島津継豊直書
享保十三年七月三日 / 冊子 788頁/整理ID 2089
宗信の名付けを総州に頼んでいたところ、承諾を直接受けたので福山平太夫へ伝える旨を記す。
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享保十三年七月三日 / 冊子 788頁/整理ID 2089
宗信の名付けを総州に頼んでいたところ、承諾を直接受けたので福山平太夫へ伝える旨を記す。
享保十四年三月 / 冊子 788~789頁/整理ID 2090
益之助の名付けに際して福山平太夫が持参した書付と、前年七月廿一日に太守から名を授けられた件を伝える。関係書付を差し上げた経緯を島津久武が副状に記す。
享保十三年七月 / 冊子 789頁/整理ID 2091
七月三日に福山平太夫を江戸へ使者として立て、若子の名乗りを総州へ願い上げたことを記す。太守から直接承知を得た後、若子へ申し上げ、太守の前で名を付ける手順を述べる。
享保十三年七月 / 冊子 789~790頁/整理ID 2092
六月十三日の宗信誕生後、産所・乳母・御腰物などの準備、幕府への届書と使者の取次、名付けの儀礼を記す。六月十六日の大久保常春宛届書、七月三日の福山平太夫派遣など、関係者への伝達経緯をまとめる。
宝暦十年(日付不記・記事) / 冊子 751頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2295
吉貴の妹お栄が伊勢神宮参詣のため二月二十八日に鹿児島を発ち、家老義岡弾正久中・側用人福山平太夫安都らが供奉する。西海・山陽の駅路を経て大坂に到着し、滞在する旅舎へ伊予松山城主松平隠岐守定喬が訪れた。長く対面していなかった定喬がお栄に謁見したことを記す。その後、伊勢の両宮を参拝し、同年九月六日に鹿児島へ帰着する。
〈寛延元年〉九月九日(記事起点) / 冊子 105~106頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0305
家重の将軍職継承に対する琉球慶賀使の参府を記す。継豊は病気のため江戸に留まり、延享三年に家督を継いだ宗信が代行する旨を執政酒井雅樂頭忠知へ申し出て、許可された。中山王尚敬は慶賀正使具志川王子と副使與那原親方を薩府へ遣わし、寛延元年九月九日、宗信は正副使と従者九十八人を率いて薩城を出発した。島津兵庫久門、番頭格入來院石見定勝、家老鎌田典膳政昌、側用人本田孫右衛門親房、近習役澁谷喜三左衛門貫通・二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都らが同行し、家老平田掃部正輔、用人有川幸右衛門貞利、近習役堀堀右衛門貞起らが使節を監督した。十一日に向田の仮館へ着き、十四日に琉球使・琉人監官・諸有司が久見崎港で乗船した。
〈寛延四年〉四月二十三日 / 冊子 300~301頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0880
四月二十三日、重年が襲封後初の帰国許可を受け、家老義岡相馬久中・鎌田典膳政昌、側用人二階堂林左衛門行通、表用人伊集院十蔵久東、近習役福山平太夫安都・河野安之右衛門通古らと江戸芝邸を発った記事。伊勢路を経て五月十日に伏見、十二日に京都錦小路の假館へ入り、先例に従って松平豊後守資訓の第で将軍家の安否を問い、近衛内前の華第にも赴いて伏見へ戻った。十四日に出船して大坂、十八日に大坂を発ち播州路を経て二十一日に坂越から乗船し、六月二日豊前田之浦、翌三日大里、四日大里発、十三日薩西出水、二十一日麑府に着き、四配館と府城で継豊に謁した。同二十一日に番頭北郷民部久傳が謝恩使として東都へ赴き、二十九日黒崎から乗船、閏六月七日大坂、十日伏見、十一日伏見発、二十七日江戸芝邸着。七月十一日には酒井忠寄・秋元凉朝ら執政・若年寄へ、重年の書翰・連署・格書を届けた。二十八日に白書院で家重へ重年の芭蕉布二十端・三種二荷、家治へ三種二荷を献じ、初帰国の恩に謝した。久傳自身も家重へ太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻、家治へ太刀一腰・馬代白銀一枚を献じ、松平右京亮輝高と井上遠江守正敦がそれぞれ奏達した。八月五日には檜之間で武元が出席し、本多長門守忠就から奉書と家重の紗綾二巻を受け、続いて西城の秋元凉朝の第で家治への謝礼を行い、凉朝から奉書を直接授けられた。十三日に芝邸を発ち、東海道を経て九月十三日に大坂から乗船、十月二十四日に薩西久見崎港、二十六日に薩府へ戻り復命した。
〈寛延四年〉十月 / 冊子 340~341頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0996
重年が加世田日新寺への参詣、山川の児箇水での温泉入浴と郡県村落の巡見を行った記事。十月二十三日に鹿城を発ち、国老伊勢兵部貞起、側用人二階堂林左衛門行通、近習役福山平太夫安都・迫水善左衛門久芳、納戸奉行仁礼仲右衛門仲古らが同行した。谷山・伊作・田布施・阿多を経て二十五日に加世田へ着き、二十六日に日新寺へ参詣、二十七日に旅館の庭で加世田の士の歌舞、俗に加世田踊というものを見た。久志・泊・坊・鹿籠・知覧・頴娃を経て十一月朔日に児箇水へ赴き、十四日間温泉に留まった。十六日に山川、十八日に船で小根占へ渡り、大根占・田代・大姶良・高山・大崎・志布志・串良・鹿屋・花岡・新城・垂水などを巡って勝景・旧跡を見た。十二月十一日に垂水の海瀦から船で桜島有村へ渡り、十二日に横山仮館へ入り、二十二日に船で鹿城へ帰った。小根占通過の際には、国見城に住む迫田源右衛門の施水の行いを知った。源右衛門は父母を亡くしたが貧しく祭祀の費用を出せず、仏説の施恵が亡者の冥福になることを信じ、水場が数百歩も離れ、旅人が渇きに苦しむため、遠くから水を汲んで器に満たし往来の人へ施していた。二十年一日も絶やさない志を重年が憐れみ、十二月二十八日に源右衛門へ銭二千疋を賜り、妻と子茂右衛門にも賞を与えた。
〈宝暦二年〉九月十一日~十一月四日(別記は六月) / 冊子 373~374頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1130
宝暦二年の夏、中山王尚穆の襲封謝恩使今歸仁王子と副使小波津親方が薩府へ来ており、九月十一日に重年が琉球使正副と従者九十四人を伴って居城を発ち、江戸への参府に向かった記事。家老義岡相馬久中・島津主鈴久郷、側用人本田久米右衛門親房・二階堂林左衛門行通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らが従い、監琉使家老島津主殿久憑、表用人伊集院十蔵久東、近習役伊地知新太夫季周らも随行した。十二日に重年が向田仮館へ着き、琉球使も水引大小路へ着いた。十六日に重年は向田を発って九州を陸路で進み、十七日に琉球使と琉球人監官・諸役人は薩西京から大小二十艘で西海を航行した。重年は十月四日に豊前大里で乗船し、二十八日に播州坂越へ着船、翌日から山陽道を陸路で進んだ。十一月三日に尼ヶ崎で再び船に乗り、四日に大坂の河口へ着いた。河口では松平大膳大夫重就・細川越中守重賢・小笠原伊豫守忠総らが河船で出迎え、琉球使の旅員運送用に小艇三十八艘を給した。重年の乗船後は諸役人も小艇で指揮し、琉球使船を厳重に警衛した。琉球使らは重年より先に大坂へ入り、先例に従って島津加賀守忠雅の仮亭に泊まったとの元注があり、重年は大坂仮館で三日滞在した。別記は、前年六月の吉宗死去を琉球で知った中山王尚喜が榮野川親方に弔書を持たせ、当年六月に薩府へ届けた件を記す。先例により馬廻比志島孫左衛門國泰を使者として江戸へ送り、老中へ報書を呈した。
〈宝暦三年〉四月二十三日~十一月六日〔記事〕 / 冊子 404~405頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1239
宝暦三年四月二十三日、重年が家老義岡相馬久中、側用人二階堂林左衛門行通・澁谷喜三左衛門貫通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らを従えて江戸芝邸を発った記事。東海道・伊勢路を経て五月八日に城州伏見の仮館へ着き、一日留まった。十日に出発して川を下り大坂仮館へ着き、二日留まった。十三日に船で尼ヶ崎へ進み、播州を陸路で通って十六日に坂越へ着き、直ちに乗船して翌十七日に出帆した。二十七日夜に日州細島港へ着いたが、先の大火で民家の半ばが焼けていたため、供の人馬が到着するまで船内で三日待ち、六月二日に下船した。都濃、都於郡、高岡、高城、都之城、福山を経て九日に福山から船で鹿府築地亭へ着き、府城へ入った。都濃は秋月佐渡守種美領内、都於郡は島津加賀守忠雅領内の宿所との元注がある。その後、番頭喜入安次郎久福を謝恩使として江戸へ遣わした。久福は九州を進み豊前小倉から船で大坂へ渡り、東海道・伊勢路を経て七月十一日に江戸芝邸へ着いた。二十八日に登営し、家重へ重年の献物芭蕉布二十端・三種二荷を呈した。土岐伊豫守頼熙が取り次ぎ、久福自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じて拝謁し、井上河内守利容の奏達を受けた。続いて西城の松之間で家治へ重年の献物三種二荷を呈し、永井伊賀守直陳が取り次いだ。久福自身は太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。八月六日に再登営し、西尾隠岐守忠尚が檜之間へ久福を召して回答の奉書を渡し、土岐頼熙の取次で紗綾二巻を与えた。同日、西城の秋元但馬守凉朝からも回答の書翰を受けた。二十八日に芝邸を発ち、東海道を経て大坂から船で西海を航行し、十一月六日に薩府へ帰って復命した。出典は重年公御譜。
〈宝暦四年〉五月十一日~七月二十八日 / 冊子 478~479頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1457
重年が島津備中貴儔の娘との間にもうけた善次郎久方を、亡き兵庫久季の家統を継ぐ者として国元に置いていたところ、参勤に伴って江戸へ連れて行こうとし、老中松平右近将監武元へ相談して了承を得た記事。久方には前年十二月十五日に児服を改め兵庫と号したとの元注があり、重年との続柄について異なる記録があるが、実子であるため善次郎と復称したという注を付す。宝暦四年五月十一日、重年は久方を伴って出国し、家老伊勢兵部貞起・新納内蔵久品、側用人二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都・河野安之右衛門通古、近習役迫水善左衛門久芳らが従った。二十四日に豊前大里へ着いて乗船し、六月十九日に播州坂越へ着船した。播磨路を陸行して二十四日に大坂、二十六日に川をさかのぼり二十八日に伏見へ着いた。七月二日に伏見を発って美濃へ向かい、四日に大垣へ泊まった。濃・勢・尾三州で前年から役人が治水に従事しており、台許を受けて五日に大垣を発ち、その場所を巡覧した。郡代青木次郎九郎・代官吉田久左衛門が来て用務を執った。遠州金谷では連雨で大井川が増水し、六日間足止めされた。二十二日に江戸芝邸へ到着し、久方は芝邸東門から入り中奥へ入ったとの元注がある。二十五日に上使西尾隠岐守忠尚が芝邸へ来て参勤を労い、重年は同日老中各邸へ謝礼した。二十八日に登営して家重・家治に拝謁し、先例どおり品物を献上、老中各邸で謝礼し、西城でも謝礼した。随行家老伊勢貞起・新納久品も両公に拝謁し、それぞれ家重へ太刀・銀馬代一枚・紗綾二巻、家治へ太刀・銀馬代一枚を献じた。出典は重年公御譜。
宝暦十二年五月~七月 / 冊子 919~920頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2699
重豪は五月六日に参勤のため国元を出発し、島津左中・主鈴、福山平太夫・赤松甚右衛門・伊地知新太夫・四本庄藏らが随行した。八日に阿久根へ着き、十日に出帆、六月二十日に播州坂越で上陸し、二十五日に大坂邸へ入って三日滞在、二十九日に出発して伏見に二泊し、七月二日に伊勢路・東海道へ進み、十七日に神名川駅、十八日に大森へ着いた。あらかじめ許可を受けて高輪邸に立ち寄り、淨岸院の起居を尋ねてから芝邸へ入り、留守居を通じて老中に到着を報告し、翌十九日には井上河内守利容と他の老中を訪ね、将軍の安否を伺って参府を告げた。二十一日に将軍使者松平右近将監武元を芝邸の書院へ迎えて懇切な慰労を受け、先例どおり饗応し、その後老中宅を訪ねて礼を述べた。
天保4年3月22日~4月27日(年次目録、月日本文) / 冊子 970~971頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2704
重豪公御譜中の記事。三月二十二日に奥平昌高の使者黒瀬市兵衛が下町会所へ、四月四日に松平美濃守斉溥の使者山内仁太夫ほか計三十四人が上町会所へ来館した。重豪葬送の日、両方の使者が福昌寺に香奠銀を献じて焼香し、斉興は各使者に銀十枚を贈って労をねぎらったと記す。使事の後は各々の本府へ帰った。四月十三日から二十七日まで福昌寺で中陰仏事を行い、初日は斉興が島津安藝忠喬、斉彬が島津啓之助忠剛を遣わして祭文を献じ焼香・拝礼し、斉宣も家老を遣わし白銀十枚を献じた。十五日夜の儀礼と宮崎成市の法筵への助力、十六日の諸有司、十七日の諸士・組与力による献祭文と木主への礼を記す。末尾には松平刑部大輔の代として土岐平太夫政守が焼香し、銀十枚を附して木主を拝したことが続く。来館・弔問、褒賞銀と供え、各代参者と法事の順序を分ける。後続の無番号附属祭文は別行として扱う。
享保二十一年三月二日~四月十五日 / 冊子 353頁/整理ID 843
病中の島津継豊が参勤期限を重んじ、三月二日に鹿児島を発して東行し、旅程を経て四月十五日に江戸芝邸へ着いた。
享保二十一年三月二日~元文元年五月七日 / 冊子 383頁/整理ID 892
病中の継豊が薩摩を発して山陽・東海道を経て四月十五日に江戸芝邸へ着き、五月七日に元文へ改元された経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 16~17頁/原整理番号 54/整理ID 54
将軍家治が新たに大統を継いだことに伴い、重豪が宝暦十四年に琉球国司尚穆の聘使を率いて江府へ赴く予定であったが、寒疾を憂慮して許可を求め、琉使に先立って三月廿二日に国を発った経緯を記す。家老島津久金・高橋種寿、側用人福山安都・宮之原通直、近習役二階堂諸等が供奉した。九州路を経て四月六日に大里へ着き、翌日、赤間関を渡って山陽道を進み、四月廿四日に大坂へ到着。廿六日に大坂を発ち、河流を遡って枚方に泊まり、廿七日に伏見へ着き、廿九日に伏見を発った。伊勢路・東海道を経て五月十三日に芝の邸へ到着する。注は、予定を早めた参府であるため上使の来訪に及ばなかったとする。その後、幕府に謁したいと望みながら病のため登営できず、次第に回復した六月廿三日、用番松平右京大夫輝高の宅を訪れ、将軍家の機嫌を伺い、参府の拝礼を請うて引き返した。
宝暦十三年正月~十二月(本文。目録表題は宝暦十二年) / 冊子 972~973頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2765
重豪の宝暦十三年正月から十二月までの動静を列記する。翁舞の観覧、求馬の急病死、火災に伴う二万両の借入れと四千両の返納許可、二月の水痘、四月十五日の登城と二十八日の芝出発、六月十四日の出水到着・二十一日の府城到着を記す。御側御用人・御納戸奉行らの任免、老齢で多務の島津貴寧への政務免除と腰刀下賜、近寺士への弓砲訓練指示、鷹狩り・舟遊び・琉球踊り、九月二十六日の図書久完の死去も収める。十月朔日の玉川王子・豊見城王子への饗応、十一・十二月の射礼、十二月十八日の今泉濱亭訪問、二十三日の散楽・天狗舞による年忘れまで記録する。
享保15年12月吉日 / 冊子 130~131頁/原整理番号 73
木村時央が、継豊から預かった御備組二通・御陣取二通・御人数賦帳二冊を永く厳重に保護し、他人の閲覧を禁じる旨を記す。一空・上原・田中・可竹らの相談による軍役賦の重要性と、古流軍法を求められた際は時宜を見て提出すべきことを述べ、指示なく急に差し出して差障りを生じないよう後年への心得とする。
天文7年3月 / 冊子 199~201頁/原整理番号 67
巻末目録では『莫根氏系図』、本文見出しでは『莫根系図』とする系図。平良文(村岡五郎・従五位下)から忠朝・孝輔・貞道へ続き、貞道を伊作平三、源頼光四天王の一人と記す。貞言・貞元・季基・為賢、兼輔・兼重・季兼・良忠、成道・兼時、成兼以下の諸系線を展開し、河崎・神崎・山口・浜田・樋脇などの名字・居所、官途・位階・法名を添える。成綱―成友の系では鎌倉の長崎圓浄阿闍梨との関係を記し、成友以下から成行・成長・貞友、貞勝・伊成らへ分岐する。貞勝は兵部少輔で筑後にて討死、成政の子成郡は兵部少輔で隈城にて討死とする。成義は山崎八郎左衛門尉・法名浄圓、成智は豊前守で薩州から百次地頭と所領三十町を給わったと記し、成通・成清へ続く。末尾は丹波守成清が天文七年三月に百次で討死した記事で終わる。
享保十三年七月二日 / 冊子 787~788頁/整理ID 2086
江戸で男子が生まれた件について、若子の名乗りと付き添いの扱い、継豊への申し上げ方を吉貴が家臣へ指示する。福山平太夫を通じて江戸に伝える旨も記す。
年月日未詳 / 冊子 223~224頁/原整理番号 333-5
藪図書助と佐分利加左衛門も三の丸一番乗りを申し出たが、その事実は不分明であると記す。未刻、戸田左門の対面所で休息していた上使衆・諸大将は、物見櫓から鍋島勢が出丸へ乗り入ったとの報を受けた。松平伊豆守は自ら櫓に上って確認し、諸勢は騎乗して城へ進み、三の郭へ乗り込んだ。記事後半は長岡佐渡勢の働きを記し、持筒頭らの鉄砲射撃、平破平太夫の一番槍、松野縫殿助・吉弘四郎太夫兄弟の首取りと証人を挙げ、長岡佐渡勢の働きについて杉山次郎太夫の差出があるとする。
二月廿九日 / 冊子 242頁/原整理番号 333-27
二月二十七日、早水一郎兵衛が本丸北東の石垣腹に取り付き、投石で兜を数度打たれながら堀を越え、本丸東の海手で敵と槍を合わせて首を取った経過を丹羽亀之丞へ申し出たもの。築紫大膳・澤木弥平太夫・歩御使番吉岡瀬兵衛・森田弥五右衛門を証人に挙げ、同日夜半まで本丸に留まり、津川四郎右衛門へ相談後、桑木浅右衛門らと本陣へ戻ったと述べる。