島津忠恒書状
七月十七日 / 冊子 166頁
以前から頼んでいた薫物を早く調製してもらったことへ深謝し、時折焚いて在陣中の窮屈を慰めていると述べた。帰国が延びているなか、相手の在国中に帰りたいので、心底では相手の帰京も少し延びてほしいと率直に記した書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
26 件 (全巻)/ 1–26件を表示
ページ 1 / 1
七月十七日 / 冊子 166頁
以前から頼んでいた薫物を早く調製してもらったことへ深謝し、時折焚いて在陣中の窮屈を慰めていると述べた。帰国が延びているなか、相手の在国中に帰りたいので、心底では相手の帰京も少し延びてほしいと率直に記した書状。
元和六年三月十九日 / 冊子 645頁
吉松中津川村内の松蘭屋敷について、知行名寄を記した帳面。
(慶長三年)正月十七日 / 冊子 187~188頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めて不安のないよう備えること、帰朝する者も敵情を確かめ、普請を申し付けたうえで帰ることを命じる。追而書では寒中の労をねぎらい、小袖一領・道服一領を贈った。
(慶長三年)正月十七日 / 冊子 189頁
豊臣秀吉が島津又八郎へ、明軍が蔚山へ攻め寄せたため後巻として諸将を出動させようとしたが、敵が退いたので派遣に間が生じたと告げた朱印状。受持ちの諸城の普請をいっそう堅固にし、兵粮・玉薬を十分に籠めること、帰朝する者も敵情を確認し、普請を申し付けてから帰ることを命じる。追而書では寒中の労をねぎらい、小袖一領・道服一領を贈った。
8月4日朝廷達書(正文の年不記) / 冊子 407頁/原整理番号 583/整理ID 583
両事件について各人の見込や遅速には違いがあったが、大樹と大蔵大輔・伊豫守らが参内した際、寛開の帰着は同じであったので取捨して命じたと説明する。詳しいそのときの模様は大蔵大輔・伊豫守も承知しているはずで、不参の者は大樹に問い合わせるよう求める。八月四日の朝廷達書。両事件は前後の書付に対応する防長処置と兵庫開港として読み、寛開の帰着が同じという説明は朝廷の文言に帰属させ、個々の意見や具体的な処置を本文にないまま補わない。
年未詳4月7日 / 冊子 271~273頁/原整理番号 107-14
卯月七日、昌州(傍注では連歌師昌叱か)が某人へ、先日その地へ参上して宿所を訪ねたが留守だったと伝え、京都連歌の『御かし』を平田与進のもとへ送る件について、料紙をまだ用意できないため、まず自分の愚作を差し上げるので書写して返してほしいと頼んだ書状。付属記事は、慶長十六年正月に龍伯が没した後、上原尚氏が鹿府に居住し、食禄百五十一石(国分高帳では百五十三石)で府籍に登ったこと、慶長十八年十二月に大坂事への備えとして老齢のため夫三人を出したこと、元和六年二月の百石以上四分一収公に応じ、残る百五石を食んだことを記す。さらに分家の尚演が家久の御納戸役となり、元和七年の犬追物で四疋を射、寛永九年には食禄七十九石を登録したこと、横川・清水郷・伏見・南林寺等に関わる尚演以下の分家・養子・還俗・御用人・近習役などを系図で示す。連歌書状に上原氏の近世初頭の知行縮減、軍役負担、役職、分家系譜を連ねた構成が特徴である。
二月7日、越前宰相家の二名連署 / 冊子 486頁/原整理番号 654の2/整理ID 654-2
越前宰相が大蔵大輔を辞退したところ、聞き入れられた旨を仰せ出されたため、今後は御官名を称することを知らせる。知人にも伝えるよう命じられたとして、二月七日に越前宰相家の島津十太夫・伊東友四郎が御名様の留守居中へ連署で送る。御官名と御名様は原の表示を保持し、本文にない新しい官名や具体的な宛人を補わない。
宝暦十二年五月~十二月 / 冊子 919頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2698
重豪は五月六日に府城を出発して阿久根から舟行し、九日に島津求馬を若年寄に任じ、七月十八日に芝邸へ着く前に、高輪にいる淨岸院へ挨拶した。二十一日に将軍の使者松平右近将監が慰労に来て、二十八日には川田伊織に従来の職務のまま江戸城へ出仕するよう命があり、八月十五日に朝覲の礼を行い、二十一日は午刻に西門から出て表門へ入り、芝邸に移った。淨岸院は十月朔日に高輪邸から芝邸へ戻り、十一月朔日に一橋家との結納、二十五日に新奥への移転が行われ、十二月三日には将軍使者市橋大膳から鶴が贈られた。四日の婚礼では巳刻に一橋から輿を出し、午刻に東門から入り、松平主計頭が出迎え、松平大蔵大輔が輿添を務め、六日には将軍と御台所の使者が新奥を祝い、十八日に淨岸院が新奥を訪れた。
壬申8月18日 / 冊子 895頁/原整理番号 1110の1/整理ID 1110-1
奥羽・北越へ出征した戦功者、戦死者、負傷等で廃人となった者への賞典米について、人数と石高を示し、旧鹿児島藩管轄高で賄ってきた分を政府の賞典に加算するよう大蔵大輔井上馨へ願い出る。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
〔天保九年〕二月廿一日(年は目録による) / 冊子 16~18頁/原整理番号 22の8/整理ID 22-8
代替わりに伴う武家諸法度頒布の、二月二十一日の儀礼次第。御三家、万石以上の領主、交替寄合が登城し、御座間では紀伊・尾張・水戸の順、黒書院では田安ら、御上段では松平加賀守以下の諸侯へ、将軍が法令を出す旨を伝えた経過を記す。大広間へ渡る際の先導、将軍の着座位置、掃部頭・老中・奏者番・若年寄らの席次、嫡子や菊之間縁の人々の配置も詳しく定める。老中太田備後守が法令を出す旨を伝えた後、将軍と出席者はいったん退出する。御法令を文台に載せて置き、林大学頭が読み上げ、諸侯が謹んで聞いて挨拶の後に退出した。松平三河守は養父看病による御暇との注がある。
8月6日嶋津中将・宇和嶋少将連署(正文の年不記) / 冊子 407~408頁/原整理番号 584の1/整理ID 584-1
兵庫開港の許可後に両事件の見込や遅速が異なっても寛開の帰着は同じなので取捨して命じたとの達書を読み、さらに問う伺書。防長では大膳父子の官位復旧・平常の扱いを実現して幕府が公正に戻る実跡を示し、人心の安堵と国内の基礎を立てた後、第二に外夷の事を扱い、兵庫開港を時務に応じて処置する順序を提案したとして、単に帰着が同じとは異なると訴える。朝廷が取捨する公裁を受けるが、どの意味でやむを得ず許可したのか、当時の模様を大樹へ問い合わせても道理を承知し難いため、改めて明確な説明を願う。八月六日、嶋津中将・宇和嶋少将の連署。政策の順序・評価と戸惑いは両藩の主張として示す。
明治6年4月5日 / 冊子 895頁/原整理番号 1110の2/整理ID 1110-2
戦功者・廃人の賞典米は従前どおりとし、戦死者四百六十八人には祭資として従来の給米三年分を一括支給する。壬申年限りで給米を終え、米為替・受領証等の手続を定める。
(大永三年)七月廿一日 / 冊子 643~644頁
島津忠朝が吉見長井に、父忠兼の上洛時以来の厚意と扶助への謝意を述べ、今後も取り計らいを求めた書状。
8月 / 冊子 733~734頁
薩摩・大隅の没収地を義久・義弘の蔵入地とする秀吉朱印に反し、細川幽斎が代官や在国者へ新知を重複して与え、合計一万一千余を配分したと訴える。 その配分が秀吉の意思でないなら、残る没収地を又一郎久保の蔵入地とする新たな朱印を得たいとして、長束正家に披露を頼む義弘書状案。
文禄2年12月26日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、縫工一人を進上したことを喜び、手配に力を尽くして送り届けた働きを「神妙」と評価した朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしており、朝鮮出兵期に技術を持つ職人そのものが贈答・人員供給の対象となっていたことを示す珍しい史料。
文禄2年12月27日 / 冊子 757頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の呉服一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(長束正家)に託しており、豊久が秀吉夫妻へ同時に歳暮を贈った、豊臣政権下の贈答関係を具体的に示す文書。
文禄3年12月26日 / 冊子 831頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、歳暮の祝儀として秀吉用の呉服一重と北政所用の一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から申し伝えるとしている。前年のNo.1246と同様、豊久が秀吉夫妻へ継続して歳暮を贈っていたことが分かり、豊臣政権下の年中贈答関係を示す文書。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 316頁/原整理番号 348
仁礼左近将監景頼が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵三人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人として出水衆入来源左衛門尉、大口衆肱岡左近、濱川西市丞を挙げ、立会人は三原大蔵大輔・伊集院衆西郷壱岐守とする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一三九号文書と同文とする。
(天正16年)5月4日 / 冊子 387頁
端午の祝儀として生衣・帷子三領が届いたことを喜び、受領の意を伝える。 秀吉が島津豊久の季節の贈答に応え、詳細は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとした朱印状。
(天正16年)12月19日 / 冊子 424頁
豊臣秀吉が、歳暮の祝儀として島津豊久から小袖一重が届いたことを喜び、受領を伝えた朱印状。 詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から申し伝えるとしており、在京中の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
文禄2年8月23日 / 冊子 726頁
島津豊久から鹿皮三十枚が届いたことを喜び、遠路からの厚意と長期在番の苦労をねぎらう。 近く帰朝を命じる予定なので、それまでは引き続き在城に励むよう求め、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした朱印状。
文禄2年11月10日 / 冊子 752~753頁
豊臣秀吉が、長期在陣の苦労をねぎらい、普請を堅固に進めて油断しないよう命じる。主人から下々まで焚火を用意して寒さや病を防ぎ、必要があれば長束大蔵大輔・木下大膳大夫を通じて申し出よと指示する。 朝鮮在陣中の防寒・健康管理を具体的に命じた朱印状。
文禄3年11月17日 / 冊子 828頁
豊臣秀吉が嶋津又七郎(島津豊久)へ、献上された弟鷹一羽が届き、念を入れて運んだため尾羽に損傷がないことを「無類」と高く評価して、格別に喜んだ朱印状。あわせて、寒い時期まで長く在陣している豊久の苦労をねぎらい、詳細は長束大蔵大輔(長束正家)から伝えるとしている。鷹献上の品質評価と在陣慰労が一通に収められた特徴的な史料。
文禄4年正月15日 / 冊子 858頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、年頭の祝儀として白鳥一羽が届いたことを喜び、受領の謝意を伝えた朱印状。詳しい返答は長束大蔵大輔(正家)から伝えさせるとしており、文禄四年正月の豊久と秀吉の贈答関係を示す。
(慶長三年)十二月廿七日 / 冊子 153頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、歳暮の祝儀として秀吉と北政所に呉服各一重が届いたことを喜び、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした礼状形式の朱印状。