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THEMATIC COLUMN 05

島津動物王国・猫編

「猫外交?」――島津家と近衛家をつないだ猫たち

近衛前久が求めた猫、島津義久が送ると知らせた六匹の猫。『旧記雑録』の三通から、島津家と近衛家の交流、取次役、記録に残る猫の姿をたどる。

「われらへハ三疋之御約束候へとも、今一疋ニて堪忍可申候」

三匹のお約束でしたが、いまは一匹でも我慢しましょう――。

猫を譲ってほしいという手紙に、そんな一節がある。差出人は、関白を務めた公家・近衛前久(さきひさ)。宛先は島津義弘である。前久が求めていたのは、誰かへの贈り物ではなく、自分の手元に置く猫だった。[1]

旧記雑録ガイドでは、馬や犬、鷹など、動物が登場するさまざまな文書を集め、「島津動物図鑑」として整理を進めている。動物を手がかりに文書をたどると、島津家に関わる人々の暮らしや交流にも目を向けることができる。[2]

今回の「猫編」は、その整理の中から、現在確認している実際の猫を扱った三件の文書を取り上げたものだ。猫を欲しがる手紙と、六匹を送ると知らせる手紙。それぞれに何が書かれているのかを読みながら、島津家と近衛家をつなぐ、人と猫のやり取りをたどってみよう。[3][1][4]

猫よりも、ずっと長い付き合い

島津家と近衛家の縁は、戦国時代よりずっと古い。近衛家の所領だった島津荘に、島津氏の初代・忠久が関わったことにさかのぼる。両家は、時に対立しながらも、長い時間をかけて関係を重ねてきた。[5]

今回の猫の書状に登場する島津義久と義弘は兄弟で、義久が兄、義弘が弟にあたる。その二人と交流した前久は、和歌や鷹の文化にも深く関わった人物だった。大坪舞の研究が取り上げる前久の『鷹百首』と『皇鷹記』からは、鷹に関する知識を書物にまとめ、伝えようとした一面がうかがえる。[6][7]

前久だけでなく、その子・信尹も島津家との交流を重ねた。すでに近衛家の家督を継いでいた信尹は、文禄三年(1594)に朝廷から処分を受けて薩摩へ配流され、滞在中、学問や文芸を通じて島津氏と交わった。1596年には処分が解かれ、同年七月に薩摩を離れている。両家のつながりには、こうした滞在を通じた交流もあった。[8]

政治の連絡や文芸をめぐる交流に、動物の話も交じる。以下の三通は、そのうち猫が話題になった手紙である。

「美しい猫を三匹」と求めて

『旧記雑録後編三』第64号は、1596年のものと推定される五月八日付の手紙で、差出人は前久とみられる。宛先の「武庫」は義弘を指す。[3]

この手紙では、猫のほかにもいくつもの用件が語られている。馬の乗り方についての話をし、船の世話をしてもらったことに礼を述べる。前日の会話を忘れがたく思うと伝え、訪ねようとしたものの、義弘が北野へ出かけた後で会えなかったことにも触れている。さらに、義弘の馬を見事だとほめ、人に譲らず、大切に手元に置くよう勧めている。

そうしたやり取りの途中に、猫のお願いが入る。この機会に、見た目の美しい猫を三匹ほしいので、手配を頼みたいというのだ。船の件への礼から猫の依頼へ、そして対面した際の話や馬の話へ。書状は、いくつもの相談を一緒に伝えるものになっている。[3]

「うつくしく候ハんねこ三疋大望候」

美しい猫を三匹、ぜひとも欲しい――。数だけでなく、どんな猫を望むかという注文も添えられている。どのような姿を思い浮かべていたのだろう。毛色や年齢までは、手紙に記されていない。

ここに残るのは、猫を求め、相手に手配を頼む言葉である。馬や船、訪問の話とともに猫の用件を伝えられる間柄だったことが、この一通から見えてくる。[3]

前久が欲しかった「自分の猫」

冒頭に掲げた『附録二』第270号は、年次の分からない、前久から義弘への手紙である。こちらでは、前久の周囲にいる人々と猫の事情が、より詳しく語られる。[1]

前久は、猫が「新造かた」と呼ぶ相手の側へ渡り、自分にはくれない、とこぼす。娘たちの猫にも話が及び、義弘の兄・義久を指す「龍伯」からの二、三匹への言及がある。その猫たちには、元気でいるものも、死んだものもいるという。手紙の中には、猫を誰の手元に置くかという話だけでなく、その生死を伝える言葉まで残されている。[1]

そうした猫の話を重ねながら、前久が繰り返し伝えるのは、自分の手元に一匹ほしい、という願いだった。

「努〃人に可遣と申事にては無之候」

決して、人に贈るために欲しがっているのではありません――。誰かに回す品物としてではなく、自分の猫として迎えたいのだと念を押している。

そして、三匹の約束だったが、いまは一匹でも我慢しようと伝える。お願いは匹数の話だけで終わらない。書状を持っていく者に、籠へ入れた猫を持たせてほしいと、運び方にまで話が進む。別の箇所では二匹をもらう約束にも触れており、一通の中に、複数の約束への言及が重なっている。[1]

この手紙にも、猫以外のやり取りがある。訪ねた際の厚意や早舟の手配に礼を述べ、都合のよい折にはこちらへ来てほしいと義弘を誘っている。そのような礼や誘いとともに、自分にも猫を、と頼んでいるのである。

猫の生死に触れる言葉、約束の匹数、籠での運搬。これらを続けて読むと、前久の猫への関心が、単なる好みの表明にとどまらず、具体的な手配の相談になっていたことが分かる。「自分の一匹」がほしいという言葉は、その中心にある。[1]

六匹の猫と、取次役への相談

『後編三』第1594号は、義久が猫六匹の送付を知らせた手紙である。慶長六年(1601)と推定される十二月二十三日付で、宛先は、前久と島津側の連絡を取り次いでいた倉光主水佑だ。[4][9]

倉光の役割は、別の動物の手紙から分かる。『旧記雑録拾遺 家わけ十』の本田家文書には、前久が、義弘との間で約束していた大鷹の件を、倉光を介して伝えていたことが記される。公家と大名の往来には、こうして希望や用件を取り次ぐ人物も関わっていた。[9]

猫の手紙では、義久は、先にもらった返書への礼に続けて、猫の件を承知したと伝え、「今度六疋差上候」――今回は六匹を送る、と記している。さらに、「ゑふくろ」と記された品物二つも添え、田舎の細工で見苦しいと、出来栄えに断りを添える。猫とその品物をどこへ進上するかは、倉光の判断に任せている。

話題はそこから、義久自身へ移る。近ごろ老衰が進んだと述べながらも、しきりに京都へ上るよう求められているので、来年は上る覚悟である、と伝えるのだ。猫の送付、添える品物、贈り先の相談、そして自分の上洛。一通の手紙には、これらが続けて記されている。[4]

贈り先についての言葉を、もう少し見ておこう。

「右之両種ハ何方へも可有御進上候哉、尊慮次第候」

この二種類をどちらへ差し上げるかは、あなたのお考えにお任せする、という趣旨である。手紙の宛先は倉光だが、猫の最終的な進上先は記されていない。 「ゑふくろ」の用途も、この書状だけでは特定できない。[4]

ほかの書状で猫を求め、倉光を介した連絡も行っている前久は、贈り先を考えるうえで手がかりのある人物である。一方、当時の近衛家では、家督を継いだ信尹も島津側と交流していた。ただし、この六匹を信尹が求めた、あるいは受け取ったという記録を確認したわけではない。両者を候補として考える根拠は同じではなく、贈り先をこの二人だけに絞ることもできない。この手紙に残るのは送付の知らせまでで、六匹の行き先はまだ見えてこない。[1][9][8][10]

また、年次の分からない手紙もあるため、三通が一続きの依頼と送付なのかは明らかでない。[11]

猫の話の隣に、上洛の話

六匹の送付状の推定年に従えば、この手紙は関ヶ原合戦の翌年に書かれたことになる。義弘が西軍に加わった後、島津家は徳川側との関係を立て直し、所領の安堵を得るための交渉を続けていた。[12]

近衛家も、合戦の直後から動いている。慶長五年(1600)九月二十五日付の信尹の手紙には、義久と、義弘の子・忠恒に家康へ敵対する心はないという話を、草津で家康に伝えたとある。薩摩で島津氏と交流を重ねた信尹が、今度は京都へ通じる連絡の一端を担っていた。[13][6]

翌年にも、義弘の身の安全に関わる保証や、忠恒の上洛・御礼をめぐる連絡が続いている。そして慶長七年(1602)十二月二十八日には、忠恒が家康に対面した。この時期の書状には、前久の弟で、聖護院門跡を務めた僧・道澄(どうちょう、号は如雪)も登場する。道澄が忠恒へ送った手紙は家康への御礼に触れ、対面後の山口直友の手紙は、対面が首尾よく済んだことを義弘に伝えている。近衛家とのつながりは、前久一人との付き合いに収まるものではなかった。[14]

六匹の送付状は、こうした上洛や対面をめぐる連絡の中に位置する。交渉そのものは、この手紙より前から進んでいた。猫の贈答が所領安堵をめぐる交渉にどのように作用したかは、書状からは分からない。しかし、義久が一通の中で、猫を送る話と自分が京都へ上る話を伝えていることは確かだ。[4][13]

猫を求める個人的な気持ち、贈り物を交わす付き合い、政治上の連絡。三通をこうした関係の中で読むと、それらは別々の世界ではなく、同じ人々の往来に重なっていたと考えられる。

子猫の礼状を書いた、もう一人の武将

猫を喜び、贈り物として受け取った人は、前久の周囲に限らない。伊達政宗にも、子猫を贈られた礼状が残る。これは島津家との贈答とは別の書状で、幕府の伝達役・野々村四郎右衛門に宛てたものだ。書状の前後の経緯は不明だが、政宗は野々村から子猫を譲り受けたとみられる。[15]

島根県立古代出雲歴史博物館が紹介した十七世紀の書状である。同館の解説によると、贈られた子猫は、自分の体より力のある鼠を捕らえ、その「おとこぶり」が話題になっている。子猫の姿を喜ぶことと、鼠を捕る働きを評価することは、一つの礼状の中で結びついていた。[15]

前久のものとみられる手紙の「美しい猫」という希望と並べると、猫を見る目の違いも面白い。見た目を望む言葉もあれば、働きぶりを喜ぶ言葉もある。猫をめぐる書状は、贈り物の授受だけでなく、人がその動物の何に関心を寄せたかも伝えている。

こぼれ話――義弘と「時を知る猫」

島津家と猫には、こんな伝承もある。島津義弘が文禄・慶長の役に七匹の猫を伴い、瞳の開き具合を、時刻を知る手がかりにしたという話だ。鹿児島の仙巌園にある猫神社は、このうち帰還した二匹を祀ると紹介されている。[16]

これは、本稿で読んだ三通の手紙とは別に伝わる逸話である。手紙の猫との関係は明らかでないが、島津家と猫のつながりが、書状だけでなく、猫を祀る場所とその由来を通じても伝えられていることは興味深い。ここでは、三通の猫の消息とは分けて、もう一つの猫の話として紹介しておきたい。

猫が少ないのか、記録が少ないのか

「島津動物図鑑」の整理では、馬や鷹、犬に比べ、猫の記事は少なく見える。けれども、ここで数えているのは動物そのものではなく、現在の整理範囲で確認した記事である。実際の猫を扱う三件とは別に、夜討ちの合言葉として「猫」が登場する史料もあり、両者は区別している。[2][17]

『旧記雑録』は、動物の飼育頭数を調べた記録ではない。伊地知季安・季通父子らが、古文書や古記録などを集め、書き写し、編纂した史料集である。文化庁の解説によれば、現在は失われた原史料の内容を伝える一方、収められなかった文書もある。[18]

この性格を踏まえると、記事の多寡には、まず「何を記録する必要があったか」が関わっていると考えられる。今回読んだ書状でも、馬の乗り方や持ち主への助言、鷹の所望や取次は、手紙を書く具体的な用事になっていた。そうした手配や相談が多ければ、動物が文書に現れる機会も増えるだろう。一方、身近にいる猫でも、特に誰かへ伝える用件がなければ、その暮らしは書き留められないまま過ぎていくこともあっただろう。[3][9]

さらに、書かれた手紙が保存され、写され、史料集に採られ、現在の整理で見つかるまでには、いくつもの段階がある。第64号と第1594号には、御文庫の所在や御譜との関係を示す注記も付いている。前久の猫への関心がよく見えるのは、本人の言葉とともに、それを今へ伝えた文書の残り方にも目を向けてこそ理解できる。[3][4]

三件という数字から、当時飼われていた猫の数や、社会全体への普及度を知ることはできない。ここから読み取れるのは、猫が人に求められ、約束され、贈り物として手配されるとき、その姿がどのように文書へ残ったか、ということである。

手紙の向こうの、一匹

「島津動物図鑑」に集めた文書から、今回は猫にまつわる三通を読んできた。猫の話を追うと、公家や大名だけでなく、その間で希望を伝え、贈り物を取り次ぐ人々も見えてくる。義久の手紙では、六匹の送付と上洛の話が隣り合っていた。

その長い付き合いの中に、前久の身近な望みが残っている。誰かに贈るためではない。自分の手元に、一匹ほしい。

三匹のお約束でしたが、いまは一匹でも――。その言葉が、島津家と近衛家の関係に、人々の日常の表情を添えている。

史料・出典(18件)

史料・出典

『旧記雑録』の本文は『鹿児島県史料』所収の刊本翻刻による。原文書の料紙・筆跡を直接調査したものではない。以下の頁は冊子頁で、リンクに付けたPDF表示頁とは区別している。年月日は原則として旧暦表記、西暦は年次の対応であり、月日を現行暦へ換算したものではない。本文中の「匹」は読みやすさのための表記で、原文引用の「疋」は残した。各書状の紹介は、要点をまとめた内容紹介であり、全文の逐語訳ではない。

  1. [1] 附録2-No.270 『鹿児島県史料 旧記雑録附録二』第270号、119–120頁、年次不詳、近衛龍山〈前久〉書状、武庫〈島津義弘〉宛。鹿児島県公開PDF(解題・例言・目次・本文1–184頁) ↗。「新造かた」の実名は未詳。「壱ケ年龍伯より二三疋參候迄」周辺の詳しい時間関係、三匹・二匹の約束の相互関係は未確定である。 本文へ戻る:1 2 3 4 5 6 7
  2. [2] 島津動物図鑑 旧記雑録ガイドの「島津動物図鑑」企画説明、および作業用資料『島津動物図鑑_データベース_Phase17_B01(1).xlsx』「動物記事」「動物マスタ」。本稿は整理途中の資料から猫三件を選んだものである。 本文へ戻る:1 2
  3. [3] 後編3-No.64 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』第64号、24頁、五月八日付、武庫〈島津義弘〉宛。鹿児島県公開PDF・表示31頁 ↗。刊本に収められた年次注は「慶長元年歟」、差出人の比定注は「龍山公ナルヘシ」。年次と差出人はともに推定である。1596年五月は慶長改元前に当たるため、本文は西暦年によって紹介し、原注はここに保持した。猫三匹の所望・手配依頼を記す書状で、猫の到着を伝える受領書ではない。 本文へ戻る:1 2 3 4 5 6
  4. [4] 後編3-No.1594 同『後編三』第1594号、796頁、十二月二十三日付、嶋津修理入道龍伯〈義久〉書状、倉光主水佑宛。鹿児島県公開PDF・表示113頁 ↗。刊本の年次注は「慶長六年歟」。「ゑふくろ」の用途は未確定。書状が記すのは送付の通知と上洛の意向で、受領・上洛実施を伝える記録ではない。 本文へ戻る:1 2 3 4 5 6
  5. [5] 鹿児島県・黎明館「島津荘の成立・島津氏の登場 ↗」、鹿児島大学附属図書館「12/9–22『島津氏と近衛家の七百年』展を開催 ↗」(2013年11月19日)。文治元年(1185)の忠久の島津荘下司職補任、同荘の本家であった近衛家との関係を説明する。 本文へ戻る:1
  6. [6] 鹿児島県観光連盟・鹿児島県公式観光サイト「とりまく人々 ↗」。義久・義弘・忠恒の続柄を参照。 本文へ戻る:1 2
  7. [7] 大坪舞「近衞前久が継承した鷹の言説―『鷹百首』と『皇鷹記』の引用書目の検討を通して」『鷹・鷹場・環境研究』2、2018年、116–126頁。九州大学学術情報リポジトリ公開本文 ↗。想定される受け手や引用書目の違いを論じた研究で、前久の鷹文化への関わりを考える背景となる。 本文へ戻る:1
  8. [8] 文化庁・国指定文化財等データベース「三藐院記〈附 関白宣下〉 ↗」詳細解説。信尹の家督継承、配流、学問・文芸を通じた島津氏との交流を参照。なお、信尹の関白就任は慶長十年(1605)。 本文へ戻る:1 2
  9. [9] 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 家わけ十』本田家文書〈島津家文書新長持〉第11号、560頁、年未詳五月十日付近衛前久書状、本田六右衛門尉宛。鹿児島県公開PDF・表示5頁 ↗。「内々以倉光主水佑申候」「維新へ約束申候網懸大鷹之事」とある。第15号、562頁にも「倉主」への言及がある。「取次」は書状に見える行為の説明で、正式な職制名としては用いていない。 本文へ戻る:1 2 3 4
  10. [10] 近衛家側の記録については、京都文化博物館の2023年出品一覧 ↗に、陽明文庫所蔵の『三藐院記』本記・慶長六年記、七年記が掲載される。確認済みなのは該当年の記録の所在であり、日記本文の通覧と、この六匹に対応する所望・受領記事の照合は未了である。対応記事の不存在を意味しない。 本文へ戻る:1
  11. [11] 後編3-No.64・後編3-No.1594・附録2-No.270 『後編三』第64・1594号、『附録二』第270号。三通を同一交渉とする根拠や、猫の同一個体・親子関係を示す記載は、今回の確認範囲では得られていない。 本文へ戻る:1
  12. [12] 鹿児島県・黎明館「関ヶ原の戦い ↗」。義弘の西軍参加と戦後の島津氏の交渉、慶長七年(1602)の所領安堵を参照。 本文へ戻る:1
  13. [13] 後編3-No.1189・後編3-No.1191 『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』第1189号、585頁、慶長五年九月二十五日付近衛信尹書状、松井佐渡宛。鹿児島県公開PDF・表示14頁 ↗。草津で家康へ義久・忠恒について申し立てたことを記す。同第1191号、586頁、九月二十八日付文殊院書状も関連する。 本文へ戻る:1 2
  14. [14] 後編3-No.1584・後編3-No.1755・後編3-No.1759 同『後編三』第1584号、793頁、〈慶長六年〉十二月二日付島津惟新〈義弘〉書状、中性院宛(PDF表示110頁 ↗)。本多正信から誓紙をもって自身の進退への保証を伝えられたこと、忠恒の上洛等を記す。第1755号、868頁、〈慶長七年〉十二月二十八日付如雪書状、羽柴少将〈忠恒〉宛(PDF表示25頁 ↗)。第1759号、869頁、同十二月三十日付山口直友書状、羽兵庫入道〈義弘〉宛(PDF表示26頁 ↗)は、二十八日の対面の結果を伝える。道澄の続柄・読み・号は京都国立博物館「聖護院道澄消息 ↗」の説明文による。 本文へ戻る:1
  15. [15] 島根県立古代出雲歴史博物館、ミニ企画「寅年にちなんで『猫』展 ↗」(2021年12月22日–2022年3月14日)の「伊達政宗書状」解説。江戸時代・十七世紀の書状として紹介される。館の公式案内は贈り主を明記していないが、同館の学芸員を取材した山陰中央新報「『独眼竜』が猫にデレデレ? 書状が伝える意外すぎる武将の一面 ↗」(2022年2月6日)は、野々村四郎右衛門宛の書状で、猫も野々村から譲り受けたとみられると記す。前後の経緯は不明であり、礼状の全文翻刻を本稿で独自に確定したものではない。 本文へ戻る:1 2
  16. [16] 鹿児島県観光連盟・鹿児島県公式観光サイト「仙巌園 猫神社 ↗」は、義弘に伴われた七匹のうち帰還した二匹を祀ると紹介する。株式会社島津興業「鹿児島から、全ての猫好きのために。「仙にゃん園」プロジェクト始動! ↗」(2022年2月1日)は、猫の目を時計代わりにした話を「逸話」として扱う。朝日新聞(大崎浩義)「猫が神様になった『猫神神社』 ルーツは16世紀末の2匹の猫 ↗」(sippo、2019年2月21日)は、島津忠重の随筆『炉辺南国記』が1949年の南日本新聞記事を引用しつつ、朝鮮出兵に七匹を伴い時刻を知るために用いた話を記すと紹介している。『炉辺南国記』と同新聞の該当本文は直接照合しておらず、伝承の初出・成立時期や同時代史料による裏付けは今回確定していない。補足は現代の紹介資料に伝わる逸話として掲げたもので、本稿の三通に加える『旧記雑録』の第四の猫史料ではない。 本文へ戻る:1
  17. [17] 著作史料集2-No.315 『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集二』第315号、『寛永軍徴』巻十六所収の『平塞録』引用、猫の合言葉は192頁。夜討ちの合言葉「鼠か」に「猫」と答える例で、実際の猫の飼育・贈答とは区別する。 本文へ戻る:1
  18. [18] 文化庁・文化遺産オンライン「薩藩旧記雑録 ↗」解説。編纂者、収録史料の性格、収録されなかった文書や原史料が失われた例を参照。動物記事の多寡に関する本文の考察は、この史料集の性格と今回の書状からの推論である。 本文へ戻る:1

制作について

企画・史料整理:旧記雑録ガイド。コラム作成の依頼を受け、ChatGPT(GPT-6 Astra Pro)が調査・刊本翻刻の読解・草稿作成と改稿を担当した。2026年9月23日改稿(猫神社の伝承に関する補足を追加)。