田代清久置文
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178頁
田代清久が、島津氏久から七郎入道清久および左衛門尉へ与えられた五通の書下と、串良院上条・鹿屋院の地頭職・弁分を列挙し、宗次郎の後代がこれに従って知行するよう定めた置文。
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応永五年十二月廿五日 / 冊子 178頁
田代清久が、島津氏久から七郎入道清久および左衛門尉へ与えられた五通の書下と、串良院上条・鹿屋院の地頭職・弁分を列挙し、宗次郎の後代がこれに従って知行するよう定めた置文。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 178~179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について、遊喜田村・土橋村・原村・有里小野村・山野などの境界と自作分を列挙し、知行すべきことを示した譲状。
応永五年十二月廿五日 / 冊子 179頁
田代清久が、大隅国田代内の宗次郎分について村・山野・自作分・屋敷などを列挙し、違乱する者は清久の子孫と認めないとして知行の維持を定めた置文。
応永十四年六月廿五日 / 冊子 226~227頁
平田親宗が田代宗次郎へ、日向国柏原保内原村を二十五貫文で譲り渡し、三年後の請戻し条件を置いた譲状。村は蒲生方の祈所として給付された所を親宗が買得したものと説明する。
応永十七年三月廿一日 / 冊子 237頁
島津玄忠が田代宗次郎に、島津御庄大隅方田代村を本領として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。巻末目録標題は『島津玄仲宛行状』とする。
応永十八年三月廿三日 / 冊子 245頁
島津玄忠が田代宗次郎の大隅国田代村内の知行分について、縦天役を含む万雑公事以下を特に停止することを証した証状。
文禄4年10月7日 / 冊子 919頁
川内の平佐村・天辰村・宮里村・高江村、入来院塔之原村、祁答院久富木村など、返地となる村々と石高を列挙する。 北郷宗次郎に宛て、所領替えに伴って返還すべき土地の範囲を数量で確定した連署目録。
年月日未詳 / 冊子 823頁
北郷宗次郎は十月二十九日、唐島から釜山浦に着き、辰刻に方浦を経て金海川口へ至った。降雪と強風のため船を追ったが乗員数を把握できず、巨済岸に帰着した経過を記す。 加徳島の水主らを船内で捕え、船上の綱などを接収したという。冬の朝鮮沿岸における船舶追跡と捕縛の実情が分かる。
(慶長二年)四月十一日 / 冊子 96頁
島津義弘が又八郎に、自身は五日前に壱岐まで渡ったが順風がなく出船が遅れていると報じた書状。又八郎の帰朝について北郷宗次郎を介して指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる旨の早飛脚が来たため、帰朝時期は改めて知らせるので準備を怠らないよう求める。
(慶長二年)四月廿日 / 冊子 97頁
島津義弘が又八郎に、渡海の見舞いと使者派遣への礼を述べ、逆風のため津浦を漂い、ようやく対馬小浦へ着岸したと報じた書状。又八郎の帰朝を北郷宗次郎に指示したが、石田治部少輔から高麗で交替させる命令も届いたため判断に迷ったとし、小姓だけを帰朝させる案の検討を求める。
(天正16年)2月11日 / 冊子 378頁
新春を祝い、自身が思いがけず上洛してなお滞在中であること、宗次郎兄弟が無事であることを知らせる。義弘と右衛門大夫の上国が朱印で命じられたため、日州口に在宅する北郷時久へ、留守中の領国と島津方諸城を庄内と同様に守るよう頼み、馬二疋を贈った書状。
享保四年十一月十八日 / 冊子 423~424頁/整理ID 1104
松平薩摩守へ、将軍への御機嫌伺いと北郷宗次郎による白銀・琉球織物の献上を受け、披露と取計らいを伝える四名連署の返書。
応永六年三月十四日 / 冊子 182頁
田代清久が、大隅国田代内の東門田二反、南薗彦四郎屋敷などの水田・薗・狩倉を譲与し、違乱する者は清久の子孫と認めないと定めた譲状。
文禄2年9月10日 / 冊子 725頁
島津久保(又一郎)の死去を受け、弔いを理由とする帰国を厳禁し、義弘の許可を得た百人以外は渡海してはならないと定める。 久保の陣所を老臣・有力者に守らせ、普請・城米・後続船の兵糧収納を急がせ、下人を含む無断帰国を処罰するとした軍中統制の事書。
享保四年十一月十五日 / 冊子 423頁/整理ID 1103
島津吉貴の帰国に伴い、謝使の北郷宗次郎久度が登営し、将軍吉宗へ太刀や銀を献上した経過を記す記事。
明治2年九月(日不記)知政所 / 冊子 696~697頁/原整理番号 913の1/整理ID 913-1
通達留。馬術の比志嶋静馬・町田平・高橋甚五兵衛、射術の高田十郎右衛門・東郷長左衛門・伊集院半五右衛門・平田平六・木上源五郎、鎗術の梅田九左衛門・白尾登五右衛門、長刀の田代宗次郎を列記する。これらは師家として置いていたが、諸術の実用の利が少ないという達の評価から、各人の師家を免じる旨を本人と関係先へ伝える。但し望む人にその術を指南することは差し支えないとする。明治二巳九月、知政所。師家の役と私的な指南の但書を区分し、武術自体の全面禁止や各人の能力への現代評価、指南実績は補わない。
年月日未詳 / 冊子 366頁/原整理番号 166
惟宗姓大寺氏について、保音(弾正忠入道幸阿)・武幸から元幸、義幸、清幸、高幸、資保、衡幸らを経て近世の後裔へ連なる系図。元幸を島津元久の家老、衡幸を島津久豊の家老と記し、美作守・紀伊守・兵部少輔・治部少輔などの官途と幸善・幸栄・応正・幸朝・幸祐等の法名を添える。衡幸流の宗二郎が梶原氏の養子となったこと、兼幸流と公幸流の房太郎・彦二郎・千代若丸らの分岐も示す。
年月日未詳 / 冊子 593頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1444
寛文十二年六月十四日、北郷宗次郎忠昭が光久帰国の礼使として江府へ赴き、六月二十八日に将軍家綱へ拝謁する。二十九日に再登城して御奉書を頂戴し、羽織一・帷子三(内単衣一)を拝領する。北郷吉兵衛久我が随行したと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 31
平清盛―重盛の流れを掲げ、資盛・維盛以下から実盛、国盛、時盛、兼盛、道清らを経て田代氏諸流へ展開する系図。時盛の代に当国へ下り、野上田・百引を知行し、源氏へ改姓して建部を称したとの伝承、兼盛が田代を号したこと、野峯崎・串良院の知行、宝光寺建立、高隈知行などを記す。宗次郎らの官途、島津忠昌・勝久期の加治木・帖佐における戦死と年齢・法名、鹿児島在住、川辺居住、慶長・元和・寛永・延宝期の生没記事を収める。また田代久助が島津元久の代、将軍として博多へ派遣される際に辞退したが、河蘇谷を副将として任ずる旨の御証判を元久から受けた逸話を付記する。
天明七年十月十七日 / 冊子 176頁/原整理番号 136
同じ十月十七日の「論勝負之犬追物稽古手組」。島津藤次郎・北郷宗次郎・三原彦五郎らの射手と、島津主税の検見、伊勢亘・西怡之助の喚次を掲げる。犬数の記入はない。
文禄4年7月5日 / 冊子 899頁
北郷忠虎の実子が幼少のため、宗次郎こと北郷三久を名代として諸職を勤めさせ、長千代丸が十七歳になるまで家督を補佐するよう認める。 若年相続人を保護しつつ家の継続を保証した、竜伯・義弘連署の家督証状。
正保二年一月十八日 / 冊子 1~2頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0002
北郷久加・新納久詮が、若君の元服に備えて能役者らを早急に召し寄せること、職務不履行の大寺喜左衛門に代えて海江田仲左衛門尉を秋目地頭に任じること、知行高に応じた乗馬・小荷駄の奉公基準を伝えた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 756頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1984
光久公御譜中に、貞享三年四月十二日に帰国を許され恩賜を受け、四月二十五日に江戸を辞し、大坂・京泊を経て七月朔日に帰城したことと、家老・用人の随行を記す。家臣桂外記忠剰が命を受け江府へ至り、九月朔日に恒例の錬芭蕉百端・塩鯛一箱・するめ(原鰑)一箱・昆布一箱・樽二荷を献上し、将軍が光久の使者に恒例どおり恩給した。
元禄十年閏二月廿七日~三月廿一日 / 冊子 7頁/整理ID 21
島津綱貴の参勤について閏二月二十七日に一族・家老・番頭・用人らの供役を定め、三月二日に川内京泊津から出船し、同月二十一日に大坂へ着船したことを記す記事。
享保四年六月十一日以降 / 冊子 416頁/整理ID 1075
享保四年六月十一日、将軍吉宗の使者が薩摩を訪れ、島津家から贈答を受けたのち、領内各地と東海路を巡って帰着した経過を記す記事。
八月朔日 / 冊子 6~8頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0019
八月朔日の太刀および中紙目録進上の作法を、在国・在府と身分別に定めた次第。一門方は御座之間で、太刀を二之間上の敷居から下二畳目に側御用人が備え、その下で礼をした後、縁頬側に着座して祝儀を述べ、家老の取合を受けて退座する。若年寄・大目付は太刀一腰、島津藤馬・相馬・多門、伊集院伊膳、畠山内膳、鎌田蔵人は太刀を「五腰充」とし、奏者番が取り、着座・退座の場所をそれぞれ定める。島津左衛門・美濃・図書・筑後、所持・所持格、川上主鈴、新納次郎四郎・五郎右衛門、町田主馬、伊集院平治、諸地頭、桂外記等も列挙し、敷居・畳目と太刀・中紙目録の扱いを示す。在地不在・病気の者は名代を立てて太刀・目録を納める。江戸詰、江戸での進上、一門方・役家格の在府時の扱いも規定し、末尾は従来使者によった八朔進上を太刀持参へ改める旨と、書付二通・石見殿添書一通を記す。
文政5年12月15日(末尾年は朱注) / 冊子 642~643頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1897
十二月十五日、吹上御庭拝見が滞りなく済んだ内祝として、亀之甲舞台で能を催し、有馬玄蕃・水野甲斐(忠実注)・有馬臺作を招いた記録。能組には岩船・俊成忠度・綾鼓・船弁慶・海士・乱を挙げ、虎之助・又三郎・玄蕃頭・桃次郎・甲斐守・豊後守などの名を各曲の下に配列し、狂言・間として末廣・宗八・福の神および船弁慶間の幸之助を記す。「乱」の欄には溪山の名がある。囃子方や地謡等に当たる名列もあり、曲ごとに出演者の名列を添える。夕暮れまで無事に済み、赤羽からの供頭へ初めて見せ、装束所に二、三人が来たため甲斐の仕なども一緒に見せたと結ぶ。名列の役割の細分と、卯太郎・覺次郎と読める二名の第一字は未確定。この記録の十二月十五日と、次の贈答覚書の十月十五日とは月が異なる。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日未詳 / 冊子 720~721頁/原整理番号 747の6
島原の役で小原織部佑らが米銭出納を担った取払帳の来歴を考証する。表紙・巻末を失った横折小冊を享和三年の転居時に煤けた小桶から発見し、後に家伝・史館記録を調べて出陣記事を採録した経緯を述べる。織部自筆か疑う人もいたが、天保三年に子孫宅を調査し、承応元年の知行名寄や八月十二日付文書の筆跡・印形を帳簿と比較して筆者を確認したと記す。
天明七年十月十七日 / 冊子 175頁/原整理番号 135
天明七年十月十七日の犬追物稽古手組。上手組と次手組に射手を分け、島津藤次郎・栗川弥七・森六郎らを記す。両組の検見を川上十郎左衛門・カワカミ十郎左衛門、喚次を瀬川作平次らとして列記する。
天明七年十二月廿三日 / 冊子 176~177頁/原整理番号 138
天明七年十二月二十三日の「納之犬稽古手組」。一番に島津圖書・伊地知新太夫・伊勢平八郎ら、二番に島津藤次郎・富山弥右衛門・堀八百助らを配し、それぞれ検見と喚次の担当者を示す。
天明七年十二月廿三日 / 冊子 177頁/原整理番号 139
天明七年十二月二十三日の「論之犬稽古手組」。島津圖書・本田七次郎らを「九ツノ免」「四ツノ免」などの区分で列記し、検見を伊勢亘、喚次を汾陽八右衛門とする。
年月日未詳 / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0926
『綱久公御譜中』は、寛文元年三月九日に女子萬鶴が家の女房を母として誕生し、のち家臣北郷宗次郎忠昭の室となったと記す記事。
元禄十二年十二月晦日 / 冊子 183頁/整理ID 651
島津綱貴が北郷久嘉の邸へ赴いた際、綱貴が北郷久度に金子五百疋を与え、久度も金子三百疋を献じて謝意を示したことを、北郷宗次郎久度の譜中から記す記事。
年月日未詳 / 冊子 899頁
北郷三久の幼名・通称・官途と、天正元年三月十日の出生、母が北郷左馬助忠孝の娘であることを記す。 北郷家の系譜上の位置と、後続する家督補佐・相続関係を理解するための基礎となる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 549頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1267
寛文八年十月、島津光久の娘が北郷宗次郎忠昭へ嫁いだ祝賀のため北郷久我が武州へ赴き、島津綱久に拝謁して金一分を賜った。翌寛文九年二月八日、忠昭邸へ招かれた光久にも拝謁し、青銅百疋を賜った記事。
年月日未詳 / 冊子 632頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1557
北郷宗次郎忠昭譜中に、延宝二年四月六日、忠昭が綱貴の参勤に供奉し、御番頭を勤め、久我がこれに従ったと記す。久我譜中にはないとの注を伴う。
天明六年十一月廿八日 / 冊子 173~174頁/原整理番号 131
天明六年十一月二十八日の神事犬追物手組。上手組・次手組・下手組ごとに射手を「九ツノ免」「六ツノ免」「四ツノ免」などに分け、各組の検見・喚次を付す。上手組には島津出雲・島津藤次郎ら、下手組には北郷宗次郎らを配する。
天明六年十二月十一日 / 冊子 175頁/原整理番号 134
天明六年十二月十一日の「論勝負之犬追物初稽古手組」。島津藤次郎・島津出雲らを「九ツノ免」、本田信次郎・相良弥千母らを「四ツノ免」などの区分で示す。検見を北郷宗次郎、喚次を市来十郎右衛門とする。