伊集院忠棟外二名連署書状
三月二日 / 冊子 51頁
伊集院忠棟・町田久倍・平田光宗が、福昌寺への合力について諸地頭へ連署した書状。三か国の人勢に関する相談を踏まえ、当年は日州へ回るため、各地で福昌寺に相応の助力を行うよう求め、詳細は寺から伝達するとする。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
180 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 4
三月二日 / 冊子 51頁
伊集院忠棟・町田久倍・平田光宗が、福昌寺への合力について諸地頭へ連署した書状。三か国の人勢に関する相談を踏まえ、当年は日州へ回るため、各地で福昌寺に相応の助力を行うよう求め、詳細は寺から伝達するとする。
七月廿五日 / 冊子 59頁
川上久隅が河上次郎左衛門尉に、次郎左衛門尉の役務が無事に整ったことを喜び、今後も励むよう求めた書状。途絶えかけた連歌を再興するため連衆を差し出したこと、日州の役務も御老中衆と相談して進めることを伝える。
年月日未詳 / 冊子 321頁
『文明記』の記事。河内守久逸以来の家系と伊作氏七代の系譜を述べ、家運断絶の危機に際して日州福島から伊作へ移居させ、近江守との縁組によって家を継承し、子孫が続いた経緯を記す。
辛未3月15日会計局/18日知政所 / 冊子 798頁/原整理番号 1018の4/整理ID 1018-4
日州灘の紙幣について、従来の表面額と銀銭引上納の関係、交換時の換算・端数処理を定め、春の職制改革後の諸局経費や一般支配物入用への使用を整理する。旧職制中の上下から引き渡された紙幣・墨書等を点検し、会計局へ差し出して処理するよう命じる。辛未三月十五日会計局、十八日知政所。
(寛永二十一年)六月五日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 11
山奉行方の新納久親らが横川から日州表穆佐までの曖衆・行司衆へ、前年から地頭狩の夫役を公儀に召し上げたことを受け、十五歳から六十歳までの在郷の人々を新しい改札帳に記すよう命じる。曖衆と行司衆が奥書・連判し、翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ差し出す。病者を別扱いする申し立てを認めない旨の追而書が付く。
年月日未詳 / 冊子 130頁/原整理番号 208
『堀輿延自記』(本文見出しは「堀興延自記」)。寛永十五年二月十三日、日州方外城の士百五十人に槍・弓・鉄砲の御道具持の代役を命じ、堀興延が堀四郎右衛門らを召し連れて向田まで進んだが、島原の事が済んだとの報を受け、御道具持百五十人とともに帰ったことを記す。
弘化二年三月廿一日~四月八日 / 冊子 68頁/原整理番号 107/整理ID 107
斉興が菱刈・真幸・日州諸郷を巡視した記事。三月二十一日朝六時に玉里仮館を発ち、家老調所広郷らが随行した。入来・鶴田・曾木を経て大口に泊まり、忠元霊社、水天宮、白木観音を参詣した。二十六日に大口を発って馬越・湯之尾・湯之元・栗野・吉松を経、加久藤城内で三徳を訪ね地神経の楽を聴き、白鳥山を越えた。飯野・小林を巡り神徳院、錫杖院、法華嶽寺などへ参詣し、善哉坊の身投獄を見た。高岡・高城・香積寺・粟野社・去川・通山・福山を経て、国分・加治木・重富権山別荘に立ち寄り、船で磯仮館下へ着き、館で休んで玉里仮館へ戻った。所要十七日と記す。陸路の郷は三十で、前もって宿所を定めて道路の修築や上下の供給を命じ、休憩所・宿所では必要な事のみを扱って費用を簡略にし、郷の郵務に費用を負担させなかったと結ぶ。
元治元年4月16日(御系図記事) / 冊子 356頁/原整理番号 506/整理ID 506
御系図「忠義公」の元治元年四月十六日の記事。大家から、茂久に日州細島の地を預領させる旨を命じたと記す。「預領」という取扱いを示す短い記録で、領地の永続譲渡、面積・石高や実際の引継ぎ状況は記されない。命令の主体は原記載の大家として示す。
年月日未詳 / 冊子 404~405頁/原整理番号 136
天正五年十二月七・八日の日州発足を記す日々記。正宮へ社参して脇元から越着へ入り、三献と太刀進上を受けた後、福永丹波守の子が人質として来ると使者から聞いた。上原長門守へ報告し、続衆や一家・国衆の対応を使僧・飛脚で伝える。翌日は濱市から五十艘余の供船と進物船で出て、長濱沖・小嶋で迎えを受け、着岸地で酒を重ねた。伊東の番衆は右方、武庫は野尻に籠もり、東の番衆を五、六人ほど討ち留めたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 405~406頁/原整理番号 137
天正六年正月の祝儀・土持と伊東の処遇・天草交渉を記す。土持は人質に関する条件を申し入れ、相撲や刀を進上し、伊東方の退治に従う意向を示した。山毛の廻文や大友父子の書状には日州の混乱と伊東の亡命について記される。天草から日州取得と勝利を祝う使僧・贈物が届き、佐土原などの城から来た百人ほどの家臣へ覚悟を求めた。末尾には九月二十九日付の大口忠元の書状の記事があり、相良・大友・肥州、八代真光寺との関係を報告する。
明和六年七月(日無記載) / 冊子 219頁/原整理番号 574/整理ID 574
同年初秋七月、日州佐土原城主島津淡路守久柄の胞弟大和が新しく家を立てようとして、島津の称号・諱名・家紋を願い、重豪が許したことを記す。あわせて庶子の称号・諱名なども定め、その詳細を以下に載せるとする。大和は本文では久柄の胞弟と記され、許可内容の具体的な家格・座席・諱字・紋所は後続文書で示される。
安永二年四月八日 / 冊子 368頁/原整理番号 1033の1/整理ID 1033-1
小倉筋・出水筋・東目・高岡筋・大口筋に関する事柄を、今後は閏書等に載せるよう命じたことを伝える。この旨は先に申し渡していたが、公辺その他へ書き出す際には、そのような呼称では難しい場合もあるため、九州筋・日州筋の扱いと、その時の吟味に従って記すよう担当の御役へ申し渡す。末尾は安永二年巳四月八日、仲、島津久健との注。雑抄中の収録。
永禄四年二月十六日 / 冊子 84~85頁
六十六部沙門本願原加坊が日州福嶋院高野村で百万遍念仏を勧進し、阿弥陀三尊像を造立して、施主および道俗男女の現世安穏・後生善処を祈った寄進状。施主名は本文注記に島津忠良または島津勝久の可能性が示される。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 73
大学寺義昭僧正の謀露顕に関連し、日州櫛間へ落ちた野邊氏の家や、永徳寺をめぐる訴訟と文書の内容を伝える記録。末尾に『野邊の露』の句を載せる。
天正五年十二月七日~晦日 / 冊子 529~530頁
天正五年十二月七日から晦日までの日向進発を日次に記す。正八幡宮参詣中に福永丹波守の内応を知った義久が海路で出陣し、義弘の野尻入城、紙屋以下諸城の服属、正八幡宮への戦勝奉告、高原・紙屋・都於郡への進軍、福永への恩賞と鉄砲拝領、相良・佐伯方との使者往来、高城衆の降伏と人質収容を経て年を越した。
天正六年正月~三月十九日 / 冊子 576~581頁
天正六年正月から三月十九日までの日記。年始儀礼、土持・天草・相良らの祝使、伊東旧臣の移配と所領処分、日向諸城・寺社への対応、豊後側の侵攻情報と番衆配置を記す。二月以降は門川への豊後船到来、三城・三納方面の動揺、海江田衆の反乱鎮圧、穂北での伏兵準備など国境警備を強化し、義久が都於郡から鹿児島へ帰陣するまでを載せる。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 581~588頁
天正六年九月十一日から十一月二十九日までの日向出陣日記の別本。野尻での石城攻めと九月晦日の受取、十月二十五日の高城救援出発、夢中詠、佐土原での軍議、十一日の伏兵戦と松山陣攻略、十二日の根白坂・耳川合戦、北方諸城への追撃・降伏処理、戦死者供養、恩賞と番手配置、霧島参詣を経た鹿児島帰陣を記す。
天正五年十二月十三日 / 冊子 235頁/原整理番号 17
天正五年十二月の日向出陣で三原右京亮が旗役を務め、紙屋で御旗を立てた記事を引く。旗役の実際の行動を日々記で確認する。
天正六年正月七日 / 冊子 235~236頁/原整理番号 18
日向出陣の日々記から正月七日の記事を引き、御旗に雨が降った際に紙屋で御旗を掛けたことを記す。続く旗役の具体的な扱いを示す。
天正六年九月十一日 / 冊子 236~237頁/原整理番号 20-1
天正六年九月の出陣記事から、御旗・御太刀を持つ人員と出立の手順を引く。三原右京亮・本田らの役目を日々記の記録によって確認する。
天正六年十月廿五日 / 冊子 237頁/原整理番号 20-2
天正六年十月、山東高城への出陣で、船を用い、御旗・御太刀などを役人が分担して運んだ記事を引く。大友勢との対陣に伴う旗役の実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 673頁
光明天皇の時、島山修理亮直顕が日向国大田城に駐兵し、伊東藤内左衛門尉祐広・祢寝清種らが諸城の攻防に参加した経過を記す肝付兼重伝。櫛間城・高城・大田城等の城郭支配と軍勢移動、肝付方との合戦を述べる。
年月日未詳 / 冊子 674頁
建武三年十一月、島山修理亮直顕が日向国大田城に駐兵し、伊東祐広らを集めて肝付兼重方追討に備えたことを記す重久篤兼譜。
応安四年十一月十四日 / 冊子 59頁
今川義範が、武光以下の凶徒が城へ寄せて合戦中であるとして、佐伯・蒲江辺へ早急に馳せ越し忠節を尽くすよう催促した軍勢催促状。
元禄十年三月 / 冊子 8–9頁/整理ID 27
日向国の御持合区域について、御家来衆同士や赤松甚右衛門との相渡しを協議し、村替え・組合せの有無、村高、寺社領、枝郷、新田、道・川・池沼・船渡などを調査して国絵図作製用の書付を短期間に差し出すよう命じた触書の写。
正保二年六月十六日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 131
記録所からの伺書。島津勝久の沖之濱への移座と豊後・日向での動静について、家譜、寺院の書類など記録間の食い違いを挙げ、史料の扱いと記述の仕方を伺う。寛政十年四月五日付。
十月五日 / 冊子 378~381頁/原整理番号 133-1
島津勝久の伝記略。勝久の出生から日向・佐土原での居住、伊東義祐との戦い、広原への移居、没年と葬所をたどり、妻子や後裔、墓所・寺院の伝承も記す。
天文四年十月廿四日 / 冊子 737頁
日州山之口的野正八幡宮の造営に際し、北郷主君島津忠相らの繁栄、領内の安穏、宝祚長久などを祈願した棟札。
年月日未詳 / 冊子 660~661頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1662
日州庄内・飫肥間の境界について、相手方の申立てと古文書・絵図・境筋の由緒を逐条検討し、赤石川・梶山・板屋河内等の利用実態や過去の裁許を根拠に、自方の境界主張を述べた反論書。
同年十一月十八日・二十一日・二十七日の記事(目録安永二年)、滞在中の参詣巡遊 / 冊子 405~406頁/原整理番号 1124/整理ID 1124
同年十一月十八日、中城王子尚哲を招いて再び登城させ、膳食を許す。尚哲は太刀・馬代黄金十両と方物一式を備えて書院に謁し、著客居に膳を出す。膳は四汁十一菜との小注。琉人が座楽と唐躍を奏し、杯を尚哲へ伝え、食後に尚哲が拝謝して退いたと記す。二十一日には摂政朝恒への膳を用意し、次第は中城王子の例による。二十七日には尚哲以下の琉人を城に召す。人数の注は摂政からの者を五十五人、病のため登城できない者を六人と記す。書院と対面所で猿楽舞を見せ、書院へ戻って湯漬を供する。膳の注は五く三引替、四汁十三菜。尚哲は厚い歓待に謝して退く。鹿児島滞在中には品物を贈り、従者にもそれぞれ下付があった。花尾山・大雄山・浄光明寺・福昌寺・聖堂等を参詣し、請いに応じて福山野驛、駒取・吉野で狩猟・射芸・馬術を見物したとする。さらに日州霧島神社、大隅国正八幡宮へ赴き、同国踊郷栄之尾と同郷安楽村の温泉に浴したと記す。日別の饗応と滞在中の参詣・見物・湯浴を分けて記す。
延宝三年 / 冊子 658頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1659
日向国諸県郡庄内と伊東氏領那珂郡飫肥との山境をめぐる争論について、由緒書・双方の申立書・境界絵図関係書状をまとめた一件の親記事。
年月日未詳 / 冊子 658~659頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1660
日向国諸県郡庄内と那珂郡飫肥の境にある梶山・板屋・赤石河内周辺について、古くからの領有・河川・山境、寛永年間以降の境界争論と裁許、関係文書の成立経緯を説明した由緒書。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1661
島津氏側が、庄内と飫肥の郡境について、古来の山境・川筋・梶山村の利用実態と過去の境界取決めを挙げ、相手方が新たに主張する境筋を認めず、従来の境界を維持するよう求めた申立書。
元禄十二年五月二十二日 / 冊子 121頁/整理ID 427
徳川綱吉が元禄10年閏2月4日、島津綱貴に薩摩・大隅・琉球の国絵図と日向一国図を伊東大和守祐実と相談して提出するよう命じた記事。正保国絵図は祖父島津光久が単独で提出しており、伊東家との共同校正は先例に背くとして、綱貴が異議を申し立てた経緯を記す。
元禄十三年 / 冊子 236–237頁/整理ID 814
島津綱貴が日向諸家へ、諸国絵図改訂に伴い日向国の清絵図を島津家が調製するため、各領内絵図を国元へ送るよう求めた口上。国境・村境を吟味して三枚の絵図を提出し、薩摩・大隅・日向の絵図と照合して差異を改め、関係役人が江戸・鹿児島・日向間で受渡し・相談する手順を示す。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
巻二/冊子 25~26頁
日向平定の過程を、高原・野尻・戸崎・石城の攻略を軸に記す。高原城は霧島山東麓にあり、伊東勢が島津領へ侵入する拠点となっていた。義久・忠平らは天正四年に攻撃し、軽率に城へ迫った兵に損害を出したものの、念仏寺を介した講和で城を受け取る。高崎・三山・須木など周辺八か所も島津方へ属した。伊東家中では義祐の暴政に不満が高まり、野尻・戸崎も次々と落ち、義祐は従う者を失って豊後へ逃れた。記事は伊東滅亡を義祐自身の失政の結果と論評する。翌年、長倉氏が石城に拠って旧領回復を図ると、忠棟らが大河に浮橋を設け、鉄砲・矢で包囲した。城内が糧食・水を断たれて降伏すると、島津方は城兵を餓死させず、食料を与えて豊後へ退去させた。軍事攻略と降伏者への処置を通じて日向支配が確立したことを示す。
巻二/冊子 26~29頁
天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩し、耳川方面へ敗走させた。大友方は多数の将兵を失い、河川や山道で潰走したとされる。戦後、義久は敵陣跡で凱歌を挙げ、敵方に従った日向の住民についても一律に殺すのではなく、罪を問いつつ謝罪・服属を受け入れた。大友氏の大軍を退けた高城・耳川の戦いを、島津氏の九州進出を決定づける勝利として描く記事である。
末尾月日:八月三日 / 冊子 303頁/原整理番号 四二〇/整理ID TMP-P02-NENE3-D0420
今河越後守の件について「留置日州之上者」と記す。 日向國人中に対し、その手に属して今後いっそう忠節を致すよう求める。
年月日未詳 / 冊子 486頁
文明八年九月十二日、時任源八左衛門義昭が日州三俣院の戦いで四十二歳にして戦死したことを記す記事。
天文廿一年八月六日 / 冊子 901頁
島津貴久が大友方の重臣らに、日州千戈の儀をめぐる当家の妨げが深刻であるとして、宗綱への取り次ぎと堅固な申し談じを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 281頁
樺山紹剣が高動野の合戦から日州への退却まで、自身の見聞と行動を記した自記。勝戦の直後にも進路を失い、阿蘇坂などで多数の敵と戦いながら諸隊が離散・合流する様子が描かれ、撤退時の混乱を生々しく伝える。
(天正16年)2月11日 / 冊子 378頁
新春を祝い、自身が思いがけず上洛してなお滞在中であること、宗次郎兄弟が無事であることを知らせる。義弘と右衛門大夫の上国が朱印で命じられたため、日州口に在宅する北郷時久へ、留守中の領国と島津方諸城を庄内と同様に守るよう頼み、馬二疋を贈った書状。
(天正16年) / 冊子 384頁
若年の「又七」(時期から島津豊久か)について、高崎越前守から幾度も教諭するよう求める。続いて山内の処置を論じ、右松宗納・黒木入道らが関係するなか、日州の巣鷹を義弘が受け取るよう関白朱印で命じられ、その趣旨に従って山内の儀を処理したと説明する。 当事者間の朱印が前後しても後の朱印を実効あるものとし、兄弟間の事情より関白朱印を優先すべきだと説く、領地・権限調整の書状案。
天正20年12月1日 / 冊子 616頁
日州志布志のうち、志布志名の三反二畝余を町田出羽守へ領知させた目録。 島津義久の袖判を伴い、志布志における小規模な知行給付と受給者を明確にする。
慶長二年六月九日 / 冊子 107頁
島津義久が友枕斎如貴に、日州諸県郡内の八代村・深年村などの土地を、村別の石高を示して充行った宛行状。
〔慶長三年〕十一月六日 / 冊子 277~278頁
近衛前久が〔慶長三年〕十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。明の数万騎を即時に切り崩して三万余を討ち取った戦功を比類ないと称え、竜伯の喜びとともに禁裏へ報告したところ叡感があったと伝える。日州で豊後勢六万余を破った旧功にも触れ、秀吉死後は在陣を続ける必要がないとして、勢いを保ったまま早々に帰朝するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 411頁
『盛香集』は、新納摂津が日州庄内へ布陣した時、古来稀な高齢で四肢も不自由ながら軍務に励んだことを記す。同陣で十五歳の平田三五郎が戦死すると、武蔵入道がその無双の美童を哀傷し、「きのふ迄誰か手枕にみたれけん/よもきか元にかゝる黒かみ」と詠んだという。
年月日未詳 / 冊子 584頁
宰相様は慶長五年九月まで大坂屋敷に滞在していたが、関ヶ原合戦に敗れた惟新公すなわち島津義弘(惟新)の帰国に際し、家人とともに大坂を出たと記す。西宮沖で義弘と同じ船へ乗り移り、九月二十九日に日州細島へ着き、そこから陸路で帰国した。
年月日未詳 / 冊子 666頁
森江の船で御上様の乗物を焼き捨てていたため、細島に上陸して出立する際、代わりの乗物に事欠いた。語り手の母が持参した乗物を借りることとなったが、父は自家の女房の駕籠を御上様に差し上げるのは畏れ多いとためらった。細島にほかの乗物がないため供用し、御上様は「日州八代」まで使用した。八代に迎えの乗物が到着すると母の乗物は返され、母には細島から八代まで公儀より馬が与えられた。日州は日向国で、八代は現在の宮崎県国富町八代地区方面とみられる。