家老座覚書
明和二年四月十一日 / 冊子 82頁/原整理番号 181の56/整理ID 181-56
四月十一日、日光使者を高橋此面に命じ、急いで明十二日に差し立てるため、家老座筆者・与力兼役の上村善助を此面に付ける旨を記す。左中の口達を受け、岩下佐次右衛門が善助へ申し渡した。使者の出立予定、随行者の役職と配属先、左中から岩下を経由する伝達を示す。
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明和二年四月十一日 / 冊子 82頁/原整理番号 181の56/整理ID 181-56
四月十一日、日光使者を高橋此面に命じ、急いで明十二日に差し立てるため、家老座筆者・与力兼役の上村善助を此面に付ける旨を記す。左中の口達を受け、岩下佐次右衛門が善助へ申し渡した。使者の出立予定、随行者の役職と配属先、左中から岩下を経由する伝達を示す。
天保5年9月20日 / 冊子 996~1001頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0146
左近の跡目と家格・連名順位を検討するため、篠原善助と相良甚太夫が支族諸家の成立・相続先例を調べた第一の吟味書。御誕生後ほどなく夭折した男子、御七男左近、御八男為次郎らの位置を示したうえ、大玄院在世中に行われた支族・諸士の家筋吟味以後の制度を参照する。一門方四家、準一門、豊州家・永吉家・佐多家・佐土原家などについて、二男以下の分家、別腹の長男、家督相続、養子、断絶後の再興、地頭職・番頭・御側役等への任命、太刀着座・家格一所持格の付与、知行・宅地・役料の給付を時代順に列挙する。元禄・享保・正徳・文化・天和・宝永・享保・寛政などの先例を引き、家の新設が血統順位だけで一律に決まらず、当主の功績、先祖の由緒、当時の役職と家格、養子・実子の関係、家督継承の事情を伴うことを示す。左近家を新設する場合の家格・席次をどこに置くか、先例と現在の一所持家の配列に照らして慎重に伺う。天保五年午九月二十日、篠原善助・相良甚太夫。全家系を現代的な系図へ再構成せず、本文が跡目判断の根拠として挙げた先例群として保持する。
天保5年9月25日 / 冊子 1001~1003頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0147
左近卒去後の家新設と家格をめぐり、九月二十日付吟味書を補う篠原善助・相良甚太夫の追加調書。中将の深い意向を受け、浄国院・大玄院・寛陽院らの男子から一所持家を立てた例、既存家へ養子に入った例、いったん断絶・処分された家を由緒や功績により再興した例、実子・養子・女子の縁組を介して家督を継いだ例を改めて比較する。慶長・元和以来の事例について、家格一所持、太刀着座、家老・番頭・地頭職、知行・宅地・役料の給付、元服と称号、再興時の席次を検討する。近世の三男・六男らが本家や別家を継いだ例、女子の跡が法例どおり直ちに独立家となるわけではないこと、久近・久亮・久四郎忠清らの由緒と処遇も挙げる。左近家を新設するなら御至情と先祖の功績を考慮できる一方、同様の事例は一律でなく、家格・席次、資財・家屋、将来の存続、他家との均衡を慎重に定める必要があると結論する。申上げた趣旨への指示を求める。天保五年午九月二十五日、篠原善助・相良甚太夫。先行調書と重なる先例も別文書として保持する。
文化14年11月3日(照会、朱書)/3月19日(朱返答・消印注あり)/寅4月14日便(返答到着、編纂前置は文化15年) / 冊子 528~529頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1600-2
慈光院年回の浄光明寺法事に当たり、太守が産穢中で代参を命じない取扱について、文化三年寅二月の指示を受けつつ、当座吟味書では代参を命じ法事を済ませるべきとするので再吟味・先例調査を求める照会。指示は宝永・正徳年鑑に準じるようだが、産穢中の代参なし・穢明け後の代参という取扱の始末が詳らかでなく、文化三年の取扱を取消す形では書類を差し上げ難いと述べる。公辺の取扱を留守居へ承合し、本人にも問い合わせ、今回は代参を命じ法事を済ませるため急いで、この節の便または年内往還で返答を求める。条書への返答は引札に記し、案文なので本書を略すと注記する。右の次第が判明したら産穢中代参を調べるべきで、これまで定めはなく今回差当たりの産穢も再吟味に及ぶため、国元で得と勘弁し不事足を避け、江戸で留守居と示談して同席中でも相談するよう依頼する。朱文化十四年丑十一月三日、篠原善助、得能正助殿宛(朱上・下で書分)。後の朱返答は三月十九日とし、江戸への照会は監物殿の沙汰を得て行い、寅四月十四日便で返答が届いたので留め、その趣旨を口達で委曲申し述べて本書を月番右近へ篠原善助から差し上げたと記す。照会・返答・回付の日付と主体を分け、文化十五年の前置との関係を残す。返答部分には朱の消印であるとの注が付く。
明和二年四月十二日(出立) / 冊子 84頁/原整理番号 181の67/整理ID 181-67
日光へ急ぎ派遣する人数を列記する。高橋此面殿の箇所は「上下」とあり、朱書で本ママと注記するが、人数の数値は記されていない。御家老座筆者與力兼役の上村善助は上下四人、與力の花田兵左衛門も上下四人とする。右の者は酉四月十二日、中急で日光へ差し越されたと記す。朱書には、本文の此面殿その他と、先に差し越した御留守居・御留守居付、御献納物宰領人、付属の足軽まで、残らず四月二十日に帰府したとある。
八月廿七日(本文、年は包紙注明和四年) / 冊子 169頁/原整理番号 408/整理ID 408
島津壮之助が明廿八日に名代をもって継目の礼を申し上げるに際し、家来三人の御目見を命じられたが、「三家之者」が差し支え、勘左衛門・鐵五郎は「差次三家之者」であるため御目見を願ったと記す。対象三人は肥後善助・梅元勘左衛門・中村鐵五郎。御書院で太刀を進上する際、善助は先格どおり脇差を帯び、勘左衛門・鐵五郎は脇差を帯びず御目見するよう命じ、その趣旨を奏者番・御記録奉行・御目付へ申し渡すことを指示する。八月廿七日、織部署で桂久中の小字注がある。壮之助には忠紀・越前島津家の注がある。白木御文書五番箱四十中の写とする。包紙注は明和四年亥八月廿八日に小林中太兵衛の取次で渡され、五番箱へ納めたと郡山主右衛門の記録を示す。
安永五年二月二十八日(年は朱)、小字は三月十六日・二十六日の記載 / 冊子 487頁/原整理番号 1352/整理ID 1352
公方の日光御社参について、太守の勤向の先例を調べたところ、享保十三年申四月には、社参時は在国中で出御の知らせを承知してから飛札で申し上げ、還御時には礼の使者を勤め、御用人諸良善助を差し越した書留があると述べる。出御・還御の勤向を廻状で仰せ渡す見込みと聞くが、在国側への知らせは用人・使者で先例通りにするのか、川上頼母へ仰せ付ける筋か、事情を留守居にも吟味して相談してほしいと求める。先年の日光社参時の書留がそちらにもあるかを問い、案文などを請求し追って伝える予定を記す。また内証の勤向は前の年寄以来の心得があるが、まだ仰せ渡しがないとする。末尾は二月二十八日、朱の安永五年、嶋津左中・山岡市正殿の上下注を持つ。小字には三月二十六日の御取次二階堂への勤向の申し上げに関わる記載と、三月十六日・二階堂の記載がある。小字の日付を二月二十八日の書状日付へ統一しない。享保の先例、安永五年の照会、三月の取次注、未決の内証勤向を分け、先例の使者派遣をこの年に実施済みとしない。
文化4年4月2日届。附書:宝暦3年4月23日、宝暦4年閏2月23日・8月4日。文化6年追記 / 冊子 332~334頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1039
重豪公御譜中・写正文在文庫。文化4年4月2日、榮翁の母方叔父嶋津美作(貴澄・垂水家)が国元で先月5日に死去したため、続半減の忌服を届ける。忌5日・3月5~9日、服15日・3月5~19日、日数が過ぎ残日数がないので遠慮1日とする貼紙を付す。本丸の書留には日限がなく老中側の扱い、ほかの書留は見当たらないと記す。続く重年の系譜説明は、継豊の二男で嶋津兵庫名跡を継ぎ、美作の姉と婚姻して榮翁が生まれ、その後宗信の養子となったが榮翁は重年実子として家督相続し、美作は養子であっても母方叔父半減の忌服になると述べる。宝暦3年4月23日、重年が帰国許可を受け、先妻所生の善次郎・9歳を家督以前の男子として跡式相違なく命じられるよう願う届を五宛へ出す。4月4日御暇、13日発足、21日善次郎の申上げを付記。宝暦4年閏2月23日、善次郎を家中一門に置き前年仮養子として願ったこと、今回参勤で召し連れる件を記す。延享2年乙丑11月7日一門家で生まれ母は備中女、宝暦4年に10歳、8月5日に嫡子届を行い松平又三郎と改名したとの説明と、同8月4日の改名届も収める。文化6年、珎林院(久柄妻)の病気を機に旧続書を再調査し、美作死去時の母方叔父半減について、重年実子なのに養子となって他家を継いだとの続書文言が不適切だと牧野側から指摘された経緯を記す。旧続書はそのまま置き難いとして、卯4月提出の続書を取り消し、所定の母方叔父母の扱いで届けるよう内々に決めた。国元の家老座・記録所に帳面書類を取り寄せ、江戸詰記録方添役篠原善助を介して照会した。その後珎林院が死去し訂正どおりの届を出し、公辺の都合も無滞に済んだと結ぶ。年次・実子と養子の申告文言・旧書面撤回を分け、単一日付の忌服届として縮めない。1072末注は本件と同一とするが、院号は本件珎林院・1072瑤林院の掲載字形を出典別に保つ。
文化4年4月2日届。附書:宝暦3年4月23日、宝暦4年閏2月23日・8月4日。文化6年追記 / 冊子 344~346頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1072
白木御文書七番箱72番。文化6年、御記録所の「御隠居様御事瑤林院江之御続合、於江戸御吟味之上以後公邊御届振被究置一巻帳」の蓋紙を付す。文化4年4月2日、榮翁の母方叔父嶋津美作(貴澄・垂水家)が国元で先月5日に死去したため、続半減の忌服を届ける。忌5日・3月5~9日、服15日・3月5~19日、日数が過ぎ残日数がないので遠慮1日とする貼紙を付す。本丸の書留には日限がなく老中側の扱い、ほかの書留は見当たらないと記す。続く重年の系譜説明は、継豊の二男で嶋津兵庫名跡を継ぎ、美作の姉と婚姻して榮翁が生まれ、その後宗信の養子となったが榮翁は重年実子として家督相続し、美作は養子であっても母方叔父半減の忌服になると述べる。宝暦3年4月23日、重年が帰国許可を受け、先妻所生の善次郎・9歳を家督以前の男子として跡式相違なく命じられるよう願う届を五宛へ出す。4月4日御暇、13日発足、21日善次郎の申上げを付記。宝暦4年閏2月23日、善次郎を家中一門に置き前年仮養子として願ったこと、今回参勤で召し連れる件を記す。延享2年乙丑11月7日一門家で生まれ母は備中女、宝暦4年に10歳、8月5日に嫡子届を行い松平又三郎と改名したとの説明と、同8月4日の改名届も収める。文化6年、瑤林院の病気を機に旧続書を再調査し、美作死去時の母方叔父半減について、重年実子なのに養子となって他家を継いだとの続書文言が不適切だと牧野側から指摘された経緯を記す。旧続書はそのまま置き難いとして、卯4月提出の続書を取り消し、所定の母方叔父母の扱いで届けるよう内々に決めた。国元の家老座・記録所に帳面書類を取り寄せ、江戸詰記録方添役篠原善助を介して照会した。その後瑤林院が死去し訂正どおりの届を出し、公辺の都合も無滞に済んだと結ぶ。末尾の編者注は本文書が1039号と同一と明示する。院号は1039の珎林院に対し本件瑤林院の掲載字形を保持する。
文化10年10月(朱年注。伝達注は同酉10月5日) / 冊子 421~422頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1308
正文在文庫。大御隠居の思召により師久公・勝久公の石塔御銘を今回再興する旨が命じられたため、寺社奉行・御記録奉行へ申渡し、承向へ伝達するよう二寺に通知する。御石塔の格好は御記録奉行と申談じ、吟味して早く申し出るよう付す。文化10年朱注10月、右近署・川上久芳人物注。末注に一通を同年酉10月5日桂太郎兵衛から篠原善助へ渡し、白木御文書7番箱へ納置、朱69番とある。再興指図・塔形吟味・提出要求・伝達収納を分け、石塔建造完了とはしない。
文政6年5月11日(前書)/同年1月11日(張紙) / 冊子 914頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2601-1
記録奉行らが系図調査に必要な誕生日の確認を求めた前書。大信院こと重豪以降の系譜を提出する命を承知したが、信濃殿から渡された生年月日の書付では、善次郎の出生が文政六年正月とあるだけで日がないため、調べて付箋で知らせるよう求める。文政六年未五月十一日付で、篠原善助ら六名を列記し、江田五郎左衛門を添役、善之丞を見習、金十郎を善之丞五代孫と示す。張紙は同年正月十一日「御出生之事」と記す。白木御文書九番箱中二十七番。前書日付と張紙の日付を分けて記録する。
年月日未詳 / 冊子 116頁/原整理番号 185-1
伊地知季安の記事。十一日、上津浦番手の島津久賀らには武功があり軍議のできる者がいなかったため、島原の島津久元らへ報せ、讃良善助貞賢と蒲川内蔵丞を上津浦に置くことを相談した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 117~118頁/原整理番号 187
『旧伝集』所収の逸話。中納言様が讃良善助を召し、肥前・天草一揆籠城の様子を絵図で説明させ、絵図と実状の違いをただす。城攻めでの鉄砲・矢や攻撃経路、酒匂太郎左衛門の進言、加藤清正の攻撃例を挙げ、経験ある者の下図・判断が違わなかったと伝える。
宝暦9年2月28日、明和7年5月23日、天明3年10月、文化14年3月29日、文政元年8月25日 / 冊子 261頁/原整理番号 105
別紙として上原尚清(源左衛門)から尚伝・尚続・尚方へ至る四代の系線と、家督・別立・隠居の記事をまとめた系図。尚伝は源蔵・源右衛門を称し、宝暦九年二月二十八日に家督を継ぎ、町田主計が奏者を務めた。女子のほか、原注で「ママ」とする尚正を掲げ、源左衛門二男の源之丞らしい者が別立した形跡はあるが年号不明で、当時の善助の祖父かと記す。尚続は源太郎・源右衛門を称し、明和七年五月二十三日に継目御礼と初御目見を願ったものの、御礼を命じられた月日は不明とする。尚方は市太郎を称して天明三年十月に別立し、のち源蔵・源左衛門を称し、文化十四年三月二十九日の隠居・家督記事と、文政元年八月二十五日に小森中太兵衛を奏者として家督御礼を命じられた記事を伴う。
亥11月15日 / 冊子 372頁/原整理番号 188-4
蒲地八左衛門本だけにある末尾異文で、蒲地家の由緒と庄内弓戦中の討物を二条記す。第一条は、曾祖父蒲地四郎左衛門の嫡子八左衛門が、甫心の代に庭の梅が満開の折、島津家久から梅の枝に短冊を付けた詠歌『とりあへす年をふれし雪の木すへの梅香に/一首侍ぬちとせの春をかさしてそ見る』を与えられ、短冊を現に所持すると伝える。第二条は東郷重位弟子衆の科人討伐覚書の抜書で、庄内弓戦中、敷根上之段に潜む相場主税を讃良善助の情報で討つ際、蒲地四郎左衛門が機織具に阻まれて侵入が遅れ、主税の太刀で左臂などを斬られながら添指で斬り、仕留めた経過を記す。亥十一月十五日付、蒲地八左衛門の署名を持つ。
文久2年4月廿三日 / 冊子 251頁/原整理番号 349の1/整理ID 349
雑集中の印刷の1。鈴木勇右衛門・鈴木昌之助・森岡善助・奈良原喜八郎・道嶋五郎兵衛・大山格之助・江夏仲左衛門・山口金之進の八人を年齢付きで列記し、勇右衛門には深手、五郎兵衛には即死の注を付す。今日伏見で身命を投げ出して比類ない働きと誠忠を示したことを喜び、各人に切米十石ずつを宛行い精勤を求める同文を載せる。文久二年四月廿三日、御名乗御判とするが発給者の実名は記さない。八人と八通の発給を同一視しない。
九月七日 / 冊子 352~353頁
川上久国の書状。島津兵庫頭家中の白坂納右衛門が加治木を退去して興国寺に籠居し、親類や複数の家臣が帰参を説得しても拒み続けた経緯を報告する。重罪を受けても加治木へ戻らないとの本人の意向を踏まえ、再度の説得と処置について相談している。
明和二年三月(日未詳) / 冊子 75頁/原整理番号 181の35/整理ID 181-35
島津左中と高橋此面同が、四月に日光へ差し遣わす使者の道中通人馬を伺う。公儀からは通馬八足を下す旨が伝えられたが、使者の勤向には物入りがあると聞くため、通馬四足を下し、少人数で籠越しをするよう命じてほしいと願う。続く東郷源五名の願では、通馬二足と四人陸尺を下し、留守居付以下には一人ずつ通馬一足を下すことを問う。末尾の津留五右衛門名の伺いは、このとおり命じてよいか、先例を詳しく知らないため吟味した旨を述べる。朱書には、使者が少人数で籠越しをするため往来通馬四足を下すこと、正文の趣旨を家老座の末席で左中へ申し達し、首尾懸にも伝え、書上の首尾書などは不要としたことを記す。別の朱書は、日光へ赴くため往来通馬二足と四人陸尺を下す扱い、留守居付以下への通馬一足ずつの扱いを補う。酉三月二十五日には正文どおり東郷源五の名代へ伝え、他は銘々に申し渡し、首尾係にも伝えたと記す。取次は岩下佐次右衛門。公儀の枠、家老連署の減員案、東郷の願、朱書の申し渡しをそれぞれ示す。
文化3年6月12日 / 冊子 112~113頁/原整理番号 70の9
記録奉行の平田貞太郎ら五名が、日新公いろは歌五首を板書して家老座正面の床に掲げた由来と、その後の撤去・再掲の経緯を調査して報告する。古老や旧記録を尋ねても開始年代を確定できなかった旨を文化3年6月12日付で述べる。
天保四年六月七日~天保八年十月朔日 / 冊子 6頁/原整理番号 2
天保四年、島津久風(但馬)が長く停滞していた御家譜編集を再開させ、得能彦左衛門・有馬休左衛門に編纂を分担させ、平川宗之進らを補助にあてた経過を記す。天保八年には清書十四冊が上覧に供され、寛政三年から文化八年までの草稿十三冊も提出されたが、巡見使などの御用が重なるため編集は暫時猶予された。
年月日未詳 / 冊子 689頁
讃良善助貞資の自譜により、寛永十四年の島原一揆に際し、六十六歳の貞資が御使者竹内備前守に同行し、多数の足軽を添えて派遣されたことを記す。老練な人物として事情聴取のため遣わされたとみられる。
寛保元年五月十一日 / 冊子 648頁/整理ID 1660
家老島津久豪は山津十太夫へ、讃良善助の本屋敷六百八十五坪を周防殿(島津忠紀)に下賜する命を伝える。担当の勘定方などにも通常の手続きに従い申し渡すよう指示した。
寛保元年五月二十四日 / 冊子 648頁/整理ID 1662
島津忠紀へ下賜された讃良善助の屋敷の隣地二百三十一坪について、伊集院側の願いを受け、買い入れて拝領地に添えることを許した経緯を記す。買入の許可は家老種子島時成から山津十太夫へ伝えられた。
寛保元年五月二十四日 / 冊子 648頁/整理ID 1663
家老種子島時成は山津十太夫に、讃良善助の旧屋敷を忠紀へ下賜した後、その隣地を忠紀が買い入れて一つの屋敷地にすることを許すと伝える。伊集院猪右衛門の願いを踏まえ、勘定方などにも通常の手続きを命じる。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。