島津義久譜
年月日未詳 / 冊子 114頁
天正十三年十月十一日、島津義久が本田親貞を肥後警衛へ向かわせ、上洛帰りの北郷一雲家臣から羽柴軍の九州下向・増勢が避けられないとの情報を得た。十四日には新納忠元書簡により、薩摩方へ属した豊後南郡の入田氏が大友勢に攻撃され、一門・士卒六千人が籠城して窮地にあると知り、領内へ救援兵の催促を出している。
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年月日未詳 / 冊子 114頁
天正十三年十月十一日、島津義久が本田親貞を肥後警衛へ向かわせ、上洛帰りの北郷一雲家臣から羽柴軍の九州下向・増勢が避けられないとの情報を得た。十四日には新納忠元書簡により、薩摩方へ属した豊後南郡の入田氏が大友勢に攻撃され、一門・士卒六千人が籠城して窮地にあると知り、領内へ救援兵の催促を出している。
年月日未詳 / 冊子 123頁
高知尾へ派遣された宮崎衆の田中筑前が帰還し、入田氏の薩摩方帰属は確実だと報告した島津義久譜の記事。これを受け、十一月二十四日に豊後方と対峙し、梅口・佐伯口から同時に薩摩軍を進発させる計画を記す。入田氏の帰属判断が豊後方面への二正面作戦へ直結したことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 123~135頁
天正十三年十一月から十二月、上井覚兼が入田氏の帰属交渉、高知尾・豊後方面への使者派遣、軍勢進発、人質・神文の授受を連日記録した長大な日記区間。押収船と積荷の処分、城番・兵糧・宿所の手配、京都や諸国から届く書状の回覧、豊後攻めをめぐる重臣協議が続く。蒲池氏や周辺勢力の去就を見極め、情報不足や返書遅延に覚兼が苛立つ場面もある一方、寺社参詣・祈祷、酒宴、贈答も詳しい。使者・書状・会尺・起請文を積み重ねて島津家の意思決定が形成される過程を示す。
(天正13年)12月9日 / 冊子 135頁
島津家久が入田殿へ、高知尾との緊密な関係を重ねて聞いていると述べ、今後は薩州へ二心なく忠節を尽くすよう求めた書状。周辺勢力への働き掛けを進め、神文を取り交わし、母の扶養にも配慮すると約束して、入田氏の島津方帰属を具体的に固めようとしている。
年月日未詳 / 冊子 137頁
天正十三年十二月、島津家久・上井伊勢守らが宮崎方面へ進み、高知尾からの情報を受けて豊後勢と戦った経過を記す島津義久譜。敵兵を多数討ち取る一方、退路や補給に苦しみ、家久が高知尾へ援兵・兵糧を求め、入田氏にも働き掛けた。豊後方面の前線での苦戦と補給要請を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
年月日未詳 / 冊子 139~142頁
天正十四年正月、上井覚兼が新年儀礼と豊後戦線への対応を連日記録した日記区間。新納忠元らによる諸城攻略、人質・城郭の処置、高知尾・入田氏との交渉、使者・書状の往来を報告し、軍勢・兵糧・宿所を調整する。羽柴秀吉からの停戦要求や中央情勢も意識される一方、年始の参会、祈祷、寺社参詣、酒宴、連歌、贈答が続く。正月の華やかな儀礼と豊後侵攻の緊張が同じ日程に重なる島津家中の戦時の日常を示す。
年月日未詳 / 冊子 147~153頁
天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い、日向・肥後口の作戦も調整した。年始から春の儀礼生活と九州征伐前夜の政治的緊張が同時進行する島津家中の実像を伝える。
年月日未詳 / 冊子 155~161頁
天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足への焦燥も記され、儀礼的な家中生活の裏で中央政権への対応と豊後戦線の判断が絶えず迫られていたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 164頁
天正十四年四月六日、肥後の伊集院忠棟が、隈部親泰父子に反抗の動きが明白で軍勢派遣を急ぐべきだと注進した島津義弘譜の記事。義弘は上井覚兼を介して日向勢の出動を促したが、十二日の評議で意見が割れ、進発は遅延した。志賀氏・入田氏を支援するため高知尾へ兵を増し、日向勢を警衛に充てようとした経緯から、肥後・豊後・日向をまたぐ作戦調整の難しさが分かる。
年月日未詳 / 冊子 164~168頁
天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講、狩猟、酒宴、贈答、病気見舞いなどの日常と、九州停戦令への外交対応・豊後侵攻の実務が同時進行する。
年月日未詳 / 冊子 169頁
天正十四年六月十日、豊後の志賀道益・入田氏が上井覚兼へ使者を送り、肥後の新納武蔵守からも同趣旨の注進が届いたことを記す島津義久譜の記事。海合人助に「調伏の矢」を持たせ、六月十四日に豊後へ向かう路上、国見の城腰付近で矢を射させた。軍事情報の共有だけでなく、敵を呪詛・制圧する祈祷的行為を作戦に組み込んだ珍しい記事である。
年月日未詳 / 冊子 170~174頁
天正十四年五月から六月、上井覚兼が雨天の軍議、豊後・筑前への使者派遣、志賀道益・入田氏・高知尾衆との書状往来を連日記録した日記区間。近衛家・京都からの返書や羽柴秀吉方への対応を協議し、諸将の出陣、軍勢・船・兵糧の準備、祈祷や調伏の実施を進める。一方で連歌・酒宴・贈答・寺社参詣が続き、覚兼自身の病気や疲労、使者遅延への苛立ちも記される。筑前・豊後作戦が本格化する直前の兵站・情報連絡と家中の日常を同時に追える。
年月日未詳 / 冊子 215頁
島津義弘が足利義昭から「義」の一字を与えられ、忠平から義珍へ改名したことを記す。続いて仙鏡房や肥後の地衆、新納武蔵守忠元の家臣中馬源丞らが入田氏と書状を交わし、志賀道易ら豊後方の内応を働きかけた経過を載せる。島津方が豊後侵攻に先立ち、現地勢力との秘密交渉と離反工作を進めていたことが分かる記事である。
天正13年11月8日 / 冊子 122頁
馬原重昌ら三名が、入田・三田井両家をめぐって前代から続く深い相談関係を、子孫の代まで変えず維持すると誓った連署起請文。互いに別心を抱かず、異変があれば使者を通じて知らせ、従来の取り決めに従って遅滞なく対応することを約束する。在地勢力の情報共有と相互援助を神仏への誓約で保証した盟約である。
(天正14年)6月16日 / 冊子 183~184頁
島津家久が入田殿へ、大友宗麟下向の風聞を踏まえ、志賀氏一党との「入魂」を固めて豊後国内の味方をまとめるよう求める。京都に置いた使者や鹿児島への照会で返答が遅れた事情を説明し、近日中に加勢を三城表まで差し寄せ、高知尾へ逐次注進するよう促した。豊後国衆の調略と出兵準備を結ぶ書状である。
年月日未詳 / 冊子 512~513頁
島津忠昌が家中へ守護方への参陣を命じたが従わない者があり、敵方が城を攻撃した経過を記す。忠福・和泉隠岐守・伯州末弘十郎三郎らが守備し、入田・片野坂氏を含む諸勢が各所で戦闘した結果、戦死者と退却者を出した。家中分裂下の防城戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 513頁
文明十六年十二月廿二日、敵勢二千余騎が陣へ押し寄せたため合戦となり、伯耆守豊久ら守備側が戦死者を出しながら防ぎ、翌日敵が退散した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 71~72頁/原整理番号 321
大友家四世因幡守親時の二男とされる入田次郎因幡守泰親を祖とし、入田城居住と入田姓の由来、氏朝・氏綱以下の諸流を記す略系図。大友氏からの安堵・御教書、合戦・戦死、官途・法名を付記し、氏隆が朝鮮出兵・関ヶ原を経て島津義弘に従い、日向国高原で千石を与えられた経歴までを記す。日付欠。
年月日未詳 / 冊子 159頁/原整理番号 42
大友氏四代因幡守親時の二男泰親を祖とする入田氏系図。泰親は入田次郎を号し、因幡守・兵庫頭、のち秀直、初名松屋とし、豊後南郡を領して入田城に居住したという。氏綱・氏朝・親忠・氏廣・親廣・親廉へ続く系線と治部少輔・因幡守・豊後守・大膳大夫・修理亮・丹後守・出羽守などの官途を掲げ、氏綱を正和年間生、氏朝の母を草野筑後女とする。親直は入田城に居住し、十六歳の時に父とともに戸次玄興と戦って軍功を挙げ、古野尻で戦死した。後半は輝氏・義・義氏・義昌・義豊らを掲げ、入道半林・宗和等の名、義氏の高崎居住と庄内山田戦死、義昌の一時肥後居住と帰国、義豊の高岡から鹿児島への移住と元禄六年没を記す。
年月日未詳 / 冊子 114~121頁
天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社参詣、連歌、茶・酒宴、贈答、病気見舞いも詳しい。九州戦局と中央政局へ同時対応する島津家の緊張した実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 143頁
天正十四年二月十六日、豊後の入田宗和が宮崎へ使者を送り、高知尾境の情勢と志賀道益の動きを報告した島津義久譜の記事。志賀方が大友方の拠点・所領を奪ったのち入田氏との盟約へ傾き、豊後国内へ進出しやすくなったと伝える。入田氏の帰属が豊後侵攻の足掛かりとして評価されたことが分かる軍情報である。
年月日未詳 / 冊子 267頁
本文はNo.224と同文のため省略されている。島津義久が入田丹後入道へ、境目への出陣後に両口の諸城が順調に攻略されたことを報じ、祝意の書状と鉄砲の贈答を喜んだ書状である。敵方の計略は成功しないとの見通しを示し、今後の働きにも期待しており、豊後戦線で内応した入田氏との軍事連絡を伝える。
(天正14年)12月25日 / 冊子 267~268頁
島津義久が入田丹後入道へ、境目へ出陣したところ両口の諸城が順調に攻略されたことを報じ、祝意として届いた書状と鉄砲を喜んだと伝える。敵方の計略は成功しないと見通し、今後も働きを期待した書状で、豊後戦線で内応した入田氏との連絡と武器贈答を示す。