新納忠元書状
正月九日 / 冊子 316~317頁
新納忠元が村田経定・川上意釣へ、年始の吉兆を祝い、祝賀の書状を受領したことを千秋万歳と喜ぶ。返礼として五明を贈り、後日の対面時に改めて祝言を述べたいとする年頭書状。
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正月九日 / 冊子 316~317頁
新納忠元が村田経定・川上意釣へ、年始の吉兆を祝い、祝賀の書状を受領したことを千秋万歳と喜ぶ。返礼として五明を贈り、後日の対面時に改めて祝言を述べたいとする年頭書状。
永禄十三年三月一日 / 冊子 237頁
川上意釣が、琉球国の政務刷新を祝う使節として広済寺雪辱東堂を派遣した書状。近年、島津家の印判を持たず旧制を破る商船が多いため、今後違反船を詳しく調査して処罰し、乱妨・私交易を厳禁するよう三司官へ求め、詳細は長老の口上に託す。
(天正四年)十一月六日 / 冊子 506頁
天草鎮尚が島津氏老臣らに、上意の取り成しと立派な馬の拝領を謝す。薩摩方との和談について示された意見を承知し、詳細は新納忠元と相談したと伝え、今後も尽力と指南を求めた書状。
(天正元年)十月廿八日 / 冊子 316頁
伊集院忠金・平田昌宗・川上意釣が志岐麟泉入道へ、詳しい書状を受け取ったと返答する。従来から両地域の相談関係に変わりはなく、今後さらに親密にしたいと述べ、前年春に承諾した天草方面の調略について感応寺と直書が到着したので、進展を期待し、難航時には重ねて協力すると伝える。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 193頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、現地の知行がまだ落ち着かない状況を受け、島津氏老臣三名が新納忠元の以前からの奉公を上聞に達したと伝える連署状。その忠節への褒賞として花北一所をまず与える旨を早々に申し渡し、追加扶持も上意によるとして疎略のないよう求める。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 228頁
島津氏老臣五名が、伊集院大和沙弥笑岳の勲功により宛行われた西田名内竹崎の水田二段を、建立した笑岳寺へ寄進する願いが義久に許可されたことを確認した連署状。将来土地に変動があっても、この二段は永代違乱してはならないと定める。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 229~230頁
菱刈四郎が曽木を差し上げ、当面の在所が定まらない状況について上聞に達したことを、新納忠元へ伝えた老臣連署状。忠元が以前から尽くした奉公への賞として、まず花北一所を与えるよう上意があり、追って加扶持も行うので速やかに伝達するよう命じる。
(天正二年)四月九日 / 冊子 338~339頁
相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。
天正二年九月十日 / 冊子 344頁
島津氏老臣四名が北郷時久に対し、伊東氏との戦で一味して協力し、談合内容を秘密にし、庄内・肝付をめぐる讒言があれば双方へ腹蔵なく説明すると誓う連署起請文。
天正二年九月廿五日 / 冊子 345頁
島津氏老臣らが、国分寺と島津領は古くから盟約を結んできたが、近年は旧例に背く事柄があるとして別紙に列挙し、先非を改めるよう求める。承引がなければ隔心の原因になると警告し、相到寺に内情を説明させ、急便での返答を求める。
(天正三(五カ)年)六月朔日 / 冊子 436頁
島津氏老臣四名が、足利義昭が中国へ移り東西諸勢力の支援で帰洛を急いでいるとの御内書を受けたことを祝し、遠国ながら島津領の忠節を尽くして馳走すると返答する。詳細は蓮華坊へ伝えるとする連署状。
(天正三(五カ)年)六月朔日 / 冊子 436~437頁
島津氏老臣四名が、四月十七日付の足利義昭御内書を五月十九日に受領したと述べ、東西の武士が支援して帰洛が迫ることを祝う。遠国ながら相応の奉公に微力を尽くし、祝儀として白糸十斤を進上するので披露してほしいと依頼する。
天正六年仲秋十日 / 冊子 549頁
島津氏老臣が琉球国三司官へ、年頭の吉兆を祝い、日向の諸士が退出または参集して島津領が安寧になったと伝える。使僧妙厳寺と太平布五十端の贈物に謝し、返礼として織物五束を贈った書状案。伊集院忠棟・上井覚兼は日向在番中のため判がないと注記する。
元亀四年五月廿四日 / 冊子 304~305頁
禰寝重長が望む鹿屋の処遇について、現時点では周辺事情に詳しくないため、島津方の戦争成就後に検討し、やむを得ず守護領とする場合には鹿屋の田数に相当する別所を与えると約束した証文。伊集院忠金・村田経定・平田昌宗・川上意釣・喜入季久が連署する。
天正二年二月廿五日 / 冊子 336頁
下大隅の戦が終息した天正二年二月二十五日、伊地知重昌が鹿児島へ参上した経緯を記す。垂水の辺りまで老臣らの出迎えを受け、船元では川上意釣に迎えられ、その夜義久に謁見して縫殿助の名を与えられ、伊地知家が繁昌したとする。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 229頁
本文はNo.524と同文のため省略される老臣連署寄進状。伊集院大和沙弥笑岳が笑岳寺へ寄進した竹崎の水田二段を、将来にわたり違乱なく安堵する内容に当たる。
永禄十二年十二月十九日 / 冊子 229頁
島津氏老臣が本田刑部少輔に、先年の戦乱時に姫城を奉公のため差し出した返地として、薩摩国谷山郡山田名を宛行った文書。境界が明確になった時には城を返すこと、一か所への繰替えに相違がないことを保証し、当面は水田十町を与える。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233頁
興国寺領として、大隅国帖佐郷住吉名の平野園門にある田地を列記した老臣連署坪付。平野園之門五段二十、佃一段二十、堀町・開田・屋敷添などを合わせ、総計一町一段十とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 233~234頁
龍盛院領として、薩摩国鹿児島郡田毛名の水町門・浜田・芦牟田・橋路などの水田と畠地を列記した老臣連署坪付。水田は総計二町四反十のほか堀町一反を記し、畠地は合計一町七段とする。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234~235頁
内田主馬首へ宛て、薩摩国牛尿院内の浮免田を示した老臣連署坪付。築原名・小木原名・大田名などの田地を合計九段とし、そのうち七反を御重恩分と記す。
永禄十三年三月吉日 / 冊子 235頁
北辰大明神領として、大隅国曽於郡郡田名萩原門内の田地を記した老臣連署坪付。寺前の三反のうちに含まれる土地であると注記する。
永禄十二年十二月廿日 / 冊子 241頁
本文はNo.531と同文のため省略される老臣連署状。菱刈四郎が曽木を差し出した後の処遇と、新納忠元の奉公への賞として花北一所および追って加扶持を与える上意を伝える内容である。
天正二年十一月廿日~閏十一月十九日 / 冊子 347頁
天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。
天正二年八月~十二月 / 冊子 350~391頁
天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・寺社・日常を日次で詳述する。
天正三年正月~十二月 / 冊子 395~428頁
天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。
天正五年二月吉日 / 冊子 512頁
戸柱大明神へ、薩摩国鹿児島内萩原名の原田源左衛門先三反を寄進した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年二月吉日 / 冊子 512~513頁
興国寺への新寄進として、大隅国串良院岡崎名上園門の田畠・屋敷・山神領など、合計三町五反余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年二月吉日 / 冊子 513~514頁
南林寺への新寄進として、下大隅野里名中島口門の田畠・神領・屋敷・迫田など、合計一町七反十余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年三月吉日 / 冊子 514~515頁
興国寺領として、下大隅新城内峯岡名の奥江兵衛尉先一か所、空住庵屋敷および塩屋二十反を示した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年三月吉日 / 冊子 515頁
島津貴久の代、興国寺住持久林の時に、土堂廻之門と屋敷前の地を寺領として寄進したことを示す連署寄進状。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 515頁
島津義久の代、興国寺住持松岳の時に、下大隅牛根内河原園門の塩屋一間を寺領として寄進した連署寄進状。島津氏老臣五名が署名する。
天正三年二月吉日 / 冊子 516頁
島津義久の代、興国寺住持松岳の時に、大隅国串良院内上園門三町五反を寺領として寄進した連署寄進状。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年七月廿三日 / 冊子 519頁
島津忠昌の菩提のため興国寺へ寄進された串良院上園門について、土地は狭少でも懇情を尽くすよう求め、地頭の諸役を免除した証状。ただし国役・軍役は確実に勤めるよう定め、老臣五名が連署する。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
永正3年(平山村観音銘の傍注) / 冊子 339~340頁/原整理番号 130-24
川上忠塞家の系譜・姻戚・地頭歴を記した家譜抄。永正三年の平山村観音銘に当村地頭の河上掃部助栄久・同又八郎義久が見えることを掲げ、川上信濃守の女子七人が川上・町田・喜入・石谷・市来各家などへ嫁いだ関係、町田伊賀守の孫にあたる町田出羽守存松斎や河上山城守・舟伴入道との続柄を詳記する。また川上信濃守が串木野・川辺・市来の順に地頭を務め、男子馬之允、帖佐宗善寺の僧、又左衛門、又六(のち将監)へ系統が続いたとし、十一代家林の法名を道舜と記す。『家わけ三』町田文書一六六号と同文と注記する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同年五月二十四日 補記(正文と別層):(元亀四年) / 冊子 145頁/整理ID KW1-G000115
義久公が隅州鹿屋を重長に与えたと記す。 国老の喜入季久・川上忠克入道意釣・平田昌宗・村田經定・伊集院忠金の証書を後に付す。
十二月廿日 / 冊子 377頁/原整理番号 87
三名の連署で忠元に、菱刈四郎への書状を曾木へ届けたことを伝える。現地が落ち着いていないため、忠元のこれまでの奉公を理由に花北へ先に派遣すると上意が出ており、早く伝えるよう求める。扶持は追って加えるとしている。
現行年紀:慶長五年十一月廿六日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 262/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0262
重長の忠節時の約束と根占家在所に関する神文・証文を述べ、諸地の給付条件を記す目安。 鹿屋が守護領となる場合はその田数ほどの別所を、郡本は「御弓箭御存分」が成就する時に給付すべき旨を述べる。 山川・田上等の借地は、合点された分を給付時節に返上する旨を述べる。 約束を知る人衆、御使者、神文等を頂戴している旨を列挙する。