「赤ぶち一疋・黒ぶち一疋ひかせ申候」
赤ぶちを一匹、黒ぶちを一匹、お送りします――。
島津義弘が福島正則へ送った手紙に、そんな知らせがある。以前、正則から欲しいと頼まれていた「呂宋犬」に、このごろ子が生まれたというのだ。義弘は二匹の毛色を伝え、気に入ってもらえれば本望だと添えている。大名同士の手紙の中に、生まれた子犬を贈ろうとする、具体的な一場面が残っていた。[1]
「島津動物王国」の今回の主役は、犬と手紙である。豊臣秀長、秀次、秀頼、そして豊臣家ゆかりの武将・福島正則。『旧記雑録』を開くと、その人々へつながる犬の用件が見つかる。
白い犬が欲しい。前に頼んだ件は、どうなっただろうか。自分にも一匹譲ってほしい――。犬を求める言葉を追っていくと、大名の名の陰に隠れがちな取次者や家臣の働きも見えてくる。まずは、島津と豊臣が激しく戦った天正十五年(一五八七)の九州へ、時を戻してみよう。
秀長――六月の所望、七月の問い合わせ
秀吉の弟・秀長も加わった九州遠征で、島津軍は根白坂の戦いに敗れ、五月には義久が秀吉のもとへ出頭する。その後も、領地や人質をめぐる折衝が続いた。犬の手紙が書かれた時点を、日付で確かめてみよう。[2]
| 天正十五年(一五八七)・旧暦 | 出来事 |
|---|---|
| 四月十七日 | 根白坂の戦い。島津軍は夜襲をかけるが敗れ、翌朝に退く。 |
| 五月八日 | 義久が川内の泰平寺に出頭し、秀吉に降伏する。 |
| 五月二十五・二十六日 | 義弘に大隅国が宛行われ、追加の人質や諸将の服属に関する指示が続く。 |
| 六月十九日 | 桑山重晴・福智長通の連署状が、秀長による上井覚兼の唐犬の所望を伝える。 |
| 七月二十日〔同年か〕 | 福智の書状が、白唐犬・白野牛の手配について問い合わせる。 |
四月には戦っていた相手との間で、六月にはもう犬を求める連絡が交わされている。戦後の折衝の中に、犬の用件も入り込んでいたのだ。
六月十九日の書状で、秀長が目を向けていたのは、上井伊勢守の唐犬だった。上井伊勢守とは、日記の書き手として知られ、宮崎を治めた島津家臣・上井覚兼である。桑山重晴と福智長通は、覚兼が唐犬を持っていると聞き、秀長が譲り受けたいと伝えた。[3][9]
「唐犬御所持之旨被承及、秀長申請度候」
さらに「しろき唐犬」と、白い犬であることにも触れている。秀長の希望を、本人に代わって桑山と福智が持ち主へ伝える。犬を譲ってもらうにも、こうして人を介した連絡が必要だった。
翌七月二十日、福智から義弘へ、再び犬の用件が届く。今度は白い犬に加え、白い牛の話も出てきた。[4]
「白唐犬・白野牛在之由被承及、秀長申請度由候条」
白い唐犬と白い野牛がいると聞いたので、秀長が譲り受けたいという。上井伊勢守と「御同名右馬頭殿」のもとへは、すでに書状を送る手はずを整えていた。福智は桑山修理亮重晴とともに書状を用意し、「伊下野殿」に託して念を押していたのである。それなのに、まだ到来がない。
そこで、義弘を通じて確かめようとする。
「若御両人へ書状不相届候歟、又者物躰無之候哉」
二人へ手紙が届いていないのだろうか。それとも、その動物がいないのだろうか――。福智はそう尋ね、はっきりした返事を求めている。六月の所望状と七月の照会を並べると、「欲しい」という希望を実際の手配へ移すまでのやり取りが浮かび上がる。[3][4]
届け先の相談も具体的だ。動物がいれば佐土原まで届けるよう求め、郡山まで届けられれば喜ぶとも伝える。佐土原は日向、郡山は秀長の居城があった大和郡山と考えられる。持ち主へ連絡を届ける人、返事を確かめる人、運び先を相談する人。犬の所望は、いく人もの手を経る用事だった。[5]
この手紙のすぐ次には、同じ福智が、郡分の目録、野尻の扱い、秋月・高橋両氏への領地の引渡しを伝える七月二十一日の書状が収められている。戦後の領地処理を伝える人が、犬の手配にも携わっていたのである。大きな政治の連絡と動物の用件が同じ書状の往来に現れるところに、『旧記雑録』を読む面白さがある。[6]
上井覚兼と南蛮犬――宮崎に残る物語
秀長が犬を求めた覚兼には、それより前から、珍しい犬を飼うことになった経緯があった。天正十二年(一五八四)十一月晦日の日記を開いてみよう。九州遠征の三年前のことである。
覚兼は、有馬方から預かった「南蛮犬」について、たいそう珍しい犬なので進上したいと申し上げた。犬は義久の上覧に供され、喜ばれたという。覚兼の日記には宴や茶湯、使者の往来など、その日のさまざまな用件が並ぶ。珍しい犬を見てもらうことも、そうした一日の出来事の一つとして書き留められている。[7]
ところが、その夜、犬の飼い場所をめぐって話が動く。殿中に置いてよいか占ったところ、結果は「不宜」、よくないというものだった。そこで覚兼に、飼っておくようにとの仰せがあった。
「拙者飼置申候て可然之由、蒙仰候也」
珍しい犬を進上し、喜ばれたあと、占いを経て自分が世話をすることになる。上覧の場だけでなく、その夜の相談まで続けて読むと、犬を預かった覚兼の役割がよく分かる。三年後、その覚兼の唐犬を秀長が所望する書状が残されるのである。[7][8]
この南蛮犬の話は、宮崎で歴史を伝えるキャラクターにもなった。みやざき歴史文化館のマスコットとして生まれた「バンくん」は、宮崎城主だった覚兼の南蛮犬がモチーフ。同館のキャラクター紹介にも、覚兼の犬を秀長が欲しがったというエピソードが載っている。二〇二一年には、文化施設を巡る絵本スタンプラリーにも登場した。日記と手紙に登場する犬が、今度は地域の歴史を案内する役を務めているわけだ。[9]
寄り道――羽犬塚の犬と、町の名前
九州には、秀吉と犬を結ぶ、もう一つよく知られた話がある。福岡県筑後市の「羽犬塚」。JRの駅名にも残り、読みは「はいぬづか」という。犬に羽があるとは、いったいどのような由来なのだろう。[10]
筑後市観光協会は、秀吉の九州遠征に結びつく二つの伝承を紹介している。一つは、翼を持つ怪犬に秀吉が出会い、退治して塚に葬ったという話。もう一つは、翼があるように速く走る秀吉の愛犬がこの地で病死し、秀吉が悲しんで葬ったという話である。退治された怪犬と、弔われた愛犬。同じ土地に伝わる犬の話でも、その姿はずいぶん違う。[10]
語源をめぐっては、こうした犬の物語とは別に、地名の音や漢字の当て方から考える見方もある。その手掛かりを、覚兼の日記も残していた。
後編2-No.180の天正十四年(一五八六)八月朔日条には、道中で「灰塚之町」に休んだとある。『日本歴史地名大系』は、この町を現在の羽犬塚に比定している。秀吉の九州遠征の前年に、同地と考えられる町が、別の漢字で記録されていたのである。[11]
森岡浩は「灰塚」と「羽犬塚」の音の近さに注目する。「犬」を「いん」と読むことも手掛かりに、「はいんつかのまち」のような共通の呼び名へ、異なる漢字が当てられたのではないかと考えている。日記に残る「灰塚之町」は、このように地名の音と表記の変化を考えるうえでも興味深い材料になる。[12]
犬の物語と、古い日記に残る町の名。羽犬塚には、その両方をたどる楽しみがある。覚兼の日記を読み進めてきたところへ、旅先の地名が思いがけずつながるのも面白い。
秀次――留守居衆に届いた「逸物之犬」の注文
次は、秀吉の甥で、関白を務めた豊臣秀次の犬の注文である。後編2-No.1391、文禄三年(一五九四)十月二日と推定される朱印状は、義弘の家中に「鹿喰犬」がたくさんいると聞き、優れた犬を求めている。[13]
「鹿喰犬餘多有之由、被及聞召候、然者御用候間、逸物之犬可上之候」
用があるので「逸物」、とりわけ優れた犬を上せるように、という注文だ。鹿を捕らえる猟犬を求める言葉として読むと、家中にいる犬のなかから、よい犬を選び出そうとする用件が伝わってくる。[13]
宛先は「嶋津兵庫 留守居中」、義弘の留守居衆だった。義弘自身は「高麗在番」、朝鮮に駐留中である。主人の留守を守る人々に手配を任せ、差し向けられた使者へ犬を渡すよう求めている。詳細は石田治部少輔、石田三成が伝えるという。犬の注文一つにも、義弘の不在を支える家中の働きと、豊臣方の取次の仕組みが見える。[13]
秀次の失脚は、島津にも伝わった
犬の注文の翌年、文禄四年(一五九五)七月十日。秀吉は義弘へ、関白を高野山へ遣わしたと知らせている。後編2-No.1563の朱印状である。秀次が切腹する五日前に当たる。
書状は、関白に「不相届子細」があったと述べたうえで、「其外無別条候之間、不可有機遣候」――そのほかは異状ないので心配しないように、と伝える。詳しい話をする人物には、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家が挙げられている。前年の犬の注文に登場した三成が、今度は関白の失脚を伝える連絡にも名を連ねていた。[14]
政変は、島津側の帰国の予定にも関わった。七月二十日、義久は又八郎、すなわち忠恒への手紙で、義弘の下向に合わせて自分も帰国する予定だったと説明する。ところが「関白様御道心ニ付而」、関白の出家に伴って京都・伏見の情勢が難しくなり、しばらく在京することになったというのである。[15]
犬を手配する連絡と、政変の知らせ。それらは、豊臣方と島津方を結ぶ書状の中に続いて現れる。関白の身に起きた出来事は、島津にとっても遠い都の話だけではなく、いつ国へ戻れるかという予定に関わる問題だった。
求められた犬の行方は
七月十五日、秀次は高野山で切腹した。八月二日には妻子らも京都で処刑された。なかでも、最上義光の娘・駒姫の悲劇はよく知られている。父・義光が再三断ったとされる縁談の末、側室となるために上洛したばかりで、秀次と対面することさえないまま犠牲となったと伝わる。[16]
秀次とその家族の最期を知ると、管理人は犬のことまで気になる。所望に応じて犬が届けられていたなら、その後はどうなったのだろう。今回たどった資料には、この注文の後をつなぐ犬の便りは見つからなかった。犬も処分されたとは言えないが、あの注文の続きを伝える手紙が欲しくなる。[17]
秀頼――雌はいるのですが、雄がいません
時代を下って、秀頼方へ犬を手配しようとする書状を読んでみよう。後編4-No.49、慶長十年(一六〇五)四月二十七日とされる手紙である。差出人は、豊臣方の実務を担い、秀頼方と島津家の連絡を取り持った伊藤左馬頭。宛先は、義弘の子・忠恒だった。[18][19]
伊藤左馬頭は代官として地域の支配に関わり、秀頼による寺院造営にも携わった人物である。慶長八年(一六〇三)の叡福寺聖霊殿の再建では、奉行を務めている。犬の手紙にも、主家の用件を相手へ伝え、実際の手配を取り持つ、こうした実務担当者の姿が現れていた。[19]
犬の条件が、じつにはっきりしている。
「ちいさき唐犬之女犬、秀頼様ニ御座候、併男犬無御座候」
秀頼のところには、小さな唐犬の雌がいる。けれども、雄がいない――。忠恒が犬を持っていると聞いた伊藤は、所持しているなら秀頼へ進上してはどうか、と勧める。雄と雌をそろえようとする相談である。連絡先には「片主膳」と自分を挙げている。[18]
そして、追而書がいい。
「私ニ壱ツ被懸御意候ハヽ、可忝候」
唐犬が三、四匹いると聞いたので、まだほかへ渡していなければ、私にも一匹いただければありがたい。秀頼方の用事を伝えた人が、自分の分も頼んでいるのだ。三、四匹という所持の噂を聞き、「自分にも」と追伸を書き添えるところに、取次者自身の関心が表れている。[18]
この手紙には、薩摩焼の茶入への礼や、忠恒の参内供奉への祝意も記されている。贈り物へのお礼、儀礼に関わる近況、そして犬の相談。いくつもの用件を一通にまとめた手紙の終わりに、書き手の個人的な希望が顔を出した。
一六〇五年とすれば、秀頼は数え十三歳。大坂の陣で亡くなる一六一五年までは、およそ十年ある。後の戦いを知る私たちには短い一生が先に浮かぶが、この手紙には、その十年前に秀頼の身の回りで持ち上がった、犬を手配する相談が残っている。[20]
正則――赤ぶちと黒ぶちを、一匹ずつ
ここで、冒頭の子犬の知らせへ戻ろう。後編4-No.157の差出人は、「羽柴兵庫入道 惟新」と署名する島津義弘。宛先の「廣嶋少将様」は、福島正則である。正月九日付で、本稿では慶長十一年(一六〇六)の書状として紹介する。[1]
義弘は、以前、正則から呂宋犬を欲しいと伝えられたことを覚えていた。そして、こう知らせる。
「いつそや呂宋犬御望のよし被仰越候、此比子をうミ申候間」
いつぞや呂宋犬を欲しいとおっしゃっていましたが、このごろ子が生まれたので――。それを受けて出てくるのが、赤ぶちと黒ぶち、各一匹を送るという一節だった。[1]
二匹の毛色が分かると、犬が急に身近になる。子犬が生まれ、毛色の違う二匹を選び、前に欲しいと言っていた相手へ知らせる。「御気ニ入候ハヽ、可為本望候」、気に入ってもらえれば本望だという結びにも、贈る側の気遣いが感じられる。
「呂宋犬」という呼び名はルソンとのつながりを思わせるが、この手紙の中心は、島津側で生まれた子犬の知らせである。海外の地名を負った犬が育てられ、子が生まれ、その子を欲しがる相手へ贈る。犬の行き来には、遠くから珍しい動物を取り寄せることに加え、身近で生まれた犬を分けて贈る場面もあった。[1]
義弘は山居の楽しみに茶を点てて暮らしていると述べ、畳表を欲しいとも頼んでいる。さらに、上方へ赴くことのある陸奥守、すなわち忠恒を、これからも目にかけてほしいと正則へ願う。子犬の知らせとともに、自分の暮らしぶりを伝え、息子のことを頼む。手紙は親しみのある近況と、家の将来に関わる用事を一緒に運んでいた。
正則は秀吉に仕えた武将だが、関ヶ原では東軍に加わり、その後、広島を領した。この手紙は、その関ヶ原後のやり取りである。合戦時の陣営だけでは説明しきれない付き合いが、義弘と正則の間に続いていた。[21]
年頭の祝儀として太刀一腰と馬一匹を添えることも記される。犬を贈り、畳表を頼み、忠恒への配慮を願う。赤ぶちと黒ぶちの便りを含む一通には、いくつもの往来が重なっている。
「秘蔵しています」と知らせる人もいた
犬を求めた人は、豊臣家に連なる人々だけではなかった。猫編にも登場した公家・近衛前久は、島津家への手紙に、犬を受け取った喜びや、繁殖への期待を書き残している。
慶長四年(一五九九)の後編3-No.764では、雄犬を雌犬と合わせて「よき子を取可申」と楽しみにし、「鳥犬」を早速送ってもらったことに深く感謝する。慶長六年(一六〇一)とされる第1553号には、さらにうれしい便りがある。[22][23]
「去年夏之比給候鳥犬、于今令秘藏候」
去年の夏ごろにもらった鳥犬を、いまも大切にしています――。前久はそう伝え、義久を指す龍伯からもらった犬や、子犬が生まれたことにも話を及ぼす。「秘蔵しています」という言葉に、子犬誕生の知らせまで続く。前久と島津家は、贈ったあとの犬の様子も、こうして書き知らせる間柄だった。
別の手紙には、以前にもらった黒い犬が病死したという知らせと、丈夫な犬一匹を求める言葉もある。手紙の犬には、贈られる瞬間だけでなく、育てられ、子が生まれ、病む時間がある。前久の便りは、そうした暮らしの続きを伝えている。[24]
手紙に残った、一匹ごとの手掛かり
白い犬が欲しい。手紙は届いただろうか。雄がいないので手配してほしい。子が生まれたから、二匹を送ろう。今回の書状には、そうした具体的な用件が並んでいた。
その間には、犬を飼う人、留守を守る人、希望を伝える人、犬を受け取りに向かう使者がいる。政治の大きな変化が続く時代にも、犬の世話をし、相手の希望を聞き、返事を待つ用事は、人の手で進められていた。
赤ぶちと黒ぶちを一匹ずつ、と書いた義弘の言葉は、その一場面をよく伝える。『旧記雑録』の中には、犬を欲しがり、大切にし、子犬を贈った人々の時間が、手紙の用件として今も息づいている。
史料・出典(注25件)
史料・出典
『旧記雑録』の引用は鹿児島県刊『鹿児島県史料』の翻刻による。年月日は旧暦、西暦は年次の対応を示す。冊子頁とPDF表示頁は区別した。原文の句読点を一部補い、現代語の説明は文意の要約とした。Web資料閲覧日:2026年10月12日。
- [1] 後編4-No.157 後編4-No.157、冊子53–54頁、正月九日付島津惟新〈義弘〉書状、福島正則宛。鹿児島県HPのPDF・表示60–61頁。年次注は「慶長十年歟」、傍注に「十一年ノ場ニアリ十年ハ誤カ」とあり、本稿は1606年推定を採る。呂宋犬の繁殖と二匹を送る旨の記述で、受領日は未確認。「呂宋犬」から現代犬種や親犬の渡来経路までは特定しない。 本文へ戻る:1 2 3 4
- [2] 後編2-No.295・後編2-No.302・後編2-No.296・後編2-No.328・後編2-No.334・後編2-No.356・後編2-No.367 根白坂は木城町「第二次高城合戦(根白坂古戦場跡)」。五月八日の泰平寺対面・降伏は後編2-No.295・302、冊子324・327頁、出仕済みの知らせはNo.296、324頁。五月下旬はNo.328、337頁(五月二十五日の義弘への大隅国宛行)、No.334、338–339頁(天正十五年補年五月二十六日、追加人質等の指示)。鹿児島県HPのPDFの表示10・13・23–25頁。家譜記事と書状を照合し、降伏後の処理を一日にまとめていない。犬の二状は下記No.356・367による。 本文へ戻る:1
- [3] 後編2-No.356 後編2-No.356、冊子348頁、六月十九日付桑山重晴・福智長通連署状、上井伊勢守〈覚兼〉宛、補年「天正十五年」。鹿児島県HPのPDF・表示34頁。本文に覚兼の唐犬の所持を聞いたことと秀長の所望、別に「猶以しろき唐犬之御事候」と記す。 本文へ戻る:1 2
- [4] 後編2-No.367 後編2-No.367、冊子351–352頁、七月二十日付福智長通書状、「嶋兵様 人々御中」〈義弘方〉宛、補年「天正十五年歟」。鹿児島県HPのPDF・表示37–38頁。白唐犬・白野牛の所望、既送書状や動物の有無への照会、届け先の相談。もう一人の「御同名右馬頭」の実名と、二人それぞれの所有動物の内訳は保留。 本文へ戻る:1 2
- [5] 後編2-No.356・後編2-No.260 「桑修」はNo.356の桑山修理亮重晴と照合。「伊下野」は後編2-No.260、冊子292頁の「伊集院下野守」〈久治〉注および県立図書館「古文書を見る・伊集院文書」から伊集院久治が有力。「郡山」は秀長の居城・大和郡山との文脈による比定。秀長の郡山入城は「豊臣秀長と大和郡山」参照。 本文へ戻る:1
- [6] 後編2-No.368 後編2-No.368、冊子352頁、七月二十一日付福智長通書状、補年「天正十五年歟」。鹿児島県HPのPDF・表示38頁。領地処理の連絡。本状に宛所の明示はない。 本文へ戻る:1
- [7] 後編1-No.1463 後編1-No.1463「上井覚兼日記」、天正十二年十一月晦日条、犬の記事は冊子956–957頁。鹿児島県HPのPDF・表示117–118頁。有馬方から預かった南蛮犬の進上・上覧と、その夜の占いを経て覚兼が飼うことになった経緯。上覧者は、前後で「太守様」と義弘の「武庫様」を区別する文脈などから義久とした。 本文へ戻る:1 2
- [8] 後編1-No.1463・後編2-No.356・後編2-No.367 本稿は、覚兼の南蛮犬と秀長の所望を、同じ所持者に関わる一連の話として紹介した。1584年の日記、1587年六月・七月の書状の犬が、すべて同一個体であることや、秀長への引渡しが実現したことまでは確定していない。 本文へ戻る:1
- [9] インターネットミュージアム「バンくん(みやざき歴史文化館)」、ミュージアムキャラクターアワード2016の館紹介。南蛮犬のモチーフと秀長の所望の逸話を参照。二〇二一年度の企画は福嶋一恵ほか「『宮崎市歴史資料館3館マスコットキャラクタースタンプラリー』の実施について」『宮崎文化振興協会研究報告書』42–44頁。 本文へ戻る:1 2
- [10] 筑後市観光協会「羽犬塚発祥の碑」、怪犬退治と秀吉の愛犬病死の二伝承。現在の駅名と読みはJR九州「羽犬塚駅」による。 本文へ戻る:1 2
- [11] 後編2-No.180 後編2-No.180「上井覚兼日記」、天正十四年八月朔日条、冊子215頁の「灰塚之町」。鹿児島県HPのPDF・表示3頁。現在の羽犬塚への比定は平凡社『日本歴史地名大系』「羽犬塚村」による。 本文へ戻る:1
- [12] 森岡浩「羽犬塚駅の駅名の由来」日本実業出版社、2016年2月29日。地名の音と漢字の当て方をめぐる、著者の仮説として紹介した。 本文へ戻る:1
- [13] 後編2-No.1391 後編2-No.1391、冊子812頁、十月二日付、嶋津兵庫留守居中宛、補年「文禄三年歟」。鹿児島県HPのPDF・表示100頁。発給者は鹿児島県HPのPDF(同巻目録967頁)の「豊臣秀次朱印状」に従う。楠瀬慶太「虎皮考」『比較社会文化研究』25、2009年、47頁は同文書を秀吉朱印状と呼び、比定の不一致は残る。同論文も鹿喰犬を猟犬と解するが、今回の文書は具体的な使用場所を述べない。 本文へ戻る:1 2 3
- [14] 後編2-No.1563 後編2-No.1563、冊子900頁、七月十日付、補年「文禄四年」。鹿児島県HPのPDF・表示43頁。同巻目録971頁は豊臣秀吉朱印状とし、本文宛所の注は義弘に比定する。関白の高野山移送を知らせる書状で、七月十五日の切腹の事後通知ではない。 本文へ戻る:1
- [15] 後編2-No.1569 後編2-No.1569、冊子902–903頁、七月二十日付龍伯〈義久〉書状、又八郎〈忠恒〉宛、補年「文禄四年」。鹿児島県HPのPDF・表示45–46頁。帰国予定と当分の在京を説明する第二条による。「臥見」は伏見として紹介。在京を誰が指示したかまではこの文面から確定しない。 本文へ戻る:1
- [16] 最上義光歴史館「最上家をめぐる人々#6【駒姫/こまひめ】」および「館長の写真日記・2023年7月14日」。秀次の七月十五日切腹、八月二日の家族らの処刑と駒姫の被害を参照。 縁談の経緯は、山形文化遺産活用事業実行委員会「最上義光歴史館 ~山形城、そして義光公と駒姫~」CP.No.04「駒姫」の悲話の紹介も参照。上洛後、秀次に対面する前に事件に遭ったという話は、歴史館の前掲解説が紹介する瑞泉寺の縁起による。これらの経緯は、伝承を含む話として本文に紹介した。 本文へ戻る:1
- [17] 『多聞院日記』第5巻、辻善之助編、三教書院、1939年、12–15頁(国立国会図書館公開画像・コマ17–18)などを参照。未発見という結論は、検証メモに記した閲覧・検索範囲に限る。 本文へ戻る:1
- [18] 後編4-No.49 後編4-No.49、冊子15頁、四月二十七日付伊藤左馬頭書状、羽陸奥守〈忠恒〉宛、補年「慶長十年」。鹿児島県HPのPDF・表示22頁。雌は秀頼方に既存、雄が不足。三、四匹は忠恒方の所持に関する伝聞、追伸の一匹は伊藤自身の希望。 本文へ戻る:1 2 3
- [19] 後編4-No.49 『富田林市史 第二巻(本文編Ⅱ)』「彼方と西板持」、594–596頁は豊臣代官伊藤左馬頭と説明する。太子町「叡福寺【府指定史跡】」は慶長八年の聖霊殿再建奉行を伊藤左馬頭則長とする。No.49の刊本署名は「則□」で、時期・官途名・秀頼との関係から、この則長とみられる。 本文へ戻る:1 2
- [20] 国立国会図書館典拠「豊臣, 秀頼, 1593-1615」の生年から数え年を計算。最期は国立公文書館「大坂冬の陣・夏の陣」、慶長二十年五月八日。 本文へ戻る:1
- [21] 広島城「広島城の歴代城主」福島氏の項。秀吉への奉仕、関ヶ原での東軍参加、在城期間1600–1619年を参照。 本文へ戻る:1
- [22] 後編3-No.764 後編3-No.764、冊子391–392頁、六月二十二日付近衛前久書状、四位少将〈忠恒〉宛、補年「慶長四年」。鹿児島県HPのPDF・表示122–123頁。鳥犬への謝意と、雄・雌を合わせてよい子を得る希望。 本文へ戻る:1
- [23] 後編3-No.1553・後編3-No.764 後編3-No.1553、冊子781頁、九月五日付龍山〈近衛前久〉書状、四位少将〈忠恒〉宛、補年「慶長六年」。鹿児島県HPのPDF・表示98頁。前年夏の鳥犬の秘蔵、龍伯〈義久〉からの犬と子犬誕生。No.764の犬との個体同一性は確定しない。 本文へ戻る:1
- [24] 後編4-No.9 後編4-No.9、冊子3–4頁、正月二十四日付、「山」署名に「龍山也」の注、惟新〈義弘〉宛、補年「慶長十年歟」。鹿児島県HPのPDF・表示10–11頁。所望は「達者なる犬一疋」。黒犬の病死と差出人自身の老病は別の記述。 本文へ戻る:1
- [25] 秀長の1591年病没は「豊臣秀長と大和郡山」。秀次・秀頼は前掲注。正則の1619年移封はGo NAGANO「福島正則屋敷跡」、1624年没は広島市「福島正則没後400年記念事業」。囲みの年差は受領からの実経過期間ではない。正則状を1605年と比定する場合は移封まで14年、没まで19年となる。 本文へ戻る:1
このコラムの依頼内容と制作について
管理人からの依頼内容(要約)
『旧記雑録』に残る島津家と豊臣秀長・秀次・秀頼、福島正則の犬のやり取りを調べ、手紙の内容とその背景を紹介すること。秀次事件後の犬の行方や島津家への影響、羽犬塚の伝承・地名にも目を向け、「不幸のワンワンでは?」という管理人の早合点には、史料に沿って付き合ってもらうことを依頼しました。
企画・依頼・改稿方針:旧記雑録ガイド管理人
初稿作成:Codex/gpt-6-astra ウルトラ