慶長十九年御日記抄(八月七日~十月朔日)
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
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慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
慶長十九年五月廿六日・十月十日・十月廿六日 / 冊子 581頁/原整理番号 7
慶長十九年の日記から大学坊の使者勤めを抜書したもの。五月廿六日に霧島山脇坊衆へ派遣され、般若寺別当坊を霧島座主と定める旨を伝達したこと、十月に羽柴越中守への使者として小倉へ赴き帰着したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
慶長十九年日記のうち正月三日以降の記事。年頭の拝礼、家臣や使者の参上、進物、酒宴、江戸・駿河方面との往来など、年初の儀礼と政務を記録する。
年月日未詳 / 冊子 226頁/原整理番号 166
『慶長十九年御留守中日記』十二月二十七日の記事。藩内の馬を他国へ出すことを厳禁し、一所衆と諸外城へ廻文で申し渡した。馬の領外移出を統制した記録。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津義弘の大坂出陣を協議し、軍中法度の条々を定めた日記。流言の禁止、陣所の警固、戦闘時の統制、鉄砲使用、略奪や私闘の禁止、他国人・船舶・宿主への対応などを詳細に定める。
年月日未詳 / 冊子 167~168頁/原整理番号 83
慶長19年11月11日、奥州様の大坂出張に際して定めた陣中法度を記す。陣中での酒宴、喧嘩・私闘、防戦、騒動、鉄砲使用、奉行衆の指図、異国衆や船の出入り、留守中の宿泊などを規制し、違反者を厳科に処すとする。
五月朔日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 162
慶長十年五月一日頃の書状抜書。御馬追を相手の下向まで待つようにとの意向に対し、時期が過ぎるため、まず諸所の馬追を行うよう申し付けると述べる。捕えた駒は数疋を残し、後日相手が鹿児島へ来た際に見せる考えを伝える。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、所定の浮免高一石余を直松作右衛門へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、浮免高三石一斗余を小嶋吉兵衛へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
〔慶長十九年〕十月十二日 / 冊子 850-851頁
島津家久が豊臣秀頼からの上洛命令に答えた書状案。関ヶ原では父義弘が西軍に加わったが、徳川家康が遺恨を捨てて忠恒を召し出し、義弘の身上も保障した恩を述べる。そのため徳川方への奉公を離れ難く、秀頼の上洛要請には応じられない事情を弁明する。後編十九巻の文書との異同から慶長十九年と推定される。
〔慶長十九年〕十月十二日 / 冊子 850頁
島津家久が大野主馬へ、当代に関する件は承知できないとして察しを求める一方、正宗長銘の脇指を拝領した厚意に深く感謝する。ただし事情により返上するため、相手方への取成しを依頼した書状案。後編十九巻の文書との異同から慶長十九年と推定される。
(慶長十九年)正月六日 / 冊子 521頁
慶長十九年正月六日、徳川秀忠が島津家久へ、琉球から明へ遣わした使節が夏ごろ帰着する見込みであることを伝え、砂糖二百桶・焼酒二壺の到来を喜び、本多佐渡守からも伝達させるとした御内書。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530頁
島津久元譜中に、慶長十九年の領地目録を収める旨と、その目録を松坂但馬守に宛てたことを記した記事。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530~531頁
慶長十九年六月晦日、島津久元の領地について、山崎村・湯田村・舟木村・屋地村など多数の村別石高を列挙し、合計一万三千六百六十石八斗二升とした頴娃久政・川上久好連署の知行目録。
(慶長十九年)七月八日 / 冊子 531頁
慶長十九年七月八日、島津義弘が、長年笛を稽古し音楽で奉公することを望む宮原主計助を召し寄せたとして、伝授済みの技法を残らず指南するよう笛師へ依頼した書状。
慶長十九年七月十三日 / 冊子 531~532頁
慶長十九年七月十三日、薩摩国伊作中里村・中原村内の名原門・小原門など合計六十石を伊集院氏へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた町田久幸ら四名連署の知行目録。
(慶長十九年)七月十五日 / 冊子 532頁
慶長十九年七月十五日、山口駿河守の現地到着を知った島津家久が、三原重種を先に派遣したことを伝え、有馬方面の情勢を尋ね、必要な人数は注進次第で差し向けるとした書状案。
(慶長十九年)七月十七日 / 冊子 532頁
慶長十九年七月十七日、徳川秀忠が島津家久から届いた帷子二百のうち単物百を喜び、遠路の配慮に謝し、詳細は本多佐渡守から伝えるとした御内書。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 532~533頁
慶長十九年七月二十三日、薩摩国入来院浦名内の下大根田門・平ノ門など高三十石と二十八石余を肝付氏へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた町田久幸ら四名連署の知行目録。
慶長十九年九月 / 冊子 546頁
慶長十九年九月、島津家久が二心のない忠誠を示すため、本多佐渡守正信・酒井雅楽頭忠世を介して、徳川家康および将軍徳川秀忠へ神裁を誓う起請文を提出したことを記す、続くNo.1162の起請文本文への導入記事。
〔慶長十九年〕正月日 / 冊子 361~362頁/原整理番号 18
娘らを江戸に質人として差し出す経緯と、代わりに誰を送るかの手配を山口殿へ伝える書状案。慶長十九年正月二日付で、質人の交替と遠方への遣わし方に触れる。
慶長19年7月23日 / 冊子 615頁
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
年月日未詳 / 冊子 433頁
家久の慶長十九年正月の案文中に、上床藤右衛門入道・曽木五兵衛尉・上井次郎左衛門尉・蒲地備中守を宛所とする案文があることを記した雑抄。
年月日未詳 / 冊子 520頁
島津忠興の譜。慶長十九年、将軍家が武城を経営するにあたり、忠興が命を奉じて石垣を築いたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
慶長十九年の日記抜書。正月から六月にかけ、年頭挨拶、使者・進物、馬や武具、参勤・参上、寺社や諸大名との交際、書状・物品の遣送などを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年五月、広津下総守常久の家臣岩元孫兵衛が、木下藤吉左衛門と同じく主君に殉死したことを記す殉国者の記事。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年の仲夏初め、島津家久が花押を改めたことを、改定後の花押の図とともに記した譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津常久が慶長十九年五月二十九日、広島上山城で疱瘡により二十八歳で死去したことを記す譜。法号とともに、瀬戸口兵右衛門・岩本孫兵衛・木下藤吉左衛門が殉死したことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、山口駿河守直友が長崎で耶蘇教徒の取締りに当たり家久へ報告したため、家久が三原重種を遣わして労をねぎらい、現地の状況に対応させたことを記す家久譜。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、長崎・有馬のキリシタン宗旨を退治するため山口駿河守が下向した際、喜入忠続が多数の兵を率いて現地へ赴き、その指揮下に入ったことを記す喜入忠続譜。
年月日未詳 / 冊子 540頁
島津家久の三女で、家臣島津弾正久慶の室となった女性の譜。慶長十九年八月五日の出生、生母、慶安元年正月九日に三十五歳で没したことと法号を記す。
年月日未詳 / 冊子 565頁
慶長十九年、北郷忠能が暇を与えられて帰国する際、本多正純から忠能へ書状が贈られたことを記し、その正文が次に続くとする北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 581~582頁
慶長十九年末からの大坂方の動向について、信濃景親が大坂からもたらした情報や本多正純・山口直友の指示、真田氏ら大坂勢の状況を記した島津家久譜の記事。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
〔慶長十九年〕十一月二日 / 冊子 857頁
島津家久が大野修理大夫へ、豊臣方から再度求められた上洛・奉公に応じ難い理由を述べた書状案。関ヶ原後に徳川家康が島津家の遺恨を捨て、家久と父義弘の身上を保障した恩義を挙げ、豊臣家への再仕官を辞退する。
(慶長十九年)正月二日 / 冊子 520頁
新年の祝意を述べ、長期滞在の労をねぎらうとともに、交替について伊勢兵部少輔から現地の様子を聞いて指示するので、それまで引き続き詰め、諸事を油断なく処理するよう命じた書状案。
(慶長十九年)正月二日 / 冊子 520頁
江戸にいる妹のもとへ年始の使者を遣わす件について、田舎者を取次に置くことへの心遣いを述べ、遠方からの使者を適切に取り次ぐよう北郷讃岐守へ求めた書状案。
(慶長十九年)正月八日 / 冊子 521頁
羽柴左衛門大夫の滞留中に、田舎に残した家久の妹を差し置かず諸事を指南するよう重ねて依頼し、琉球の遺物一壺を送り、取次衆の前で状態を確かめてから差し出すよう求めた書状案。
(慶長十九年)正月十一日 / 冊子 521頁
徳川秀忠が島津家久へ蜜柑一箱を贈り、遠路の入念を述べて今後も食用するよう伝えた御内書。
(慶長十九年)正月十三日 / 冊子 521頁
徳川秀忠が島津家久から届いた沈香二十斤・生糸十丸・緋綾子十端を喜び、本多佐渡守からも伝達させるとした御内書。
(慶長十九年)二月廿一日 / 冊子 524頁
豊臣秀頼が改年の祝儀として島津家久から届いた太刀一腰・馬一疋・段子十巻を喜び、祝意を伝えた黒印状。
慶長十九年三月八日 / 冊子 524頁
島津惟新が自ら学んだ騎馬の術と伝授の由来を述べ、久幹が長年学んだ成果を認めて、その子へも馬術の理を伝えるよう授けた伝授状。
慶長十九年三月十一日 / 冊子 524頁
七分出銀として銀九匁一分二厘七毛八忽を受け取ったことを記した三名連署の銀子請取状。
(慶長十九年)三月十九日 / 冊子 525頁
寺沢広高が伊勢兵部少輔の暇と帰着を報じ、十二日に将軍へ拝謁したこと、陸奥守の屋敷を見舞って酒を賜ったことなど、江戸での応接と厚遇を伝えた書状。
慶長十九年三月廿二日 / 冊子 525頁
薩摩・大隅両国の諸郡高を算定した覚書。総高六十一万石を俵数へ換算し、合計百七十一万二千十七俵、余分四千十七俵と、その京枡換算高千四百三十五石余を示す。
(慶長十九年)四月廿五日 / 冊子 525頁
徳川秀忠が年始の祝儀として島津家久から届いた太刀一腰・馬代黄金二十両・緋綾子十巻を喜び、本多佐渡守からも伝達させるとした御内書。
(慶長十九年)五月七日 / 冊子 527頁
使者の来訪を喜び、北郷讃岐守の病気を案じて十分に養生するよう勧め、用件は鹿児島から改めて伝えると述べる。あわせて馬に対する礼と、花押を改めたことを知らせた書状。
慶長十九年六月八日 / 冊子 527頁
島津惟新が華林寺に対し、神前の勤行を怠らず、山内の衆徒・社人に関する旧規を改めず、近年の諸事を糾して悪を除き善を守り、寺領の役儀を滞らせないよう命じた袖署判覚書。
(慶長十九年)六月廿七日 / 冊子 528頁
島津家久が、内々に相談していた罪人について流罪か死罪かを検討した結果、死罪に決したことを報告する。山之口地頭を任命し、同地見廻りの途上、福山で刑を執行すると伝えた書状。