島津義久譜
年月日未詳 / 冊子 795頁
島津義久譜は、図書頭忠長の上洛に際し、義久と少将忠恒が徳川家康へ違心のないことを血判の誓紙で示し、提出した経緯を記す。No.1591の起請文の由来説明に当たる。
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年月日未詳 / 冊子 795頁
島津義久譜は、図書頭忠長の上洛に際し、義久と少将忠恒が徳川家康へ違心のないことを血判の誓紙で示し、提出した経緯を記す。No.1591の起請文の由来説明に当たる。
正月十一日 / 冊子 142頁
羽柴秀吉が関白として九州の戦乱停止を命じ、島津方が従わなければ討伐すると通告した書状を、上井覚兼の日記から採録した文書。島津義久は正月十一日付で返答し、豊薩和睦への姿勢を述べながら、現状では命令を受け入れ難い事情を説明した。秀吉の九州停戦令と島津氏の抵抗が正面から現れる、九州征伐直前の重要史料である。
年月日未詳 / 冊子 863頁
文禄四年正月二十日、近衛龍山公の東山邸で和歌会が催され、島津義久が参加して詠草を残したことを記す。 豊臣政権下の京都で、義久が近衛家の文化的な交遊圏に加わっていたことを示す短い記事で、次の詠草の成立事情となる。
年月日未詳 / 冊子 867頁
文禄四年三月二日、島津義久が近衛邸の糸桜を見て和歌を詠んだことを記す。当時、近衛信輔は薩摩に滞在しており、邸の主人が不在だった事情も付記される。 近衛家と島津家の往来を背景に、義久が京都の邸宅と花見文化に親しんだ様子が分かる。
年月日未詳 / 冊子 916頁
島津義久の息女に関する系図記事。天文二十年八月二十二日に生まれ、母は島津忠良の息女で、島津義虎の室となったこと、慶長八年十一月十二日に上井で五十三歳で没したことを記す。
慶長九年 / 冊子 932頁
島津義久の詠草。慶長九年四・五月ごろ、日照りで田地が荒れたため雨乞いとして、五月雨の雲が重なり田面を潤すことを願う歌を詠んだ。
年月日未詳 / 冊子 947頁
島津義久譜は、慶長九年に義久が大隅国府に宅地を定めて普請を行い、十二月に富隈から新しい居所へ移ったと記す。
慶長九年十二月六日 / 冊子 948頁
島津義久の詠草。国府移居後、大中良等の夢想を契機に、水路の新雪、庭の松、稲荷山の紅葉を題として三首を詠んだ。
年月日未詳 / 冊子 808頁
徳川家康の誓書を島津忠長が受領し、厳重に封じて和久甚兵衛尉に薩摩へ送らせた経緯を記す。六月上旬に龍伯へ届き上洛を決意したが、伊集院忠真の党が再び蜂起したため、出立できなかった。
年月日未詳 / 冊子 867頁
文禄四年二月二十九日、薩摩・大隅・日向諸県の検地と境界確定が終わり、豊臣秀吉がその功績を聞いて土地支配の書を与えた経緯を記す。 さらに朝鮮在陣中の島津義弘を召還し、四月十二日付の台書を与えたとする。太閤検地後の領国支配と義弘の帰国命令を結ぶ記事。
(天正20年)7月10日 / 冊子 583頁
薩州伊集院の寺脇名にある宣徳寺領五町を妙谷寺・霊徳寺・善勝寺の替地として寄進し、田中之門一町五段と野田名の浮免五段を雪窓妙安の菩提所へ加えると定めた証状案。 雲舟和尚へ土地を進め、後代に違背する者は貴久の子孫ではないと強く誓約する。表題は義久証状案だが、本文末には兵庫頭義弘の署名と龍伯尊老宛が見える。
八月八日 / 冊子 562頁
近衛信尹が島津義久(龍伯)へ、先日の美作を介した音信への返事を送り、すでに届いたであろうと述べる。今回の伏見の仕合は誠に不思議千万で言語に尽くせず、詳しい様子は島津義弘(惟新)から注進があるはずなので書き尽くさず、特段の用事はないが使者の便に一筆したと伝える書状。
慶長五年十二月五日 / 冊子 720頁
平田宗敏と村田経永が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)に異心なく奉公すること、親類に逆心者がいれば直ちに言上すること、自身が讒言を受けた際は糺明に従うことを誓った連署起請文。
慶長五年十二月 / 冊子 720-721頁
伊集院久信(元巣)が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)への忠節を誓い、高麗出陣時に義弘への申告をめぐって壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定する。親子・親類・他人を問わず逆心や不正を知れば言上し、隠蔽しないことも誓約する。
(慶長五年頃) / 冊子 730頁
伊集院久信(元巣)が島津義久(龍伯)・義弘・忠恒への忠節を誓い、高麗出陣時に壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定した起請文。本箇所はNo.1416と同文のため本文が省略される。
(慶長十年)二月廿二日 / 冊子 6頁
山口直友が島津義久(龍伯)へ、新年の祝意を述べ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定なので安心するよう知らせた書状。前年に比志紀へ事情を申し入れたことに触れ、今年は義久自身が上洛するのが望ましいと勧め、申し入れが少ないことを疎遠のためと思わず、家康・義久との関係は深いと述べている。
慶長六年八月二十四日 / 冊子 777頁
山口直友と本多正信の連署起請文。本文はNo.2547と同文のため本箇所では省略され、島津義久譜に収められていることだけが注記される。
(慶長七年)四月十一日 / 冊子 807-808頁
徳川家康が島津義久へ、薩摩・大隅・日向諸県の所領を従来どおり安堵し、少将忠恒への家督譲与にも異議を差し挟まないと誓う。兵庫頭義弘についても取り決めを守る旨を神仏にかけて保証した起請文案。
(慶長八年)二月十六日 / 冊子 883頁
近衛信尹が島津義久へ、市成入道が上洛して前年冬の書状と菊方宛の小袖を届けたことに礼を述べる。義久の上洛を望み、徳川家康が三月下旬に上洛するとの風聞も知らせた。
(慶長十年)正月十一日 / 冊子 2頁
徳川家康が島津義久から音信として唐墨二挺と唐折敷二十枚を贈られたことを喜び、受領の礼を述べた御内書。
天正17年6月24日 / 冊子 447~448頁
平田氏・伊地知氏・新納氏ら二十名余の家臣が、島津義久(龍伯)・義弘(惟新)へ忠節を尽くし、互いに秘密の謀議や派閥を結ばないことを誓った連署起請文。 命令には一致して従い、共同で奉公し、違背した場合は梵天・帝釈・八幡・天満天神など諸神の罰を受けると記し、豊臣政権服属後の家中結束を図った重要史料である。
(慶長五年)四月廿七日 / 冊子 537~538頁
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、徳川家康へ出仕して庄内平定を祝賀したところ機嫌がよく、入来院又六と善載坊が召し出され御前で食事を賜ったと報じる。長尾殿の上洛延期の事情を確認するため伊那図書頭と奉行衆が使者を添え、善載坊が帰国時に詳報する予定であること、又八郎にも一連の事情を伝えるよう依頼する。
七月十四日 / 冊子 551頁
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、当地が騒乱となり手元の人数が不足しているため、速やかに人数を差し上げるよう求める。情勢の詳細は島太郎兵衛への条書に含めたとして省略し、中務大夫も当地にいて諸事を相談しており、怠りなく対応していると伝える書状案。
(慶長十一年)十一月六日 / 冊子 92頁
桑山幸晴が島津義久に、祐乗法印を通じて送った虫薬が効いたと聞いて喜び、返礼の緞子二端に謝意を述べた書状。上方で用事があれば命じてほしいとも申し出る。
(慶長十二年)八月八日 / 冊子 128頁
慶長十二年八月八日、島津惟新が島津義久へ、犬追物実施日の聞き違いを照会し、自身の養生と服薬、体調の回復、犬追物検見の段取り、先に贈った葉茶壺・小壺などについて報告した書状。
文禄3年 / 冊子 807~808頁
義弘が竜伯こと島津義久へ伝えるべき事項を列挙した条書案。国元検地の処置、在陣軍の人手不足、御朱印衆の人数、朝鮮諸城の在番体制について石田三成に確認し、その回答を国元の軍役・諸準備へ反映させるよう求める。 さらに乗馬・指物・武具、翌年の軍役、陣中費用、兵糧・蔵米、又八郎の渡海遅延などを挙げる。朝鮮在陣の問題を国元へ一括して伝え、動員と装備の立て直しを求めた重要な政策メモ。
(慶長十五年)十一月七日 / 冊子 302頁
慶長十五年十一月七日、祥寿院瑞久が島津義久に、家久が無事に帰国したことを喜び、龍伯の咳・痰などの症状に合わせて薬を調進した書状。寒さを迎える前に服薬と養生を専らにするよう勧め、福崎新兵衛尉への用件も託す。
(慶長十五年)十月十日 / 冊子 299頁
慶長十五年十月十日、島津家久が島津義久に、九月五日付の書状を受け取ったと知らせ、駿府・江戸での用務を無事終えて伊勢を経て大坂へ着いたことを報じた書状。帰国船を用意し、先発の者から詳しく伝えさせると述べる。
(慶長十五年)十一月三日 / 冊子 302頁
慶長十五年十一月三日、山口直友が島津義久に、島津家久の関東下向と帰国が成功したことを祝い、太刀一腰・馬代三百疋・緞子五巻を贈った書状。琉球への対応は比志島・伊勢らと相談し、家久とも十分協議するよう求める。
(永禄十一年)六月十六日 / 冊子 199頁
足利義昭が入洛に当たり、殿料を諸国へ申し遣わしているため、島津義久にも奔走するよう命じた御内書。詳細は細川藤孝が申し伝えるとする。
隆慶四(元亀元)年六月廿七日 / 冊子 237頁
中山王が、島津義久の命を受けた広済寺雪辱東堂が書状と多数の方物を携えて琉球へ到着し、祝意を伝えたことへの返書。両国の隣好を今後いっそう長く続けることに同意し、詳細は雪辱東堂が説明するとして、返礼品を別紙に記す。
(元亀元年)十月廿二日 / 冊子 240頁
細川藤孝が島津義久へ、上洛礼の使者喜入季久から太刀一腰・馬一疋・黄金百両を将軍へ進上した旨を披露し、将軍が喜んで御内書を下したと報じた書状。さらに太刀一振が義久へ返礼として下賜されたので、趣旨を了承するよう伝える。
(天正元年)九月十一日 / 冊子 313頁
相良頼房が島津義久へ、肝付方面への長期在陣と軍事行動を察していると述べる。遠方のため無音になっているが疎意はなく、現在の戦況を詳しく知りたいとして、定泉坊から委細を伝えさせ、改めて意向を聞きたいとする。
(天正四年)十一月五日 / 冊子 505頁
相良頼房が島津義久からの誓書を畏れ入り、代々の関係と近年の格別な指南を踏まえて永続的な親交を確かめる。詳細は善興寺に伝えさせ、礼として太刀一腰・織筋一端を進上した書状。
(天正五年)十二月十六日 / 冊子 531頁
相良義陽が島津義久の日向速やかな平定を祝し、祝儀として腹巻一領を贈る。今後も変わらぬ親交を望み、詳しくは使者の普門寺が述べるとする。
天正十二年二月十四日頃 / 冊子 842頁
足利義昭が島津義久へ、前年に伝えたとおり羽柴秀吉の尽力によって当春の入洛が確実となったので、引き続き忠節を尽くすよう求め、先に春日局を年内に上洛させたと伝えた御内書。上井覚兼日記中に写される。
(天正13年)(十四)10月2日 / 冊子 112~113頁
羽柴秀吉が島津義久へ、九州の国郡境界をめぐる争いを停止し、双方の言い分を京都で審理して裁定すると命じた直書。使者を上洛させて「天下静謐」の方針に従うよう求め、命令を受け入れなければ処罰する意向も示す。豊臣政権が九州停戦・国分裁定へ直接介入し、島津氏へ服属を迫る段階を示す重要文書である。
〔天正15年〕5月19日 / 冊子 334~335頁
木食応其が島津義久へ、府内以来伝えてきたことが一向に進まず、事態の遅延を強く案じていると訴えた書状。義久が正式に礼を尽くせば諸事は速やかに整い、豊臣秀吉も早く上洛できて島津家・領国のためになると説く。すでに人質を差し出した以上、なお油断して交渉を滞らせるのは嘆かわしいとして、昼夜を分かたず処置を急ぐよう迫る。
(天正15年)5月20日 / 冊子 335~336頁
桑山重晴が島津義久の側近へ、毛利方の番衆が「当城」へ入る予定で、三ツ山に近いため警戒が必要だと伝えた書状。谷下へ兵が寄せて来ても自分が受け取り、城内へ人数を入れるつもりだと述べ、さらに兵を置くべきか現地の様子を知らせるよう求める。豊臣方進駐後の城郭守備と兵員配置を相談する実務連絡。
天正15年9月8日 / 冊子 353頁
豊臣秀吉が島津義久から祝儀として小袖二領が届いたことを喜び、長谷川右衛門尉や玄旨にも伝えるよう述べた朱印状。上洛中の義久と秀吉の贈答・主従儀礼を示す。
天正15年9月9日 / 冊子 353頁
近衛前久が、前日の島津義久の来訪と懇志に礼を述べ、外聞・実儀ともに祝着で安心したと伝えた書状。在京中は折々に会って物語をしたいと望み、近衛家と島津氏の公家社会での親交を示す。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
八木二千石を島津義久へ与えるので確実に受領するよう命じた朱印状。 上洛中の島津義久に対する具体的な扶持・知行給付を示す短い文書である。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
蜂須賀阿波守が借用していた米千石を島津義久へ与えるので、確実に受け取るよう命じた朱印状。 単なる所領給付ではなく、他大名の借米を島津家の扶持へ振り替えた具体的な財政措置が分かる。
天正15年10月14日 / 冊子 356頁
豊臣秀吉が島津義久の在京生活を支えるため、上方で一万石を宛行うと定めた判物。具体的な所付は翌春に決めることとし、当年分は物成の半納分として八木五千石を与え、関係者に配分するよう命じる。降伏後に京都へ留め置かれた義久の生活基盤を豊臣政権が保障したことを示す。
(天正15年)12月28日 / 冊子 365頁
歳暮の祝儀として島津義久から呉服三領が届いたことを喜び、詳しい返礼は石田三成から伝えるとした朱印状。九州仕置後も贈答を介した秀吉と義久の主従儀礼が続いていたことを示す。
(天正16年)10月21日 / 冊子 420~421頁
祐乗房法印が島津義久へ、前年以来の懇切、とりわけ養生への配慮に深く礼を述べる。義久の下向時に取り紛れて十分に閑談できなかったことを惜しみ、十月十四日の帰国を喜び、蜜壺を進上して今後も薬種などを用意すると申し出た書状。 「義久公御譜中、石田殿宛御案文の次に入る」という収録位置の注記と、考按が「十四日帰国」を義久の鹿児島帰着と照合している点から、義久宛と判断できる。
天正17年2月12日 / 冊子 440頁
豊臣秀吉が、島津義久から鉄砲で仕留めた雁二十羽と鴨五十羽が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は石田治部少輔(三成)と山中山城守から申し伝えるとしており、島津方による獲物贈答の具体的な数量が分かる。
(天正17年)7月20日 / 冊子 450頁
小早川隆景が、夏の間は京都から暇を得て領国へ戻っていたことを島津義久へ知らせた書状。 新納武蔵から先に伝えた用件に触れ、自身が再び上洛する際、義久が年内に京都へ着けば参上して挨拶したいと申し入れている。
(天正19年)12月28日 / 冊子 522~523頁
豊臣秀吉が、来る三月の高麗渡海と仕置に備え、浅野長政の渡海時に島津義久も同時に渡るよう命じる。新納武蔵は妻子を京都へ差し出したうえで義久に従軍させ、大隅・薩摩・日向に残す留守居の妻子も調査して京都へ置き、在陣者を帳面に載せるよう指示する。渡海しない侍を厳罰に処すとした、出兵と人質管理を一体化した朱印状。
(文禄元年)6月12日 / 冊子 570頁
豊臣秀吉が、島津義久から朝鮮渡海についての言上と白糸二十斤が届いたことを喜び、詳しくは石田木工頭から伝えるとした朱印状。 軍事報告への返答と多量の白糸の贈答受領を一通にまとめており、秀吉と義久の間を石田三成が取り次いだことが分かる。