入来院重門書状
年月日未詳 / 冊子 140頁
入来院重門が澁谷新平次入道に、櫛など預けた品の扱いをめぐる事情を伝え、とら五郎を介して品を受け渡すよう依頼した書状。品々の返却・保管について指示し、七月中に所領を寄進する意向も伝える。
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年月日未詳 / 冊子 140頁
入来院重門が澁谷新平次入道に、櫛など預けた品の扱いをめぐる事情を伝え、とら五郎を介して品を受け渡すよう依頼した書状。品々の返却・保管について指示し、七月中に所領を寄進する意向も伝える。
二月十九日 / 冊子 63頁
島津師久が、凶徒国分平次郎友重・永利又太郎入道祖性の跡田薗を善悪とも折半し、その半分を譲り渡して子孫まで違乱しないと約した去状。
文禄4年12月朔日 / 冊子 924~925頁
義弘は島津又八郎(忠恒)へ、法元からの報告、佐左平次の帰朝、鹿児島衆の配置、帖佐の普請など、帰朝後の家中処置を細かく指示する。 船の手配、知行・人員移動、医師や鷹に関する用件まで盛り込み、領国再編の実務が同時並行で進む様子を伝える長文書状。
慶長十二年十二月廿六日 / 冊子 137頁
慶長十二年十二月二十六日、新納為舟が大田三川入道へ、夏の馬追で息子藤吉が奥州様の目に留まったことを述べ、亡兄小平次の跡を藤吉に相続させる方針を伝えた書状。
二月十九日 / 冊子 242頁
島津師久が、凶徒とされた国分平次郎友重・永利又太郎入道祖性両人の跡田園について、善悪ともに中分して半分を与え、子孫まで違乱がないよう保証し、公方へ申し上げるとした書状。
十二月廿九日 / 冊子 375頁
喜平次が御前へ召し出され、能にも出席し、暇の際に馬を拝領したことを喜び、今後も喜平次への厚意を願う。また、正月は上洛で多忙になると見込み、互いに日が長くなってから面会したいと伝えた某書状。
(慶長十年)九月十五日 / 冊子 32~33頁
亨徳院正純が島津惟新に、注文された茶道具・焼物・紙などの調達と送付について答えた長文書状。注文名の確認、遠路での運送、品物の見分け、茶会用具や使者との相談などを詳しく述べ、今後も必要品があれば知らせるよう伝える。
享保七年三月六日 / 冊子 527頁/整理ID 1362
戸田平次に対し、伊集院・姶良・蒲生・加世田・串木野・貞幸吉田の各地にある高二百石の知行を列挙する。京都に置かれた戸田に、知行地における勤めを指示し、三名の家老が連署する。
明和三年四月廿二日 / 冊子 131頁/原整理番号 301/整理ID 301
有川勇馬が、今日御目見を命じられた松平薩摩守の家来二人のうち高橋此面が今暁発病して登城できないことを届けた上で、自分献上物は御本丸中の口へ持参してあるので、どのように仰せ付けられるか伺う。四月廿二日付、年は朱注の明和三年。朱追記によると、届書等三通を即日、留守居有川勇馬が御用番阿部伊豫守の公用人関平次右衛門に取り次いでもらって提出した。老中の登城後の評議により、此面の献上物は病気で登城しないため「流し」とする旨を命じ、坊主与頭平井友古を通じて伝えた。さらに阿部伊豫守から大御目付稲垣出羽守を通じて直接にも伝達があったと記す。
文保元年8月20日 / 冊子 332頁/原整理番号 130-6
鎮西探題遠江守が河上平次郎(家光)へ出した文保元年八月二十日付御教書。大蔵氏が薩摩国市来院河上名内の内田薗をめぐって訴状と副具書を提出したため、その沙汰を行うべく早く参対するよう命じる。本文は現行130-7 確認用画像第1頁の右側に収められ、現行130-6 確認用画像の系譜断片は本文ではない。
文保3年1月23日 / 冊子 332~333頁/原整理番号 130-7
鎮西奉行人の前下総権守が河上平次郎(家光)へ出した文保三年正月二十三日付奉書。原田太郎入道浄法と得重五郎助道が相論する殺害・刃傷事件について、前年十二月二十日付御教書の命令に従い、見聞した事実をありのままに、起請の文言を添えて注進するよう命じる。
貞和6年2月18日 / 冊子 335頁/原整理番号 130-15
貞和六年二月十八日、西国探題・兵衛佐足利直冬が河上平次郎(家忠)へ出した書下。両殿の意向を奉ずるため挙兵したとして、急ぎ馳参して忠節を尽くすよう命じる。傍注は直冬を足利尊氏の長庶子と説明し、付随系譜は河上氏四代の家忠が平次郎を称したことを示す。
貞和7年6月5日 / 冊子 335頁/原整理番号 130-16
貞和七年六月五日、足利直冬が河上平次郎へ出した感状。在国中に忠節を尽くしたうえ、直冬方へ馳参したことを『尤も神妙』と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう励ます。付随系譜は河上氏五代の家長が次郎左衛門尉・山城守を称したことを記す。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
建武3年3月28日 / 冊子 548頁/原整理番号 34
建武3年3月28日、左馬(傍注に足利尊氏)が莫祢兵衛五郎入道と大平平次郎へ、肝付八郎兼重以下の凶徒を討伐するため守護の催促に随い、抜きんでて軍功を立てよと命じた御教書。差出の下に花押があり、欄外に『旧記雑録前編一』1813号文書と同文と記す。
建武3年3月15日 / 冊子 549頁/原整理番号 36
建武3年3月15日、足利直義が大平平次郎へ、筑前国筥崎合戦で忠功を致し、その手の者を討死させたことをとくに神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。直義の花押を据え、欄外に『旧記雑録前編一』1794号文書と同文と記す。
承久三年十二月日 / 冊子 89頁/原整理番号 357
大隅国守護所が、多祢島御家人の見和平次有光について、見参のうえ現地へ下向させ、その所領を安堵するよう命じた下文。承久三年十二月日付。
年月日未詳 / 冊子 116頁/原整理番号 439
差出人不詳の人物が、盛仁の跡を平次郎盛覚が相続することに他者の妨げがあってはならず、一家の惣領として盛仁の拝領地をすべて知行すべきことを認めた安堵状。年月日・差出人は本文欠落のため不詳。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
正徳三年三月廿五日 / 冊子 81~82頁/整理ID 193
和泉平次郎らに名乗り字を申渡し、従来の家筋を踏まえて名乗りを改める場合の願い出を認める。
享保五年十月六日 / 冊子 446頁/整理ID 1193
石谷左平次が九郎右衛門久方らと実名を申し立てているが、以前の儀礼に関する照会と整合しないため、確認を求める覚書。
享保五年十月二十二日 / 冊子 447頁/整理ID 1197
石谷左平次の実名・名乗りに関する照会を受け、古い申立てや書付を調べて後日申し達する旨を記す書付。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
文保三年正月廿日 / 冊子 467頁
原田太郎入道浄法と得重五郎助道の殺害・刃傷相論について、前年十二月廿日付御教書に従い、見聞した事実を起請文に載せて注進するよう河上平次郎殿へ命じた鎮西奉行人奉書。
元亨三年□月日 / 冊子 491~492頁
比志島孫太郎忠範代義範が、当名惣地頭和泉三郎兵衛尉実忠による数度の御教書違背と刈麦狼藉を訴えた重申状。実忠は参陣せず、使節権谷新平次の催促にも是非を記した散状を提出せず、権谷も論人側に与していると主張する。別の使節を立てて厳密に沙汰・成敗するよう求め、副進として御教書案一通を添える。
年月日未詳 / 冊子 492頁
度重なる御教書にも実忠が相論を引き延ばしたため、探題が使節権谷新平次を派遣し、義範が再訴した経緯を記す和泉実忠譜。
元亨三年七月九日 / 冊子 499頁
正和元・二年分伊作庄領家年貢について、先の下知どおり弁済させ、不履行なら起請文に載せて注進するよう渋谷新平次へ命じた鎮西御教書。
建武三年三月十五日 / 冊子 653頁
筑前国宮崎合戦で大平平次郎が忠功を尽くし、手負・討死があったことを賞し、神妙であるとして抽賞を約した足利直義感状。
建武三年八月十七日 / 冊子 671頁
渋谷平次五郎重勝の軍忠を神妙と賞し、恩賞を与える旨を伝えた足利尊氏感状。
建武四年五月十七日 / 冊子 690頁
渋谷平次郎に、薩摩・大隅両国の凶徒追討のため島津孫三郎・大隅左京進入道らと協力し、早く発向して軍忠を尽くすよう命じた足利直義御教書。
暦応四年七月日 / 冊子 741頁
放火狼藉の関与者として、渋谷弥四郎本人、西岡弥次郎左衛門尉、重内三郎、山口平次三郎、同平四郎、一渡弥四郎、大井小四郎、同六郎らを列記した交名注文。
康永二年二月八日 / 冊子 753頁
渋谷定円が子息平次五郎重勝へ、相模国吉田庄内の在家・屋敷田畠、薩摩国入来院内清色北方、筑前国柏原、筑後国長淵の屋敷地頭職などを譲り、子孫への相伝と違乱停止を定めた譲状。
貞和六年二月十八日 / 冊子 794頁
足利直冬が河上平次郎へ、両殿の意向を奉じて出陣するので、急いで馳せ参じ忠節を尽くすよう命じた書下。
貞和七年六月五日 / 冊子 808頁
足利直冬が河上平次郎へ、馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
「寛永十七年」五月廿三日 / 冊子 113頁
宮原景之ら三名が伊地知弥右衛門・谷口次郎左衛門へ、求麻表に変化がなく、佐敷・水俣の番手衆も従来どおりであると伝えた連署書状。相良内蔵の死去を聞いたこと、ある遺骨を高野山へ上らせるため前日に鹿児島を出て阿久根から出船したことを知らせ、追而書では相良喜平次の妻が京都から船で水俣へ到着したと報じている。
「寛永十七年」七月廿九日 / 冊子 133~134頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、高野山での法事が無事に済んだことと江戸の情勢を国元へ報じた連署書状。生駒壱岐守・松平石見守の家中処分と所領・預け先を知らせ、相良清兵衛が稲葉美濃守預かりとなり、能勢小十郎・二神宇兵衛が上使として出発したことも記す。さらに喜平次が以前から清兵内蔵助の処置を諫めていた経緯と、相良家中が他家の処分を見て危惧している様子を伝えている。
「寛永十七年」八月廿七日 / 冊子 141頁
幕府年寄の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、相良壱岐守に関する訴訟を翌日に審理すると通知した連署書状写。島津方で預かっている相良喜平次を、四つ以前に付き添いを付けて評定所へ差し出すよう命じている。末紙には御家老衆からの切紙であるとの注記がある。
「寛永十七年」九月十六日 / 冊子 141~142頁
相良壱岐守頼寛が島津家の重臣らへ、薩摩守島津光久の息災を祝い、相良家の訴訟に伴って喜平次兄弟を光久が預かり長く世話したことへの謝意を述べた書状。相良側の望むとおりの裁定となったことを喜び、在所へも使者を遣わすなど配慮を受けたことに礼を述べ、暇が許され次第帰国する意向を伝える。表題はインデックス記載の「相良頼覚書状」を保持し、本文末尾の署名は「相良壱岐守頼寛」と確認した。
享保五年十月六日 / 冊子 446頁/整理ID 無番号_0001
島津淡路守惟久が比志嶋隼人へ、家来石谷左平次の名乗りに関する申立てと証書の提出を伝え、その取扱いを求める。
是歳冬十二月五日の浄岸院三回忌に先立つ十月十日(安永三年に対応) / 冊子 442頁/原整理番号 1221/整理ID 1221
是歳冬十二月五日が浄岸院の三回忌に当たるため、先期の十月十日、大家と儲君が老中松平右近将監武元を芝邸へ遣わして賻銀を賜ったと記す。原注は大家が銀三十枚、儲君は同二十とする。そこで新番岸良貞右衛門兼平と歩行士有馬伊平次純意に携えさせて帰し、鹿児島の福昌寺へ納めたと述べる。出典は重豪公御譜中。年は安永三年の文脈に対応する。
天明六年十二月十日 / 冊子 848頁/原整理番号 2333/整理ID 2333
重豪の内意により、輪王寺門主後延法親王の内道場へ安置する虚空蔵尊像を山下佐平次が彫刻した。遊城院を通じて上野へ納め、門主が開眼し、長日の祈祷を行う。経緯と契約文書を記録所に保存するよう命じる。
寛政3年5月16日(書付。包紙注は亥11月8日) / 冊子 27~28頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0087
桑山甚助が、長谷川丹後守組の同心佐野善次郎の養女嘉代の実父母・素性を内々に問い合わせた結果を報告する書付。初めは手寄を通じても判然としなかったが、善次郎本人の説明が得られたとする。善次郎は牧野嘉平次の子で、16歳で佐野勘助の養子となった。勘助の実子は病身で家督を継げず町医となって佐野養伯と称し、甲府へ移って17年前に没したという。嘉代は養伯の実娘で、3歳の時に父が死去し、介抱する者がないため善次郎が引き取って養育したと説明する。実母は甲府の町医龜山宗因の娘で、嘉代出産の際から病み、その年に亡くなったとし、牧野・養伯・宗因の家跡は当時絶えているという。善次郎の養父勘助には約40年前に西川忠次郎の役所で御用手伝をし、その後御書院組同心になった経歴がある。署名は桑山甚助、日付は5月16日、宛表示は御中臈やを。後続包紙は男子誕生に伴う母名書一通と問合書一通を掲げ、大炊殿の内分の指示、面高善右衛門の取次と本田孫九郎の納置、11月8日の書写・本書返却を記す。
4月3日長州征伐割当;甲子4月5日写置注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の4/整理ID 501-4
諸郷御先手を六組として列記する書付。川邊の物主は児玉佐平次、樋脇は圖師崎良助、高城は長束十郎、高山は山城新右衛門、大崎は益滿與右衛門、清水は武宮十五衛門とし、惣物主は高橋縫殿とする。高城郡の添記と「イ一陣」の表示も収める。四月三日、長州征伐に付いてこのとおり重ねて命じたとし、甲子四月五日の写置注がある。組割当・指揮担当を示すもので、各組の実人数や出陣・戦闘実績は記されない。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 37
佐近・頼安以下の相良氏系図と、清兵衛頼兄・喜平次父子を中心とする家伝。清兵衛は永禄十一年に球磨で生まれ、相良の本姓へ復した。慶長五年、福原右馬助が主取となる濃州大垣城に熊谷内蔵之助・木村宗右衛門・垣見和泉守・相良宮内頼房・高橋右近・秋月長門守らと籠城したが、秋月・高橋・相良は関東方へ赦免時の返忠を申し入れ、城内で五将を討って降参した。この策が清兵衛の謀によるとして徳川家康から感状を受け、近習に取り立てられ、肥後葦北郡を与えるとの申し渡しを辞退した後も御目見・近習同前とされた。球磨城主相良壱岐守の仕置を清兵衛が担った際の専横をめぐり江戸へ召され、清兵衛・喜平次の不仕合の風聞から一揆・内乱が起こり、清兵衛は津軽へ預けられた。頼安の妻を島津中書家久の娘とし、その子喜平次(内蔵丞)は元和三年に加治木へ赴き島津義弘の加冠を受けた。寛永十七年の球磨仕置処分時には薩摩屋敷へ遣わされ、その後公儀の構いを解かれ、薩州の臣として二千石を与えられたと記す。
嘉暦4年7月 / 冊子 333頁/原整理番号 130-9
嘉暦四年七月、橋口次郎入道の女子に代わって大蔵氏代道円が提出した重申状。薩摩国の河上平次郎入道の跡を継ぐ又次郎入道が、数度の召文に背いて参上・陳弁しないため、河上名内田薗等について裁許を受けたいと重ねて訴える。証拠として御教書案三通を副進し、うち二通は先に提出済みであること、又次郎入道の召文違背は極まっているため、定法に従って成敗するよう求める。
天文8年霜月吉日; 永正元年・大永年間(付随系譜) / 冊子 341頁/原整理番号 130-28
天文八年霜月吉日、薩摩国市来院内伊作田名一町七反三十歩の坪付を河上次郎左衛門尉へ示した文書。忠元・本田親信・伊集院大和守忠朗を記し、忠元については「光」異本および正本では忠光との校異を付す。付随系譜は十一代河上年家が平次郎・次郎左衛門尉を称し、入道舟伴斎、法名高山道慶居士であったこと、永正元年に河上信濃守女を母として生まれ、大永年間に清水の本田某が敵対した際、年家の領する重久名を本田某が襲取したことを記す。
4月10日(年未詳) / 冊子 424頁/原整理番号 10-6
島津元久が牛屎へ、七日付で平次郎方から届いた書状を確認し、牛屎が元久方の事情や相手方の籌策をたびたび知らせてくれることを喜んだ四月十日付返書。ある晩に聞いた件については、内々の穏当な者たちが折悪しく来なかったため、相談できしだい元久から改めて報告すると約し、こちらに関する疑問も引き続き知らせてほしいと求める。
4月10日(年未詳、同文参照) / 冊子 431頁/原整理番号 13-4
『諸家系図文書』10の6号文書と同一であるため、四月十日付島津元久書状の本文を省略した参照注記。参照先は元久が牛屎へ、平次郎方からの七日付書状を受領し、相手方の籌策に関する報告へ謝意を示して、内々の者との相談後に追報すると答えた返書である。本項には系線だけを続け、元秀が牛屎近江守を称し、法名を省忠としたことを記す。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
延元2年10月(1337、日欠) / 冊子 455頁/原整理番号 14-10
薩摩国指宿彦次郎入道成栄の代官・高野淡路房宗栄が、九月二十日、島津孫三郎頼久以下の『凶徒』を討つため大将が市来院へ発向した際に馳せ参じ、軍忠を尽くして敵一人を分取したと申告する延元二年十月付軍忠状。有間平次郎・山角平三郎入道・栗下宰相房の三名が戦功を見知った証人として挙げられ、宗栄はこれを根拠に恩賞を求める。