伊勢貞成達書
十一月十一日 / 冊子 45頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。
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十一月十一日 / 冊子 45頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。
十一月十一日 / 冊子 113(本文はNo.124・冊子頁45参照)頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。No.124と同文。
八月十二日 / 冊子 157頁
山田有栄と市来家繁が本田源右衛門らに、蒲生衆の天辰二右衛門から瀬口主税助が知行高九石余を永代買得した件を伝えた連署書状。現地で事情を詳しく聞き、従来から異儀がなければ、その高を瀬口の知行に加えるよう認める。
天正十一年九月十七日~十月二日 / 冊子 759~760頁
天正十一年九月十七日の堅志田城への忍び三十人の潜入失敗から、同二十日の城氏・合志氏の和睦願い、二十七日の秋月・龍造寺和平案、十月一・二日の八代評議までを詳述する記事。阿蘇領攻撃の可否、甲斐宗運の真意と人質、三船出兵を議し、堅志田偵察隊が敵五人を討ち取って首を八代へ持ち帰った。
慶長年間十一月十一日 / 冊子 99頁/原整理番号 4
伊勢平左衛門尉が平佐御城普請の兵粮支給について、普請衆一人に一日三度、七合五勺ずつを渡すこと、蔵入から出す費用と普請衆の手配を北郷・相良両名の指図どおりに整えることを命じる十一月十一日付達書。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津久通譜の記事。寛永二十一年四月朔日、家老中の条書に射手奉行として土持左馬権頭・相良主税助の名が掲げられたことを記す。
文政5年12月17日(年は親一件表紙による) / 冊子 644~645頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0121
本田久米右衛門が監物へ、桃次郎の聟養子届書の進達取次を報告する。阿部備中守の勝手へ出向いて用人岩原市之丞と会い、備前守から翌朝の進達を願っていると伝えたところ、備中守も承知しており、勝手の都合に応じて提出してよいと告げられたという。備中守方から先手奥山主税助を通じた依頼もあり、翌朝届ける希望を用人と取り継いだ結果、主税助が承知し、届書を差し上げて置いた。取次をその日の夕方に勤めたことを記し、備前守方では親類へ先手榊原左衛門を添えて翌朝願書を出す旨を留守居が承知し、野崎良右衛門が備中守門前へ出向くと追記する。御側役へも別に申し出たと結ぶ。
文政5年12月18日(年は親一件表紙による) / 冊子 645頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0122
野崎良右衛門が帯刀へ、養子届に伴う添書・届書の受領経緯を報告する。今朝、用番阿部備中守へ奥山主税助を通じて出した添書の件で備中守門前に出向き、主税助が口合せに来た後、備中守はまもなく退出したという。添書は備中守へ差し出され、主税助から既に受領したと聞いたため、備中守へ直接会い、届書を受け取って挨拶の口上を取り継いだ。取次の海鹽又左衛門にも伝え、後日改めて挨拶する旨を承知したと記す。追而書では、備前守方の親類大久保佐渡守へ榊原左衛門を添えて出した願書等も受領されたと報告する。佐渡守には忠成・烏山藩主の人物注がある。
正月廿六日 / 冊子 6頁/原整理番号 3-4
島津久賀・喜入忠政が三原左衛門佐らへ、上津浦の番所を受け取り、二千人ほどが同地へ越し、残る人数を「かうね」の山狩に残したことなどを箇条書で伝える。黄門の松平主税助・伊東大和守宛書状、御袖判条書案への意見、在郷の扱い、渡海衆からの段階的帰還と人数過多の見込みについて返答を求める連署達。
正月廿八日 / 冊子 20~21頁/原整理番号 29
川上久国が島津久賀ら四名へ、二十四日付書状を受け取ったと応じる。黄門様は二十一日以来ひどく重かったが前日から少し楽になり、なお非常に疲れているものの琢庵の薬がよく合っていると報告する。黄門様から松平主税助・伊東大和守へ出した書状を稲留軍介が受け取らなかったという件は出水へ照会するよう求める。兵糧不足には、出水・川内にいる八左衛門ら四名へ申し付けるよう指示し、依頼された紙も送る書状。
年月日未詳 / 冊子 46頁/原整理番号 68-2
『薩本島原軍記』は、天草富岡を守る松平主税助・伊東大和守に対し、中納言の使者である北郷佐渡守久加が番手の労をねぎらったと記す。さらに、松平伊豆守が薩摩へ命じた天草上津浦番手の物頭として、島津豊後守・喜入摂津守・入来院石見守・北郷佐渡守を置いているので用を命じてほしいと申し入れ、相手方は用件は相談して命じると答えた。
二月十四日 / 冊子 137~138頁/原整理番号 229
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、十一日付書状を受け、薩州様の着船報告を待つとともに、日々重くなる黄門様の病状を新納二右衛門尉へ伝えるよう求める。城攻めの状況、陣所普請、松平主税助・戸田左門・寺沢・伊東大和守らとの相談、唐津方面の薩摩衆を含む帰衆の扱いを照会する。
二月十五日 / 冊子 142頁/原整理番号 240
松平伊豆守の命として本田伊賀守へ、前年冬に切支丹へ与同し各地へ放火して富岡城を攻めた天草百姓について、松平主税助・伊東大和守・寺沢兵庫頭と薩摩勢が合同で糺明し、難渋する者を処罰し、逃散者を捕らえ、村へ戻して治定するよう求めた書状。本田久左衛門尉へ渡された。
年月日未詳 / 冊子 375頁/原整理番号 466
『薩本島原軍記』は、入来院石見守・北郷佐渡守が天草番を請け取り、北郷佐渡守が富岡で寺沢家の退衆改めを行った経過を記す。三月十三日、松平伊豆守が上津浦へ着くと、北郷佐渡守らが出迎え、伊豆守は千束島・湯島の切支丹狩、上津浦人数の帰還、北郷佐渡守による富岡での退衆改めと報告を命じた。編者は下文が十五日にあると注記する。
文政5年12月29日(年は親一件表紙による) / 冊子 643~644頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0120
上野帯刀が三家老へ、桃次郎の松平備前守への聟養子許可と後の取扱いを報告する。十五日に表向きの引結びを済ませ、十八日に願書を提出、用番阿部備中守へ先手奥山主税助を使者に出した。二十一日に備前守が登城し、桃次郎は風邪で同座できず名代を相談したが不要の指図があり、願いどおり聟養子が命じられた。同日、御三殿・若殿へ席を設けて祝儀を述べ、諸士・大奥等へも伝え、精進日は日間帳で通知した。親類への知らせは使番が扱い、養子内約の際にも祝いを兼ね、二十五日に双方の使者を替えて祝物を交換したという。桃次郎は黒田の称号を名乗り、備前守方の精進日通知への取扱いを求める。住居の普請を後日に行うため、当分そのまま滞留する旨の届も出した。御内證へ報告し、隣国への通知と中山王の承知も先例に従って取り扱ったと述べ、京都・大坂の関係先や近衛への知らせは後日に行う。末注は双方の願書・届書を御譜にも載せ、重複のため省略したとする。
年月日未詳 / 冊子 36頁/原整理番号 37
『元寛日記』十一月条。細川越中守を豊前小倉から肥後熊本五十四万石へ移し、忠興に隠居領として八代城を与えたと記す。松平光政は因幡鳥取・伯耆米子から備前岡山へ移り、新田二万五千石を弟の池田信濃守恒能と池田主税助政倫へ配分。松平光仲には因幡鳥取三十二万石を与えたと載せる。
年月日未詳 / 冊子 728頁/原整理番号 757
天草富岡に在番する松平主税助・伊藤大和守に、中納言島津久光が北郷佐渡守を通じて連絡したと記す。上津浦の番手人数は松平伊豆守から薩摩へ命じられ、島津豊後守・喜入摂津守・入来院石見守・北郷佐渡守を物頭として置いたため、用務を申し付けてほしいと伝え、相手からも用務は依頼すると返答があった。
正月21日 / 冊子 768~769頁/原整理番号 822
黄門が朝六つ過ぎに目覚め、痰が上って苦しみ大量に吐血したため琢庵を呼んだと急報する。喉の腫物の痛みと食事低下があり、久国は回復が難しいと案じる一方、黄門は容体が危急となっても軍衆を引き揚げさせない意向を示したと伝える。付記では、松平主税助・伊東祐久の富岡城警固と薩摩への上津浦番手の命令、物頭五人の配置、稲留軍介による書状送達を説明する。
正月24日 / 冊子 781頁/原整理番号 857の2
二十一日付久国書状を受け、松平主税助・伊東大和守宛の黄門の書状はこちらには届かず、家老衆宛の文箱一つが到着した旨を報告する。黄門の吐血・衰弱を案じながら、万一でも軍衆を引き揚げず奉公を続ける指示を承知したと答える。追而書では山田民部少・新加賀守が有馬にいるため連判しないこと、書状用紙が不足するので杉原紙一束などを早送することを求める。
正月廿六日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 12
川上久国が三原左衛門佐らへ、兵糧不足を見越して米之津に留めた二番立衆を帰すか、再動員の難しさを考えて残すかは陣中協議で決めるよう述べる。天草番手は五、六千人との指示に対し江戸からは二、三千人案もあり、無用な加勢による狼藉を避けて富岡の松平主税助・伊東大和守とも相談するよう求める。上使十人への米二百八十石、軍役三人程度の残留、板倉内膳正討死後の幕命の可能性、御賦外の衆へ兵糧を出さない原則も伝える書状。
正月廿八日 / 冊子 21頁/原整理番号 30
川上久国が市来八左衛門尉宗友へ、岩切六右衛門・川上彦左衛門にも心得て軍勢を徴するよう急ぎ伝える。後立の三千人が当地に滞留しているため、帰陣について三老と十分相談し、陣へ向かう本田帯刀長にも伝えるよう求める。軍衆への兵糧支給を確認させ、天草から兵糧が来ないとの報告や、粗末な楯板を早く送る件を扱い、遅延すれば伊豆守が立腹すると警告する。富岡の松平主税助・伊東大和守宛て書状が未達のため調査を命じ、黄門様は二十一日から重かったが前日から少し楽になったものの疲労は甚だしいと報告する。本田を早く有馬へ送り、天草への使者に応じて届けを出すよう指示する書状。
元文4年3月24日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 25-1
元文四年三月二十四日、秩父十郎右衛門将興が伊地知真学へ出した証文。雅楽助に実子がなく断絶した家の名跡について、願いにより相続・系譜への編入を許可する。渕之上家は当方と由緒があるため、伊地知へ改姓する件も別紙で差し出したと記す。続いて山城守・主税助・丹後守・雅楽助・渕之上清右衛門以下の系図を掲げ、妻の出自、没年・法名、渕之上家の別立て、季昭・只右衛門・清右衛門・金蔵・藤吉・季庸・季朗らの系線を整理する。藤吉は前田万右衛門二男で季朗の養子となったこと、末尾に文政十二年九月十二日生の女子と母・増水嘉左衛門家の記事を載せる。
正月廿六日 / 冊子 6~8頁/原整理番号 3-5
島津久賀・喜入忠政が川上左将監へ、天草上津浦の番所を清田石見守から受け取り、周辺の山狩と部隊集結を野州老・石州老・佐州老らと協議した経過を報告する。有馬方面では石火矢で塀・二之丸まで損壊し、籠城側が薪不足に陥って落人が出たため近日落着すると見込む。また、兵糧と配置を検討し、渡海七千九百人・出水残留三千三百六十八人を踏まえ、上津浦方面を六千人とし余分の千九百人を帰す案を述べる。
正月廿八日 / 冊子 18頁/原整理番号 23-2
島津久賀・喜入忠政が入来院重国・北郷久加へ、正月二十六日に上津浦の番手を受け取ったこと、使者川野監物が有馬から帰ったことを報告する。島津久元の意向として北郷久加一人を富岡城への使者に急がせ、山狩が済み次第、当地と亀之川の兵を上津浦へ移すよう船奉行と協議することを求める。長島からの兵糧船二艘が遅れているため小舟で捜索させ、出水にも兵糧船を要請したこと、在郷改は山狩後まで見合わせること、細川忠利は有馬に着き久元の陣を見舞ったが城攻めの時期は未詳であることを伝える。さらに島原から届いた御袖判条書の写しを送り、同地と亀之川の衆へ急ぎ申し聞かせるよう命じる連署書状。
年月日未詳 / 冊子 341~342頁/原整理番号 37
北村の内通に応じた城入りと、その後の戦いを詳しく記す覚書。北村地頭播磨守と三度協議し、正月十一日に少数の案内で城へ入ったが、蒲生勢が横から攻め、味方は大きな損害を受けた。岩陰や狭い道で戦いながら退き、播磨守は退却を相談した。新納忠元は主従三人ほどで大太刀を持って防戦し、貴久のもとへ参着して木脇・大炊介らと敵に当たったという。後には福嶋秋月への給付のため一時無知行となったこと、河辺野間の知行と永吉の地頭職を与えられたことも記す。
元亀三年三月廿三日・五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年の殉死・戦死者を列記する。三月二十三日に島津貴久を慕って南林寺前の海に入水した平田純貞を掲げ、五月四日の木崎原合戦で戦死した鎌田大炊助政高・鎌田源三・野田越中坊・有馬豊前兵衛純秀・前田主税助範春・富永刑部左衛門・曽木播磨守重治ら多数の名を収録する。
年月日未詳 / 冊子 261~262頁/原整理番号 106
『系図抄』として上原康基を起点に、康忠・貞安・康時・惟康・康宗・尚康・尚宗・康続以下の諸流を縦系図で示し、各人の官位・官途・法名を付記する。康基は右衛門督・蔵人頭・従五位上、康忠は右兵衛督・長官・蔵人・従四位上、貞安は右兵衛督・従四位上とし、尚康を兵部少輔・従五位上・法名大全、尚宗を刑部大輔・従四位上・安房守とする。信康は若狭守・法名窓鑑で「始遷薩州」と記され、康純は大学頭・大和守で日州へ移住したとされるため、上原氏祖系の薩摩・日向への移動を示す。後段には治尚・尚定、安成・安常、行安・康高・康将、康元・康輔・康保、康衡(号尚永)などを掲げ、尚弘を上原美作守、尚重を上原清右衛門と明記し、尚純(主税助)を含む末流へ続ける。