新納為舟忠元書状
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
(慶長四年)十月廿四日 / 冊子 461~462頁
島津義弘が伊勢兵部少輔に、幸侃が重い状態だったため度々問い合わせ、弥兵衛尉の返答で早く快気したと知り、さらに市八左衛門尉が上京したことを喜ぶ。現地でも祈念を怠らず、義弘方でも種々祈念しているので一層回復するだろうと述べ、敵が疲弊していても油断せず、又八郎にも警戒を伝えるよう求める。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
天和2年6月14日 / 冊子 423頁/原整理番号 10-3
弁官新右衛門親盈が淵辺弥兵衛へ、文治三年五月三日付頼朝判物の内容と伝来を説明し、希望に応じて写しを進覧した天和二年六月十四日付副書。判物は薩摩国住人・牛屎院司大秦元光代の下文で、牛屎家の嫡女である加藤金右衛門妻が男子を欠いたため系図・文書を所持し、当時は加藤辰之助家に伝わっていたとする。親盈はこの一通を祖母から授与され、実家が牛屎と同姓であることを述べる。
(寛文二年)六月九日 / 冊子 449~450頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0974
伊勢弥兵衛が、島津光久の帰国に伴う通行手形について、京都から江戸までの道中で手形を要する者・不要な者、家臣や飛脚の扱い、手形発給・番所確認の手順を問い合わせ、関係役人の名と回答をまとめた口上覚。
年月日未詳 / 冊子 494頁
庄内戦で戦死した者を、年月日・戦場・所属とともに列挙した殉国者名簿。慶長五年正月の河内・栗山・追田などでの戦闘を中心に、戦死者名のほか、主従・組・衆の別や人数を記し、庄内戦での人的損害を整理する。
安政3年7月(本文年注);外包:同年8月4日 / 冊子 170頁/原整理番号 236/整理ID 236
宰相の家督中に長年配慮して定めた政務改革・海岸手当等の規定を振り返り、諸役場の精勤と質素を求める御筆仰出。時がたつにつれて緩怠や華美、不行儀、無益な酒会、賄賂・贈物など士道を失う行為が生じていると戒める。異国船が諸所へ渡来し公辺も文武を指示する折として士風振興を求め、一同が趣旨を理解して質素節倹を用い分限を守るよう命じる。各役場末々の精勤、勝手方や町人等を支配する掛役の廉直、大目付・日付役の親疎によらない事実吟味と明白な賞罰、重役の身分に応じた謹慎を求める。支配にも正道を励ませ、町家の者が売利に迷い不相当な願いをすること等を戒める。諸役場が御趣意を深く受け相談し、来春帰国後の詮見に備える旨で結ぶ。本文は七月、年注は安政三年。外包は同年八月四日に駿河から格護を命じ、青山弥兵衛が承知して白木御文書十番箱へ収納した記録。
安政3年(外包)7月廿五日・7月・8月;外包:8月18日 / 冊子 170~172頁/原整理番号 237/整理ID 237
篤君の生母の表向きの取扱いと近衛家養女・君号名字の折紙に関する一件。向後恒姫を生母と定めるとの仰出を受け、伊勢守へ届替の必要、清書の文言、新御殿の実印、年寄・側役、御礼女使や平常文通の扱いを内々に問い合わせる。阿部からの達では、国元と系図にもその旨を記すよう申し渡す一方、この扱いを内事として心得ることを述べる。別段の願いは不要とする書取と、届書を差し出すに及ばない旨の七月廿五日付薩摩守宛書取を収める。生母関係には五通を一封とする注があり、右府の御口状も続いて六通の書取を包むと記す。右府口状は養女承諾に伴う君号・名字を伝え、使者は北小路刑部権少輔。八月の伯耆による御記録奉行への申渡では、近衛右府の養女承諾と使者による君号・御譜の折紙授与、本書は篤君が所持し写しを格護することを記す。外包には安政三年八月十八日、伯耆から格護を命じ、青山弥兵衛が白木御文書十番箱へ収納した旨がある。恒姫への指定は文書上の扱いであり、実際の出生関係とは区別する。
本文「午十八歳」;外包:安政6年2月18日 / 冊子 208頁/原整理番号 286/整理ID 286
太守の明細書一枚として、松平又次郎の養父を故薩摩守斉彬、実父をその弟島津周防と記す。領地は薩摩国一円・大隅国一円・日向国の内、高六十万五千石余、本国・生国は薩摩、居城は薩州鹿児嶋とする。年齢は「午十八歳」の表記を載せる。外包には安政六年二月十八日、駿河から春山弥兵衛へ渡され、格護を承知して白木御文書十番箱に収納した旨がある。本文の年齢表示と収納年を区別する。
11月21日 / 冊子 390頁/原整理番号 356の2
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、大崎の主取弥兵衛尉へ赤米九斗を割り当てる。末尾では、五枚帆船の水手六人に同日以後二十日分の海上飯米を一人一日赤米七合五勺で算用し、天草一乱に伴う小松原出船のため渡すよう永山覚右衛門・三原源右衛門へ命ずる。
11月25日 / 冊子 420頁/原整理番号 386の4
十一月二十五日、赤米八斗八升二合(「前かき」)を掲げる。天草出陣に際して伊作の入来浜辺から船を仕立てるため、加子・水手の飯米を永山覚兵衛・三原源右衛門へ渡すよう、谷山長左衛門・川崎弥兵衛に命ずる。宛先の役名は欠字を含む「□代衆」に「下カ」の注がある。
貞享4年7月18日 / 冊子 772頁/原整理番号 837
父六兵衛が先年の島原出陣に際し、旅陣の米や諸物資の不足に役立とうと小船一艘を自ら仕立て、水手を集め、蔵方の御用物を積んで天草へ赴いた奉公を回顧する。陣中で物資が不足しなかったため直ちに大きな御用には立たなかったが、中将の島原着船を聞くと使者船を務め、帰国後も公儀御用や私的用務に勤めて賞されたと述べ、家の誉れとする。
明和二年二月廿四日 / 冊子 65頁/原整理番号 181の21/整理ID 181-21
東郷源五が二月廿四日、日光山法会に伴う東叡山御宮参詣の書付の受領・伝達と御請の予定を此面へ報告する。松平右近将監の用人から、当日中に当家から一人出頭するよう求める切紙が届いたため、東郷が出向いたところ、藤堂和泉守・松平出羽守・松平陸奥守・細川越中守の留守居も同様に召され、各人へ書付が渡された。用人を介して同席の諸家へ通達するよう命じられたので、別紙の御名分に従って廻状を出し、各家が内容を承知して右近将監へ御請使者を出すよう伝えた。当家の御請は時刻を見合わせて勤め、首尾を別紙で報告すると述べ、書付は桜田詰の歩行税所弥兵衛を介して差し上げた。後書には、諸家への通達が済んだ後、翌朝に右近将監へ届ける予定と記す。
正文年月日不記;外包:文久3年亥正月13日格護収納 / 冊子 278~279頁/原整理番号 388の2/整理ID 388-2
五番外包の第二通。先代薩摩守が生前国家へ丹誠を尽くし、病末に及んで弟三郎らへ遺訓を残したことが叡聞に達して御感があったとする。先代家久が存命中に権中納言宣下を受けた家例もあるため、格別の叡慮によって贈権中納言従三位を宣下する旨が京都から伝えられたと述べ、生前の丹誠によりそのとおり追贈するとの仰出を松平修理大夫へ申渡す。正文の年月日は不記。外包注は文久三年亥正月十三日に式部から格護の旨を受けて春山弥兵衛が承知し、白木御文書拾壱番箱へ納めたと記す。外包の収納日を追贈日や正文宛先に転用しない。
7月(勅書、日不記);文久3年亥8月7日到来・9日拝見/亥8月6日持下・9日拝聞注 / 冊子 305~306頁/原整理番号 434/整理ID 434
執事方帳留の勅書。去る二日に英国艦が来て砲戦になった報告を聞き、一心に攘夷に取り組んだことを賞し、さらに励んで皇国の武威を海外へ示すよう命じる。正文は七月・御名で、目録は孝明天皇勅書とする。末注は文久三年亥八月七日到来、九日拝見を命じたと記し、別に亥八月六日に三嶋弥兵衛が持ち下り、九日御一門以下の諸士へ拝聞させたとの注がある。正文月と到来・携帰・閲覧日を分け、称賛は勅書の評価として示す。
8月(正文、日不記);外包:文久3年亥8月11日格護収納 / 冊子 309頁/原整理番号 436/整理ID 436
十一番旧御番所御文書中の御筆仰出。戦闘の報告が天聴に達して賞美の勅命を承知したことに恐れ入り、一統が粉骨砕身して戦ったため敗走に至らなかったとする。同時に指揮が十分行われなかったことを省み、今後また襲来する時はよく心を用いて指揮し、一心同力で皇国の武威を失わぬよう忠戦してほしいと命じる。八月、茂久・久光の二署。外包は文久三年亥八月十一日に但馬から格護を命じられ春山弥兵衛が承知し、白木御文書十一番箱へ納めたと記す。賞美と指揮への自己評価は発給者の叙述として整理する。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 199の4
種子島久時口上覚の別紙副書。入江七郎右衛門・宮崎弥兵衛らの使者が到来したこと、殿下嶋の老衰と鹿児島への帰還、迎船を下すこと、上下十余人を当地から召し付けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 169~170頁/原整理番号 48
餅原氏の短い系図。政公以下、長門守・摂津守・駿河守および法名玄良を称した山城守・四郎左衛門の系線を掲げ、周防介から惟利へ続ける。後半では、家嫡宗能の嫡子で無子のため惣領職となった肥前守惟之、惟延―肥前守惟清―兵部惟興、大隅守を称して戦死した人物から庄内で戦死した与四郎・平右衛門惟元へ続く系線を記す。平左衛門惟秀は実は岩下弥兵衛の三男で、その子孫を十郎左衛門とする。
安政5年8月(第一通、年は外包から補);外包:9月9日 / 冊子 188~189頁/原整理番号 263/整理ID 263
宰相の御沙汰書二通。第一通は斉彬死去後の跡目茂久がまだ若年で、国務を放置できない事情を斉興が聞き、当分介助する旨を伝える。御取次は得能彦左衛門、八月の記載を伴う。第二通は薩摩守殿の死去を受け、若年の跡目を介助し、従来の領国・屋敷中の取締規定を忘れず家老以下が誠実に精勤するよう命じる。勝手向掛は無益な失費を細かく吟味し、風俗を政務の基本として文武・忠孝・律儀を守り、古国の士風を失わないよう求める。若年家督を理由に一同の心掛が緩み家法が弛むことを警戒し、その趣旨を深く伝達する。豊後・伯耆との包紙の記載があり、外包には安政五年九月九日、左衛門殿が格護を指示し青山弥兵衛が承知して白木御文書十番箱に収納した旨がある。
10月廿八日(本文年不記);外包:安政6年12月朔日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 301/整理ID 301
包紙に御筆仰出とある家老向けの訓示。茂久は自ら不肖ながら順聖院の遺言で跡目を継いだことをありがたく思い、先代の積徳を汚さぬよう日夜心を痛めると述べる。まだ不慣れなので気付いたことは放置せず申し出るよう求め、家老以下の役人は先代の規格どおりに緩みなく務め、政事に精入するよう命じる。士には礼義廉恥を保ち、文武の道を深く学び、耳目の欲や四肢の安逸を願わず、古来の国風を失わず万事出精するよう諭す。十月廿八日。外包は安政六年十二月朔日、伯耆から春山弥兵衛へ渡され、従来どおり格護して白木御文書十番箱に収納した記録。
の4:未10月廿日;の5:未10月19日;外包:安政6年12月2日 / 冊子 221~222頁/原整理番号 302の4~5/整理ID 302-4
印刷の4~5の書類。の4は明細書二枚を昨夜持参し、大目付平賀駿河守の用人土肥某輔へ、本丸炎上による早期提出命令と陸奥守家来の廻状が届いたため提出すると申し述べたところ、駿河守が落手した旨を聞いたとする首尾報告。未十月廿日、留守居附役脇田仁兵衛から西筑右衛門宛。の5は陸奥守家来から届いた廻状について、本書を差し返して写しを差し上げ、明細書を早く下すよう願う旨を伝える西筑の龍衛宛書状。未十月十九日と記す。外包は安政六年十二月二日、筑後から春山弥兵衛へ渡し当座で写し、白木御文書十番箱へ収納した記録。二報の日付前後は原文どおり保持して疑義を残す。
12月(本文年・日不記);外包:安政6年12月15日 / 冊子 222~223頁/原整理番号 304/整理ID 304
嶋津周防久光の取扱を御記録奉行へ申し渡す書付。御前でも脇差を帯び、「此殿」の文字を御前御用にも用いるなどの扱い、年頭等の供廻六七人・平日三四人の増員、虎皮鞍蓋・金紋先箱の御当地での使用を定める。御櫻門等の従来通行、北御門通融の際の玄関前・大奥通番所前・台所御門の通行、諸屋敷や神社寺院への乗輿、登城時の櫻之間脇二階・家老座での御用時通行を記す。御高五千石を一世召し付け、将来の格別な扱いは改めて詮議する旨を示す。一世の御會釋を改め虎皮鞍蓋等を家格に用いることを家老から達し、帳面に記録させる。本文十二月、外包は安政六年十二月十五日、筑後からの書付一通を春山弥兵衛へ渡し白木御文書十番箱に収納。
12月(本文年・日不記);外包:安政6年12月18日 / 冊子 223頁/原整理番号 305/整理ID 305
近衛大納言忠房の御書写心経一巻を福昌寺へ渡す申渡書。金剛定院斉興に対する格別な思召により、官家では養方の忌服をしないと聞くものの、別段に定式の忌服を請け、さらに心経を霊前へ供えたと述べる。禁中や公達にもこのような例はないとし、篤い思召による供養として、後年に麁末な取扱にならぬよう格護を命じる。本文十二月、筑後の名。外包は安政六年十二月十八日、御用人から春山弥兵衛へ渡し白木御文書十番箱に収納した記録。
申2月廿九日(本文、年は包紙の安政7年から);包紙:安政7年申閏3月9日 / 冊子 228~229頁/原整理番号 312/整理ID 312
金剛定院斉興の位牌が成就し大圓寺へ安置するにあたり、御列位の記録を御記録奉行に調べさせた結果を伝える喜入攝津の書状。大信院の次、霊龍院の前に金剛定院を置く配置を示す。順聖院斉彬の位牌はこれまで大信院の次にあったが、このたび大慈院の次へ移す。大圓寺と関係者へ伝え、大奥その他にも知らせ、典姫への報告と宛所側での申渡を求める。申二月廿九日、左衛門・筑後・伯耆・登・駿河の五名宛。外包は安政七年申閏三月九日、伯耆から春山弥兵衛へ渡し帳留と写しを済ませ白木御文書十番箱へ納めた記録。
10月(本文年・日不記);包紙:万延元年申10月3日 / 冊子 229頁/原整理番号 314/整理ID 314
伯耆から渡された書付の写。金剛定院斉興が寄附し御物計から毎年福昌寺へ渡していた御高百五十石を、大慈院の寄附高と同前に扱うとする。近日御判物・御書附を大目付使者によって寺へ渡し、家老中の添書は新番をもって渡す予定で、福昌寺への申渡は先例どおり取り扱うよう寺社奉行へ命じ、御記録奉行その他の関係者にも知らせる。日限は追って申し渡す。本文十月、伯耆の名。包紙には万延元年申十月三日、岩下佐次右衛門から春山弥兵衛へ渡され白木御文書十番箱へ収納したと記す。
2月(本文年日不記);包紙:文久2年戌2月廿八日 / 冊子 246頁/原整理番号 342/整理ID 342
御記録奉行宛の大蔵申渡。嶋津石見の妻於治、入来院怡の妻於珍、喜入多門の妻於寛について、格別な続柄と評合により御子様方同様の御會釋とし、「此殿」の文字を用いること、大奥へ上がる際は松壽院の振合とすることを伝え、帳面に記録させる。本文二月、大蔵。包紙は文久二年戌二月廿八日、大蔵から春山弥兵衛へ渡して箱に納めた記録。本人三名と配偶者の列記を区別する。
年月日未詳 / 冊子 379頁/原整理番号 349の2
大崎から立てる船の船頭弥兵衛尉以下の浦水子を列挙し、合計二十一人を軍衆乗船の加子として三原源右衛門・永山覚兵衛へ引き渡す送状である。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の2
十一月二十七日、利右衛門・弥兵衛尉・彦右衛門・孫介の合計四人を掲げる。京田塩屋堀・高奈から立てた水手を受け取るよう、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ申し送る。「高奈」には「本まゝ」の注があるため原表記を保持する。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
正月廿日 / 冊子 333頁/原整理番号 13
家蔵の覚として、新納武蔵・加賀・次郎右衛門・弥兵衛らの誕生日、幼名、元服後の名を列記する。安萬・熊千代・市二郎・市三郎などの幼名と、次郎四郎や主膳などの元服名を記す。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
(寛永15年)正月6日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 586
島原出陣に伴う乗馬・中間・兵具持の割付帳。町田・浦川・山城・甲斐ら諸給人および寺社ごとに人数と馬匹を列挙し、正月九日までに手配するよう定める。寛永十五年正月六日付。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
正月21日 / 冊子 765~766頁/原整理番号 818-2
島原居城の石火矢・長筒・異風大小の員数を掲げ、小計236挺と記す。役に立たない筒、籠城中の損物、上方へ送った筒などを続け、合計1,159挺を記すが内訳との整合には疑義がある。さらに有馬で鍋嶋・細川・松平ら諸家へ渡した石火矢、玉、火薬の内訳を載せる。正月二十一日付、田中・岡本・多賀の三名を記す。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 79~82頁/原整理番号 8
琉球滞在中の如竹が屋久島安房の親族・郷人へ送った教訓状。公儀への奉公、親への孝行、利己心の戒め、節酒・早起き、農作と日々の計画を具体的に説く。後半には如竹の薩摩召還、侍講、直諫、救貧、用水開削、林業、没年・法号、遺詩などを集成し、その儒学教育と地域社会への功績を伝える。
宝永七年五月二日 / 冊子 899–900頁/整理ID 2936
琉球国司尚益が御老中へ、先国司の跡職を相違なく命じられた厚恩に謝意を述べる。清水弥兵衛・中神七右衛門を介して霊社の神文を提出し、同じ内容を七右衛門方にも伝えたと報告する。
寛永十五年(三月)朔日 / 冊子 321頁/原整理番号 369
村尾源左衛門尉重候が、寅二月二十八日、有馬原城本丸内で須木衆今村久右衛門尉とともに鑓を合わせ、左手に鑓傷を受けながら敵を鑓下に突き伏せたことを記す証文。大口衆大田彦右衛門尉を証跡人とし、同じ須木衆の堀添十郎兵衛尉が首一つを取ったことも記す。須木衆長里弥兵衛尉・大石喜内・宗形佐市の三人が村尾とともに城内へ入り、負傷した村尾を退かせたという。本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六九号文書と同文とする。
十一月十二日 / 冊子 397~398頁/原整理番号 504
堀久左衛門尉は、有馬へ先発する船衆として江夏五右衛門・益山弥兵衛・佐藤伊豆守・杉尾千右衛門・渋江藤七兵衛らを主従人数とともに列挙し、合計十一人とする。別に夫丸七人を記し、西田貞右衛門尉・有馬千兵衛へ提出する。
明暦二年三月十三日 / 冊子 275~276頁/原整理番号 33
加久藤で樋口筑後・中堀源兵衛・樋渡弥兵衛らから一向宗本尊を差し出させ、さらに五人組の調べで七兵衛の保管も判明したと宗体奉行へ報告する。
年月日未詳 / 冊子 267頁/原整理番号 336-4
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵衛・黒田太郎介・北村頼母介ら手負者の氏名を列挙する。本文の日付は目録年月日欄へ補入しない。
慶応元年・十一月廿八日 / 冊子 85頁/原整理番号 115
黒田弥兵衛は二丸御納戸へ出向き、代銀を納めて木太刀一腰を受け取る。別に御馬代として銭一貫文を納めた取扱いを記す。