島津氏久宛行状
正平十四年十一月廿七日 / 冊子 17頁
島津氏久が田代新左衛門尉の格別の忠節に報い、大隅国鹿屋院の地頭・弁済使職を宛行い、さらに軍功を尽くすよう命じた宛行状。
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正平十四年十一月廿七日 / 冊子 17頁
島津氏久が田代新左衛門尉の格別の忠節に報い、大隅国鹿屋院の地頭・弁済使職を宛行い、さらに軍功を尽くすよう命じた宛行状。
(慶長二年)十月十六日 / 冊子 148頁
伊集院幸侃が大迫新左衛門入道へ、山川屋敷の公役について船頭から免除を申し付けられたとの報告を受け、山川の役人にも趣旨を伝えて処理するよう命じた書状。
(慶長九年)八月廿七日 / 冊子 941頁
島津惟新義弘が大迫新左衛門尉へ、翌年正月に大唐川内へ船を差し渡すことについて内府の了承を得たと伝え、若衆以下を励まして渡航準備を整えるよう命じた。
五月廿日 / 冊子 310頁
島津忠昌が羽嶋新左衛門尉に、二年間の戦乱のなかで豊州において比類ない働きがあり、周防介が一味同心して無二の忠志を示しながら命を落としたことを悼み、その軍忠を子孫まで忘れず、先人の志を失わないよう求めた書状。
八月廿七日 / 冊子 145頁
翌年正月に大唐へ向け川内から船を出すことを内府徳川家康へ伺って決めたとして、客衆以下を取りまとめて渡航準備を整えるよう大迫新左衛門尉へ命じた書状。
(大永五年)六月十六日 / 冊子 654頁
島津忠朝が本庄・木上・臼杵・北原の四名に、国内の争乱と伊東方の隠謀を知らせ、常春院に詳情を託して援助を求めた書状。
天明三年十一月朔日 / 冊子 707頁/原整理番号 1993/整理ID 1993
島津重豪が平田辰次の加冠に際し、仮名を新左衛門とするよう定めた書出。天明三年卯十一月朔日付、御墨印。正文は平田兵十郎にあるとの保管注記を伴う。
「永和元年」八月廿七日 / 冊子 83~85頁
島津道貞が久富らへ、幸府越前殿との音信・使者接遇を細かく指示した長文書状。酒などの贈答、武芸について質問された際の答え方、宴席での振舞い、酒少新左衛門を含む同席者への配慮を述べ、相手の機嫌を損なわず関係を保つ作法を示す。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
明徳四年六月十一日 / 冊子 147頁
島津元久が、相国寺領三俣院の処置に手間取り上洛が遅れたことを陳謝し、酒匂新左衛門入道を使者として事情を説明させ、虎皮・豹皮・梅絵・料足を贈った書状。
(応永九年)九月十一日 / 冊子 206頁
島津元久が、鹿児島城の蔵に置く料足・銀・唐物・武具類について、自身に不慮の事態があった場合は、蔵を預かる北原新左衛門尉・福崎太郎次郎が法印実賢の誓文をもって福昌寺へ引き渡すよう命じた書状。両人に支障があるときは、その跡を相続する者が引き渡すことも定める。
年月日未詳 / 冊子 576~577頁
明応九年、後土御門天皇崩御と後柏原天皇践祚の年に起きた島津一族の争いを記す。島津忠興が加世田城の忠福を攻め、伊作久逸が救援に向かったが敗北し、園田新左衛門に討たれた。中央の皇位継承と加世田をめぐる軍事衝突を同年記事として収録する。
年月日未詳 / 冊子 916頁
岩剣合戦で討死した有川新左衛門らの名と戦死の状況を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 32頁
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
永禄十年十一月 / 冊子 173頁
馬越城攻めで新納忠元が四度の槍合わせをしたことを記す。最初は新納武久、次は伊集院久宣、さらに有馬純秀とは二度ともに戦い、その際に村田右衛門尉・町田新左衛門尉らが戦死し、忠元自身も脇に矢傷を負ったとする。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
長束正家が羽柴薩摩侍従へ、来年の人数渡海と赤国での軍事行動を確実に進めるよう求めた書状。遠路のため無音であったことを詫び、詳しいことは毛利豊前守・平野新左衛門から申し伝えるとしている。
(寛永九年) / 冊子 330頁
島津家久が仮名書きで、正月の支度と進物を急ぎ、品々をよく見合わせるよう述べた書状。常の進物では整わないため、鉄砲・銃身・引金付近を吟味し、新左衛門らしき人物へ渡すよう指示した。
正月元日 / 冊子 52頁
樺山久高が新年を祝し、川幡新左衛門への知行四百石の目録を月末に下すという旧冬の内意を伝えた書状。在所は現住地に置き、名については五大村の望みに応じて処置するよう指示する。
十二月十五日 / 冊子 151頁
伊勢貞陸が島津豊後守に、渡唐船に関する忠節について池水新左衛門尉から注進があり、上聞に達したところ神妙で感賞すべき旨が示されたと伝えた書状。相手の面目を祝し、詳細は潮口孫右衛門尉が申し伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁
島津国史として、明徳四年の高木久家退治に際して島津元久が禰寝久清へ都城参陣を命じたこと、相国寺領問題による上洛延期と使者・贈物、攻略後の高城支配や伊集院氏・山田聖栄をめぐる処置を記す。
延徳二年三月廿六日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十六日に福島で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
年月日未詳 / 冊子 577頁
明応九年十一月十一日の加世田城攻防で、伊作河内守久逸が島津忠福を救援して戦死し、枕崎右衛門祐能・松元左近将監久賢らも同時に討死したことを記す殉国記事。
天文九年十一月十一日 / 冊子 792頁
相模守入道をはじめとする射手を左右の組に分け、各人の射数を定めた犬追物の手組。
天文九年十一月十五日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津尾張守らを組み合わせ、射手ごとの射数を示した犬追物の手組。
霜月十二日 / 冊子 391~392頁
島津龍伯が又八郎島津家久へ、京都・伏見での居所や屋敷の配分、家居の移転、家臣らの配置について相談し、大閤の仮屋造営や京都への移住計画を含む諸事項を伝えた書状。
元禄七年四月十五日 / 冊子 898頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2435
綱貴が平田新左衛門へ、修理大夫に部屋料高三万石を分けたので、所帯全般を減らすよう命じる。公界向の出費が多く、領国が遠いため物の調達にも不便であるので、江戸詰を継続し倹約を心掛け、三万石に応じて奥方の所帯・扶持等を調えるよう求める。高差分上は家督方と混雑せぬよう役人にも申し付け、調整を厳守させる。
宝暦十一年十一月二十八日 / 冊子 887頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2606
島津重豪が十一月二十八日、平田袈裟次郎の加冠に際し、仮名を新左衛門とするよう書き出す。「加冠」「宜為」の文言と日付・両名を掲げ、御墨印がある。
元治元年子12月19日桂右衛門/外包:元治2年丑2月朔日 / 冊子 394~395頁/原整理番号 559/整理ID 559
螺鈿太刀一振を、備州國分寺住助國・嘉暦月日の在銘として掲げ、金無垢の十文字御紋・松皮苔の細工、分銅形の鍔、鮫白の柄・菊鋲八ツ、紫革緒と露金具四ツ、目釘、梨子地鳳凰高蒔絵の鞘、紅錦織の袋と箱などを記す。続けて近衛忠熙の詠筆で国を表す懐紙の掛物一幅、近衛忠房の詠筆による「いさをしを」の書き出しの懐紙の掛物一幅を、それぞれの表装・箱とともに列挙する。太刀は照國大明神社へ奉納するので御宝殿で護り、後年紛敷くならぬよう扱うとの元治元年子十二月十九日桂右衛門久武の通知を、井上信濃守宛に付す。外包には元治二年丑二月朔日に護置の旨を仁禮新左衛門が承知して白木御文書十一番箱へ納めたとの注がある。在銘の記録から製作者・制作年の真偽を確定せず、奉納通知と後日の収納注を分ける。
11月20日 / 冊子 378頁/原整理番号 348の6
内山田村で調えたふて竹三十六束を、今晩小松原で岩城新左衛門へ引き渡すよう命じた申付状である。翌日の出船を控え、資材の即日搬入と油断のない処置を求める。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
伊東・肝付・伊地知方が小禰寝へ出兵して浜城を落とし、本城麓へ放火した。園見城から喜入図書助・弟小四郎が加世田勢を率いて奮戦したが、多勢に敗れて兄弟とも戦死した。続く岩瀬戸口の追撃戦では猿渡越中守・井尻伊賀守・喜入摂津守・平田新左衛門らが働き、敵も損害を出したものの、この戦いは伊東・肝付方が小利を得て退陣したとする。
年月日未詳 / 冊子 631~634頁
頴娃家で嫡子忠継と弟久虎が対立し、忠継が開聞寺の神殿へ籠もった末、頴娃新左衛門尉に射殺された経緯を記す。その後、久虎の母が政務を専断したため家臣十人らが諫めたが、指宿へ退いた百余人は本田政親による和談を信じて頴娃郡周磨寺へ入り、久虎勢に攻め滅ぼされた。
三月廿八日 / 冊子 70頁
新納忠清・高崎能乘・山田有榮が、伊作中之里名の門内屋敷・加治屋屋敷・西中間屋敷の三人付について、會木新左衛門尉へ尋ねたいことがあるため、急ぎ参会させるよう求めた連署書状。延引しないよう念を押す。
8月27日 / 冊子 211頁/原整理番号 131
翌年正月に船を大唐川内へ渡すことについて内府の意向を得たとして、客衆以下に渡航準備を命じる島津惟新書状。
文化7年2月18日(前後記事) / 冊子 350頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1085
2月18日、上使石野新左衛門によって御鷹の鶴を賜った。斉興が襲封後初めて賜ったことを記す。1084の2月15日重豪宛拝領・斉興代奉謝礼と、本件の2月18日斉興自身の拝領を別に扱う。鳥の数量や本件の具体の受取場所は本文に記されず補わない。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
天正13年11月8日 / 冊子 122頁
馬原重昌ら三名が、入田・三田井両家をめぐって前代から続く深い相談関係を、子孫の代まで変えず維持すると誓った連署起請文。互いに別心を抱かず、異変があれば使者を通じて知らせ、従来の取り決めに従って遅滞なく対応することを約束する。在地勢力の情報共有と相互援助を神仏への誓約で保証した盟約である。
慶長二年八月十六日 / 冊子 133頁
谷山本村内の重返地について、上畠・上田などの地目、面積、耕作者名を列挙した目録。各区画を伊地知千世菊へ返付する内容で、合計面積も記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されている。同じ参照先を持つNo.499とは別番号で掲げられ、泗川・新寨決戦記事の一部分に対応する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.490の記事の一部と同文であるため省略されており、島津忠恒(家久)の接近射撃・敵中突入・追撃を中心とする新寨決戦記事を参照する構成となっている。
十二月四日 / 冊子 722頁
龍雲寺の家々が無事完成したことを喜び、八郎衛門帰参時に詳しく話すと伝える。大友方から使者が来て志布志で対面する予定であり、忠国の別府帰還もよいとした島津立久書状。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁/原整理番号 324の3
寺沢領天草の百姓一揆と唐津勢敗北を受け、相良長信が国元諸所へ人数の召集・出水方面への集結を命じた書状である。兵糧・船手を整え、領内の者を身分に応じて立てるよう具体的に指示する。
閏三月(独立年・日なし、目録は安永二年) / 冊子 365頁/原整理番号 1025/整理ID 1025
佐久間新左衛門に御側御用人格を仰せ付けたので、その役順は追って申し渡すと記す。また、御側御用人次に仰せ付けた旨の申出があったため、このことを承知する面々へ伝えるよう命じる。末尾は閏三月、左京。佐久間新左衛門には村央との注があり、白木御文書五番箱六十中の写しと示す。役の格と役順に関する伝達。
元徳三年八月卅日 / 冊子 593頁
大隅国守護私領正枝頭内の堂薗一所について、主神司の重代相伝所職であり遠藤新左衛門尉の補任状もあることを確認し、寂意方との重複を退けて調所敦恒を補任した大隅国守護代盛光の書下。
年月日未詳 / 冊子 718頁
暦応二年正月以降、財部城・大和田城をめぐる合戦で猪俣新左衛門尉らが奮戦した経過を記す肝付兼重伝。新左衛門尉が数十戦で傷を負い、二月・四月の攻防で諸将が戦死・負傷したことを記す。