新納忠堯書状
天正十二年正月五日 / 冊子 840頁
新納忠堯が新納忠元へ、新年の吉兆と例年以上の満足を祝し、祝儀として五明二本を贈った年賀書状。本文注記は天正十二年頃とする。
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天正十二年正月五日 / 冊子 840頁
新納忠堯が新納忠元へ、新年の吉兆と例年以上の満足を祝し、祝儀として五明二本を贈った年賀書状。本文注記は天正十二年頃とする。
閏9月吉日 / 冊子 750頁
谷口忠堯が、大隅国清水のうち北辰神社に付属する土地の坪付を作成したもの。田畠を所在地ごとに分け、反・畝・歩および収量を記して、神社領の規模と内訳を示す。 戦国末期の神社経営を支えた土地配分と年貢基準を確認できる実務文書。
文禄3年5月吉日 / 冊子 782頁
大隅国清水の北辰社領について、寺田・上田・下田などの坪ごとに面積と分米を列記した坪付。橋口伴左衛門先、田中備後助先などの旧名義を示し、合計一七石四斗七升四合と算出する。 社領の所在と旧給人、石高を照合できる土地台帳で、谷口安房介忠実と忠堯の連署を伴う。
(天正19年)6月20日 / 冊子 511頁
本文はNo.1133の島津義弘書状と同文のため省略されている。新納忠元家に収められ、新納次郎四郎忠堯の所蔵と注記されており、同じ書状が新納氏関係史料にも伝来したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 750頁
清水北辰神社の祭礼費として渡す米を「籾米七斗八」と定めた入目書。祭礼に必要な支出を、谷口忠堯が具体的な米量で記録する。 No.1222の坪付と対になり、神社領から祭礼経費がどのように賄われたかを示す短い会計文書。
天明四年九月二十七日 / 冊子 756頁/原整理番号 2128/整理ID 2128
天明四年九月二十七日、島津斉宣が江戸の芝邸大書院で元服したことを記す。父島津重豪が自ら加冠し、島津伊賀久金が理髪を務め、又三郎忠堯と名乗らせて宝刀一振を与えた。家伝の元服式を基礎としつつ、重豪が幕府諸侯の家法を広く調べて典礼を定め、進物も折十一合・樽三荷から折十六合・樽五荷へ増したという。
天明六年七月二十七日~二十八日 / 冊子 868頁/原整理番号 2398/整理ID 2398
七月二十七日の老中奉書により、翌二十八日、重豪は又三郎忠堯を伴って登城した。忠堯は白書院で将軍家治と世子家斉に初めて御目見し、家治へ太刀一腰・白銀二十枚・巻物十・馬一匹、家斉へ太刀一腰・白銀二十枚・馬一匹を献上した。重豪も家治へ綿五十把、家斉へ綿三十把を献上し、忠堯の初御目見の恩を謝した。
天明六年七月二十七日 / 冊子 868~869頁/原整理番号 2399/整理ID 2399
老中四名は、又三郎忠堯の御目見が仰せ付けられたので、翌二十八日五時に重豪が同道して登城し、重豪自身も表御礼を申し上げるよう命じる。
天明六年七月二十七日 / 冊子 869頁/原整理番号 2401/整理ID 2401
重豪は、又三郎忠堯の御目見が仰せ付けられたので、翌二十八日五時に同道して登城し、自身も表御礼を申し上げるよう命じられたことを承知し、畏み奉ると回答する。
天明六年七月二十八日 / 冊子 870頁/原整理番号 2404の1/整理ID 2404-1
重豪は又三郎忠堯を同道して登城し、大廊下休息所で初御目見を命じられて懇ろな上意を受け、再び召し出されて慰めの言葉を賜り、さらに家来まで御目見を許されたことを重ねてありがたく思うとして、自身と又三郎が同様に御礼を申し上げる。
天明四年十一月(本文月) / 冊子 761~762頁/原整理番号 2133/整理ID 2133
又三郎の元服次第は先に帳面へ写すよう命じていたが、公辺への照会後に改訂されたため、次第書一通と仲殿から記録奉行へ渡す横切書付一通を添える。添書は、虎寿丸が九月二十七日に大書院で重豪の加冠を受け、又三郎、実名忠堯と称し、家伝の作法どおり滞りなく元服した旨と、別紙の祝儀次第を帳面へ記すよう十一月に命じる。
天明六年七月二十七日 / 冊子 869頁/原整理番号 2402/整理ID 2402
重豪は、家来一人の御目見が仰せ付けられ、その者を召し連れるよう命じられたことを了承する。前後資料から、この家来は又三郎忠堯を指す。
天明六年十二月七日(記事中に六日付老中奉書を記す) / 冊子 907頁/原整理番号 2492/整理ID 2492
十二月六日付の老中奉書を受け、翌七日、稲葉能登守弘通が重豪の名代として又三郎忠堯に伴って登城した。黒書院で家斉が忠堯に加冠し、名の一字を与えられて豊後守斉宣と改称した。この日、従四位下に叙され、侍従に任ぜられたため、弘通は重豪に代わって御太刀一腰・綿三十把・御馬代黄金一枚を家斉へ献上し、謝礼とした。詳しくは斉宣の譜に載せると記す。
天明六年十二月七日(六日付老中奉書を記す) / 冊子 909頁/原整理番号 2495/整理ID 2495
天明六年十二月六日付の老中奉書を受け、翌七日、稲葉能登守弘通が父重豪の名代として忠堯に伴い登城した。注記によれば忠堯は熨斗目・長袴を着用し、実年齢十五歳であった。黒書院で家斉が手ずから加冠し、一字を与えられて斉宣と改名、豊後守に任じられ松平豊後守と称した。次間では列座する老中が台命を伝え、従四位下・侍従への叙任と盃・肴の拝領があり、さらに宝刀一腰を賜った。斉宣は太刀一腰・刀一腰(備前祐光)・縮緬十巻・白銀三十枚・馬一匹を家斉へ献じて謝礼とし、弘通も重豪の名代として太刀一腰・綿三十把・馬代黄金一枚を献じた。謝礼の儀式を終えて桜田邸に入り着替え、大老・老中の各邸を訪ねて関与への謝意を述べ、その後帰邸した。
年月日未詳 / 冊子 73頁/原整理番号 63の4
天正十一年五月六日、深江・安徳両城が義久に属す旨を有馬氏が伝えた後、深江の変約と安徳守兵の困窮から援兵を求めた経緯を記す。義久は六月二日の出発を予定し、新納忠堯・川上忠堅を先遣したが、勝利の報告を受け自身の出陣は中止した。田賦十五町につき勇士一人の定めを援兵派遣時のものとし、上井日記同年五月二十七日条を引証する。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 120-1
久仰が泉徳寺本尊後光裏の銘と寺の由緒を考察する。以前は由緒の概要しか分からなかったが、萬延元年の公用調査で銘が見つかった。龍伯が懸命地を与えて寺を建立したこと、忠元が父祐久の菩提を弔い、弟忠堯らの供養をしたという伝承を、忠元・忠恒の名と再興銘から検討する。宗心の忌日に朝鮮渡海を控えて念仏した記事も参照し、懸命地は忠堯の戦死を深く悼んで与えられたのであろうと考える。寛正六年の田代氏文書に「千徳寺」の前とあることも、泉徳寺の証拠として記す。
年月日未詳 / 冊子 397~398頁/原整理番号 125
天正四年、近衛龍山の下向に伴う歌会へ忠元も召されたことに続き、高原城攻略の働きを記す。八月十六日の戦いで二十三歳の忠堯は小楯を持ち打刀で突入し、首を得たが多くの傷を負った。十八日の落城時、足軽大将漆豊前介がその名を尋ねて勇士と称えた。高原の落城後は三之山・温水・須木など七城が退去し、忠元は勝利の祝いに参じ、太刀を進上した。
年月日未詳 / 冊子 412~413頁/原整理番号 154
相良義陽が大友と結び、阿蘇惟前と朴之河内に城を置いて、高城を囲み大口を取ろうとした。忠元は大口を守り、五月十三日に忠堯と平田又次郎らを攻撃に出した。又次郎と本村士介・國田掃部が奮戦して死んだが、十五日には城を抜き取った。早水・山下らにも功があり、末尾では針野・岩年礼に塁を築いて東駿河守らを置いたと記す。
天明六年七月二十七日~二十八日 / 冊子 870頁/原整理番号 2405/整理ID 2405
斉宣は七月二十七日に老中奉書を受け、翌二十八日に父重豪に随って登城し、白書院で将軍家治と世子家斉へ初御目見した。家治へ太刀一腰・白銀二十枚・緞子十巻・馬一匹、家斉へ太刀一腰・白銀二十枚・馬一匹を献上し、初御目見の恩を謝した。
安永二年冬十二月六日出生・十三日七夜、文化八年の実母逝去注を含む / 冊子 408頁/原整理番号 1127/整理ID 1127
齊宣公御譜中の出生記事。冒頭に初名忠堯、小名虎寿丸、又三郎、豊後守・薩摩守、従四位下侍従・左近衛少将、従四位上左近衛中将、修理大夫、溪山、正四位上という名・称・官位を掲げる。安永二年冬十二月六日、江府芝邸に誕生し、時刻は不詳とする。母は同悟姫、実母は堤中納言代長の卿女と記し、生母なので内証と称した旨や、後年の高輪邸での逝去と法号の注を付す。十三日に七夜の賀を催し、家老小松帯刀清香が鳴弦の儀を行い、太刀一腰・馬代金一枚・二種一荷を父公へ献じ、他の臣も献物した。父公は折紙で幼名虎寿丸を賜い、鯛一折と榛代三百足を贈って祝う。虎寿丸も鯛一折・榛代三百足を献じ、賜名の恩に謝したと記す。実母の注には文化八年六月十四日逝去と十三日を忌日とする記載が併存するため、その日付差は留保する。
安永二年癸巳十二月六日出生、安永五年・寛政元年・五年、文化八年の注を含む / 冊子 408~409頁/原整理番号 1128/整理ID 1128
初名忠堯、後に齊宣、小字虎寿丸、又三郎、豊後守・薩摩守、従四位下侍従・左近衛少将、従四位上中将、後に修理大夫、号溪山とする略歴。安永二年癸巳十二月六日に芝邸で生まれ、母を堤前中納言代長女と記す。朱に「近秘野卿」との注がある。細注は浄岸君が守宮にあったこと、君の逝去後に父公が代長女を得て虎寿君が生まれたので千方殿におり、安永五年正月二十二日に本丸大奥へ移居したことを記す。寛政元年八月六日に御内証様と称する命を記し、寛政五年正月の注は「年餉提前宰相録百枚終身賜之命也」と記し、受給対象と「録」の細義は留保する。文化八年辛未六月十三日に江戸で逝去、大圓寺へ葬り、法号春光院殿心月清凉大姉、福昌寺に安主したと注する。主文の略歴と、実母・居所・呼称・終身賜与・逝去の細注を分けて記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。
年月日未詳 / 冊子 403頁/原整理番号 134
右之城に詰めていた肝付勢が、伊東勢の福嶋進攻を受けて争戦し、島津方へ降参したことを記す。高山を肝付兼護道に残し、姶良・志布志・福嶋など諸所を島津側の領知とした。忠元は十二歳で初めて出陣した旧領志布志の人々と面会し、旧臣の子孫が当地に残ったという。十二月には伊東義祐が佐土原を捨てて豊後へ出奔し、忠堯が城に籠もった。忠元は相良領と大口の境目の玖广で番を務めた。
年月日未詳 / 冊子 409~410頁/原整理番号 143
大友宗麟の高城攻撃と十一月十二日の敗北を記し、耳川で敵六万人を討ち取ったとする。忠元と義虎は肥後境の番に当たり、忠堯が本隊に従った。忠元は忠堯・重康らと相談して山野に伏兵を置き、自ら早牟田勢を誘い出した。偽って退いたところを伏兵が攻め、主従七人を討ち取り、中間を捕らえた。義虎は働きを褒め、兼光の刀を贈った。
年月日未詳 / 冊子 410頁/原整理番号 146
重範が十六歳で初めて具足を着け、求摩境の戦いに加わった経験を記す。忠元が敵を山野のふか下タへ誘い出し、忠堯・重康らの伏兵が攻めた。重範は郎等を斬った際に腰を負傷したという。早牟田城介ら主従七人を討ち、中間を捕らえた働きに対し、出水の義虎が兼光の刀を贈った。
年月日未詳 / 冊子 419~420頁/原整理番号 164
天正八年五月、忠元が大口に接する相良領寶川内を攻め、忠堯と城へ入った平田又次郎ら三人が討死した。忠元は重康・重賢を誘って伏兵を置き、敵を討った。城主らは城を捨て、朴野・岩年礼も領地となった。続いて隈本方への援軍と内通、阿蘇方との対立を記す。十月十五日の矢崎攻めで忠元が丸田ら敵を討ち、翌日網田が降伏した。十一月の合子戦では忠元父子らが働き、百三十余人を討ち取って帰陣したとする。
慶長十八年正月廿四日 / 冊子 425頁/原整理番号 171
相良義陽の北原・菱刈への妨害を受け、天正九年八月、島津兄弟が大軍を集めた。芦北へ先陣を入れ、十九日には大口から水俣を囲み、忠元が寄せ手へ夜襲を勧めたと記す。城方の瀧間美作守の発句に忠元が返歌したことも載る。九月十五日に水俣など五城が和降し、義陽が息子らを人質として出した。勝利は忠堯と川田義朗の働きによるとし、末尾に家伝などによる別伝と義朗の墓・由緒の注記を置く。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。
年月日未詳 / 冊子 394頁/原整理番号 120
泉徳寺に安置する本尊勝軍地蔵の木像・蓮花座・後光の寸法を記す。後光裏の銘は、天正三年菊月二十八日に華巌意雲が勝軍地蔵大菩薩を造立したことを伝え、大檀那忠元と忠恒の武運長久・家門繁昌を祈る。別の銘には寛延三年十二月十六日、源隆の代に華巌意雲が再興し、厨子の後ろに圖子一宇を奉寄進したことを記している。
年月日未詳 / 冊子 395~396頁/原整理番号 121
祥雲寺に安置する脇立観音の木座像・蓮花座・後光の寸法を記し、後光裏の尊像彫刻銘と奉寄進の銘を掲げる。天正三年十一月吉日の銘と天正六年八月の蓮花座裏銘があり、後者は華岩意雲の再興を伝える。願主忠元・忠恒と家門の繁昌、安泰を祈り、天正三年十一月二日付の華岩意雲の文と、細工重藤が切組の内に記されているという注を添える。
巻二/冊子 23~25頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒となって敵を破った。一方、早崎の陣は夜襲を受け、家久が多数の傷を負いながら少数の従者と敵を押し返す。牛根城攻めでは平常岡・茶園尾へ陣を進め、断崖に道を築いて三日三夜攻撃し、城方を降伏させた。祢寝方も伊東・肝付勢の攻撃を受けたが喜入季久が防戦する。最終的に肝付・伊地知勢は服属し、人質を出し、新納忠元父子らが牛根城へ入った。秘密交渉、婚姻政策、夜襲、築道による城攻めを通じて大隅平定が進む過程を詳述する。
巻三/冊子 31~32頁
大友氏の衰勢を受け、肥後熊本城主の城親政が島津方へ服属し、周辺国人も相次いで来附したことを記す。島津方は佐多久政らを熊本へ派遣し、宇土・天草・栖本・大矢野・志岐などの勢力を従える。一方、相良義陽は大友方と結び、日向侵攻にも加担したため、新納忠元らが宝川内を攻め、岩牟礼・釘野の要害をめぐって矢に歌を書いて応酬した。岩牟礼を落とした後、矢崎・網田方面にも進み、城主の自害や降伏を経て拠点を確保する。さらに合志勢との戦いでは伊集院久治らが先陣を切り、多数を討った。肥後国人の服属と、相良・阿蘇系勢力の要害攻略を並行して進めた記事である。
宝永七年八月 / 冊子 910–911頁/整理ID 2968
八月の諸国巡見上使小田切駿負〈原注直廣〉・土屋数馬〈喬直〉・永井監物〈白弘〉の道中記事。家老島津中務久貫、用人黒葛原忠雄・町田忠堯、医師印東玄桂らが応接した。八日肥後川尻で田代安徹の子福良頼廣が謁見し、九日水俣、十日領内米津へ入境。阿久根・宮之城・加治木・金山・石原を経て十六日鹿児島着、十七日は風雨で滞留し、平川・喜入・指宿福良・山川を回り、二十一日に船で大隅大始良へ渡った。池之原・志布志・末吉を経て二十五日著寺柱、二十六日峯の境から伊東領へ出た。
天明六年七月二十七日 / 冊子 869頁/原整理番号 2400/整理ID 2400
幕府は重豪に対し、家来一人の御目見が仰せ付けられたので、その者を召し連れて登城するよう命じる。本文は家来の実名を記さず、又三郎忠堯との同定はできない。