肝付省釣兼続書状
「天文十七年」三月十日 / 冊子 851頁
肝付兼続が島津日新に、久しく音信がなかったことを詫び、家中の安定と今後の取り計らいを願った書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
49 件 (全巻)/ 1–49件を表示
ページ 1 / 1
「天文十七年」三月十日 / 冊子 851頁
肝付兼続が島津日新に、久しく音信がなかったことを詫び、家中の安定と今後の取り計らいを願った書状。
(永禄元年)二月廿三日 / 冊子 57頁
肝付兼続が番替えの送りを依頼し、岸良方面で敵九人を討ち五人を捕らえ、馬三十一疋を得た戦果を報告する。遠見・警戒、兵糧、部隊の激励を念入りに指示する。
永禄六年八月廿五日 / 冊子 125~126頁
肝付省釣兼続が安楽因幡守の望みにより、野柄・合爪・中救仁・樋下・薗草・橋崎などの田地と堀町・小原の屋敷を含む所領を、従前の扶持分として認めた証状。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
肝付兼続が、当家へ忠節を尽くした安楽大和守の筋目を踏まえ、安楽因幡守を二男として扶持すべき旨を認めた証状。先神領のうち借屋之門と同屋敷二所を与え、社頭の儀に異議がないよう定めて証文を渡す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
年月日未詳 / 冊子 55頁
永禄元年の島津氏周辺の軍事・家政記事。肝付兼続の庄内侵攻、恒吉宮ヶ原での北郷・肝付両軍の戦い、志布志・飫肥新山城の攻防と戦死者を記し、十二月には島津支族が所領名を氏とする改姓を命じられた。
年月日未詳 / 冊子 67頁
永禄元年冬、島津方と肝付氏が戦った経緯を記す。清ヶ島で肝付方の有力者が多数討たれた後、兼続が少人数で踏みとどまり敵を退けたこと、伊東方が新山・南郷方面から櫛間を攻めた状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 68頁
永禄二年の外交・軍事記事。琉球国王への返書、肝付兼続による松山城攻略、飫肥での伊東軍との戦い、島津尚久救援と春成久正の戦死、肝付・頴娃との盟約、末吉・梅北の領有移動などを記す。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁
永禄三年夏頃、伊集院忠純の家臣の言動を発端に肝付兼続が島津貴久を怨み、鹿児島を去った経緯を詳述する。兼続方は廻伊豆守の城を奇襲して奪い、伊豆守を討ち、兼続自身も廻城へ入って島津方と対立した。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 85頁
日新の長女婿で父子の契りを結んでいた肝付兼続が島津氏に背いたため、日新が儒教的な戒めと和歌を娘へ送り翻意を促したが、兼続は従わず敵対に至ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
肝付兼続が島津氏への遺恨から伊東氏と結んで廻城を奪い、島津貴久・義久らが包囲した経過を記す。七月十二日の竹原山合戦で忠将と町田忠林以下多数が戦死したのち島津方が反撃し、飫肥にいた義弘を呼び戻した。
年月日未詳 / 冊子 86頁
肝付兼続の反乱と廻城をめぐる戦い、竹原山合戦で島津忠将が戦死したことを義弘の譜から記す。飫肥在陣中の義弘は、島津忠親の勧めもあって急ぎ帰還した。
年月日未詳 / 冊子 90頁
永禄四年、日向本城方面の戦況に続き、肝付兼続が五月に廻城を奪い、島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。肝付方は救援を求め、伊東方も本城・酒谷間の鎌ケ倉に陣を置いた。
年月日未詳 / 冊子 91~92頁
肝付兼続の廻城奪取後、島津方が曽於郡方面の安全確保を図りつつ大平・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。竹原山合戦で忠将が戦死し、島津方が反撃したこと、樺山玄佐の知行や陣所をめぐる処置まで述べる。
年月日未詳 / 冊子 92~93頁
肝付兼続が廻城を奪ったため島津方が三か所に陣を置き、伊東方が本城・酒谷間の鎌ケ倉から肝付を支援した経過を記す。竹原山・馬立の陣が破られ忠将以下七十人が討たれたとの注進を受け、日向方面でも対応を協議した。
年月日未詳 / 冊子 93~94頁
島津方が廻城を包囲すると、肝付方は六千余騎を集め竹原山・馬立の陣を攻撃し、島津忠将以下を討ち取った。兼続は忠将との旧交を思って涙し、島津方は一時和睦して撤陣し、飫肥の義弘も貴久・忠親の意向により帰国した経過を記す。
(永禄四年)七月廿六日 / 冊子 98頁
隈庄親昌が薩摩との交渉について大友氏重臣らへ取り次いだ経過を述べる。肝付兼続が廻城を忍び取って薩摩国内が混乱した事情を伊集院大和入道から聞いたとして、花巌院の口上どおり日向へ早急に下知するよう求め、茶磨を贈った書状。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 256~257頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津氏への出仕を拒み、廻城主肝付忠勝の死後は伊東氏とも結んで敵対した経緯を述べる。元亀二年十一月二十日、百余艘の船団が鹿児島湾に侵入して瀧水村を攻めたが、平田新三郎ら帖佐衆約五十人が防戦し、敵船を退却させた。
元亀三年九月廿六日以後 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興を大隅の三凶徒とし、島津義久がまず下大隅征討を決めた経緯を記す。元亀三年九月二十六日、義久と歳久が軍を率いて樫島を経て小浜古城を落とし、早崎高峰を陣営として越年した。樺山玄佐は新春を祝う和歌を詠み、その後三氏が次第に島津方へ屈したと結ぶ。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293~294頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
天正元年二月~三月 / 冊子 299頁
肝付兼続と禰寝重長が長年島津氏に敵対するなか、島津義久が宝持院に八木昌信を添えて密かに禰寝へ送り、重長に肝付方から離れるよう説かせた。続いて天正元年二月、新納忠元・伊集院久治・上原尚常も渡海して説得し、二十一日に三使が、二十六日に義久と家老衆が誓紙を渡した。重長は三月に降参し、島津軍とともに肝付氏を攻めた。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正元年三月十八日 / 冊子 302~303頁
天正元年三月、島津軍が肝付兼続方を攻めた際に以久も従軍した。十八日の西俣合戦では先頭に立ち、兼続が亡父の仇であり今日の戦いこそ望むところだと士卒を励まし、疾風迅雷の勢いで諸将とともに敵軍を撃破して首級を得たとする。
天正二年正月三日 / 冊子 329~330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾に陣取ろうとしたため、島津忠長が疲労した敵を討つ好機として軍中を励まし、自ら後詰めを約した。川上久信も同様に指揮し、島津勢が敵軍を敗走させ茶園尾を占領した。
天正二年正月三日 / 冊子 330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて茶園尾へ陣取ろうとしたが敗走し、島津勢が同地を占領したと記す。早崎城兵が安楽備前守の姓氏を題に狂歌を作り、矢に書いて敵陣へ送った逸話を載せる。底本欠損のため鹿児島県立図書館本で補われた記事である。
天正九年九月三日 / 冊子 701頁
島津忠良の娘について、肝付河内守兼続の室となり、母は島津薩摩守成久の娘であったと記す子女系図。天正九年九月三日に七十一歳で没し、姶良含粒寺に葬られ、法名を月庭桂秋大姉とする。
十月十二日 / 冊子 344頁
島津忠良が式部大輔へ、兼続が来着したことを知らせ、相手が快気せず面会できないのを惜しみ、養生を第一とするよう勧めた返書。贈られた辛螺・海老四籠への礼も述べる。
年月日未詳 / 冊子 750~751頁
豊州家庶子の平山氏系図。島津季久流から忠廉・忠康・忠朝へ続く家系、松山居住と官途、加治木家への養子、忠智が肝付兼続討伐に向かう途中で肝付兵に斬られたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 58~59頁
永禄元年三月十九日、肝付勢が庄内へ侵攻し、北郷時久・島津忠親の軍が恒吉宮ヶ原で迎撃したが敗れた戦闘を記す。北郷・豊州方の諸将と兵卒二百余人が戦死した。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
年月日未詳 / 冊子 95~97頁
島津方が大牟礼・馬立・竹原山から廻城を包囲し、降伏をめぐる評議ののち、七月十二日に肝付勢の攻撃を受けた経過を詳述する。竹原山・馬立で忠将以下が戦死した一方、大寺大炊助・瀧聞美作守・梅北刑部左衛門らが奮戦し、敵を恒吉方面へ退けた。
年月日未詳 / 冊子 103頁
島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。
天正元年二月廿一日~廿六日 / 冊子 299頁
天正元年、島津義久が宝持院・八木昌信を密使として禰寝重長を説得し、二月には新納忠元・伊集院久治・上原尚常を重ねて派遣した。忠元らは肝付方を離れて島津氏へ降ることが後栄になると説き、重長は応じて二十一日に三使と、二十六日に義久と盟約し、領地を挙げて降参した。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 303頁
禰寝重長が島津方へ属したため、天正元年三月十日に薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿へ進んだ。十八日の西俣合戦では歳久が隅州軍、忠長が薩摩南方軍を率いて肝付勢を大破し、多数を斬獲した。重長も参戦し、戦後は海を渡って指宿で義久に謁し、鹿児島まで随行した。
天正二年正月三日 / 冊子 328~329頁
天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
永禄五年、伊東義祐・肝付兼続の攻勢で島津忠親が飫肥・志布志を失った情勢と、真幸院北原氏の家督争いを記す。島津方は北原兼親の飯野復帰を支援し、横川城を攻略して菱刈氏へ与え、栗野・飯野方面の支配を固めた。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
年月日未詳 / 冊子 86~87頁
竹原山合戦で、海辺の守備に当たっていた島津忠将が町田忠林の制止を退けて単騎で敵中へ突入し、包囲されて四十二歳で戦死した経過を詳記する。法名は心翁大安大居士で、家臣や援兵にも多数の戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 90~91頁
永禄四年五月十四日に肝付方が廻城を忍び取り、六月二十七日に島津方が大牟礼・馬立・竹原山へ陣を置いた。七月十二日に竹原山が破られて忠将以下七十余人が戦死し、十一月七日に代賢が福昌寺へ入院したことを記す。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
弘治2年10月5日 / 冊子 98~104頁/原整理番号 20-1
冒頭に弘治二年十月五日付の後奈良天皇口宣案を掲げ、権大僧都省釣(肝付兼続)を法印へ転任させる。上卿は中山大納言、奉者は蔵人頭左大弁頼房で、『家わけ二』肝付文書一七号と同文である。続いて前文書からつながる平岡氏系譜を収める。平岡義理は天正元年に日向国住吉原で北郷時久・相久・忠虎らとの合戦に討死し、義光は豊臣秀吉・徳川家康に仕えて子孫が旗本となった。義秀は島津義久に奉公し、天正六年の高城防衛と文禄元年の朝鮮出兵に従い、大崎横瀬村を賜る。義辰は慶長四年の恒吉城攻めに従軍し、のち串良杉尾口へ移された。以後、義長・義元・義彦・義遇・義敬・義業・義臣・義言・義堯・義源・義寄ら諸流について、寺院建立、知行・高山預、家督、養子・婚姻、医師・僧位、出生・没年・法名を詳記し、末尾は宝暦四年九月二十七日生の女子の記事で終わる。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
天明7年正月吉祥日 / 冊子 113頁/原整理番号 22-2
肝付氏嫡流古系図の巻頭を掲げて当流の出自伝承を説明する、天明七年正月吉祥日付の源盛富段書。河内守兼続入道省釣の致仕後、豊前守兼隆の弟・治右衛門尉兼清を鼻祖とする伝承を示す。ただし古系図には兼隆・兼清を確認できず、年代が隔たり徴すべき文献もないため系線を接続できないと判断し、兼清を肇祖として後代の再撰の助けとなるよう、見聞に基づき世系を訂考した旨を記す。
宝永4年5月25日改訂・御記録所提出(系譜記事は天文~享保年間に及ぶ) / 冊子 585~593頁/原整理番号 100
伴家肝属氏の近代の家系を兼続以下の枝筋までたどり、子女・養子・婚姻、家督、官途・法名、所領、戦死や寺院関係を記した長大な系図。冒頭に宝永四年五月二十五日、改訂して御記録所へ差し出したと記し、兼続の弘治二年の口宣、良兼らの志布志大慈寺・日州の寺院や位牌をめぐる記事、兼長らの地頭職・知行、兼道らの島津家との関係や慶長五年の戦死を載せる。後段には享保年間の太刀・銀馬代や家格に関する願い、僧籍に入った者、女性の婚姻・離別も記し、宝永四年の提出後にあたる年次の記事も含む。単なる直系表ではなく、分家・養子筋と後年の由緒主張を併記した点に特徴がある。
年月日不記(系譜記事に文明19年・天文2年・永禄5・9年など) / 冊子 593~598頁/原整理番号 101
前田茂右衛門の所蔵と記す伴家系図で、天智天皇・大友皇子から伴善男らを経て、肝付と号した兼後以下の諸流をつなぎ、家族関係・官職・法名・所領・軍功を併記する。兼藤の相模国鎌倉住、兼久の鹿屋・肝付殿番代、兼光の越前守、兼続の加治木城主・高山城落城後の入部、兼勝らの山城守・左右衛門尉などの系統をたどる。後半には、兼洪が天文二年に逆心露見により誅伐された記事と遺児の記述、兼続が永禄期に松山・志布志を知行し同九年に没した記録を載せる。系線だけでなく、女子の婚姻、養子、出家、戦死や相続の経緯まで書き込む点が特徴で、前項の宝永四年御記録所提出の近代肝属氏正統系図とは別の系図である。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
巻二/冊子 23~25頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興ら大隅の反島津勢力を討った長期戦を記す。義久は歳久らを派遣して小浜・古江方面を攻めるが、戦況は容易に決しなかった。そこで八木昌信が僧に同行して禰寝重長と秘密交渉し、婚姻を含む条件で降参を取り付ける。島津軍は高洲浦から肝付領へ進み、父忠将の仇を討とうとする征久らが先鋒となって敵を破った。一方、早崎の陣は夜襲を受け、家久が多数の傷を負いながら少数の従者と敵を押し返す。牛根城攻めでは平常岡・茶園尾へ陣を進め、断崖に道を築いて三日三夜攻撃し、城方を降伏させた。祢寝方も伊東・肝付勢の攻撃を受けたが喜入季久が防戦する。最終的に肝付・伊地知勢は服属し、人質を出し、新納忠元父子らが牛根城へ入った。秘密交渉、婚姻政策、夜襲、築道による城攻めを通じて大隅平定が進む過程を詳述する。