島津忠宗警固番役覆勘状
正応二年十二月十五日 / 冊子 360頁
西侯又三郎が要害警固番役を三箇月勤仕したことを確認し、恐々謹言として提出した島津忠宗の覆勘状。
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正応二年十二月十五日 / 冊子 360頁
西侯又三郎が要害警固番役を三箇月勤仕したことを確認し、恐々謹言として提出した島津忠宗の覆勘状。
正和四年九月廿日 / 冊子 446~447頁
延時氏文書中の仮名書状。先年の紛争で、忠種の甥延時又三郎が成仏へ出した九年年貢分付状などをめぐり、一門が当時の経緯と証文内容を連署して説明し、所領相伝の事実を証明する。
元亨四年十月廿一日 / 冊子 523頁
京都御使の命を受け、関東御早打が下着した間に延時又三郎忠種が馳参したことを報告し、披露を求めた着到状。
嘉暦元年十二月五日 / 冊子 549頁
延時又三郎入道が関わる宇佐御造営役の訴訟について、忠治母の宿所や所持物・銭貨をめぐる争いを和談し、互いに訴訟を止め、後日も異議を申し立てないことを定めた平忠治の和与状。
年月日未詳 / 冊子 554頁
島津氏久を中心に、宗久・師久・又三郎・三郎左衛門尉らの親子・兄弟関係を図示した『島津氏世録』所載の系図。
元徳元年十二月廿五日 / 冊子 573頁
伊集院内の田園をめぐる大隅式部又三郎入道と島津入道慶の相論について、前月九日の和与状に従い、双方の所領分を打ち渡して知行させるよう命じた鎮西下知状。
元徳二年九月日 / 冊子 584頁
八幡新田宮雑掌道海が、御神拝に用いる神馬・供米などを延時又三郎入道が抑留しているとして、先の御教書と重訴状に従い、相手方へ弁明を命じるよう求めた申状。
元徳二年十月廿六日 / 冊子 585頁
八幡新田宮雑掌の訴えに基づき、御神拝に関わる神馬・御供米などについて、早く弁明を提出するよう延時又三郎入道へ伝えた渋谷覚禅の施行状。
元徳二年十一月日 / 冊子 586頁
薩摩郡延時名に属する者を列記した交名注文。吉富又太郎入道、延時孫三郎入道、延時又三郎入道、東郷入道、東郷六郎入道、同妹中左、同大夫房、在国司入道、白浜五郎入道、山田九郎入道などを掲げる。
元弘三年八月日 / 冊子 618頁
白浜三郎道季法師が、北条英時誅伐時の軍忠を申告した二箇条の申状。五月廿五日の鎮西博多合戦で先陣から北門を攻め、敵の討死・敗走を確認したこと、その後も惣州の持人として伊作田又三郎・大隅国加治木彦五郎らと守護方に従い筑州へ赴いたことを述べ、恩賞を求める。
建武三年三月廿八日 / 冊子 658頁
肝付八郎兼重以下の凶徒追討について、守護の催促に従って参陣し、軍忠を尽くすよう新田宮執印又三郎に命じた足利尊氏御教書。
建武三年四月廿五日 / 冊子 662頁
肝付八郎兼重与党の凶徒追討のため、薩摩国御家人延時又三郎入道法仏が参候したことを届け、披露を求めた着到状。
建武三年四月廿八日 / 冊子 663頁
肝付八郎兼重与党の凶徒追討のため、薩摩国二宮新田宮執印又三郎友雄が参候したことを届け、披露を求めた着到状。
建武四年二月十二日 / 冊子 681頁
牛屎郡司らに対し、凶徒追討のため忠節ある者を率いて参陣し、軍忠を尽くすよう命じた足利直義軍勢催促状。
建武四年三月六日 / 冊子 682頁
延時信忠が薩摩国から入道法佛の使者として参着したことを証し、守護代沙弥栄定が見知した旨を記した軍忠状。
建武四年八月日 / 冊子 695~696頁
延時又三郎入道法仏が市来院での合戦に参加した軍忠状。八月十日に市来院へ赴き、十四日の赤崎合戦で宮里九郎入道・石塚平太郎・小河小太郎らと戦い、夜戦で敵を斬ったこと、同月十日の城攻めで弟彦五郎忠範が代官として参戦したことを述べ、証判を求める。
建武四年十一月日 / 冊子 700~701頁
延時又三郎入道法仏が市来院城郭の合戦で軍忠を尽くした軍忠状。十月十八日夜の合戦、同十九日の平城攻め、十一月十七日の再出兵、同十八日の平城・市来城攻撃などを列挙し、島津忠国、宮里九郎入道、重久将監らの見知と証判を求める。
暦応四年四月七日 / 冊子 736頁
新田宮執印職と神領をめぐり、延時又三郎入道・宮里郷郡司弥次郎入道らの押領を停止し、執印友雄に所領・所職を安堵すること、訴訟文書を正文として扱い命令を履行することを誓った沙弥禅巌請文。
年月日未詳 / 冊子 767頁
島津元久が又三郎・陸奥守を称し、貞治二年癸卯五月廿日に大始良で生まれ、母が伊集院長門守忠国の娘であることを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 767頁
『近世略系図』により、元久の初名を孝久、通称を又三郎、官途を陸奥守とし、誕生年月日と母を伊集院長門守忠国の娘とする系譜関係を掲げた記事。
観応三年四月十日 / 冊子 818頁
足利尊氏が島津又三郎へ、前年九月二十八日の筑前国金隈合戦で若党らが討死し、自身も負傷したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年九月十八日 / 冊子 827頁
足利義詮が島津又三郎に、父島津上総入道の勢力が衰えたため、分国の地頭・御家人と同心して直冬以下の凶徒を討つよう命じた御教書。
文和元年十月十三日 / 冊子 827頁
足利尊氏が島津又三郎に、大隅・薩摩両国の凶徒退治について六月二十一日付注進状を披見し、その軍忠を神妙と賞した感状。島津氏に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。島津又三郎ほかと九州ほかを結び、誰が何を対象に、どの権利・義務・処置を実行したかを具体化する。
文和二年二月一日 / 冊子 836頁
一色範氏が島津又三郎に、日向国本郷と大隅国加治木院の地頭職を軍功の賞として宛行い、先例どおり支配するよう命じた書下。
文和二年三月十日 / 冊子 837頁
足利義詮方が島津又三郎に、大隅国凶徒退治の注進状を披見し、分国の地頭・御家人らを催して退治策を進めるよう命じた御教書。島津氏・軍勢催促について補任・安堵・裁許または執行を命じ、判断の根拠と現地で守るべき条件を示す。
文和二年五月十一日 / 冊子 839頁
足利尊氏が島津又三郎氏久に、薩摩国島津庄内智覧院郡司四郎忠世跡を軍功の賞として宛行い、先例どおり支配するよう命じた下文。島津氏久・所領宛行・勲功に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
文和二年五月廿二日 / 冊子 839頁
沙弥某が、島津又三郎氏久に宛てた代官給に関する当月十二日付御下文を、関係者へ沙汰付けするよう命じた施行状。
文和二年五月廿二日 / 冊子 840頁
沙弥某が、薩摩国島津庄内智覧院郡司四郎忠世跡を当月十一日付御下文に基づき島津三郎左衛門入道道璟へ沙汰付けするよう命じた施行状。
文和二年七月廿七日 / 冊子 841頁
足利義詮方が島津又三郎左衛門尉に、先月十四日付注進状を披見し、国で忠節を尽くしたことを賞して今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。島津氏久・凶徒退治・参陣について補任・安堵・裁許または執行を命じ、判断の根拠と現地で守るべき条件を示す。
年月日未詳 / 冊子 71頁
島津伊久の三男久照について、幼名を生黒丸、別称を北殿・又三郎、法名を道音と記した一流系図。
年月日未詳 / 冊子 73頁
永和元年、北郷讃岐守義久が日向国南郷に城を築き、都城と名付けて居城としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 73~75頁
永和元年の改元と南朝天授元年の年紀を示し、野辺盛久らの旧領回復願い、今川了俊の九州諸国での軍事行動、北郷義久ら島津方諸将の戦功を記す。さらに、島津氏久が今川了俊との関係を断って南朝と再び和睦した経緯を詳述する記事。
年月日未詳 / 冊子 77頁
北郷讃岐守義久の譜中から、永和元年に都城を築いて移居したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
北郷祐山兄弟が本領を確保して庄内南郷の都城を取った頃からの攻防を叙述する『山田聖栄自記』の記事。相良・伊東方が都城へ迫り、島津氏久が志布志から天ヶ峯に陣取って救援した経過を記す。二月十九日頃の合戦に際し、平田重親は甥の氏親に、自身は討死するので生きて又三郎殿に仕えるよう諭した。重親は討死し、氏親は七か所を負傷しながら生還したという。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
年月日未詳 / 冊子 105頁
天ヶ峯から平長谷へ陣を移した島津氏久方の戦闘を記す。財部勢が援軍として加わり、新納実久・本田重親らが部隊を編成して一揆軍の陣へ攻撃した。敵味方の隊列、先陣・後陣の動き、戦況の転換と勝敗を追い、救援軍の指揮系統を示す。
年月日未詳 / 冊子 105~107頁
山田聖栄が平長谷・天ヶ峯周辺の決戦を詳細に記した自記。島津氏久・北郷義久方と伊東・相良方の軍勢配置、各隊の進退、本田重親・新納実久ら武将の一騎打ち、負傷・戦死を挙げ、隊列が崩れた後の追撃と戦場収拾までを具体的に描く。
年月日未詳 / 冊子 142~143頁
島津国史として、明徳二年・南朝元中八年の伊集院久氏旧領の処置や島津勢の上洛命令、相国寺領をめぐる争いを記し、続いて明徳三年・元中九年の後亀山天皇から後小松天皇への三種神器引渡しと皇統について論じる。
明徳二年八月七日 / 冊子 143~144頁
足利将軍家が島津又三郎に、相国寺雑掌が申す日向国穂佐院・三俣院などについて押領人を退け、寺家雑掌へ沙汰付けて知行させるよう命じた御教書。
明徳二年九月八日 / 冊子 144頁
足利将軍家が島津上総介に、島津又三郎を同道して速やかに上洛するよう命じた御教書。
明徳三年九月十七日 / 冊子 144頁
足利将軍家が島津又三郎に、相国寺雑掌が申す日向国穂佐院・三俣院などで高木が半済と称して行う押妨を止め、一円の下地を寺家雑掌へ沙汰付けるよう命じた御教書。
明徳三年 / 冊子 145~146頁
渋谷重頼が今川了俊の御教書に従い、島津上総介・又三郎方へ忠節を尽くすと誓った起請文。従来の守護人との共同を停止し、将軍家・公方の命令に応じて軍役を務めることを定め、違反時には諸神仏の罰を受けるとして入来院氏の帰属変更を明確にする。
応永元年八月十六日 / 冊子 146頁
島津上総介・又三郎が将軍家を支持し、守護人との共同を止めることなどを定めた室町幕府の事書。本文はNo.529と同文として省略され、明徳三年の今川了俊による条書との注記がある。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷久秀譜として、応永元年に今川貞兼方が梶山城を襲い、島津元久が救援に赴いたが御方が難儀し、北郷忠通が二月十七日、久秀が三月七日に戦死したこと、その夜に野々三谷城を攻略した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁
北郷義久を祖として、子の久秀(藤次郎)・忠通(又次郎)・知久(中務少輔)を示す北郷氏の系図。
応永元年八月十六日 / 冊子 154頁
足利将軍家が今川伊予入道に、島津上総介伊久・又三郎元久を討伐するよう命じ、別添の事書に従って速やかに沙汰するよう伝えた御教書。
年月日未詳 / 冊子 158頁
島津元久譜として、梶山で兄二人を失い寺で喝食となっていた北郷知久を還俗させ、加冠・命名して宝刀鵜戸丸を与え北郷家を継がせたこと、応永十七年に将軍足利義持から中務少輔に任じられたことを記す。
応永四年五月十九日 / 冊子 174頁
今川了俊が島津又三郎に、九州で敵方に与力する訴人らを探題方に属して取り締まり、忠節を尽くすよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津忠国について、初名を久、通称を又三郎、官途を修理亮・陸奥守とし、応永十年五月二日に穂佐高城で生まれ、母は伊東大和守祐堯の娘であったことを記す系図。