島津国史
年月日未詳 / 冊子 1頁
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す。
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年月日未詳 / 冊子 1頁
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
弘治元年正月、蒲生・菱刈・渋谷方の偽降によって北村城戸口で島津軍が伏兵に遭った際、川上久朗が入来の寺尾左衛門と長刀・鑓で戦った経緯と、折れた鑓が後世に伝わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
天文廿三年二月六日 / 冊子 4頁
島津貴久が出陣は私事ではなく国務と防戦のためであると述べ、神威による敵の退散、武運長久、息災延命、将兵の安穏を祈願する。敵城を速やかに制圧できれば神領を寄進すると誓う願文。
年月日未詳 / 冊子 4頁
天文二十四年三月二十七日の帖佐麓合戦と高尾への進出、四月二日夜の帖佐・山田からの敵方退去、七月二十五日の渋谷・蒲生勢との戦いを記す。東郷将監・白濱をはじめ東郷勢に多数の戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁
天文二十四年から弘治元年にかけ、帖佐・吉田・北村・蒲生などの戦闘で討死した島津方の者を、日付・戦場・所属とともに列記する。個々の戦死状況や『蒲生山本氏日記』による異同注記も含む。
年月日未詳 / 冊子 5頁
弘治元年二月の日記として、吉田衆の蒲生方面での動き、若殿様の吉水への帰還、園尾・城ヶ崎・加治木春日山付近での戦闘と敵兵の討取りを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 5~7頁
弘治元年三月の軍事情勢を日次で記し、吉田衆・平松勢などの交戦、帖佐・新城・山田・蒲生周辺の出兵、夜襲、放火、使者の往来、敵味方の死傷や捕虜の情報を収める。
年月日未詳 / 冊子 7~10頁
弘治元年四月の日記として、帖佐本城・新城・山田をめぐる攻防、島津方諸勢の参陣、放火、夜襲、使僧・使者の往来、兵糧・人数の動員、敵味方の討死や退却を日付順に詳記する。
年月日未詳 / 冊子 10頁
弘治元年三月、島津方が帖佐別府川・山田・高尾で渋谷勢と戦い、敵を多数討ち取った経緯を記す。四月に帖佐・山田を確保し、七月には渋谷・蒲生勢の襲撃で東郷勢に多数の戦死者が出たこと、十二月に蒲生の新城が放棄されたことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 10~11頁
弘治元年春、平松城を拠点とする島津方が帖佐を攻めた経緯を記す。三月二十七日、軽鋭の歩卒五人が高樋口で敵一人を斬り一人を捕え、島津尚久らが牛渡で敵を遮断して追撃、計二十六の首級を挙げた。尚久は城下放火の際に神社仏閣を厳しく保護した。四月二日夜、帖佐・新城・山田の敵が祁答院へ退去し、島津方が掌握した。
年月日未詳 / 冊子 11頁
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田の敵が退去した。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 11~12頁
天文二十四年三月以降の帖佐別府川・平松・山田・高尾などの戦闘を記す。島津方諸勢の出陣、敵兵の討取りと味方の戦死、帖佐・新城・山田の確保、北郷・根占・肝付勢の来援をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 12~13頁
三月二日の帖佐別府川合戦、同八日の加治木・溝辺・日当山・長濱勢の山田出陣などを回想する。島津忠辰らの奮戦、敵味方の討死、帖佐方面への追撃、北郷・根占・肝付勢の来援を記す。
年月日未詳 / 冊子 13頁
帖佐別府川の対岸に薩摩勢、岩之獄に大隅勢が伏せ、大隅勢が敵を多数討って帖佐麓を突破したため、帖佐・山田・蒲生新城が放棄された経緯を記す。島津貴久父子が城へ入り、肝付・祢寝が参上。蒲生新城には吉田衆が先着し、貴久の弟尚久が守備した。のち尚久への所領給付や日当山・東郷の支配予定にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 13頁
『貴久公御譜中』に収める島津貴久の立願四箇条。一国無事のための調義、一国を久分とすること、二三国で弓矢を励ますことを掲げ、第四条は原文『しら國可相様事』と記す。第四条には割注があり、語義を推測で補わず原文表記のまま記録する。
天文廿四年四月九日 / 冊子 13頁
島津貴久が今回の弓箭について特に神慮を仰ぎ、蒲生の処置を神意に任せることを立願する。御鬮の結果が第一なら出陣、第二なら現状どおりとする旨を定めた条々。
天文廿四年四月廿七日 / 冊子 13~14頁
前日の蒲生との戦いを踏まえ、重ねて祈念を頼み、蒲生に関する懸案が早く解決することなどを願う立願条々。
天文廿四年四月廿八日 / 冊子 14頁
北原方の者について、召し出すべきか退けるべきかを御鬮によって判断したいとして、祈念を依頼した書状。以前の立願が成就したことを踏まえ、今回も改めて立願する意向を伝える。差出人・宛所は本文中に明記されない。
五月廿七日 / 冊子 14頁
島津貴久が天理禅師に、上洛以来便りがないことを遺憾に思うと述べ、学問に精励しているものと推察し、早い下向を待っていると伝える。あわせて些少の品を贈った短い書状。
年月日未詳 / 冊子 14~16頁
弘治元年五月の日記として、山田・新梓・松山口などでの戦闘、使者・使僧の往来、敵味方の討取り、火矢や鉄砲の使用、島津方諸勢の出陣と帰陣を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年六月の日記として、新梓・山田・吉田方面の戦闘、伏兵、敵兵や馬の討取り、塩硝・火矢の使用、若殿様の鹿児島帰還などを記す。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月の日記として、吉田方面への火事・出兵、新梓勢との戦闘を記す。七月二十五日には渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、東郷将監・白濱らが戦死した。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月二十五日、渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、島津方が迎撃したが東郷勢が敗れ、東郷将監・白濱ら多数が戦死した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 17頁
弘治元年八月の日記として、帖佐・吉田・郡山・新梓周辺での敵兵の討取り、伏兵、出兵、放火、横尾口への進出などを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁
天文二十四年から弘治元年の戦闘における島津方の戦死者を補記する。九月五日の新納尾張守忠征・新納河内守忠照、十一月十六日の本田宗左衛門、十二月五日の前田長門守らについて、日付・所属・従者の戦死を列記する。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年九月の日記として、蒲生横尾口への出役、敵との交戦、新梓への出兵、吉田勢による敵兵の討取りを記す。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年閏十月二十四日、新城勢が横尾口に伏せたが敵に察知され、伏兵を包囲されたものの打ち破って全員無事に退却し、貴久父子が吉田まで出た。翌二十五日、吉田衆五人が蒲生横尾口で敵二人を討ち、十五、六歳ほどの童子一人を生け捕った。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年十一月十六日、新城勢が伏兵を置いたが敵を誘い込めず、伏兵が起つと横尾塁まで追撃した。その後、敵の反撃で味方約二十人が負傷し、吉田衆の本田宗左衛門は火矢を受けて即死、伊集院掃部助も深手を負った。三十日には山田の足軽が松坂浦で敵一人を討った。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
補陀洛渡海を試みた日秀上人は舟も身も滅びず琉球の浦へ着き、国人から霊妙として尊崇された。その後薩州坊津へ戻り、琉球の珍材を用いて一乗院の堂塔を補修し、多宝塔を建立して五仏を安置した。島津忠良・貴久・尚久らを大檀那とする各仏像心柱の銘も収める。
年月日未詳 / 冊子 19頁
天文二十四年、島津忠良が日秀上人に坊津一乗院で多宝塔を建立させ、五仏を安置した。十月十二日、現住頼忠法印に仏像心柱の銘を書かせ、五仏のうち阿閦仏一体は島津尚久が檀那となったことを記す。
天文廿二年十一月吉日 / 冊子 19頁
大隅正八幡宮の正座主白敬が参籠・祈祷の供物を定め、大旦那島津貴久の息災延命、子孫繁栄、武運如意、怨敵退散、国家泰平を祈願する願文。
年月日未詳 / 冊子 19~20頁
祁答院方の松坂城攻略を詳述する。天文二十四年十一月十八日、雪中に守兵が市へ出た留守を突き、梅北宮内左衛門尉が先登して城戸を破った。十八歳の島津忠平は矢五、六本が具足を貫いても負傷せず、大太刀で敵を斬り、味方は城主中村父子三人以下数十人を討って落城させた。忠平の小城権現への祈願と神助、周辺諸勢の反島津連携も記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治元年十二月の日記として、新梓勢の狩野での伏兵と横尾口の戦闘、前田長門方の戦死、川野辺・蒲池方面の討取り、郡山での交戦を記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
弘治二年正月十六日 / 冊子 21~24頁
弘治二年正月十六日に催された『何船』を発句題とする連歌一巻。船出・旅・浦・松・月・雪・花などの景物を取り合わせ、貴久・義久らを含む参加者が句を継いでいく。
弘治二年二月 日 / 冊子 24頁
加世田今泉寺の鐘に刻まれた銘文。大檀越の日新在家菩薩(島津忠良)と勧進衆の名を掲げ、鐘の功徳によって罪障を除き、寺門と法灯が永く保たれることを願う。
年月日未詳 / 冊子 24~25頁
弘治二年三月十五日、島津貴久が蒲生城の支塁・松坂塁を攻めた。梅北国兼が諸兵を督励し、二男忠平は三尺の剣で城門を破り、城壁を越えて現れた強敵を斬って初めて首級を挙げた。退いた後、鎧に敵矢五本を受けていたことが判明し、当時二十二歳という。十月十九日の松坂落城、十一月以降の蒲生包囲と菱刈援軍も記す。
年月日未詳 / 冊子 25頁
弘治二年三月十五日の松坂塁攻撃を義弘(忠平)の伝記として記す。梅北国兼が先陣を切り、兄義久と忠平が三尺の剣を提げて城門・城壁を攻めた。敵の勇士に名乗って斬り合い、忠平が首級を得る。退却後、鎧に五本の矢を受けていたと判明したが、身に負傷したとは記さない。当時二十二歳で、これが初首だった。
年月日未詳 / 冊子 25~26頁
弘治二年三月の蒲生城・松坂方面の合戦に従軍した島津方将士を、所属や組ごとに列挙した交名。攻城戦に参加した家臣団の構成と動員の広がりを示す。
年月日未詳 / 冊子 26頁
蒲生・松坂方面を中心とする合戦で討死した者を、戦場や日付とともに掲げる戦死者名録。島津方の損害と各地の戦闘経過を人名単位でたどることができる。
弘治二年四月六日 / 冊子 26~27頁
島津貴久が琉球国王からの書状と贈物に謝意を表した返書案。月泉和尚の往来にも触れ、今後の友好と音信を望み、返礼の品を贈る旨を伝える。
弘治二年四月六日 / 冊子 27頁
島津貴久の返書に添えた返礼品の目録。太刀・鎧・甲・扇子など、琉球国王へ贈る品目と数量を列記する。
年月日未詳 / 冊子 27頁
弘治二年正月の日記。朔日に吉田勢が蒲生方面で敵と火矢を射合い、五日に松山口の野へ放火、十一日には新城野頸に来た敵約六十人を吉田衆が追って戦い、出羽守の殿原一人が戦死した。二十九・三十日には吉田足軽が久木瀬口・蒲生面大渡で各一人を討ち、御中間弥八兵衛が高名を立てた。