島津忠治書状
永正七年十月廿日 / 冊子 596頁
島津忠治が北郷源左衛門尉に、各地への使者派遣と軍事上の奔走を求め、今後も忠節を尽くすよう命じた書状。
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永正七年十月廿日 / 冊子 596頁
島津忠治が北郷源左衛門尉に、各地への使者派遣と軍事上の奔走を求め、今後も忠節を尽くすよう命じた書状。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
十月廿日 / 冊子 312頁
島津忠治が北郷源左衛門尉に、今度の合戦で格別の懇志を得たことを喜び、とりわけ各地へ奔走して入魂した働きを今後も忘れないと伝えた書状。
六月三日 / 冊子 275頁
島津勝久が、入来院殿の伝言、石州への連絡と廻船者の保護・入国、双方の礼や軍勢派遣、山事・所用の処置について詳しく指示した書状。
「天文五年」六月三日 / 冊子 753頁
島津勝久が大山・東條両名に、入来院方からの報告、使節の礼、石州方面の連絡や船員不足などを述べ、今後の協力を求めた書状。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 616-617頁
平田増宗・鎌田政近が連署し、北郷久観の累代の忠節と今度の戦功を賞して、山田のうち三百石を宛行う。目録を別紙とし、北郷次郎が若年であるため家老として忠節を尽くして北郷家を存続させ、島津家への奉公に努めるよう求める。
慶長五年十一月廿日 / 冊子 617頁
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、日向国諸県郡庄内山田村の薄谷・黒池・市蘭・山菅・牧野・小牟礼・是井・下権屋など、合計九百九十九石七斗四升四合を北郷久観への新知として示す。田畠を親疎なく公平に分け取るよう命じる新知目録である。
慶安四年四月廿一日 / 冊子 136頁
長く病床にあった将軍徳川家光が四月二十日晩に死去したことを急報し、江戸城から重臣らが下って供奉した悲痛な状況を伝えた。諸説・流言が生じ得るため十分心得、国中の仕置をこの時こそ厳重に行うよう命じた四名連署状。
年月日未詳 / 冊子 662頁
北郷持久・辰久・敏久から久隆(源左衛門信濃)へ至る北郷氏庶流の系譜関係を示した系図。
年月日未詳 / 冊子 744頁
天文五年二月二十五日、北原山田の兵が安永を攻めた際、北郷忠相方が防戦して勝利し、敵六十八人を斬った一方、池袋源左衛門が戦死したことを記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
天正五年二月吉日 / 冊子 512頁
戸柱大明神へ、薩摩国鹿児島内萩原名の原田源左衛門先三反を寄進した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正八年八月十九日 / 冊子 675頁
肥後合志合戦で伊集院久治が大津源左衛門尉を討った際、その弟六右衛門が駆けつけて久治を危地に陥れたが、伊集院新介が六右衛門を討ち久治を救ったという記事。新納忠元・島津忠長がその働きを上聞に達し、別紙で褒美を与えた。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。
年月日未詳 / 冊子 739頁
石田三成が朝鮮から帰朝する際、安楽伊予守と郷田源左衛門尉に十艘の船団運用を任せたことを島津義弘の譜に記す。 朝鮮在陣からの帰還に際し、船舶と将兵の輸送を誰が統率したかを示す記事。
年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
年月日未詳 / 冊子 616頁
北郷源左衛門久観の譜記事。慶長五年十一月、島津忠恒(家久)から余地三百石を与えられ、その正文を次に掲げると記す。
(慶長七年)九月十一日 / 冊子 845-846頁
島津龍伯が忠恒へ、上之山城の処置、鹿児島老中衆との意思疎通、馬の調達、鎌田源左衛門尉から聞いた諸案件などについて意見を伝える。南林寺関係の訴えや福山の馬の扱いにも触れ、関係者へ適切に命じるよう求めた。
(慶長十一年)四月十六日 / 冊子 67~68頁
島津龍伯(義久)が島津忠恒に、屋久島へ唐船が着岸した際の積荷検査について、検使の家村源左衛門尉と鈴木猪介の処置が不十分で、荷物が散逸したことを報告した書状。種子左近太夫にも事情を申し渡し、家村は永く召し籠めて所領没収も覚悟させるとし、鈴木の処分は忠恒の判断に委ねた。ただし鈴木が半狂であることに酌量すべき事情があれば返答するよう求めている。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物で奉行を務めた者の交名注文。殿を筆頭に、島津上野入道・弟子丸右京進・本田与兵衛尉・伊集院源左衛門尉を列記する。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
正月廿八日 / 冊子 54頁
島津光久が、年頭の使者と太刀一腰・馬一匹の贈物が遠方から届いたことを喜び、謝意を述べる。詳しくは新納右衛門佐と鎌田源左衛門尉が伝えるとする書状。
(寛永八年)七月十一日 / 冊子 217~219頁
二人の使者が庄内へ赴いて御条書を北郷出雲守らに伝えた際の見聞を報告する。家中が意見を述べない状況、他地域・親類との往来制限、北郷源左衛門尉への権力集中、役人候補、讃州時代の成敗、出雲守の鹿児島移転、家中統制の誓紙などを列挙し、北郷領の閉鎖的な支配を問題視した覚書。
寛永八年八月七日 / 冊子 225~226頁
北郷源左衛門忠俊の罪状を列挙する。讃州の殺害・成敗への関与、鹿児島や外城との往来遮断、殿役の不履行、公儀への祝儀使者の遅延、家老を無視した専断、家中の言論統制、財部宗三の成敗、出雲守の鹿児島屋敷普請の妨害、山城殿への根拠のない毒害嫌疑などを挙げ、北郷家を危うくしたとして成敗を命じた覚書。
(寛永九年)五月十七日 / 冊子 270~271頁
島津久元と伊勢貞昌が、国分様の遺骨を高野山へ送る件が死後三年にもかかわらず遅延しているため、家久が早期実施を命じたこと、高野山での儀式を龍伯・惟新と同様に整え、金剛寺関係者や鎌田源左衛門尉・五代勝左衛門尉らの供奉を検討すること、国分様の寺・知行・物成・銀子の処理を国元で協議するよう伝えた連署書状。
(寛永十二年)十二月十四日 / 冊子 512頁
有吉英貴・長岡是季が、葦北郡湯浦の百姓源左衛門夫婦と益城郡矢部村の百姓源六が逃亡し、キリシタン穿鑿で薩摩領内にいることが判明したため、新納加賀守の使者を添えて三人を葦北郡へ返されたことへの礼を述べた書状。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 771~772頁
二月二十八日の有馬春之城攻撃で、大野監物が本丸石垣に登り、塀を乗り越え、長刀で敵一人を討った場面を実見したとして、福崎新兵衛・村尾源左衛門が二月二十九日に連署して証明した実見証文。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 772頁
二月二十八日の有馬春之城攻撃で、平山七兵衛が本丸石垣を約三間登り、塀を乗り越え、敵一人と槍を合わせて槍下に突き伏せた場面を実見したとして、宮原与左衛門・村尾源左衛門が二月二十九日に連署して証明した実見証文。
二月廿九日 / 冊子 773頁
二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣・塀を越えて城内で槍を合わせ、須木衆今村休右衛門尉を槍下で射止め、須木衆堀添十郎兵衛尉が首一つを取ったことなどを証跡とともに報告した村尾源左衛門の差出。
十二月二日 / 冊子 147頁
入来院重次が入来院尾州の人々に、本名字の回復について祁答院播磨守を頼み、一書を得て本意を遂げたことへの謝意を述べた書状。源左衛門尉の一門となったことを老齢の身の満足とし、礼が遅れたことを詫びる。
十一月廿八日 / 冊子 153頁
本田親存が伊勢兵部少輔らに、加治木付近に知行を得られれば幸いであり尽力してほしいと依頼した書状。隠居の身で知行がなく思うようにならない事情を述べ、先方に知行の取り口があれば少しでも手を付け、過分にならないよう適切に調達してほしいと求め、詳細は源左衛門に託す。
永正十二年四月一日 / 冊子 607頁
永正十二年四月一日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十三年六月一日 / 冊子 611頁
永正十三年六月一日の犬追物について、初日一番の射手と射数を列記した手組。
永正十三年六月七日 / 冊子 612頁
永正十三年六月七日の犬追物について、御代初の手組として射手と射数を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 822頁
時任義高の系譜記事。初名・法号、生年を記し、高原城攻めや大友軍との戦いで軍功を立てたこと、慶長十年に六十八歳で没したことと法名を掲げる。
(寛永十五年)三月朔日 / 冊子 777頁
二月二十八日、有馬春之城本丸で須木衆今村休右衛門と槍を合わせ、左手に槍傷を負いながら敵を槍下に取り伏せ、須木衆堀添十郎兵衛が首を取ったことなどを、同行者の実見に基づき三月朔日に証明した文書。
廿四日 / 冊子 331頁
体調が徐々に良くなっていると聞いて喜び、翌日早々に見舞いに行くと知らせ、風邪を引かぬことと食事を怠らぬことが肝要だと諭し、母たちにも伝えるよう求めた島津家久書状。
万治二年二月六日 / 冊子 512~513頁
島津弾正が寛永十八年に御納戸から借りた普光院の琉球関係文書と徳川秀忠御内書について、万治二年に返上の有無を島津大膳家へ照会した経過を日付順に記した覚書。受取の返却可能性も含め、老中・御納戸を通じた確認手続きを記録する。
11月21日 / 冊子 391頁/原整理番号 356の6
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、小松原の主取民部左衛門へ赤米九斗を割り当てる。末尾では、五枚帆船の水手六人に同日以後二十日分の海上飯米を一人一日赤米七合五勺で算用し、天草一乱に伴い小松原から出水へ送る船用として渡すよう三原源左衛門(本文『本まゝ』注記)・永山覚右衛門へ命ずる。
11月23日 / 冊子 406~407頁/原整理番号 370の1
『平田宗直銀米払方留帳』に対応する十一月二十三日の送状。主取茂右衛門尉・喜左衛門・利兵衛尉の三艘は各水手八人・赤米一石二斗、孫左衛門の四枚帆は水手七人・赤米一石五升と記す。小浦から出水へ遣わす人衆乗船の飯米として、同日以後二十日分を一人一日七合五勺の算用で渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。
11月23日 / 冊子 407頁/原整理番号 370の2
十一月二十三日、主取壱岐の五枚帆一艘、蔵右衛門・市右衛門・弥九郎の四枚帆各一艘に、水手各八人・赤米各一石二斗を割り付ける。同日以後二十日分の海上飯米を、一人一日七合五勺の算用で渡すよう三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い、人衆上乗として片浦から出水へ遣わすための支給である。
正月13日 / 冊子 522頁/原整理番号 532
野元源左衛門の祖父が肥州島原で戦死した次第を尋ねられ、三原諸右衛門が承伝を書き送った書状。寛永十五年正月元日の島原城攻めで、板倉内膳正の戦死後、三原左衛門佐と野元源左衛門が戦場を見分し、酒筒を携えて出陣したこと、両名の戦死と松平伊豆守方への報告などを記す。
年月日未詳 / 冊子 744頁
天文五年、北郷忠相の臣池袋源左衛門尉宗政が安永城攻撃で戦死し、同年八月には調所新五郎も戦死したことを記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
天正八年八月二十二日 / 冊子 675頁
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
(寛文元年)八月二日 / 冊子 439~440頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0940
妻木彦右衛門頼熊が島津図書・鎌田蔵人へ、先年琉球国八重山の与那国で破損した阿蘭陀船荷物について、阿蘭陀人の帰帆時には積渡しが間に合わず、琉球人が八重山から薩摩へ運び、役人家来四人のうち琉球人二人が荷物を長崎まで護送した旨を報じる。無事着岸し、目録どおり請け取ったこと、琉球人への配慮と阿蘭陀人の残荷受取・帰帆、礼の伝達等を述べ、詳細は使者が口上するとする。別段で島津図書へ今晩報を認め明日使者へ渡す旨も記す。
十月朔日 / 冊子 24頁/原整理番号 6-19
御記録の表紙百冊分と真筆二十対分を国元から取り寄せたいとの求めを受け、鎌田政直が本の表紙を見本として送ると伝えた。京都からの筆は質が悪いため江戸から取り寄せ、江戸評定所の筆者衆へ依頼するよう指示する、十月朔日付の書状。
十月朔日 / 冊子 24頁/原整理番号 6-20
御記録方で必要な筆五十対について、すべて冬毛で作るよう改めて申し出があったため、その仕様で取り寄せるよう鎌田政直が伝えた十月朔日付の書状。
安永四年未十二月朔日 / 冊子 479~480頁/原整理番号 1321/整理ID 1321
加冠と題する書出で、鎌田万袈裟の名を記し、仮名として源左衛門を宜為とする。安永四年未十二月朔日の日付があり、円形の表示に重豪公墨印と注記する。正文在鎌田要人は正文の所在を示す記載で、鎌田万袈裟に対する仮名の書出とは分ける。
弘化四年・十月十六日 / 冊子 37~38頁/原整理番号 35-2
野元源左衛門は先の申渡しを承知した旨を返答する。続く季安の日記には、十月十七日に田中・税所らと出頭して鷺之間・次之間の座順を受け、祝儀と饗応に預かった経過が記される。