島原出陣諸賦頭書
(寛永十五年)正月廿九日 / 冊子 745~748頁
島原出陣に備える諸賦の頭書。屏・鉄炮・弓・鑓、馬乗衆・陸衆・外城衆、軍粮・兵粮・船、奉行・番手・人足、道具や贈答品まで多数の項目について数量・担当・配置・運送方法を詳細に定める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(寛永十五年)正月廿九日 / 冊子 745~748頁
島原出陣に備える諸賦の頭書。屏・鉄炮・弓・鑓、馬乗衆・陸衆・外城衆、軍粮・兵粮・船、奉行・番手・人足、道具や贈答品まで多数の項目について数量・担当・配置・運送方法を詳細に定める。
(寛永九年)十一月十五日 / 冊子 327頁
松倉重次が島津家久へ、先の使者への厚遇に礼を述べ、自領で預かっていたオランダ人関係者が逃走したため、島津領内での捜索や琉球・島原への照会に協力を得たことを謝した書状。今後、彼地へ人を派遣することにも触れる。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
二月廿日 / 冊子 155~156頁/原整理番号 278
本文は『薩本島原軍記』。島津光久が鹿児島へ着いた後、病状が悪化した島津家久が二十日夜に島津久元・伊勢貞昌を呼び、徳川家への恩義を語り、関ヶ原後の赦免や大坂両陣で十分奉公できなかった無念を述べ、光久の奉公を疎かにしないよう遺言した経緯を記す。目録標題と本文標題が一致しない。
年月日未詳 / 冊子 178頁/原整理番号 303
『薩本島原軍記』。二月二十三日夜に中納言島津家久が死去し、葬儀を終えた後、その遺言に従って下野守島津久元が三月十三日に薩摩を出立したと記す。
十月朔日 / 冊子 414頁/原整理番号 206
島原へ差し出した人数の内訳。内衆とその夫などの人数を列挙し、日数を付けた総計も記す。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 872~873頁
三月二十四日の島原合戦で戦死・負傷した龍造寺方の諸将と各手勢を列挙する人数書上。龍造寺隆信以下、鍋島・納富・百武・馬場・江里口・蒲池らの名と部隊規模を記し、戦死三千余、負傷一万余と総括する。龍造寺政家は負傷、鍋島直茂は逃れたとする。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 30~32頁/原整理番号 45-2
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に備え、武器・軍勢・奉行・輸送・兵糧などの割当を列挙した頭書。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御道具衆の鑓200本、馬乗衆50騎(分限役の馬は別)、陸衆150人(外城衆は別)、召立乗馬50騎とする。有馬には3,262人中782人が帰り2,480人、天草には5,201人中1,624人が帰り3,577人が残り、両地の残留総数を6,057人とする。軍勢の兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、旗本・供衆、船手奉行、先備、玉薬、持道具、番道具、普請奉行、法度、武器別奉行・備頭、仮屋、使番・使衆・右筆・代官・給書・物荷・膳配・同朋・小姓・評定・医師・納戸・進物・門番・陣僧・振舞等の担当や準備事項を挙げる。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人なども定める。末尾で編者は、『旧記雑録後編五』222号文書と同文だが後半を欠くとし、以下は二月朔日の肩書により同日に写載したこと、軍衆法度の旧留は続く三公の掟を指すらしいと注記する。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 37~40頁/原整理番号 55
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に際する御備・軍勢・奉行・輸送・兵糧等の割当帳。冒頭に「正文在文庫」「二重除之」とある。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御兵具衆の鑓200本、馬乗衆50騎、御陸衆150人、召立乗馬50騎とする。有馬3,262人のうち782人、天草5,201人のうち1,624人が帰還し、両地の残留総数を6,057人とする。御供、兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、法度、船手・先備・玉薬・持道具・番道具、火番・合印、武器別備頭、使番、仮屋、代官、絵書、荷物、医師、祈念、評定所筆者、納戸、進物、陣僧などの担当・準備事項を列挙する。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人等も定める。二月朔日の項では幕・進物蔵・送状、朱書の宿泊地等を扱い、二月七日には両条を新納右衛門佐へ申し渡す。さらに当地に必要な殿役・船・普請・町・蔵・兵具・馬屋・物奉行等を列挙する。編者は『旧記雑録後編五』222号文書と同一と注記する。末尾の「晦日甲午」は次の日次見出しである。
年月日未詳 / 冊子 46頁/原整理番号 68-2
『薩本島原軍記』は、天草富岡を守る松平主税助・伊東大和守に対し、中納言の使者である北郷佐渡守久加が番手の労をねぎらったと記す。さらに、松平伊豆守が薩摩へ命じた天草上津浦番手の物頭として、島津豊後守・喜入摂津守・入来院石見守・北郷佐渡守を置いているので用を命じてほしいと申し入れ、相手方は用件は相談して命じると答えた。
年月日未詳 / 冊子 128頁/原整理番号 203
『薩本島原軍記』。薩摩守が正月十三日に阿部豊後守へ召され、その夜江戸を発ち、二月十三日に肥前口之津へ着船したと記す。伊勢兵部少輔を介して松平信綱へ人数を率いて参陣する旨を伝えたが、下野守と相談の上、父の病のため早く帰国するよう告げられたとする。
年月日未詳 / 冊子 131頁/原整理番号 211
『薩本島原軍記』。十四日に薩摩守が有馬へ着船し、在陣して奉公したいと再び松平伊豆守へ申し入れたが、前と同じく許されず、その日のうちに帰国した。のちに民部少輔が千余人で在陣し、暇を得て帰ったと記す。
寛永14年12月27日 / 冊子 505頁/原整理番号 515の2
島原のキリシタン徒党謀叛への加勢に際する条書。喧嘩・口論と狼藉を堅く停止し、竹木の無断伐採を禁じ、宿賃・人馬賃銭は定めどおり支払うこと、島原へ逗留する者が帰国後に沙汰を受けないよう条々を守ることを命ずる。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
寛永14年12月29日 / 冊子 510頁/原整理番号 521の2
翌日の島原城攻撃に関する上使衆の軍令。七つ時から人数を出し、鉄砲・石火矢を合図に攻撃すること、陣中の騒動を禁ずること、大将以外は歩行すること、合印を右肩へ付けること、合言葉、跡からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。十二月二十九日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
二月七日 / 冊子 86~87頁/原整理番号 143-2
島津久元ら大将衆が島原在陣衆へ示した軍令の覚。家久袖判の軍中法度を守り、松平信綱出陣下で勝手な行動を慎むこと、備を崩さず無下知で軍場・敵城へ入らないこと、他国衆との争論や陣中騒擾を禁じ、大将の下知に従うことを命じる。
寛永14年12月27日 / 冊子 504~505頁/原整理番号 515の1
『藤掛集書』所収の上使掟書。キリシタン徒党討伐では上使の指図に従うこと、喧嘩・口論・狼藉を停止すること、郷人との間で不法な物具取引や自然の味方討ちを避けること、違反を急度申し付け、物頭が堅く守らせることを定める。十二月二十七日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
12月晦日 / 冊子 511~512頁/原整理番号 523の2
元日城攻めに際して諸勢へ示した連署達。明七つ時から人数を出し、石火矢・鉄砲を順次撃つこと、陣中の騒動を禁じ、大将以外は徒歩とすること、右肩の合印、合言葉、後方からの鉄砲射撃、小屋への放火などを定める。極月晦日、板倉重昌・石谷貞清が連署する。
「寛永十九年」七月廿一日 / 冊子 207~208頁
島津久通ら三名が、荒廃して百姓の少ない島原・天草へ隣国から百姓を移すとの幕命について、薩摩も百姓に余裕がなく田畠が荒れる懸念はあるが、天下の下知であるため従わざるを得ないと伝えた連署書状。使者の到着後すぐに相談し、隣国の様子も聞き合わせて移住の手配に尽力するよう求めている。
正月22日、長崎より京へ松方助左衛門署 / 冊子 470~472頁/原整理番号 640/整理ID 640
大勝利と勅書受領を祝い、鎮臺の脱走後に長崎西役所を会議所として各藩が毎日集まり、外国交際と鎮撫にあたっていると報告する。各国談判役との協議、鎮臺が持ち去った金八千両・米一万俵余を人民へ返し配るとの相談、十四日夜の強盗・割服等の刑事処置と統治上の懸念を記す。江戸の情勢への驚き、病院関係者の志や關要之祐の早い来崎を求める件、島原の重役と諸藩の協議、天草の浪人三十人・庄屋の問題と鎮撫の相談を続ける。渋谷彦介の一小隊と監軍の派遣、茂木で二~三百人を出すとの風評、自身の天草行きの意向も記す。外交談判を急ぎ、刑事処置や争論には慎重にあたり、人民の信頼を得る公平な取扱いを望むとして、正月二十二日に松方助左衛門が長崎から右衛門へ送る。報告・風評・提案と未詳の点を分ける。
慶応4年辰正月24日、使者差立ての記録 / 冊子 478頁/原整理番号 647/整理ID 647
この藩から布告文を持たせ使者を送った大名衆の名書を掲げる。熊本・久留米・柳川・福岡・佐賀、飫肥・高鍋・延岡・中津・小倉・岡・杵築・臼杵・府内・森・日出・佐伯、島原・唐津・平戸・五島・大村の配布先を、原の領主称号と使者の組ごとに列記する。慶応四年辰正月二十四日に使者を差し立てたと記し、続く布告文は略すと明示する。使者派遣の記録と布告内容の省略を区別し、訪問・受領の完了や省略された布告の文言を補わない。
二月(日不記、松平主殿頭の署・判表示) / 冊子 489~490頁/原整理番号 657の4/整理ID 657-4
朝命を受けて各藩に伝えられた布告を謹んで拝見し、畏まって受けたと答える。大坂での意外な挙動に自分も恐れ入るとし、不肖ながらこの時期に私親への顧念は毛頭なく、大義に従って国難に忠義を尽くす赤心があると表明する。その趣旨をしかるべく執奏してほしいと願う。末に二月、島原藩主の原注を伴う松平主殿頭の署と判の表示がある。署名の忠知には和カの注があり、目録は忠和とする。
寛永15年正月5日 / 冊子 270頁/原整理番号 221
島原加勢のため召し立てる人躰二十八人に関する鹿児島賦所手形。今月九日に出水で集合させ、知行所・領主から鉄砲・弓などの道具、飯米・船賃を支給して送り出すよう指示する。寛永十五年正月五日付。
年月日未詳 / 冊子 290頁/原整理番号 248
二十八日、島原守将が三会村民の兵器を奪い、余党を恐れて庄屋らの謀殺と城内守備を進めた記事。熊本・佐賀への飛報、肥後境の警戒、火砲・火災の諸報を集め、伝聞の誤りを考証する季安の注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 293頁/原整理番号 254
『寛明日記』の記事。二十八日、島原一揆衆が天草四郎方へ使者を送り、近郷の徒党を企てたとの報を記す。四郎の年齢・才覚、矢野村色津、島原一揆の連署と大江所在に関する伝承を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 329~330頁/原整理番号 300
十二日、島原城から足軽大将十八組を出し、三会村内の杉谷米蔵から兵糧を取り入れようとした。一揆勢が山上に旗を立てて構えたため作業は進まず、十三日条へ続く。
寛永14年11月17日 / 冊子 356~357頁/原整理番号 330
島原の籠城状況を伝え、城から一里ほど離れた村の米蔵や周辺の軍勢動静を記した覚書である。末尾に寛永十四年十一月十七日の日付を掲げ、翌十八日付の同文書へ連続する。
年月日未詳 / 冊子 560頁/原整理番号 569
『白石随筆』の記事。島原一揆に対し薩摩から人数を差し出した事情と、幕府方の書付・手前人数の差出しに関する伝承を記し、薩州から奉書が出た経緯を述べる。
十月廿一日 / 冊子 11頁/原整理番号 8
時任氏日記の「貴理師旦一揆之事」。寛永十四年十月二十一日の島原での蜂起が天草へ伝わり、上津浦・本戸・大島子・小島子・亀之川の衆が家を焼いて上津浦へ集結した経過を記す。寺沢勢四百五十人との戦闘、本戸・亀川・富岡への転戦と損害、四郎方の有馬方面への退却を述べ、出船に乗り遅れた三百人のうち百五十人は大小六十艘で有馬へ渡り、残る百五十人は上津浦の山中に隠れたが肥後軍衆の山狩で捕縛され、富岡城に籠め置かれたとする。
年月日未詳 / 冊子 40頁/原整理番号 56
『平塞録』は、晦日に公儀から島原の諸大名へ、試しの具足20領と鉄楯5枚ずつが貸与されたと記す。本文は諸大名側の『拝借』として表現する。
年月日未詳 / 冊子 86頁/原整理番号 143-1
伊地知季安の記事。正月十三日に島津家久の袖判で軍中法度が出されていたが、この日、島津久元ら大将が島原城下の在陣衆へ改めて軍令を触れ渡したと記す。目録年月日欄は空欄。
年月日未詳 / 冊子 96~97頁/原整理番号 154-1
伊地知季安の記事。同日早朝、村田経乗が島原から上津浦へ戻り、兵糧負担を考慮して島原・上津浦の人数を減らし、船のある次第に千二百人を帰す案が定まったと記す。上津浦衆は戦況を見ず帰るのを不本意として島原衆との交代を願い、島津久賀・喜入忠政らが島原の薩将へ協議の書状を送った。目録年月日欄は空欄。
年月日未詳 / 冊子 110~113頁/原整理番号 175
『天草説書』所収の『吉利支丹ニ立帰り候村々覚』。島原・天草の各村について、切支丹・残百姓の人数、男女別人数、竈数を列挙し、総計二万七千六百七十壱人、切支丹二万三千八百九拾壱人、残百姓三千七百七拾五人等を掲げる。末尾は寛永十五年二月十日付で多賀主水・岡本新兵衛・田中宗夫が署名する。原記載の内訳・合計は計算で改変しない。
年月日未詳 / 冊子 128頁/原整理番号 204
『旧伝集』所収の石原愚見の談話。若年時に島原へ派遣され、仁礼九郎左衛門の命を受けて使者・物資輸送や船の手配に関わり、夜間の航行や城からの鉄砲攻撃に遭った経験を語る。後記は関係者名・軍役人数の異同を考証する。
年月日未詳 / 冊子 302頁/原整理番号 338
『浦の浪』によれば、島原陣の後百年に当たる時、松平伊豆守家が島原で戦死した家来の子孫を召し出し、書院で料理を給し、自ら引出物を渡して盃を交わした。この行為は公儀にもよく聞こえ、世上でも賞美されたとする記事。目録標題は『浦の波』、本文見出しは『浦の浪』で、表記差を保持する。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 870頁
有馬鎮貴が龍造寺隆信に圧迫されて義久へ救援を求めたため、彰久は家久を大将とする豊久・忠直ら三千の軍に加わった。島原で龍造寺勢と戦い、軍功を挙げた。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 871頁
島津豊久は元亀元年六月、島津家久と樺山善久の娘との間に生まれた。天正十二年三月二十四日の島原合戦では十五歳で出陣し、強敵一人を討ち取った。
天正十二年三月二十四日 / 冊子 871頁
三月二十四日の島原合戦で龍造寺隆信の軍が敗走した際、樺山規久は刀を振るって繰り返し敵を斬り、戦功を挙げた。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 872頁
三月二十四日の島原合戦で川上忠堅が龍造寺隆信を討ち、その首を挙げた。三月二十七日、佐敷にいた島津義久が隆信の首を実検した。
天正十二年三月二十五日~二十六日 / 冊子 873~874頁
三月二十五日、八代から佐敷へ急使が走り、前日の島原合戦で龍造寺隆信以下数千を討ったとの報告を届けた。義弘・歳久らと戦勝を祝い、二十六日に隆信の首が佐敷へ到着すると多くの人が見物した。
天正十二年三月 / 冊子 874~875頁
龍造寺隆信が有馬氏を攻めたため、島津方が安徳へ番衆を送り、家久を大将として渡海させて島原への通路を断った経緯を記す。寡兵で隆信の大軍を破り首八百余を懸けたとし、義久は後詰として八代に在陣した。樺山久高らは隈本・合志方面を巡って調略した。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年五月二日~二十二日 / 冊子 894頁
五月二日、長崎から大村方降人と南蛮僧の意向・質人情報が届いた。三、四日、島津方は三会・島原に薩摩番衆を置き、他城は有馬氏に守らせ、諸質人を管理して主力を帰帆させる方針を定めた。二十二日、秋月種実は前年の龍造寺との和睦仲介が隆信の違約で破れたと弁明し、島津方を欺く意図はなかったと伝えた。
天正十二年三月~九月八日 / 冊子 926頁
前年から有馬氏救援のため高来へ渡り、天正十二年三月二十四日の島原合戦では家久・彰久らと龍造寺隆信の大軍を破って首三千余を得た。四月には伊集院忠棟・上井覚兼と神代・井福・森山を調略して降伏させ、その軍功により三会・島原を与えられた。九月の肥後在陣時には老臣連署高札に加判した。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 728~729頁
島原出陣に際する軍法。軍中法度を守り公儀奉公と国益を心掛けること、豊後守・下野守を大将役とし六名の談合衆を加えた八名の指揮に従うこと、喧嘩・口論・濫妨・狼藉・大酒を禁じ、違反者を遠慮なく報告することを命じる。
(寛永15年)正月13日 / 冊子 669~670頁/原整理番号 681
島津家久の袖判を据えた控書で、島原・天草出兵の諸軍衆に対し、法度を守り天下の奉公に専念すること、三原左衛門佐ら奉行衆の指揮に従うこと、喧嘩・口論・濫妨・狼藉・大酒などを停止することを命じる。違反者の処罰と連絡・相談の手続きを定め、寛永十五年正月十三日付で結ぶ。
正月13日 / 冊子 680~681頁/原整理番号 687
鹿児島から島原・天草へ向かう軍衆に対し、道中での狼藉・濫妨・私的な物品徴発、鉄砲の濫発、百姓家や村への無断立入りなどを禁じる。天草山ノ守など在地の指図に従い、争いは奉行へ届け、私的に処断しないよう定めた法度。
年月日未詳 / 冊子 829~831頁
寛永十五年の肥前島原一揆に際し、国分に割り当てられた出陣者を列記した交名・人数書留写。各人名に主従人数、鉄炮・鑓・弓・馬・持道具、自身または代人などの軍役構成を注記する。掲載者は合計八十五人で、そのうち自身衆十八人、被官まで含めた総勢は百三十四人と集計する。
年月日未詳 / 冊子 262頁/原整理番号 217
『藤掛島原軍記』の記事。肥前島原の吉利支丹一揆の発端について、森宗意軒ら浪人の活動、河内国石川郡水分の社司系譜、長崎へ渡海する小西行長の船が難破した話を挙げる。