後柏原天皇論旨
(大永二年)七月廿日 / 冊子 640~641頁
後柏原天皇の意を奉じ、破損した泉涌寺舎利殿の修造再興のため、島津勝久に分国内での勧進と奉加を厳密に取り計らうよう命じた論旨。
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(大永二年)七月廿日 / 冊子 640~641頁
後柏原天皇の意を奉じ、破損した泉涌寺舎利殿の修造再興のため、島津勝久に分国内での勧進と奉加を厳密に取り計らうよう命じた論旨。
「大永二年」八月二日 / 冊子 641頁
近衛尚通が島津勝久に、泉涌寺造営について勅裁が下ったため、分国内で相応の措置を行うよう求めた書状。
〔大永二年〕九月廿六日 / 冊子 641頁
庭田重親が島津勝久に、泉涌寺舎利殿造営の勧進について、特段の助成と分国内からの奉加、使僧の上洛を求めた書状。
「大永二年」九月廿六日 / 冊子 642頁
巻本でNo.1971と同文のため本文を省略した庭田重親書状。泉涌寺舎利殿造営への助成と奉加を求める。
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津勝久が初め忠兼と称し、のち勝久と改め、宮房丸・又八郎などの名乗りと官途を持ち、文亀三年八月十八日に生まれ、兄二人の早世後に守護職となったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 620頁
島津忠隆に嗣子がなかったため、頴娃氏との関係を背景に島津勝久の家督継承と後見の経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 620~621頁
永正十六年に薩隅日三州で凶徒が蜂起した情勢のもと、島津勝久の継承と守護に関する経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 626頁
永正十七年、伊集院尾張守忠武方との合戦で敵方が敗れ、城を退去・降伏した経緯を記す島津勝久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 647頁
大永三年十二月七日、島津勝久が伊地知氏・吉田氏を将として鹿児島から月野へ軍勢を発し、七百三十八人が戦死したことを記す記事。
「大永六年」九月四日 / 冊子 662頁
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
(大永六年)九月四日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2041と同文のため省略された島津勝久書状。北郷信濃守に金吾・祐脩らとの協力を求め、忠節を頼み入れた内容である。
大永八年三月廿九日 / 冊子 691頁
島津勝久が薙刈杢助に、加官のことを早く承知し、任官を受けるよう命じた補任状。
大永八年六月廿日 / 冊子 694頁
島津勝久が北郷左衛門尉の軍忠に報い、大隅国財部院を宛行った書状。
(享禄元年)九月六日 / 冊子 694~695頁
島津勝久が、小宰相殿・顕娃殿への用件を申し入れ、先方で万事適切に取り計らうよう求めた書状。
大永八年九月十日 / 冊子 695頁
島津勝久が菱刈大和守の忠節に報い、薩摩国牛尿院内の青木・長尾両名を宛行った書状。
二月一日 / 冊子 698頁
島津勝久が奈良原帯刀允に、子息弥六左衛門の討死を忠節の至りとして悼み、今後も変わらぬ奉公を求めた書状。
享禄三年四月六日 / 冊子 708頁
島津勝久が河上上野介の忠節を賞し、薩摩国市来院内の河上名十二町と牛江三町を先例どおり知行させた宛行状。
二月一日 / 冊子 710頁
本文はNo.2143の島津勝久書状と同文のため省略される。奈良原帯刀允の子弥六左衛門の討死を忠節として悼み、奉公を求めた書状。
享禄四年二月十九日 / 冊子 710~711頁
島津勝久が顕娃左馬允に、鹿児島郡築山の土地を大明神へ寄進したことを認め、後日の証拠として執務するよう命じた書下。
享禄四年三月八日 / 冊子 711頁
島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場を平等王院へ寄附した先例を認め、沙汰するよう命じた書下。
享禄四年三月八日 / 冊子 711頁
島津勝久が快瑜法印に、満家院東俣大平木場の寺領境界と歴代の寄進を確認し、従前どおり執務するよう命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 726頁
天文三年十月二十五日、末弘伯耆守・川上大和守ら勝久近臣と実久方の争いから、島津勝久が鹿児島を離れた経過を記す。翌年帰還した後も連判衆・実久方が乱入・放火し、統治を回復できず再び退去した。守護権威の失墜過程を示す。
(天文八年)十月一日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、河辺衆が谷山へ攻め入り鹿児島勢百人を討ち、郡山宇良を破った戦況を報じ、市来浦方面の措置と出陣を求めた書状。
「天文四年」十月二日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、逆乱のため人々が逃散する情勢と、実久方が郡山方面へ進出したことを伝え、忠節を尽くして軍事援助するよう求めた書状。
「天文四年」十月三日 / 冊子 736頁
島津勝久が肝付越前守に、当地の衆をまとめて郡山・限城方面へ進めるよう求め、外部からの援勢も要請して今後の軍事行動を相談した書状。
十月十八日 / 冊子 737頁
島津勝久が肝付方に、女性をめぐる件について外聞を損なわぬよう配慮を求め、枇山殿・本田同前との調整や船の手配を依頼した書状。
十二月三日 / 冊子 738頁
島津勝久が亀山又六久運に、豊州・新納方に関係する人物の処遇や前言の真偽について意見を求め、当人を戻すよう要請した書状。
二月廿五日 / 冊子 744~745頁
島津勝久が肝付伴兵衛兼屋に、先に申した女性を船で送る件について、船の手配を急ぎ、早く迎え入れるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 749頁
天文五年夏、島津勝久が真幸へ移って北原氏を頼り、般若寺に数年居住したのち庄内へ移ったことを記す。前文と異同がある旨を注記する。
天文五年七月廿三日 / 冊子 749頁
島津勝久が入来院殿に、忠節への賞として薩摩国千臺郡内百次城の所領を宛行い、早く知行するよう命じた宛行状。
「天文五年」七月廿五日 / 冊子 749頁
島津勝久が肝付方に、庄厳寺を介した相談と北原方との談合について述べ、条件が整えば父子を帰還させ、整わなければ別の措置を取る旨を伝えた書状。
天文六年三月十四日 / 冊子 753頁
島津勝久の宛行状。本文は既刊文書と同文であるため省略され、参照番号のみを掲げる。
「天文五年」六月三日 / 冊子 753頁
島津勝久が大山・東條両名に、入来院方からの報告、使節の礼、石州方面の連絡や船員不足などを述べ、今後の協力を求めた書状。
「天文五年」六月三日 / 冊子 754頁
島津勝久が入来院・東郷両名に、石州での用件と船員不足、入国者の処遇、報恩のための進言を伝えた書状。
天文五年七月廿三日 / 冊子 754頁
島津勝久の宛行状。本文は既刊文書と同文であるため省略され、参照番号のみを掲げる。
二月十三日 / 冊子 756~757頁
島津勝久が肝付越前守に、舟での往来や所用、所持地の扱いについて述べ、佐藤兵部左衛門尉を派遣して相談を進めるよう求めた書状。
天文六年三月十四日 / 冊子 757頁
島津勝久が入来院殿に、入国の企てと忠節を賞し、内郡山城井川町の所領を知行させる旨を伝えた書状。
天文六年十二月廿四日 / 冊子 758~759頁
島津勝久が本田宣親に、鹿児島荒田・松浦・藤野・赤水などの所領を宛行い、忠節を尽くすよう命じた宛行状。
文月十四日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、宿所の手配や使者の往来への配慮を謝し、妻子への書状送付など今後の取次を依頼した書状。
八月十一日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、益房から安楽将監を遣わしたことを知らせ、急いで渡海できるよう便船の手配を求めた書状。
天文八年九月廿六日 / 冊子 784頁
島津勝久が小倉武蔵守に、山中から庄内・都城まで忠節を尽くしたことを賞し、島津家の通字「久」を与えた書下。
十月五日 / 冊子 784~785頁
島津勝久が肝付越前守に、加治木をめぐる疑義は北原方へ尋ねるよう求め、忠節を尽くした舎弟刑部少輔の遺児養育への配慮と、流言への慎重な対応を依頼した書状。
霜月十四日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、益房のもとから忠朝へ使僧を派遣するため、渡船の便宜を図るよう重ねて依頼し、詳細は局から伝えるとした書状。
十二月十二日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、島津家の滅亡が目前に迫る状況を訴え、この時の忠節は末永く忘れないとして、引き続き援助するよう強く求めた書状。
正月十一日 / 冊子 786頁
島津勝久が小倉武蔵守に、新春を祝いながら、先の書状と十日の参上約束が延引していることを責め、談合のため十五日以前に早急に来るよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 786頁
島津勝久が都城を去って豊後国へ赴き、沖浜に居住したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 786頁
島津勝久が名を義忠と改めて豊後国へ移り、沖浜に居住したことを記す。
七月十五日 / 冊子 866頁
島津勝久が北郷小次郎に、山東越山の件を喜び、詳細は老臣から伝える旨を述べた書状。
元亀四年十月十五日ほか / 冊子 315頁
島津勝久が元亀四年十月十五日に沖浜で七十一歳で死去し、法名を大翁妙蓮とした記事に続き、勝久の女子や島津忠良の系譜を掲げる。忠良は文三郎・二郎左衛門尉・修理大夫などを称し、天文四年七月五日に鹿児島本城で生まれ、母を禰寝式部大輔重就の娘とする。標題と本文冒頭の史料名には留意を要する。
十一月一日 / 冊子 273~274頁
島津勝久が、河辺・谷山方面へ進軍して鹿児島衆と合流し、敵約二百人を討ち取り谷山神前城まで追い詰めた戦果を入来院殿へ報じた書状。