鎌田某父子起請文前書写
年月日未詳 / 冊子 730頁
鎌田某父子が家久・忠元への奉公に別儀がないこと、江戸で幡摩守夫婦が悪心を企てていないこと、不忠の企てに同心せず親子兄弟や縁者であっても容認しないことなどを神仏に誓った起請文前書の写し。
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年月日未詳 / 冊子 730頁
鎌田某父子が家久・忠元への奉公に別儀がないこと、江戸で幡摩守夫婦が悪心を企てていないこと、不忠の企てに同心せず親子兄弟や縁者であっても容認しないことなどを神仏に誓った起請文前書の写し。
元禄十二年九月二十六日 / 冊子 161頁/整理ID 565
中将綱貴が中城王子へ、今年の賀儀に書状と恒例どおり目録記載品を贈られたことを喜び、謝した返書。賀儀の具体内容や目録品は本書に記さない。
九月廿六日 / 冊子 684頁/整理ID 2322
種子島久時・新納久珍・島津久明が中城王子へ、太守への年甫祝儀として贈った書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 685頁/整理ID 2323
種子島久時・新納久珍・島津久明が読谷山王子へ、太守への年甫祝儀として贈った書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 685頁/整理ID 2324
種子島久時・新納久珍・島津久明が読谷山王子へ、太守の前年の家督継目に対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 685頁/整理ID 2325
種子島久時・新納久珍・島津久明が中城王子へ、太守の前年の家督継目に対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 685頁/整理ID 2326
種子島久時・新納久珍・島津久明が中城王子へ、太守の前年の名替えに対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 686頁/整理ID 2327
種子島久時・新納久珍・島津久明が読谷山王子へ、太守の前年の名替えに対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 686頁/整理ID 2328
種子島久時・新納久珍・島津久明が中城王子へ、太守の前年の任官に対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 686頁/整理ID 2329
種子島久時・新納久珍・島津久明が読谷山王子へ、太守の前年の任官に対する祝儀の書状と目録記載品が届き、その趣旨を江戸へ報告したと伝えた連署状。
九月廿六日 / 冊子 687頁/整理ID 2332
種子島久時・新納久珍・島津久明が中城王子へ、英光院の死去に際する香奠と書状が届き、その旨を江戸の太守へ伝えたと知らせた連署状。
九月廿六日 / 冊子 687頁/整理ID 2333
種子島久時・新納久珍・島津久明が読谷山王子へ、英光院の死去に際する香奠と書状が届き、その旨を江戸の太守へ伝えたと知らせた連署状。
享保六年八月四日 / 冊子 489頁/整理ID 1309
継豊が豊見城王子へ、前摂政の健勝と冊封を祝し、色紙形の清書の儀や右清書を見たことについて述べる。
延享二年三月廿八日 / 冊子 803頁/整理ID 2109
継豊が種子島蔵人に「久」の一字を与えた一字状。本文は一字「久」を中心とする簡潔な形式で、三月廿八日付の継豊の花押があり、正文は種子島蔵人所蔵と記される。
宝暦九年(日付不記) / 冊子 718頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2162
幕府の許可状は、松平薩摩守の家来種子島藏人久芳について、願い出たとおり乗物を許可する。誓詞は不要とし、御目付へ断状を提出するよう指示する。
安永三年正月三日(年は朱)、本文去年上国・無事帰着 / 冊子 418頁/原整理番号 1149/整理ID 1149
来書を披見し、去年の上国についての話と、無事に帰着した旨を承知して祝着とする。その謝礼として与那原親方を差し渡し、紙面の趣に加え太刀一腰・馬代黄金十両と目録記載の品を贈られたことについて、厚い心遣いへの礼を述べる。末尾は正月三日、中将重豪御判、謹上中城王子、朱に安永三年。王子自身宛の帰着報知・謝礼贈与に対する返書。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2009/整理ID 2009
重豪が中城王子に宛て、年始の嘉儀として書翰と目録に記された品々を贈られた厚意を祝着に思うと述べ、猶、後喜の時と結ぶ。天明三年十一月廿八日付、中将重豪御判。写しを収録し、正文は琉球国司にあると注記する。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2010/整理ID 2010
重豪が中城王子に宛て、虎寿丸の疱瘡が済んだ祝儀の書翰と目録の品々を贈られたことに対し、欣然の至りと礼を表す。天明三年十一月廿八日付、中将重豪御判。写しを収録し、正文は琉球国司にあると注記する。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2011/整理ID 2011
重豪が中城王子に宛て、御養君を仰せ出された祝儀として国王から公方様・大納言様へ献上したことに対し、目録の通り下賜され、使者にも拝領物を与えられた厚恩を謝するのはもっともと述べる。その礼として別録の品々を贈られたことを祝着に思うと記す。天明三年十一月廿八日付、中将重豪御判。写しを収録し、正文は琉球国司にあると注記する。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2012/整理ID 2012
重豪が中城王子に宛て、嫡子の夭亡に際して尋問のため一種を贈ったことに対し、謝礼として別録の品々を贈られた旨を述べ、書面の厚意に礼を表す。天明三年十一月廿八日付、中将重豪御判。前掲と同じ出典の独立した書状として収録する。
天明三年十一月廿八日 / 冊子 711頁/原整理番号 2013/整理ID 2013
重豪が中城王子に宛て、書札を披見し王子の平安を珍重に思うと述べ、自身も無事なので安心するよう伝える。縮布三端を贈られた厚意に、過量の至りと礼を表す。天明三年十一月廿八日付、薩摩守重豪御判、中城王子への回章。
天明五年十月十一日 / 冊子 829頁/原整理番号 2272/整理ID 2272
重豪は中城王子の書状を読み、春に御鷹の鶴を拝領した祝儀として、太刀・馬代白銀五十両と目録記載の品を贈られたことに謝意を示す。天明五年十月十一日付で中城王子に宛てる。
天明五年十月二十五日 / 冊子 829頁/原整理番号 2274/整理ID 2274
重豪は中城王子から年始の祝儀として届いた書状と目録記載の品を受け、その心遣いを喜んで謝意を述べる。返書の日付は天明五年十月二十五日。
天明五年十月二十五日 / 冊子 829頁/原整理番号 2276/整理ID 2276
重豪は中城王子の書状を読み、嫡子出生への祝物として太刀・馬代黄金十両と目録記載の品を贈られたことに礼を述べ、その心遣いを喜ぶ。天明五年十月二十五日付。
天明五年十月二十五日 / 冊子 830頁/原整理番号 2277/整理ID 2277
重豪は中城王子の書状を読み、相手方の平安を喜び、自身も無事と伝える。贈られた紕縮緬三巻への謝意を述べる。天明五年十月二十五日付の回章。
天明五年十一月十五日 / 冊子 837頁/原整理番号 2299/整理ID 2299
宮之原通直は、中城王子からの書を受けたと記し、太守の厄年に際して守札数巻と願文を進上するため江戸で披露するよう伝える。天明五年十一月十五日付で讃谷山王子・三司官に宛てる。
寛政11年11月28日(朱注) / 冊子 174頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0554
省之進殿が嶋津又八郎殿の養子と命じられ引越した祝儀として、小波津親方を介し中将様へ太刀1腰・馬代白銀10両および目録通りの品々を差し上げた件は、江府到着後に披露され御満悦だったと伝え、その旨の伝達を求める。省之進に島津久徳、又八郎に久照・加治木家の注。山田伯耆・高橋縫殿・伊勢播磨・菱刈大炊・川上久馬の五名連署・各実名判、独立宛名は義村王子。出典は全上。養子の命令・引越済み・祝儀披露を分け、他件の馬代白銀50両と混同しない。
文化2年10月25日(朱注) / 冊子 256頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0824
国王様からの尊書を拝見する。諸之丞が有馬左兵衛佐の聟養子として願いどおり仰せ渡され、養家へ引越しを済ませたことへの祝儀として、佐久真親方をもって御隠居へ太刀1腰・馬代白銀100両および目録どおりの品を差し上げた件を、江府に到着して披露したところ御満悦であったので、その旨を洩達するよう返す。文化2年10月25日の朱注、赤松市正・川田伊織・菱刈下総・頴娃信濃の四名実名判、読谷山王子・三司官宛、出典は全上。宛名は同頁下段右端へ続く。養子の許可と養家への引越済みをそれぞれ記し、馬代は白銀100両、目録部分の品目は補わない。
文化4年12月6日(朱年注) / 冊子 288~289頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0918
琉球国王からの尊書を拝見し、当春御女子が出生して於都殿と名を進められたことへの祝儀を隠居様へ紙上で述べられた件を、江府へ到着後披露した旨を伝える。12月6日、嶋津将監・頴娃信濃連署、実名判の表示。次頁右端に讀谷山王子・三司官の宛名と実名判表示が続く。文化4年の朱年注があり、出典は重豪公御譜中、写正文在琉球国司。本文は御女子出生と命名への国王尊書・紙上祝儀を伝える返書で、女子の父を斉宣と明記する文言や贈品の数量はない。
文化5年戊辰10月6日生、文化8年辛未正月8日死去(系譜本文) / 冊子 306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0965
大信公御子、女子富姫を掲げる系譜抄。文化5年戊辰10月6日、江府で生まれ、母は松平藤十郎の家臣谷周右衛門政相の女とする。八年辛未正月8日に死去し、法号は麗岱院殿紅露雪顔童女、墓は惠燈院・大圓寺に建つと記す。八年の年記は、文化5年から続く記事の文化8年と読む。父の呼称は抄の大信公を保持し、母の家臣関係、出生地、死亡年次と法号・墓所を分けて採録する。
文化7年11月9日(朱年注) / 冊子 358頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1116
全上。国王様の尊書を拝見し、去歳に女子が誕生して富姫と名付けられたことへの、大御隠居様宛の祝意を申し上げた件を述べる。富姫には重豪女の注。江府へ届き披露したと返す。11月9日、四署の各実名判表示、讀谷山王子・三司官宛、文化7年朱注。去歳の誕生と現在の返書日を分け、富姫の掲載名を別の出生記事の名に黙って替えない。贈品の具体品名・数量は記されず補わない。
文化8年12月6日(朱年注) / 冊子 381頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1193
全上。国王尊書を拝見し、寛二郎が嶋津若狭の養子になると仰せ出された祝儀として、玉城親方を通じ大御隠居へ太刀1腰・御馬代白銀30両と目録どおりの品を差し上げた件を記す。寛二郎に島津斉宣男、若狭に忠貫の割書注。江府到着後に披露したところ満悦した旨を伝えるよう求める。文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子宛。本件は三司官宛表示がなく、1192の白銀100両・太守初入部の件と数量・事由を分ける。養子届・命の日付は本件にはなく補わない。
文化8年12月6日(朱年注)。誕生は本文「去々歳」 / 冊子 381~382頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1195
全上。国王尊書を拝見し、去々歳に女子が誕生して御名を寿姫と称したため、大御隠居に祝儀を申し上げられた件を、江府到着後に披露したと返す。前頁の去々歳・女子誕生・寿姫の冒頭から次頁の祝儀披露、文化8年朱注、12月6日、鎌田典膳・頴娃信濃・嶋津安房・嶋津将監の四署各實名判、讀谷山王子・三司官宛へ連結。本文は去々歳なので文化8年からの相対年は文化6年に相当し、1048・1049寿姫誕生の文化6年表示とも整合する。品名・数量は記載せず、1194富姫天亡や1116富姫誕生を本件の寿姫へ置換しない。
文化10年閏11月廿八日(朱年注) / 冊子 433頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1345
全上。国王の尊書を拝見し、去歳邦丸の御嫡子の届が済み若殿様と称することへの祝儀として、眞壁按司をもって大御隠居へ太刀1腰・馬代黄金10両と目録の通りの品を差し上げた件を披露したところ、満悦の思召であったと伝え洩達を求める。文化10年朱注、閏11月廿八日。嶋津安房・嶋津将監・川上右近、各實名判表示、讀谷山王子・三司官宛。原呼称邦丸・若殿様を保持し、御嫡子届の具体月日や1346の縁組祝儀を補わない。黄金10両と使者眞壁按司を本書のまま記す。
文化11年12月15日(朱年注) / 冊子 449~450頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1396
全上。国王の尊書を拝見し、去歳御隠居の女子が出生し閑姫様と称することへの大御隠居への祝儀について、紙面の趣旨が江府へ到来したので披露したと返す。文化11年朱注、12月15日、第一頁新納内蔵署から次頁上段の嶋津安房・町田監物・川上右近各實名判表示と讀谷山王子・三司官宛へ連結する。本書は紙面之趣の披露で、贈品名・数量、使者名、満悦の思召は独立に記載されず補わない。1395は斉宣女注を伴う閑姫縁組祝儀、本書は御隠居女子出生という関係表示なので、同名を理由に同一人物へ強制統一せず原関係を保持する。
文化13年5月29日(本文生。注は20日或29日)・6月3日(天亡) / 冊子 493頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1495
御系図、斉興公御子男女七人のうち男子を掲げる。文化13年丙子五月二十九日生、母は關根常忠の女、六月三日に天亡し、法名は蓮珠院殿夢幻實如大禅童子と記す。出生の細注は、近秘野卿に五月二十日或二十九日、府城に生まれたとある旨を示す。本文の二十九日と注の二十日或二十九日を併存させ、没日は六月三日として保持する。子と母の実名や、日付異同を解消した確定生日は補わない。
文政元年12月19日(年は朱書) / 冊子 545頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1648
出典は全上。国王の書状を拝見し、普之進が種子島蔵人の養子となることを仰せ出された祝儀として、国王から大御隠居へ宮平親方を通じ太刀一腰・馬代白銀二十両と目録を差し上げたと記す。江府で披露したところ満悦であったと伝え、この旨を洩れなく伝達するよう求める。文政元年の朱書、十二月十九日、鎌田典膳・新納内蔵・島津安房・川上右近の各實名判、宜野灣王子・三司官宛。馬代は二十両であり、前の三男届済み祝儀に記す百両と区別する。養子縁組の仰出日や種子島蔵人の実名は本文には示さない。
嘉永四年十月(本文)、十月十二日(外包受渡) / 冊子 121~122頁/原整理番号 183/整理ID 183
豊後久宝が御記録奉行へ伝えた、種子嶋弾正の礼式・登城待遇を定める申渡書。年頭は御一門方と礼を行い、御座之間二之間の上敷居から四畳目に御太刀を出座し、縁頬の方に一門方・部屋栖と順に着座して家老の取合で祝儀を述べる。式向や頂戴物は一門方に準じる。八朔は一門方・部屋栖の礼後に出座し、名披露を省いて縁頬に着座する。五節句・月次の礼は一門方の礼に続いて行い、家老の名披露で着座する。登城時の下乗場所、上り口虎之間高欄、番所・門番下座・諸席・扣所などの扱いも示す。御続柄に対する厚い思し召しにより一世の間この待遇を認め、帳面へ記録するよう求める。本文は十月付、外包は嘉永四年十月十二日に豊後殿から橋口與一郎へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
辰二月28日、別包の勅令写 / 冊子 549頁/原整理番号 707の4/整理ID 707-4
別包の「御書附」として勅令写を収める。積年の王事勤労が今日の王政復古・皇運挽回に至ったのは、偏に両藩父子の尽力によるとして叡感を示し、さらに勉励して王室を輔佐するよう求める。末は辰二月二十八日、右一通と表示する。両藩父子の実名や、別史料に記される賜与品はこの正文に列記されていない。
正月20日(朱注明治3年)知政所 / 冊子 736頁/原整理番号 954の6/整理ID 954-6
鹿児嶋士族の養子候補について、同士族内に相当の者がなく諸郷士族から願い出る場合、嫡庶を問わず父子・兄弟・孫または兄弟の子など血統が明らかな者には許可し、姉妹の子は認めないとする。附士・附属長へ足軽または附属から養子となる場合もこれに準じる。格外以下から養子となる者の父子・兄弟・孫で血筋が明らかな者は認めるが、娘の子は許さない。諸郷士族から鹿児嶋士族への養子および格下の者からの養子は、嫡庶と血統の連続が明白な場合に限って許していたが、後に遠い続合を理由とする申立てが多く取扱いに妨げが生じたため、定めた条件以外の願出を禁じ、関係先へ周知する。正月廿日知政所、明治三年の朱注がある。冒頭の「鹿児嶋士族無之」には脱字の可能性を示す編者注がある。
明治6年3月18日出納課 / 冊子 914頁/原整理番号 1133の1/整理ID 1133-1
種子油は免税品で、以前は大坂での種子の直成に応じて召替えていたが、近年は御仕登がないため一盃三百三十六文を標準としてきた。金価・天保銭相場の変更後も、種子油の申請は従来の直成で差し出すよう布告する。
3月28日(本文)/明治11年か(編者後置注) / 冊子 976~977頁/原整理番号 1259の2/整理ID 1259-2
三月二十八日、今帰仁王子・三司官らが、日本・清国との関係と琉球藩王の立場から廃藩置県の処分に猶予を求め、松田大書記官が清国との交渉要求を退ける。藩王の病気を理由とする十日間の猶予願いに対し、病気は城の引渡しを延期する理由にならないとして三十日正午の期限を維持する。交渉後、王子らは嘆願趣意を書面で渡して退出する。
年月日未詳 / 冊子 516頁/原整理番号 27
建部姓弟子丸氏について、大隅国の弟子丸名・智尾村などを領した将軍家御家人で、大隅国宮内正宮の田所検校職を務めたため同社旧記に多く見え、祢寝氏も同類であると述べる系譜序文。家伝は宗房を元祖とするが確証が乏しいため、建久9年の『大隅国御家人交名注文』に建部宗房が載り、弟子丸名を領したことが明白で家伝と文書が一致する点から、宗房を鼻祖に定めたと考証する。確証できない世系を無理に論じず、古家の文書から証明できる事実を編集して後世の亀鑑とし、子孫が代々履歴の実を追記して系譜を永続させることを建部宗茂が願う。末尾でも、宗房の出所は不明だが文書と伝説により初祖とし、大隅国御家人であった証拠を後掲すると記す。
弘化4年9月12日(目録) / 冊子 26頁/原整理番号 9-1
朝鮮御陣中で戦死した者の子孫として、妙谷寺での御祭を命じられたことへの感謝と御礼を述べる。
延文四年四月五日 / 冊子 12~13頁
島津道鑑(貞久)が京女子へ、大隅国寄郡内西俣村を譲り、京女子の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
建徳二年五月廿七日 / 冊子 56頁
島津道壱(親忠)が、伊作庄今田名内森本の水田一町二段、中原名内寺前八段、宮内名内の薗・円性房屋敷を、ほう壽子へ永代譲与した譲状。
天授三年二月九日 / 冊子 107頁
子督が祖超御房に、薩摩国国府庄内宮里名の田五反を一期分として譲与し、妨げなく知行するよう定めた譲状。天授三年二月九日、子督(花押)。
康暦三年五月廿日 / 冊子 122頁
島津玄久が弟子丸若徳に、大隅国当於郡内智尾名を由緒ある地として以前宛行った文書が紛失したため、改めて宛行い、先例どおり沙汰するよう定めた宛行状。
元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
応永十五年正月十一日 / 冊子 228~229頁
沙弥性慶が、父自秀雄から譲られた薩摩国山門院市来崎村・同院東方・宮里名内の田畠、薗、屋敷などを嫡子秀幸へ譲与した譲状。子孫による領知を認める一方、所領の分限に応じて御公事を勤仕するよう定め、財産継承と公的負担を一体で規定する。