らが黒川崎へ布陣して蒲生・渋谷方と戦った経過を記す。敵陣への火矢射撃と周辺への放火、城方の出撃への迎撃を重ね、加治木城を孤立させるための前線構築と攻防を伝える。
年月日未詳 / 冊子 882頁
加治木城主肝付兼盛が太守島津貴久に従わなかったため、伊集院忠朗・北郷忠相らが加治木を攻めた経過を記す。蒲生・渋谷方との戦闘、城周辺の封鎖を経て兼盛方を退け、使者を介した赦免条件の調整によって帰順させ、城と所領を処置した。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
年月日未詳 / 冊子 883~884頁
樺山玄佐が加治木・蒲生方面の陣取りと和平交渉を詳述した自記。島津貴久・伊集院忠朗・肝付兼盛・北郷氏らの動向、親族・使者を介した条件調整、所領と人質の扱いを記し、城方の帰順後に城・知行をどのように処置したかを示す。
年月日未詳 / 冊子 885頁
天文十八年、島津貴久の加治木攻めに際し、島津忠親・北郷忠相らが調停し、肝付兼盛や渋谷・蒲生方との和議を進めた経過を記す。
(天文十八年)十二月十六日 / 冊子 886頁
島津忠親譜中に収める書状で、本文では北郷忠相が肝付兼盛に、先の条件への返答と今後の取り計らいを求めている。
年月日未詳 / 冊子 886頁
天文十八年、島津貴久が肝付兼盛の加治木城を攻めようとした際、北郷忠相らが調停し、和議と起請文交換へ至った経過を記す。
天文十九年四月吉日 / 冊子 887頁
島津貴久が加治木に関係する六町分の所領を肝付兼盛へ宛行い、安堵した宛行状。
永禄二年九月廿八日 / 冊子 74頁
島津貴久・義久が肝付兼盛に、境界をめぐる雑説は島津方の仕業ではないこと、今後は雑説が起きれば隠さず披露して真偽を決し、互いに頼み合うことを誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 120頁
永禄六年、島津貴久が飯野へ赴き、二月十日に三山の伊東勢を攻めて勝利したことを記す。北原兼親の飯野入城後、島津・相良両方の兵が守備し、十一月十六日には貴久が肝付兼盛の飯野での功を感賞した。
永禄六年五月朔日 / 冊子 122~123頁
大隅国宮内の観音屋付水田五町について、その坪付を示した島津氏老臣の連署文書。肝付兼盛・伊集院孤舟・勝軍坊が署判する。
(永禄六年)十一月十六日 / 冊子 126~127頁
島津義久が飯野の重大事に際し、肝付兼盛が急に留め置かれながら長期間にわたり辛労したことへ深い感謝を示し、今後もいっそう力を尽くすよう求めた書状。
(天正元年)十一月廿六日 / 冊子 321頁
近衛信輔が肝付兼盛に初めて書状を送り、京都の不慮の錯乱により諸事に頼る先がないため、匠作への支援を求める。五明五本を贈り、詳細は進藤筑後守が説明するとする。
(天正四年)十月十二日 / 冊子 505頁
近衛前久が肝付兼盛と鹿児島で対面できたことを喜び、道中の馳走にも謝意を示す。義久へもその旨を伝え、今後特に文通を続けると約し、京都からの知らせで近辺まで出向いた事情は石田弥介から伝えるとした。
年月日未詳 / 冊子 887頁
天文十九年、島津貴久が加治木・小濱周辺の土地や収益を処置し、肝付氏らの知行と清水方面の配置を定めた経過を記す。
永禄五年三月吉日 / 冊子 105頁
薩摩国伊集院のうち、修理田・野田名・上原・加藤先・大谷などの田地を寄進するため、坪付を示した島津氏老臣四名の連署文書。
永禄五年三月十六日 / 冊子 105~106頁
郡の金鐘寺を新地に建立して当年秋中に移し、寺職を改めて旧門派へ帰付することを認めた島津氏老臣四名の連署状。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115~116頁
伊集院忠朗ら島津・北原・相良方の関係者が、将来にわたり合意を違えず、世情が変化しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った連署起請文。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262頁
元亀三年三月中旬の岩瀬戸口合戦に参加した島津方の将兵を列記する。川上上野守・肝付弾正忠兼盛・野村兵部少輔・樺山兵部太輔・上原長門守・鎌田少外記のほか、猿渡越中守・喜入摂津守、島津右馬頭歳久・島津図書頭忠長らを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 75~76頁
永禄三年、幕府が伊勢備後守貞運を派遣し、島津氏と伊東氏の停戦を調停した経過を記す。貴久が末吉で上使と会い、新納忠元・肝付兼盛・樺山幸久を通じて返答し、飲肥領有と和平条件を折衝した。正八幡宮修造にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 1頁
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す。
永禄九年 / 冊子 141~142頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪し法名を称したことを記す。六月の肝付氏による岩川攻撃、九月九日の霧島山火災、伊東氏の三山築城と飯野侵攻計画を述べ、十月二十六日に義久を大将、義弘・歳久を副将として三山を攻め、義弘が重傷を負って退いた経過を載せる。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十一年正月~元亀二年九月 / 冊子 241~242頁
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相談のため供衆を伴って鹿児島へ参上したと記す。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262~263頁
禰寝重武が伊東・肝付・伊地知方から離れて島津方への忠勤と番兵派遣を願い、島津歳久・忠長を大将とする三千余騎が禰寝へ渡った経緯を記す。元亀三年三月中旬、大姶良方面で敵の誘撃を受け一時混乱したが、歳久・忠長の八百余騎が横撃して敵を破り、重武は幼い息子を人質として差し出した。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
禰寝重武が島津方へ帰順し、元亀三年三月中旬に伊東・肝付・伊地知方と戦った経緯を詳述する。大姶良方面では島津歳久・忠長らの反撃で敵を退け、重武の子を人質として境目の城々に番兵を置いた。のち敵が小禰寝の浜城を落とすと、喜入図書助・小四郎兄弟らが戦死し、岩瀬戸口で島津方が追撃して多数を討ち取った。
天正三年 / 冊子 393~394頁
天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。
天正三年正月~十二月 / 冊子 395~428頁
天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。
(永禄十一年)正月三日 / 冊子 181頁
島津氏老臣三名が、前日に菱刈方面への出立予定を伝えたものの、球磨領内に逆乱が起きたため、典厩様に軍勢を率いて時を移さず飯野へ赴き、境目の様子を確認するよう強く申し入れた連署状。敷根殿・肝付弾正忠にも同様に伝えたとして、川上・町田両名に心得を求める。