渋谷重勝寄進状
延文二年正月廿日 / 冊子 1頁
渋谷重勝が、清色北方馬渡瀬竹下にある名四郎作一段と手作二段を寿昌寺方丈へ寄進し、今後の違乱・妨げを禁じた寄進状。
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延文二年正月廿日 / 冊子 1頁
渋谷重勝が、清色北方馬渡瀬竹下にある名四郎作一段と手作二段を寿昌寺方丈へ寄進し、今後の違乱・妨げを禁じた寄進状。
延文二年正月廿八日 / 冊子 1頁
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、左衛門少尉藤原師久を従五位下に叙する旨を伝えた口宣案。
延文二年正月廿八日 / 冊子 1頁
蔵人頭左中弁藤原時光が奉じ、従五位下藤原師久を従前どおり検非違使に任ずる旨を伝えた口宣案。本文にはNo.2と併せて師久公御譜中に載ると注記される。
年月日未詳 / 冊子 1~3頁
当山国長・楡井頼仲・肝付兼重が薩摩・日向で争った経緯を背景に、島津氏久方の山田弥九郎らの戦闘、横山城・志布志松尾城の攻防、兼重と頼仲の最期を記す。末尾に、頼仲が自害前に書き残した位牌表・辞世の偈頌と和歌を掲げる。
正平十二年二月十一日 / 冊子 3頁
博多ひいのかわ後家が、薩摩国鹿児島の西田村後迫にある屋敷・田六反など三か所を上山衛門五郎へ譲り、後家が下向した際の奉公や他者による違乱の排除を求めた譲状。
延文二年三月廿九日 / 冊子 3頁
治部大輔某が臺明寺衆徒に対し、凶徒退治を速やかに成就させるため、とりわけ祈祷に精励するよう命じた書下。
正平十二年四月十五日 / 冊子 3~4頁
島津氏久が西俣兵衛尉に、大隅国の反抗勢力を退治するため出陣するよう命じた書下。
正平十二年四月廿日 / 冊子 4頁
島津氏久が田代次郎に、大隅国串良院弁分上条・立小野村と鹿屋院内高隈村の弁分を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
正平十二年四月廿日 / 冊子 4頁
島津氏久が田代七郎入道に、大隅国串良院半分の地頭職を兵粮料所として宛行い、先例どおり知行して軍功を励むよう命じた宛行状。
正平十二年四月日 / 冊子 4頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
正平十二年四月日 / 冊子 4~5頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
四月十四日 / 冊子 5頁
島津氏久が比志島某に、大隅国退治を来る二十五日に決行すると知らせ、準備を整えたうえで事前に参上し、諸事を相談するよう求めた書状。
正平十二年四月廿八日 / 冊子 5頁
島津氏久が比志島太郎に、大隅国肝付郡内木志良村の地頭弁分と羽見村地頭職を兵粮料所として宛行い、一族らへ分配して先例どおり知行し、軍功を励むよう命じた宛行状。
正平十二年五月日 / 冊子 5頁
野田刑部左衛門尉某が、岩屋城退治以来の諸合戦と三月の濱陣合戦での軍忠を申告した。弟の宮内右衛門尉兼弘が負傷し、島津氏久が同所で見知ったことを挙げ、注進と恩賞を求める。
延文二年五月日 / 冊子 5~6頁
大隅国祢寝又五郎建部清増が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方を攻め、若党大夫房が負傷し、城を破って頼仲ら一族・若党数十人を討ち取ったとして証判を求める。
延文二年五月日 / 冊子 6頁
祢寝重種が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方の城を攻め破り、一族・若党ら数十人を討ち取ったとして、後代の証拠となる一見状を求める。
延文二年五月十九日 / 冊子 6頁
右京大夫一色直氏が武光三郎に、薩摩国日置庄古恒跡の田地二十町地頭職を勲功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた宛行状。
延文二年五月十九日 / 冊子 6頁
右京大夫一色直氏が市来彦七郎に、薩摩国日置内恒吉名の田地六町と若松の田地六町の地頭職を勲功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた宛行状。
延文二年閏七月一日 / 冊子 6頁
平重□が、佛法興隆・天下安平と子孫□・兆民快樂を願い、日向國南鄕下里永吉名内の水田伍段□を寶滿寺へ寄進した寄進状。水田伍段・子孫・差出人平重の後にある三つの□は原資料自体の空格であり、推測補完しない。
正平十三年八月十二日 / 冊子 6~7頁
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、子孫を含む第三者の違乱を禁じた連署去状。所領の落着後は日次公事を停止すると記す。
年月日未詳 / 冊子 7頁
正平十二年、島山直顕が志布志城を取り、楡井頼仲が胡麻崎城へ逃れたのち、祢寝清種らが同城を包囲・攻略し、さらに松尾城を攻めて頼仲を自害に追い込んだ経緯を記す。続いて田代次郎・比志島太郎への所領宛行や、伴兼里による大慈寺塔頭龍護庵への寄進を掲げる。
正平十二年八月十三日 / 冊子 7頁
伴兼里が、玄源禅門・龍岳禅門の追善のため、肝付郡内浦下方小串村の田地を四至境目とも先例どおり大慈寺開山塔頭龍護庵へ寄進し、子孫による違乱を禁じた寄進状。
延文二年九月四日 / 冊子 7頁
冒頭に『しまつのはんくハん□され候もんその事』とあり、酒勾貞阿がその文書を弥阿弥陀仏のもとへ預け置き、文書が御沙汰に入ったため受け取った後、用が済めば元どおり返すと証した。長方形の□部分は原資料に印刷された欠損・空白として、そのまま保持した。
正平十二年九月廿日 / 冊子 7~8頁
島津氏久が吉田若狭守に、正八幡宮へ寄進された大隅国岩河村三分二について下地を知行させ、土貢は御供・祈足のため御供所へ進納するよう命じた書下。
正平十二年 / 冊子 8頁
延文二年九月、島山直顕が日向六笠に籠城し、菊池武光が攻撃するとの風聞があるなか、島津師久が加治木へ出陣した経緯を記す。渋谷一族が加勢を装って九月晦日に加治木城へ入り、師久と合戦になったため、師久が左近将監高元へ合力を求めたとする覚書。
十月五日 / 冊子 8頁
島津師久が牛深左近将監に、加治木へ出陣しようとした際、渋谷一族が島山直顕への合力を口実に郡司・一族を誘い、九月晦日に城へ入って合戦となったことを伝え、援軍を求めた書状。東郷にも連絡済みと記す。
延文二年十二月十三日 / 冊子 8頁
刑部少輔一色範親が土持冠者に、島津時久が旧来知行していた日向国新納院地頭職を兵粮料所として宛行い、いっそう忠節を尽くすよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 8頁
正平十三年、島山直顕が六笠城、子の重隆が三俣城に拠ったところ、菊池武光が島津方と和して攻撃し、三俣城を陥落させ、直顕父子を敗走させた経緯を記す。
正平十三年三月六日 / 冊子 8頁
征西将軍宮の意向として、渋谷九郎左衛門尉に味方へ馳せ参じて軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
正平十三年四月四日 / 冊子 9頁
島津氏久が鹿児島諏方大明神に、本意を遂げたなら郡内の田地一か所、小笠懸百番、神馬一疋を進納すると誓った立願文。
延文三年四月五日 / 冊子 9頁
島津道鑑(貞久)が弟の資忠に、大隅国本庄内財部院を永代に譲与し、御公事は惣領師久の支配と先例に従って勤仕するよう定めた譲状。本文注記は次号No.31と同一文書である可能性を示す。
延文三年四月五日 / 冊子 9頁
島津道鑑(貞久)が弟の資忠に、大隅国本庄内財部院を永代に譲与し、御公事は惣領師久の支配と先例に従って勤仕するよう定めた譲状。No.30と同文の別伝本として収録される。
正平十三年四月廿六日 / 冊子 9頁
柿木原隆実が、四月十四日の加治木院田間要害で中津峯河勘解由左衛門尉・国郡小太郎らと戦い、背中に傷を負った軍忠を申告し、注進・披露を求めた軍忠状。島津氏久が承認している。
正平十三年四月廿八日 / 冊子 9頁
島津氏久が、伊地知彦七の今度の合戦での戦功により願書の趣旨を認め、鹿児島郡伊敷村内の国引田一町を安養院へ寄進し、先例どおり領知して朝暮の祈祷を行うよう命じた寄進状。
正平十三年四月廿九日 / 冊子 10頁
伴兼世が岸良雅楽介に、大隅国肝付郡内岸良村の弁済使職について阿仏の譲りを認め、親子間で相談した分限どおり知行し、違乱しないことを契約した文書。
正平十三年五月一日 / 冊子 10頁
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷村の地頭職を給分として宛行い、先例どおり相違なく知行するよう命じた宛行状。
正平十三年六月十八日 / 冊子 10頁
征西将軍宮が樺山源三郎久清の馳参を神妙と賞し、さらに軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
正平十三年七月一日 / 冊子 10頁
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷・下田両村の地頭得分のうち三分の二を給分として宛行い、相違なく知行するよう安堵した文書。
延文三年七月廿九日 / 冊子 10頁
足利義詮が一色入道から使者を通じて九州の情勢を聞き、深く案じていること、近日こちらから使者を遣わして詳細を伝えることを知らせた御教書。
延文三年八月六日 / 冊子 10~11頁
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。
正平十三年八月十二日 / 冊子 11頁
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、第三者の違乱を禁じた連署去状。本文はNo.20と同文のため省略される。
延文三年九月四日 / 冊子 11頁
正八幡宮領家が、清直が御供所職を質券で売却して料田の御供を怠ったため職を収公したと伝え、買得人らから異議があれば名を注進させ、厳密に処置するよう命じた御教書。沙弥道順が奉じる。
延文三年九月十日 / 冊子 11頁
執印某が、質券で売却された御供所職について領家御教書の趣旨を執行し、権執印へ触れ、異議を申し立てる者があれば交名を注進させるよう命じた施行状。
正平十三年十月廿日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木弥四郎入道に、自方へ参じて忠節を尽くしたため、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
正平十三年十一月九日 / 冊子 11頁
島津氏久が姫木又次郎に、自方へ参じたことを受け、本領の知行に相違がないことを保証した書下。
正平十三年十二月二日 / 冊子 11~12頁
菊池武光が大慈寺での濫妨・狼藉を禁じ、違反者は罪科に処すと定めた禁制。
正平十四年正月十一日 / 冊子 12頁
伴基栄が、天長地久・国土安穏・万民快楽を祈って、日向国救仁院志布志条内の夏井・益倉村を大慈禅寺へ寄進した文書。
延文四年三月廿九日 / 冊子 12頁
畠山直顕が赤崎秦次に、大隅国岩河村内の本職などを元どおり領掌させ、いっそう軍忠を尽くすよう命じた書下。
延文四年四月五日 / 冊子 12頁
島津道鑑(貞久)が松浦女房へ、薩摩国山門院内の三箇村・脇本村と河辺郡内嘉古村を譲り、女房の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。
延文四年四月五日 / 冊子 12頁
島津道鑑(貞久)が大輔局へ、薩摩国山門院内青木原村を譲り、大輔局の一期後は惣領師久へ返付すると定めた譲状。