天正三年(一五七五)五月、薩摩から上京の旅を続けていた島津家久は、近江の坂本で明智光秀のもてなしを受けた。座敷での食事に続いて、茶の席へ招かれる。ところが日記には、「茶湯の事不案内」――茶の湯には詳しくない、とある。家久は湯を所望し、その後は庭で酒を飲み、魚取りや舟遊びをした。武将同士の出会いが、儀礼だけでなく、不慣れな茶の席や湖上での時間まで伴って記録されている。[5]
家久には、義久・義弘・歳久という三人の兄がいた。薩摩・大隅を本拠に戦いを重ねた島津四兄弟の姿はよく知られるが、都へ向かう道中や、上った先で誰かを訪ねる場面に目を向けると、もう一つのつながりが見えてくる。案内をする者、宿を貸す者、船を出す者、会いたいと手紙を書く者。兄弟は、そうした人々に迎えられ、ときには移動の費用や風向きに悩みながら、遠い土地との往来を重ねた。
旧記雑録ガイドの今回のコラムでは、日記や書状、後にまとめられた譜を通して、四人の上洛をたどる。末弟の家久と三兄の歳久が都へ向かった天正三年から、豊臣秀吉への服属後に義久・義弘が上方へ赴く時期まで、旅を取り巻く事情は大きく変わった。それでも、文芸や贈り物、人を介した訪問は、異なる時期の旅を結んでいる。
ここでいう「上京記」は、四人の自筆日記を並べるという意味ではない。日々の出来事が詳しく残る旅もあれば、一通の手紙から面会や帰国の予定が見える旅もある。また、京都を目指す往来には、堺での着船、大坂での拝謁、近江での滞在も含まれる。それぞれの場所を確かめながら読んでいこう。
| 人物 | 本稿でたどる主な時期 | 旅や滞在を伝える場面 |
|---|---|---|
| 家久(四男) | 天正三年(一五七五) | 参詣の旅、京都での連歌、近江坂本でのもてなし |
| 歳久(三男) | 天正三年(一五七五) | 市来からの船旅、歌道・連歌、近衛前久との面会 |
| 義久(長男) | 天正十五年(一五八七)以後 | 秀吉への服属後の出発、堺への航海、在京中の交流 |
| 義弘(次男) | 天正十六年(一五八八)、一五九六年と推定される書状 | 上洛費用の相談、大坂での拝謁と茶、近衛前久との往来 |
家久――参詣の道が、人と人をつなぐ
天正三年(一五七五)、末弟の家久は、伊勢・京都を含む長い旅に出た。その経験を伝えるのが、後編1-No.824「家久君上京日記」である。道中の宿、風待ち、寺社、酒宴、連歌の会まで書き留められた記録で、本文には欠けた箇所を別の本によって補ったという注記もある。ここでは、伝わった日記の言葉を通して、家久の旅をたどる。[1]
冒頭は、旅立ちの理由を戦と信仰の関係から説明する。薩摩・大隅・日向で戦いが絶えないなか、主君への忠節に触れ、主君が三州を治めることを神の力に結びつけて、「太神宮・愛宕山」その他の神仏へ参詣しようというのである。二月七日に屋形の許可を求め、八日に串木野の町を出たと記す。ただし、町を出ることと、本格的な旅立ちは同じ日ではない。準備を経て、二十日に串木野を出発し、翌二十一日には久見崎から船を出した。母や妻の見送り、川辺に用意された小屋での酒、贈られた品々が、旅の始まりを取り巻いている。[1]
旅は船を乗り継げば予定どおり進む、というものでもなかった。三月十日に赤間関へ入り、翌日には宮島へ渡る船を約束する。しかし、風が得られず滞在が延び、いったん出ても風向きが変わって戻る。十六日、ついに「船賃を捨て」とあるように、支払った船賃をあきらめて陸路へ切り替えた。翌日には激しい雨に遭い、村で雨宿りをしながら先へ進む。船の都合、天気、宿を貸す人の世話が、その日の行程を左右していた。[2]
こうして道中の厳島などへ参詣し、四月後半には京都での日々が始まる。二十一日には、家久の京都での滞在を支えた心前とともに、通りを行く織田信長の一行を見ている。日記は、旗の銭形の紋、馬に乗る信長の姿、周囲の供の人数に目を向ける。さらに信長について「眠候て手をとられ候」とあり、馬上で居眠りをし、手を取られていたという。これは信長との面会の記事ではなく、行列を見物した記録である。一方、二十二日には公家の飛鳥井家を訪ね、蹴鞠を見た。都の政治の中心を通りから眺めることと、公家の屋敷で蹴鞠を見ることが、隣り合う日付に収まっている。[3]
滞在中、幾度も現れるのが、連歌師の里村紹巴である。家久と行動を共にし、名所を案内し、連歌の席や訪問先へつなぐ人だった。五月七日には訪問先で連歌が催され、終わると心前の門外へ出て月を眺め、酒を飲んだ。十一日には家久の宿でも連歌が行われる。一句ずつ詠み継ぐ文芸は、その場に人々が集まり、酒を酌み交わす機会でもあった。日記の人名を拾っていくと、都での生活が、一人の旅人と名所の関係だけでできていたのではないことが分かる。[4]
その交わりが京都の外へ広がる場面が、五月の坂本訪問である。十四日、紹巴と志賀へ向かう途中、織田信長に仕える明智光秀が人をよこして招き、馬も用意した。一行は坂本に泊まり、光秀の城を舟から見せてもらう。翌十五日にも、比叡山麓などを見たのち、光秀に城へ招かれた。城内で食事をし、四畳半の茶の席へ移ると、日記には「茶湯の事不案内」とある。茶の湯に詳しくないため、湯を所望したという。整えられたもてなしの場に、旅人の不慣れな一面が顔を出す。[5]
もてなしはそれで終わらない。庭の竹むらの陰に筵を敷いて酒を飲み、巻き上げた簀で、芦の中にいる鮒や鯉などを囲い、魚を捕る。光秀は、かた苦しい衣服では旅の疲れも取れないだろうという趣旨の言葉をかけ、帷子や宇治の土産の扇を贈った。さらに舟遊びが続く。茶、酒、魚取り、衣服の贈り物は、それぞれ孤立した逸話ではない。紹巴らを介して迎え入れられた家久を、城から湖上まで一続きでもてなす場面なのである。[5]
六月一日、家久は伊勢の宇治に至り、祓いを受けた。日記はこの日の内外宮への参拝や、天の岩戸を訪ねたことを記す。翌二日には帰途についた。旅の初めに掲げた参詣は、京都での滞在や坂本での交流の後に、こうして具体的な日付を伴って現れる。名所見物や文芸の会が多く記されるからといって、冒頭の願いが消えたわけではない。祈りを果たす道のりに、人を訪ね、新しい場所を見聞する経験が重なっていた。[6]
帰路には再び京都・堺方面を訪れ、その後は若狭から山陰へ回った。六月下旬、浜田では、秋目や鹿児島など、南九州につながる船頭たちが酒や食べ物を届ける。七月にも長門の湊で風を待ち、平戸を経て薩摩へ向かった。串木野へ戻るころには、道中から祝いに来る人々が絶えず、日記は僧俗男女の喜びを記して終わる。都での出会いだけでなく、遠方の港にいた故郷の人々も、この旅を支えていた。[7]
家久の上京は、参詣という願いを出発点としながら、都の文芸、武将のもてなし、港の船頭たちとの交わりへ広がった。それを豊かに伝える日記が残ったことは大きい。ただし、記録の細かさを、そのまま兄弟のうち家久だけが多くのものを見た証拠とすることはできない。他の三人についても、それぞれに残った史料の声を聞いていく必要がある。
歳久――船で上り、歌を学び、書を得る
家久が旅をした天正三年(一五七五)、三兄の歳久も京都へ向かった。後編1-No.810「左衛門督歳久譜中」は、その出発を、歳久一人の思いつきとしては記していない。歳久が都へ赴こうとしたとき、太守が川上忠実と八木主水佑らを案内として付き従わせたという。太守は長兄の義久である。島津家の側で、人を付け、旅を支える手配があった。[8]
出発地は薩摩の市来湊だった。
「自市來湊乘船、海路無事」
市来湊から船に乗り、海路は無事だった、とある。続いて都に入ったこと、歌道を学んだことが記される。この短い記述からは、寄港地や船の乗り換え、都までの細かな経路は分からない。それでも、薩摩からの海路と、都で学ぶ時間とが、一つの旅として結びついている。日々の移動を詳しく記した家久の日記とは、旅の残り方が違うのである。[8]
都での活動には、連歌師・紹巴との一会があった。連歌は、参加者が句を詠み継ぎ、一座で作品をつくる文芸である。譜は「請于連歌師紹巴興行一會」――連歌師の紹巴に請うて、一会を催した、と記す。歌道を学ぶという言葉が、具体的な人物と場につながるところだ。[8]
さらに、青蓮院の僧・尊朝の自書、尊道親王の筆による色紙、関白を務めた公家・近衛前久の自書を賜ったと続く。ここでの「自書」は本人の書いたものをいう。書跡が人から人へ渡り、旅先での交流が形あるものとして残る。面会や会の経験と、書を得る経験とが、この短い旅の記述にともに収められている。[8]
この譜は後世にまとめられた記録であり、歳久がその日の出来事を書き留めた日記ではない。一方、歳久に会った側の言葉も残る。八月十二日付の近衛前久書状、後編1-No.813である。宛先は歳久ではなく、兄の義久だった。刊本には、御譜中の朱書として「天正三年」という年次が示されている。[9]
前久は、思いがけない来訪をこう伝えた。
「今度不思寄歳久上洛、遂見参」
このたび思いがけず歳久が上洛し、面会できた――。前久は、歳久の厚意を喜び、義久の変わらぬ厚意も喜んでいる。譜が旅全体をまとめるのに対し、こちらは面会した人が、国元の兄へ届けた便りである。二つを並べると、歳久の上洛が、出発の手配と京都での対面の双方から見えてくる。[9]
ただし、前久の手紙は歓迎の言葉だけで終わらない。前年夏の織田信長との関係や、京都に戻ってからも望んだ家領が得られず、思いどおりにいかない自身の境遇へと話が移る。そして、島津側に力を尽くすことと、自分の家門の再興を結びつけて述べている。前久は、旅人に都の文化を授けるだけの人物ではなかった。自らの政治的な立場と生活を抱え、島津側との連絡を必要としていたのである。[9]
この文面から、歳久が信長との交渉を担当したとまでは分からない。だが、歌や書をめぐる交流と、前久自身の政治的な相談が、同じ人間関係の中にあったことは読み取れる。歳久の上洛を文芸だけの旅と考えると、面会の後に国元へ送られた、こうした言葉を取りこぼすことになる。
もう一通、八月二十日付で、島津方の喜入季久に宛てた小笠原宗賢の手紙にも、歳久の消息が現れる。宗賢は喜入の手紙と送られた沈香に礼を述べ、以前に家久とたびたび会ったことにも触れる。続いて「只今又左金吾御上候、從貴所承候間」と書く。いままた左金吾、すなわち歳久が上ったことを、あなたから承った、という意味である。[10]
ここでは、歳久の移動を喜入が知らせ、その知らせを宗賢が受け取っている。宗賢はさらに、喜入本人にも、もう一度上洛して対面したいと呼びかけた。一人が旅をすると、その消息を伝える手紙が別の人へ届き、次の対面への誘いが生まれる。歳久の上洛は、本人と同行者だけで完結せず、薩摩と都を結ぶ通信の中へ広がっていた。[10]
義久――急がされる上京、道中の茶、留守の国
家久や歳久の上洛から十二年後、天正十五年(一五八七)、長兄義久の旅は大きく変わった政治状況のもとで始まる。『旧記雑録』の短い記事は、この年について秀吉の薩摩出陣、領国に関する朱印の拝領、そして「貫明公御上洛」を続けて記す。貫明は義久を指す。都へ向かうことは、九州に兵を進めた秀吉との関係を結び直す動きの一部だった。[11]
出発を伝えるのは、町田久幸の譜に収められた記事である。木食興山という僧が鹿児島に来て、義久の上京を強く促した。これに対し、義久は祇園会という祭礼の終わりまで待つことを求め、祭礼が済んだ六月十五日に出発したという。その後は高良山、岩屋を経て博多へ向かい、二十五日には細川幽斎と石田三成が訪ねて来た。二人はここでは、義久を秀吉のもとへ迎える側の人物として登場する。義久は秀吉の滞在先に出向いて拝謁し、饗応を受け、翌二十六日には秀吉が自ら点てる茶を賜ったと記されている。[12]
この旅には、さらに細かな日付入りの記録がある。「天正十五年」の六月十五日から七月十日までを記し、「但貫明公御上京御日記なり」と説明された「日々記」である。義久を「上様」「太守様」と呼ぶ記述から旅の中心人物は分かるが、義久自身が書いた日記として扱うことはできない。ここでは、義久一行を記した旅の記録として読んでいこう。[13]
六月十五日の鹿児島出発には、やはり祭礼が重なっていた。日記には戸柱の祭礼があり、木食上人を饗応したため出船が遅れ、夜には雨となったことが見える。上京を急ぐ働きかけがありながら、土地の祭礼や客へのもてなしも、その日の行動を形作っている。
以後は船と陸路を組み合わせた移動が続く。佐敷から八代へ進み、風雨に妨げられながら川尻に着き、高瀬、大津山を経て、二十四日に高良山から岩屋へ入った。そこへ幽斎と三成の使者が来て、早く博多へ来るようにと伝える。人が待ち受け、使者が行き交い、その連絡に応じて次の行程が決まる旅だった。
二十六日の茶の場面は、譜の簡潔な記事を日記が具体化してくれる。早朝に秀吉のもとへ出向くと、茶の席は三畳敷きで床があり、水差しはその前に直に置かれていた。日記は「關白様御手前也」と記す。秀吉自身が茶を点てた、ということである。黄金色の茶の道具に目を留め、茶の後には秀吉のもてなしで酒も出たことを記す。その日のうちに一行は船へ戻って移動を再開した。茶は旅から切り離された余興ではなく、秀吉と対面する一日の中に置かれていた。[13]
同時に、この上京には人質の移送が重なる。町田久幸の譜の記事は、下関で宿泊したとき、義久の甥にあたる久保らや、領国内の諸城を守る将たちの子女が、京へ人質として向かう途中で到着したことを伝える。日記の六月晦日条にも「薩州よりの質人乘船、皆參着也」とある。薩摩から人質を乗せた船々が着いたのである。もてなしの華やかさと、人質を伴う移動とは、この旅の中にともに存在していた。ここから義久自身の心情までは読み取れないが、旅の政治的な重さは見落とせない。[12][13]
下関を出てからも、船は風と潮に進み方を左右された。七月七日には木食上人が訪ね、七夕にちなんだ歌のやりとりが記される一方、出帆を急ぐため、十分には歌をやりとりできない様子も見える。旅先の歌は、風雅だけで成り立つ時間ではない。次の船出を気にしながら交わされるものでもあった。
七月十日、一行は兵庫沖を通り、堺へ向かった。堺からは四、五十もの船が出迎え、日記は「見物の貴賤不知數」と記す。身分を問わず、数えきれないほどの人々が見物していたという。義久一行の到着は、港の大きな出来事として記録された。ただし、この日記が伝えるのは堺到着までである。そこから先の京都での時間は、別の史料によってたどる必要がある。[13]
同じ年の九月九日付で、近衛前久から義久に送られた手紙がある。前久は、前日の来訪と、さまざまな厚意に礼を述べたうえで、「御在京中節々參會申、御物語共申度候」と書いた。在京の間には折々に会い、話もしたい、というのである。出迎えの船や秀吉の茶席とは異なる、繰り返し訪ね合うことへの親しみが感じられる。上洛先には、島津家と長く関係を持つ公家との交流も待っていた。[14]
だが、都にいても領国のことは離れなかった。天正十六年(一五八八)の箇所に収められた、年記のない二月十一日付の義久書状は、日向方面を支える北郷時久に宛てたものである。新春の挨拶に続き、義久は「抑不慮致上洛」と、思いがけない上洛だったことを述べ、なお滞在していると知らせる。そして義弘らの上国も朱印で命じられたため、留守の領国が気にかかるとして、時久に諸城への配慮を頼む。贈り物を添えたこの手紙の中心は、留守を預かる者への具体的な依頼だった。[15]
義久の上洛は、秀吉への拝謁、茶のもてなし、前久との交際、そして国元への指示を結びつけていた。鹿児島からの距離は広がっても、留守を守る人々との関係が薄れるわけではない。都に身を置きながら国元に書き送るところまでを含めて、この旅の経験は続いていた。
義久と京都との関わりは、この上洛では終わらなかった。その後も上洛と帰国を繰り返し、都で過ごした時間は決して短くない。[16]
さらに時を下ると、義久が老衰に触れながら、上洛への意思を自分の言葉で伝える手紙もある。一六〇一年と推定される十二月二十三日付、品物の進上先を相談した倉光主水佑に宛てた書状だ。猫六匹と品物の送付を知らせ、進上先の判断を相手に委ねた後、義久は近ごろ老衰が進んだと述べ、しきりに上洛するよう求められるため、「來年ハ罷上へき覺語ニ候」――来年は上る覚悟だ、と伝える。これは出発の報告ではなく、求めに応じようとする意思を記したものだ。十五年近くを経た手紙では、上洛に向き合う老いた身体のことまで、贈り物の用件とともに語られている。[17]
義弘――旅費の工面から、大坂の茶席へ
天正十六年(一五八八)春、義弘の上洛準備は、金の工面にも追われていた。四月二十一日付の本多因幡守・比志島紀伊守宛書状は、すでに都にいた島津方の二人の苦労をねぎらいながら、自分も近く上るつもりだと告げる。しかし、供に連れてゆく人数さえ整わず、乗船する者たちも困窮している。資金の到着を急がせても、「一紙半錢未見來候」――わずかな金も、まだ届いていないという。[18]
無用意に出立しては、秀吉への奉公にも差し支える。一方、早く上洛しなければ島津家のためにならないとも、繰り返し伝えられていた。義弘は遅参もまた困ったことになると考え、四月二十六日を出発日に定めたと書く。借銀を頼んで上洛せざるをえないため、在京の二人にも協力を求める手紙だった。さらに兄の龍伯(義久)が帰国しても、二人には一、二か月残って諸事を相談してほしいという。国元から当主級の人物が一人出てゆけば済むわけではない。供回り、船、滞在費、現地での交渉を支える人々まで、上洛には幾重もの準備が必要だった。
旅の様子を義弘自身が詳しく伝えたのが、同年六月六日付、国元にいた息子の島津忠恒(又八郎)に宛てた書状である。国元を離れてから堺へ着くまでの航海に続き、大坂で秀吉に会ったことや茶会の様子まで書き込んでいる。読み進めると、政権への出仕の前に、まず海を渡るという大仕事があったことが分かる。[20]
徳之口から船出したときには風雨が激しく、船中で何が起こるだろうかと案じた。豊後佐伯のうちの蒲江へ入ると、宿は背後に山が迫り、夜には「枕近く、目さましかちに明し侍り」とある。野狐の鳴き声でしばしば目が覚め、そうして夜を明かした、というのだ。史料の中の旅人は、海上の風だけでなく、見知らぬ泊まり場の音にもさらされている。
風向きに合わせて船を出し、荒れれば島や浦にとどまる。義弘は通過した場所を記すだけでなく、船を進めるか引き返すかという判断、潮を待つ時間まで伝えた。塩飽島では船頭助太郎のところに宿泊し、家島、兵庫を経て、二十三日の夜に堺へ着く。書状の年次注と関連する譜の記事を合わせると、この二十三日は閏五月に当たる。宿は北の神明町の経王寺だった。
同じ旅を記した『義弘公御譜』の記事は、閏五月二十五日に兄の龍伯がその旅宿を訪れたと伝える。「遂拜面而爲喜悅、非言之得而所述」――顔を合わせた喜びは、言葉には尽くしがたいという。これは後世の譜が伝える再会の表現だが、兄弟の上洛が、堺の一つの宿で交わったことを具体的に示している。[19]
堺到着後には秀吉の使者が来て、石田三成らとの連絡も進む。義弘の六月六日付書状は、大坂へ上り、秀吉に面会したこと、湯漬の饗応を受けたことを報じる。席には島津方と政権側との交渉をつないだ細川幽斎もいた。さらに同月六日には秀吉の茶席に招かれ、千宗易、すなわち千利休が茶を点てたことを記す。
ここから手紙は、道中とは違う細かさを帯びる。食事、茶道具、その由来が次々と書き留められるのである。花入や釜、茶碗に続いて、水差しについては「名を失念候」ともいう。名前を忘れた、と断りを入れながら、見たものを国元へ伝えようとしている。薄茶をいただいた座については「二てう敷の御座」、二畳敷の小さな場だったと記す。華やかな出仕をひと言でまとめず、席の大きさや道具の名にまで目を向けるところに、この手紙ならではの手触りがある。
その一方で、書状は国元の統治の話を忘れない。日向の国の田帳がまだ上っていないことを問題にし、早く差し上せるようにと伝える。風雨をしのいだ航海、秀吉の茶席、領国の帳簿。それらが一通の中につながっている。ここに具体的に記される場所は、堺と大坂である。上洛の経験は、京都に入ってからだけでなく、こうした港や政権の拠点でも形づくられていた。
一五九六年ごろの義弘と公家との交流には、文禄の役と慶長の役の合間という背景がある。義弘は一五九二年に始まった秀吉の朝鮮出兵に加わり、翌年には、ともに渡海した息子の久保を朝鮮の巨済島で病により失っていた。久保に代わって弟の忠恒が後継者となり、忠恒も一五九四年に朝鮮へ渡る。[21] 義弘が帰朝したのは一五九五年で、領国の土地・知行の処理に応じるため秀吉に呼び戻された。この年のものと推定される妻への手紙には、上洛を命じる朱印を受けて出船したことと、「又八郎事けんこに殘番」――忠恒は元気に現地の番を務めていることを、続けて知らせている。義弘自身が日本へ戻っても、息子と家臣たちの朝鮮での軍役は続いていた。[22]
翌一五九六年正月の『義弘公御譜』の記事は、義弘の大坂到着を、明の使節に備えて諸侯と騎馬を集める動きと結びつけている。[23] 同年とみられる五月二日付の忠恒宛書状でも、義弘は明の使節の来日に伴って、朝鮮に駐留する軍の主将に帰朝と上洛が命じられたと伝える。その一方で、現地には約七百人を残し、兵糧と守備を確かにするよう念を押した。忠恒自身の帰朝の供が一人もいなくても、駐留する兵たちの手配を整えることが大切だという。講和へ向けた動きがあっても、軍勢がすべて引き揚げていたわけではない。上方にいる義弘は、政権からの指示を受けながら、海の向こうの息子に兵の配置や食糧の確保を指図していたのである。[24]
この時期の公家との付き合いにも、身近な場面が見える。一五九六年のものとみられる五月八日付、近衛前久(龍山)の書状に比定される手紙は、義弘へ「昨日者御物語申、難忘候」と語りかける。昨日話したことが忘れがたい、と、前日の対話を振り返っている。[25]
夕方には自分の草庵へも招こうとしたが、義弘が北野へ参ると聞き、その前に訪ねようとしたものの、早く出立したと聞いて果たせなかったという。馬の手当てや乗り方への助言、船の世話への礼、猫の所望まで記す一通である。訪問が予定どおりにいかなかったという小さな行き違いからも、対面し、また会おうとする間柄が伝わる。上洛の旅は、政権への出仕とともに、こうして再び会おうと誘い合い、贈り物をやり取りする機会も運んでいた。
しかし、講和へ向けた動きは再出兵の準備へと転じていく。一五九六年に比定される九月十五日付の忠恒宛書状で、義弘は「大明和平之儀相破」――明との講和が破れた、と伝える。自分にも急ぎ渡海するよう命じられていたが、秀吉への拝謁の際には、年内は国元で所務などを整え、翌年に渡るよう直接言い渡されたという。義弘は、まず国元に下り、人員と兵糧を送る準備を急ぐと知らせている。[26] 翌一五九七年、義弘は慶長の役に再び出兵する。[21] 前久との会話や訪問の行き違いが見える在京の時間は、朝鮮での軍役、帰朝と領国の処理、そして再出兵へと続く往来の中にあった。
四つの旅を結ぶ、人と道
四兄弟の上洛を並べると、旅を支える人々が何度も姿を現す。家久と歳久のところには連歌師の紹巴が登場し、歳久に面会した近衛前久は、後年、義久の在京を喜び、義弘とは訪問や馬の話を交わしている。旅人が変わり、政治の状況が変わっても、人との付き合いは一つの場面だけで切れず、次の往来へ続いていた。[4][8][9][14][25]
道中に目を移せば、風雨や船の都合が旅の進め方を左右した。家久は風を待ち、船をあきらめて陸へ移り、帰路には山陰の港で南九州の船頭たちに出会った。歳久の譜は市来からの無事な船旅を短く記し、義久の日記は雨や風、寄港地での滞在を刻んでいる。義弘の手紙にも、雨の中の航海と、旅費をどう工面するかという相談がある。都へ行くという決断の後にも、船、宿、案内、費用をつなぐ仕事が必要だった。[2][7][8][13][18][20]
もちろん、旅の条件は同じではない。家久の日記の冒頭では、戦の中で神仏に支えられてきたという思いが参詣へ結びついている。歳久には、国元の手配を受けて都で学び、書跡を得たことが記される。秀吉への服属後の義久・義弘の往来には、出仕の催促、政権への拝謁、留守中の領国のことが大きく関わった。上洛という同じ言葉でも、誰の求めに応じ、何を準備し、どこへ赴くのかは変わる。[1][8][12][20]
その一方で、政治的な用事がある旅にも、歌や茶、贈り物のやり取りはあった。義久の堺への道中に和歌があり、義弘の大坂からの報告には、拝謁に続いて茶席の道具が細かく記される。祈り、学び、出仕、交際は、旅を分類する別々の箱にきれいに収まるものではなかった。史料に書かれた順序を追うと、一日の中、一通の中で、それらが重なっている。[13][20]
家久の旅を伝える日記が詳しいことは、他の三人の経験が乏しかったことを意味しない。歳久との面会を喜んだ前久の一文や、義弘が国元へ書き送った茶席の記述には、手紙ならではの近さがある。何を見て、誰に伝えようとしたか。その違いを残したまま読むことが、四人をあらかじめ性格別に分けるよりも、旅の姿へ近づく道だろう。
茶の湯に不案内だと記す家久の場面から読み始めた旅は、義弘が茶道具の名を国元へ伝える書状へとつながった。その間には、歳久を迎えた前久の喜びがあり、遠い薩摩を離れた義久を迎え、また会おうと誘う言葉がある。同じ都は、四人に同じ経験を与えたのではない。しかし、四人のそれぞれの道には、待ち、迎え、案内し、便りを交わす人々がいた。『旧記雑録』に残る上洛の記録は、その出会いを、いまも具体的な言葉で伝えている。
主な参照史料(注26件)
主な参照史料
本文は、鹿児島県維新史料編さん所編『鹿児島県史料 旧記雑録後編一・二・三』(鹿児島県刊)の刊本翻刻画像を使用した。原文書の料紙や筆跡を直接調査したものではない。以下の頁は冊子頁で、リンクの「表示頁」は鹿児島県公開分冊PDFの頁を指す。原則として年月日は旧暦、西暦は年次の対応を示す。書状の内容紹介は要約であり、全文の逐語訳ではない。引用では縦組みの改行を取り除き、句読点を一部補い、一部の字体を通行の字体に改めた。推定年や人物比定の注は、確定情報に置き換えていない。
- [1] 後編1-No.824「家久君上京日記」、444~466頁。出発事情は444頁、二月七・八・二十・二十一日条。鹿児島県HPのPDF・表示52頁。466頁には別本による欠脱箇所の補入注があり、自筆原本と確定したものではない。 本文へ戻る:1 2 3
- [2] 後編1-No.824、447頁、三月十~十七日条。鹿児島県HPのPDF・表示55頁。赤間関での船の手配、風待ち、陸路への変更。 本文へ戻る:1 2
- [3] 後編1-No.824、452頁、四月二十一・二十二日条。鹿児島県HPのPDF・表示60頁。信長の通行と飛鳥井家での蹴鞠。二十一日条の信長の描写に「眠候て手をとられ候」とある。信長への拝謁とする記事ではない。 本文へ戻る:1
- [4] 後編1-No.824、455頁、五月七・十一日条。鹿児島県HPのPDF・表示63頁。連歌と酒宴。 本文へ戻る:1 2
- [5] 後編1-No.824、456~457頁、五月十四・十五日条。鹿児島県HPのPDF・表示64頁。明智光秀の招き、坂本の城、茶と魚取り、贈り物、舟遊び。 本文へ戻る:1 2 3
- [6] 後編1-No.824、459~460頁、六月一・二日条。鹿児島県HPのPDF・表示67頁。伊勢参宮。 本文へ戻る:1
- [7] 後編1-No.824、463~466頁、六月下旬から七月の帰路。鹿児島県HPのPDF・表示71頁。題注の終期と末尾の日付には読み合わせの問題があり、本文では帰着を七月と記した。厳密な旅日数は算出していない。 本文へ戻る:1 2
- [8] 後編1-No.810「左衛門督歳久譜中」、438頁、天正三年の記事。鹿児島県HPのPDF・表示46頁。同行者、海路、歌道・連歌・書跡授受の記述。後編1-No.811の書状も関連するが、本文は後編1-No.810の記載に基づく。 本文へ戻る:1 2 3 4 5 6 7
- [9] 後編1-No.813、439頁、八月十二日付近衛前久書状、嶋津修理大夫〈義久〉宛。鹿児島県HPのPDF・表示47頁。年次は「御譜中ニ朱カキ 天正三年」とする注による。後半に信長との関係、帰洛後の家領問題、家門再興への言及がある。 本文へ戻る:1 2 3 4
- [10] 後編1-No.809、438頁、小笠原備前入道宗賢書状、喜入摂津守〈季久〉宛、八月二十日付。鹿児島県HPのPDF・表示46頁。刊本の年次注は天正三年。歳久の上洛は喜入からの伝聞。家久の上京は「去夏」とあり、後編1-No.824の旅と同一と確定せず、本文ではその時期の比較を行わない。末尾の「御上洛候へかし」は喜入本人への誘い。 本文へ戻る:1 2
- [11] 後編2-No.283、315頁、天正十五年の短い記事。鹿児島県HPのPDF・表示1頁。上洛に至る具体的な過程は後編2-No.305・後編2-No.410で確認した。 本文へ戻る:1
- [12] 後編2-No.305、328頁、天正十五年六月の記事。鹿児島県HPのPDF・表示14頁。出典表示の「仝」は後編2-No.304を介して後編2-No.303の「町田圖書頭久幸入道宗可譜中」を受ける。出発、博多での秀吉との対面・茶、下関での人質の到着を伝える。 本文へ戻る:1 2 3
- [13] 後編2-No.410「日々記」、365~369頁。表題は「天正十五年 自六月十五日至七月十日」、注「但貫明公御上京御日記なり」。鹿児島県HPのPDF・表示51頁。六月二十六日の茶と晦日の人質船は367頁、七月七日の歌は368頁、十日の堺着船は369頁。筆者は確定していない。後編2-No.305の「祇園會」と日記の祭礼表記の厳密な関係は未検証。 本文へ戻る:1 2 3 4 5 6
- [14] 後編2-No.374、353頁、九月九日付、龍山〈近衛前久〉書状、修理大夫〈義久〉宛。鹿児島県HPのPDF・表示39頁。年次注「天正十五年」。前日の来訪と、今後の会合への希望を区別した。 本文へ戻る:1 2
- [15] 後編2-No.424、378頁、二月十一日付島津義久書状、北郷左衛門入道〈時久〉宛。鹿児島県HPのPDF・表示64頁。書状は年記がなく、天正十六年の編次による。前置きの後編2-No.423にある「同年」「翌年」との接合は未確定のため、滞在の終期を示す根拠にはしていない。 本文へ戻る:1
- [16] 河原洋子「島津義久と京都――薩摩の麓の新しいストーリーを求めて――」『第一工業大学研究報告』第32号、2020年、67~74頁、特に68頁表1・72~73頁参照。大学公開PDF・表示2頁(冊子68頁)。河原は約十二年の間の主な在京期間を四度に整理している。これは連続した十二年間の在京を意味しない。また、後編2-No.1569、902~903頁、文禄四年比定七月二十日付龍伯〈義久〉書状、伊勢因幡入道宛には、帰国の予定だったが京都・伏見の情勢により、なお在京するとある。鹿児島県HPのPDF・表示45~46頁。この書状は当時の在京継続の根拠であり、上洛回数の全体像は河原の研究による整理と区別した。 本文へ戻る:1
- [17] 後編3-No.1594、796頁、十二月二十三日付、嶋津修理入道龍伯〈義久〉書状、倉光主水佑宛。鹿児島県HPのPDF・表示113頁。年次注「慶長六年歟」。一六〇一年のものと推定されるが、翌年の上洛実施を証明するものではない。 本文へ戻る:1
- [18] 後編2-No.443、384~385頁、四月二十一日付島津義弘書状、本多因幡守・比志島紀伊守宛。鹿児島県HPのPDF・表示70頁。年次注「天正十六年」。四月二十六日はこの書状で示す出発予定であり、実際の出発日の確定には用いていない。 本文へ戻る:1 2
- [19] 後編2-No.469「義弘公御譜中」、394頁、天正十六年閏五月二十三・二十五日の記事。鹿児島県HPのPDF・表示80頁。堺の経王寺への宿泊、久保の来訪、龍伯との再会を記す。 本文へ戻る:1
- [20] 後編2-No.471、395~398頁、六月六日付島津義弘書状、島津忠恒(又八郎)宛。鹿児島県HPのPDF・表示81頁。原文の宛所は「又八郎殿」。忠恒との同定は慶應義塾斯道文庫所管「島津家久筆短冊」の人物解説でも確認できる。同解説の家久は忠恒の後の名で、本稿の四兄弟の末弟・家久とは別人。年次は本文上の天正十六年比定注による。本文には月の読み合わせを検討する注がある。追伸を含め、398頁の末尾まで確認。航海、大坂での対面、茶、日向の田帳を記す。拝謁日の印字と他記事の間に不整合があるため、本文では日を特定していない。この書状末尾の京都への移動は今後の予定として述べられる。 本文へ戻る:1 2 3 4
- [21] 義弘の文禄の役への従軍、久保の病没、忠恒の継承・渡海、慶長二年の義弘の再出兵については、山本博文「大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之四」『東京大学史料編纂所報』46号、45~46頁の刊行物紹介を参照。ここは刊本翻刻からの引用ではなく、同所の史料解説による背景説明である。 本文へ戻る:1 2
- [22] 後編2-No.1531・後編2-No.1532、888頁。鹿児島県HPのPDF・表示31頁。後編2-No.1531『義弘公御譜』の記事は、領地の境界確定・割地と義弘の召還、文禄四年六月五日の大坂着を記す。後編2-No.1532は六月五日付「よし弘」書状、宰相宛、年次注「文禄四年カ六月五日」。上洛命令による出船、着岸、又八郎の残番を伝える。帰朝と、その後の国元への下向を区別した。 本文へ戻る:1
- [23] 後編3-No.3『義弘公御譜』記事、1頁。鹿児島県HPのPDF・表示8頁。本文は「慶長元年丙申正月」と記し、同月十三日の大坂到着を、明の使節に備える諸侯・騎馬の召集と関連づける。改元前のため、公開本文は一五九六年正月とした。 本文へ戻る:1
- [24] 後編3-No.58、21~22頁、五月二日付島津義弘書状、島津忠恒(又八郎)宛。年次注「慶長元年歟」。鹿児島県HPのPDF・表示28頁。明勅使来朝に伴う帰朝・上洛命令、約七百人の残番、兵糧の確保、供回りより駐留軍の手配を優先する指示を含む。帰朝が実行されたことを報告する書状ではない。後編3-No.64と同様、年次の比定に留保がある。 本文へ戻る:1
- [25] 後編3-No.64、24頁、五月八日付、武庫〈義弘〉宛。鹿児島県HPのPDF・表示31頁。年次注「慶長元年歟」、差出人比定注「龍山公ナルヘシ」。一五九六年五月は慶長改元前に当たるため、本文は西暦年の推定として紹介した。前日の会話と、その後の実現しなかった訪問を区別する。 本文へ戻る:1 2
- [26] 後編3-No.115、45~46頁、九月十五日付島津義弘書状、島津忠恒(又八郎)宛。年次注「慶長元年」。鹿児島県HPのPDF・表示52頁。講和破綻、再渡海命令、年内は国元で所務などを整え翌年に渡るよう秀吉から直接言い渡されたことを記す中心箇所は46頁(表示53頁)。義弘は国元へ下り、人員・兵糧を送る準備を急ぐと伝える。本文の翌年三月渡海は当時の予定であり、実施日としない。 本文へ戻る:1
制作情報――本稿におけるAIの利用
コラム作成の依頼内容(要旨)
『旧記雑録』を中心に、島津義久・義弘・歳久・家久の上洛について、提示された候補史料と関連史料を調査すること。四兄弟それぞれの上洛の事情、旅の行程、都での出会いや交流を史料に即して読み解き、その違いと共通点を、旧記雑録ガイドに掲載する一般読者向けコラム「島津四兄弟上京記――それぞれの上洛」としてまとめること。概要データは探索の手掛かりとし、本文の根拠は史料本文へ戻って確認すること。
執筆・作成情報
企画・掲載先:旧記雑録ガイド
調査・刊本翻刻の読解・執筆・出典照合:OpenAI Codex
使用モデル:GPT-6 Astra/ウルトラ
作成日:2026年9月30日
史料確認と編集方法
後編一~六の概要データを候補探索に使い、採用した場面は鹿児島県公開の刊本翻刻画像へ戻って確認した。家久・義久・義弘関係の確認を同一モデルの分担エージェントが担当し、主担当が歳久関係の読解、全体の執筆・統合と主要箇所の再照合を行った。別モデルや人間の専門家による独立監査ではない。
引用、史料内容の要約、本稿の考察を区別し、日付・人物比定・文書境界の未解決点は注記と別ファイルの史料検証メモに記録した。概要との相違は原稿に反映したが、既存データは変更していない。ここで示した確認は採用史料とその関連箇所を対象とし、『旧記雑録』全体の通読や、四兄弟の全上洛の網羅調査を意味しない。人間による校閲と公開判断は今回のAI作業には含まれない。