諸家旧記
延享四年十一一月 / 冊子 305~307頁/原整理番号 1
「諸旧記文書」の冒頭で喜入家の来歴を述べる家譜記事。喜入家六代式部太輔久道に男子がなく、義弘の子万千代丸を養子に迎えたことや、久道・久亮らの系譜と改名、島津家への奉公を記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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延享四年十一一月 / 冊子 305~307頁/原整理番号 1
「諸旧記文書」の冒頭で喜入家の来歴を述べる家譜記事。喜入家六代式部太輔久道に男子がなく、義弘の子万千代丸を養子に迎えたことや、久道・久亮らの系譜と改名、島津家への奉公を記す。
文禄3年7月 / 冊子 793頁
文禄三年七月、国元検地に関して島津義久から幸侃(伊集院忠棟)へ出された書状と、幸侃が提出した起請文の存在を一項として記す。 続いて七月十八日付の「御分国中御検地御掟条々」と殿下の朱印を掲げる。島津家内部の誓約文書と、豊臣政権による分国検地の規則・公認文書を対応させて整理した、検地関係史料の目録的な覚書である。
文禄5年3月17日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-2
伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた文禄五年三月十七日付の加増知行目録。大隅国桑原郡稲葉崎村で諸侍への配分後に門割した余分から九石、これとは別に姫城村で一石、合計十石を加増として与える。
〔文禄元年〕6月9日 / 冊子 377~378頁/原整理番号 188-16
(文禄元年)六月九日、近衛前久(署名『龍』)が龍伯(島津義久)へ、三月十八日付書状を六月三日に披見したことを告げ、唐入への奔走をねぎらった書状。義弘・久保が去る二月二十六日に渡唐したと聞き、遠い海路での陣労を察するとともに、義久が差し上げた息女について疎略なく世話し、京都では新造を伽に付けるので安心するよう保証する。大坂へ見舞いの使節を遣わしたこと、金子二十目への謝意も記す。さらに義弘の口入による五町分・毎年金子一枚の条件と累積未進をめぐり、今度の不足二分と当年分八分を違反なく納め、義弘の口入の筋目を違えないよう求める。追而書では息女を自ら受け取って心配無用と重ね、扇十本を贈り、帰国時に同道した珍しい御児の近況を尋ね、読後は書状を焼くよう指示する。
文禄3年(1594)2月13日 / 冊子 379~380頁/原整理番号 188-22
文禄三年二月十三日、町田出羽入道存松が蒲地孫四郎へ示した薩州伊作内の領知目録。田尻名田代野門の三枚田・道上・楠木か丸・山の口・山神乃前・新山、大園・岩下・居屋敷・紺屋敷、祁答院塔之原内の浮免として東郷播磨先替地田・三嶋領くミ迫・養春院先名の木田、畠方のうるし畠・黒井堀を掲げる。田畠の合計は五町八反五畝五歩、分米は四十五石八斗四升六合である。
文禄5年(1596)12月2日 / 冊子 380頁/原整理番号 188-23
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が蒲地孫四郎へ、日向国諸県郡志布志の内之蔵村内『一作』十三石一斗一升九合と、姫城村内『寺見』二十六石八斗八升一合、合計四十石を示した領知配分状。このうち十三石一斗一升九合を加増として配分する。
文禄二年正月 / 冊子 275頁/原整理番号 24の28
『征韓録』巻十一から、文禄二年正月に加藤清正が甲山から帰陣して北青城の相良頼房を救援した記事を抄出する。島津義弘が敵地を通る使者に猿渡掃部兵衛らを選び、鉄砲火の中を突破して軍情を伝えた軍功を考証し、義弘・久保の感状と石田三成書状へ続くことを示す。
弘化二年十二月十六日 / 冊子 579~583頁/原整理番号 1
伊地知季安が弘化二年冬、六世祖嘉翁の二百回忌に真幸の墓を訪ねた紀行。加治木・飯野・栗野などを経て親族や旧知を訪ね、祖先の墓前で祭文を捧げて追薦する。道中の社寺・墓碑・城跡・古戦場・温泉・地名を実見し、伊地知家や島津氏などの家伝と地域の戦史を古記録・口碑に照らして考証する。帰路の見聞や同行者との交歓まで日を追って記す。
文禄5年12月2日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-3
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた領知目録。薩摩国伊佐郡大口のうち北柿原村五十石、栗野稲葉崎村九石、曽於郡姫城村一石、合計六十石を記し、このうち五十九石を加増とする。続く経歴記事は、松崎采女正が慶長二年に島津義久の上洛へ供奉して伏見で眼鏡を拝領し、慶長十年の国分移居に伴って国分へ移され、慶長十六年の義久死去時に剃髪して宗泉と号し、同年十一月に鹿児島へ移されたことを記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):文禄元年夏/三月二十八日 記事内参照年紀:文禄元年夏 記事内参照年紀:三月二十八日 / 冊子 148頁/整理ID KW1-G000121
文禄元年夏、義弘公が薩隅日三州の兵を率いて朝鮮へ渡り、重張が家臣を従軍させ、その者らが軍務を勤めたと記す。 三月二十八日に義弘公から重張へ書簡が贈られたとして、その書を付す。
年月日未詳 / 冊子 835~856頁
文禄三年八月二十五日から十二月三十日まで、朝鮮在陣中の出船・帰館・使者往来・軍務・宴会・寺社参詣をほぼ日々書き継いだ「高麗入日記」。島津義弘・忠恒の行動に加え、寺沢志摩守、小西行長、福島正則ら諸将との交流を、太刀・馬・青銅・魚・茶・酒などの贈答まで含めて具体的に記録する。 船の渡航と水主の手配、武庫での弓・鉄炮・武具の出し入れ、夜討・射芸・舞・風呂・病気見舞い、暴風雨による船の難破など、陣中の日常と軍事運用を同時に描く。戦闘のみでなく、食事・天候・贈答・信仰・人間関係まで追える、文禄の役の島津軍を理解する上で極めて価値の高い長期記録。
年月日未詳 / 冊子 929~936頁
文禄四年十二月一日から三十日まで、高麗再渡海を控えた島津義弘周辺の日々を記す。天候、寺社参詣、連歌・茶・舞、贈答、使者・書状の往来に加え、船・馬・人員・武具・衣類・兵糧の手配、家臣への給付や知行処置、出仕・帰館を日次で列挙する。 比志島紀伊守・寺沢志摩守・伊集院幸侃・上井仲五らの動向も現れ、軍役準備と島津家中の日常が交差する様子を連続的に追える重要な日記。
(文禄元年) / 冊子 557頁
「夕立の朝まだきよりかかり来て、流れの堤こゆる白波」と、夜明け前から降りかかる夕立が、堤を越える白波のようになる景を詠む。 端書には「薩州太守嶋津殿」「龍伯短」「壬辰」などの記載があり、按記は壬辰を文禄元年と比定する。竜伯の自然観と伝来時の整理情報を併せて確認できる詠草である。
(文禄元年)7月19日 / 冊子 580頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、炎天下での朝鮮渡海の辛労をねぎらい、現地での働きについて情勢を見極めて精を入れ、油断なく指揮するよう命じた朱印状。詳しい指示は松井藤九郎と侍中貞右衛門尉から伝えるとしている。文禄元年七月十九日付で、朝鮮出兵中の豊久に対する秀吉の直接命令を示す。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 585頁
豊臣秀吉が、義久の到着前に梅北一類を捕らえて首を差し出した処置を認め、残党への警戒と厳罰を徹底するよう島津修理大夫入道へ命じた朱印状。家道院・兵庫頭の従前の赦免にも触れつつ、高麗へ渡る本人は助命しても、家中の悪逆者は十人・二十人でも斬首して進上せよと迫る。本文末の文禄元年七月十七日付に基づき、梅北一揆後の処分を秀吉が直接統制した厳しい命令として位置づけられる。
(文禄2年)2月28日 / 冊子 675頁
在番交代として福島正則を派遣するため、城普請を丈夫に仕上げ、小勢でも籠城できる態勢を整えるよう島津豊久へ命じる。兵粮は春中に追加輸送するとし、長期在番の労をねぎらう。 No.1072と同趣旨だが、宛先が島津義弘ではなく豊久で、年次も文禄二年と記された朱印状。
(文禄2年)7月 / 冊子 713頁
文禄二年七月、晋州城陥落と講和の動きを受け、豊臣秀吉が諸将を朝鮮沿海の諸城へ配置して休兵を命じる。宇喜多秀家・毛利秀元らを帰国させ、小西行長を金海、加藤清正を梁山、鍋島直茂を竹島、黒田長政を機張に置き、島津義弘父子も在陣した。 一方、明軍は劉綎の指揮下で大丘に集結し、月餉五万両、累計軍費百余万に達したという。明臣が国内を空にして外征を支えるのは長策でないと批判し、兵糧負担を朝鮮側へ求めた事情まで記す、沿岸再編と戦争財政を併せて示す記事である。
文禄3年6月 / 冊子 793頁
文禄三年六月、島津義弘が朝鮮から国元へ伝えた覚書の一節。国元の軍役を百石につき五人と定め、全員を渡海させるとの話を前年春以来聞いていたと記す。 しかし現在まで一人も渡海せず、軍役を実行する手はずさえ整っていないと厳しく批判する。朝鮮在陣軍の兵力不足と、領国側の動員命令が実行されなかった状況を数量基準とともに示す史料である。
文禄3年12月28日 / 冊子 831頁
原資料には「御文庫三番箱中」という出典表示のみがあり、対応する朱印状の本文は記載されていない。 本文の脱落または編纂上の省略の可能性があるため、文禄三年十二月二十八日付の豊臣秀吉朱印状というインデックス情報だけを保持する。
文禄4年正月15日 / 冊子 858頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
文禄五年閏七月九日 / 冊子 30頁
樺山紹剣が、文禄五年閏七月九日に大地震があり、京都では十二日夜に諸大名の屋形や町屋、金銀で補強した御殿まで崩れ、数百人が圧死したと記す。高麗から人を日本へ渡す交渉にも影響し、秀吉が機嫌を損ねたことなど、伏見地震後の混乱を伝える自記。
(文禄四年)七月十三日 / 冊子 34頁
本文はNo.80と同文につき省略。島津義弘が島津又八郎(忠恒)へ、国元の知行沙汰・家中の勤仕・帰朝および渡海後の処置を指示した書状である。検地目録の給付と七月の御打立を根拠に、本文を文禄四年成立とする注記を付す。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55頁
文禄五年十二月二日、公儀が児玉主水佑に隅州西俣村および河原村の土地を与え、国老伊集院幸侃が裁許して目録を授けたことを記す児玉氏譜の記事。記載高は合計五十三石八升で、従来分と合わせ百石とした経緯を述べる。
(文禄3年)6月か / 冊子 76頁/原整理番号 63の11
国元の軍役を百石につき五人ずつと定め、全員の渡海を命じたにもかかわらず、前年春以来一人も渡海せず、軍役の履行も進んでいないと指摘する。文禄三年六月に義弘が申し送った覚書の一条である。
(文禄4年)1月15日 / 冊子 78頁/原整理番号 63の16
文禄四年正月十五日付の高麗国動員人数帳の第二番から、羽柴薩摩侍従(義弘)の八千人を抄出し、その他を省く。当時の御高頭55万9532斛との張紙注を添える。人数と石高は別項目として記す。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。
永禄元年3月19日、文禄元年、慶長5年1月12日、元和元年5月、明暦3年9月17日、元禄7年、天保7年7月ほか / 冊子 278~280頁/原整理番号 109
都城臣上原甚左衛門家について、上原宮内左衛門の父・長門守以来の北郷氏への奉公と近世の子孫をたどる系図。父祖は豊州家に仕えて飫肥へ移り、北郷忠親が豊州家を継いだ後に北郷氏へ臣従したと伝え、宮内左衛門は永禄元年三月十九日、北郷時久に従って肝付氏と恒吉宮ヶ浜で戦い死亡し、法名を長阿弥陀とする。宮内左衛門の戦死後、時久の許可で養子となった野崎丹後左衛門入道正金の嫡子は、天正年間に旧地回復の使者として二十八人を率いて飫肥へ赴き、文禄元年には北郷忠虎に従って朝鮮へ出陣した。さらに慶長五年茶園尾陣で没した齊次郎、元和元年に北郷忠能に従い大坂へ出陣した尚保、尚貞・尚盛・尚明・尚時・尚純・尚次・尚侍・尚政・尚常らの出生・没年、法名、婚姻・養子関係を収め、末尾に元禄七年の再撰書出から抄出した略系を天保七年七月に伊地知季安が記したと明記する。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
文禄5年11月2日 / 冊子 362~363頁/原整理番号 161
文禄五年十一月二日、伊集院右衛門入道幸侃(忠棟)が羽島藤右衛門尉へ、隅州肝付の新富村にある余分地の一作を割り付けた領知目録。高四斗二升の土地で、五斗の収穫が見込まれるため返地として差し遣わすと定める。『旧記雑録後編三』二二九号文書と同一文書と注記される。
天正16年(1588)・文禄元年(1592)・寛永9年(1632) / 冊子 389~390頁/原整理番号 3
藤原姓菊池氏の末流とする志岐氏の略譜。警固太郎経隆の嫡男経政を山鹿太夫兵藤四郎の嫡流とし、肥前国志岐六箇浦を領した重弘、志岐城主でのち入道麟泉と号した鎮経、親重へ系線をつなぐ。親重は天正十六年、加藤清正・小西行長に志岐城を攻められて降伏し、豊臣秀吉の命によって清正の従軍として肥後へ移り、文禄元年には清正に従って朝鮮・高麗へ渡海し、清正から四百二十石を与えられた。親重の子親益・親昌は島津義虎の娘を母とし、寛永九年に清正嫡男の肥後守が没落すると、親昌は肥後を去って薩摩へ来住し家臣となった。
永享8年・文禄4年・慶長4年夏に関する記事 / 冊子 582頁/原整理番号 92-1
種子島清時が忠節を賞され、島津元久から屋久島・恵良部島を与えられて種子島とあわせて領した由緒を記す。嫡子時長が早世したため弟の左近将監幡時が家を継ぎ、永享8年には七島のうち臥蛇島・平島も与えられた。清時の八代の孫久時入道一琢の代には文禄4年に種子島・屋久島・恵良部島から薩州知覧見院へ所領が替えられ、慶長4年夏に種子島を再び与えられたという。屋久島・恵良部島は一時借地となった後に公領となり、以後は種子島一島を領したとするため、三島を一貫して領有した系譜ではない。
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
文禄五年十一月二日 / 冊子 56~57頁/原整理番号 285
伊集院幸侃(忠棟)が羽嶋藤右衛門尉に、隅州肝付内新富之村の余分から高四斗二升を割り付け、五斗出米の返地として領知させた文書。文禄五年十一月二日付。
文禄五年十二月二日 / 冊子 171頁/原整理番号 514
伊集院幸侃が発給した領知目録。日向国諸県郡三ケ山のうち一作・高五石を、高麗国の奥陣まで奉公した功により宛行う。文禄五年十二月二日付で、伊集院右衛門入道・蓮光坊に宛て、幸侃が花押を据える。『旧記雑録後編三』一四五号文書と同一文書と注記される。
文禄四年八月廿八日 / 冊子 478頁/原整理番号 80
小西行長・寺沢正成が島津又八郎へ送った連署状。唐島の移動に伴う現地の奉行として両人を任命し、十分に取り計らうよう求め、唐人への対応のため遊撃官人一人を派遣した旨を伝える。文禄四年八月二十八日付。
文禄三年十月十一日~十二月六日 / 冊子 237頁/原整理番号 22
文禄三年の高麗入日記から北郷殿の江規制書成と御本陣における御旗に関する記事を引く。朝鮮出兵期の旗役の動きを示す。
文禄四年二月二十二日 / 冊子 263頁/原整理番号 16
義弘が伊集院下野入道の神前での誓約を喜び、自分と忠恒父子への忠節を今後も尽くすよう頼む文禄四年二月二十二日付書状。
文禄五年 / 冊子 568~569頁/原整理番号 42-1
文禄五年の検地高と後年の高帳を照らし、郷ごとの石高と田畑の作柄を考証する。収穫高を扱う際の差引や課税への影響を述べる。
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 499~500頁
川上経久が正月二日に八十四歳で没し、法号を祥翁芳麟居士としたことを記す譜の記事。本文は年号を天正十九年壬辰と記す一方、「即文禄元年也」と注記しており、年次表記に注意を要する。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
年月日未詳 / 冊子 543頁
文禄元年三月、北郷忠虎が朝鮮へ軍を率いて渡海した際、北郷久武もこれに従ったことを記す。久武が北郷勢の一員として海外遠征に参加した事実を示す短い家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 578~579頁
日本軍が朝鮮を急速に進撃したのち、明の祖承訓・史儒らが鴨緑江を越えて救援するも、地理を知らず敗れた経過と、秀吉が追加兵力を送り明への進攻を図った情勢を記す。 朝鮮側が明へ援兵を求める一方、明の石星らが冊封・朝貢を利用した講和策を検討し、小西行長らとの交渉を探った事情まで述べ、戦闘と外交の両面から文禄の役初期を捉える義弘譜の記事である。
年月日未詳 / 冊子 664頁
文禄二年正月十九日に細川幽斎が名護屋へ赴き、翌二十日には島津義久(竜伯)も鹿児島を出発したと記す。 義久は名護屋にしばらく滞在したのち帰国したとし、護国廟の碑文にもその経緯が見えるという。朝鮮出兵期の義久の移動日程を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠長が文禄二年二月に帰国し、翌三月には再び朝鮮へ渡って、薩摩・大隅・日向の諸将とともに軍務に従事したことを記す。 島津軍の再渡海時期と忠長の在陣を簡潔に確認できる家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 737~738頁
樺山紹釣が、京都・名護屋への参上から朝鮮渡海までの経過を回顧する。秀吉が朝鮮軍の追討を命じ、大軍を編成して渡海させたこと、島津勢が釜山・漢南方面で軍役に就いた状況を記す。 久保の死去後、義弘が家久に軍勢を託して帰国した経緯にも触れ、文禄の役における島津勢の行動を当事者の視点から追える自記。
年月日未詳 / 冊子 765~766頁
東郷軍広の知行分について、田方の各所を石高・斗升・面積とともに列記した検地帳。東郷助左衛門尉の名を掲げ、黒尾迫・牟田・藤渡・橋口・小長山など各地の田を一筆ごとに記録する。 文禄検地後の知行構成と村落内の耕地配分を数量から追える基礎史料で、松本武辰の署判を伴う。