上井仲五兼政請文
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
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年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
天正20年4月26日 / 冊子 551~552頁
高麗へ渡る軍勢のうち兵粮のない者へ切手に応じて三人扶持を渡すこと、帰住した百姓・町人には米銭を相応に支払い、勝手に物資を取らないことを定めた掟書。留守宅の財物管理、犯罪者の上申、誓紙による法度遵守も命じ、占領地での補給と住民・財物の扱いを具体的に規制する。
年月日未詳 / 冊子 457頁
天正十八年の小田原陣に続き、天正十九年正月の貴明公の下向、同年九月の松齢公の伏見からの帰国と人質番組を列挙する。 さらに同年冬の高麗渡海命令、十二月に貞明公が名護屋へ加わったことを記し、豊臣政権下で島津家が相次いで軍事動員を受けた経過を簡潔にまとめた覚書である。
記事 / 冊子 494頁
天正十九年、九州衆が名護屋の普請に動員された際の樺山紹剣の自記。武庫様が高麗渡海の支度と普請を進めるなか、紹剣が先に奉公を果たし、帰国や今後の出仕をめぐって指示を受けた経過を記す。朝鮮出兵を目前にした築城・渡海準備と家臣の奉公調整を当事者の言葉で伝える。
(天正19年)12月14日 / 冊子 521頁
豊臣秀吉が島津修理大夫(義弘)へ、鉄砲以下の武具を整え、国元に残した奉公人も召し連れて来春の高麗渡海に備えるよう命じた朱印状。留守居・妻子・扶持方・人数を帳面にして墨付を取り、帰朝まで統制するよう指示し、詳細は浅野長政・石田三成・石田正澄から伝えるとする。
(天正19年)12月28日 / 冊子 522~523頁
豊臣秀吉が、来る三月の高麗渡海と仕置に備え、浅野長政の渡海時に島津義久も同時に渡るよう命じる。新納武蔵は妻子を京都へ差し出したうえで義久に従軍させ、大隅・薩摩・日向に残す留守居の妻子も調査して京都へ置き、在陣者を帳面に載せるよう指示する。渡海しない侍を厳罰に処すとした、出兵と人質管理を一体化した朱印状。
天正20年5月6日 / 冊子 562頁
島津義弘が、高麗渡海を果たした船頭の働きを比類ないものとして褒賞し、帰国の際には栗野へ出頭させるよう本田紀伊入道へ命じる。 No.884と同趣旨ながら宛先が異なり、複数の担当者へ船頭の功績と褒美方針を周知した書下である。
天正21年正月4日 / 冊子 662~663頁
高麗渡海を「一大事」と捉え、無事に帰朝して成就できるよう祈願し、金峯山で千句を興行して奉納すること、鎧一領と長太刀を寄進することを誓う。 朝鮮出兵に際し、島津義久が武具奉納と文芸的な千句興行を組み合わせて戦勝・帰還を祈った寄進状。本文は冊子662頁末から663頁冒頭へ続く。
慶長三年(四月) / 冊子 203~204頁
島津家久の事書案。留守居の談合衆は諸事を容赦なく法に従って処理し、公領の町・浜に住む者へ公役を怠りなく課すこと、船役は船奉行が現地で船を確認して命じ、高麗渡海船の選定に贔屓・偏頗がないよう入念に行うことを定める。鹿児島衆には従前どおり普請へ出るよう命じ、怠惰や難渋があれば役人が厳しく申し付けて言上すること、代官衆の公役、濱市・帖佐・鹿児島三方の協議による決定も規定する。
慶長三年 / 冊子 307頁
島津家久が、領国留守中の行政・公役・船舶運用について定めた事書案。留守居の協議では容赦なく法度を施行し、公領内の町・浜の住民に公役を滞りなく負担させるよう命じる。船奉行は船元に出向き、高麗渡海船をえこひいきなく監督すること、鹿児島衆は従前どおり普請に出ること、怠慢者や難渋者を報告すること、代官衆は公役を確実に実施すること、濱市・帖佐・鹿児島の三者が協議して決定することを規定する。
7月15日 / 冊子 80~81頁/原整理番号 63の21
長谷場純知が塚脇次郎右衛門尉へ、又八郎の高麗渡海に備え百石につき五尋の火縄を調達し、十七日に持参するよう求める。火縄五尋十五文、三分出銀は鳥目七十五文と定め、出銀の今日限りの受取りを念押しする。高麗立の人組を知る二人も火縄とともに来るよう求める。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
〔天正十九年〕十二月十四日 / 冊子 356頁/原整理番号 6
豊臣秀吉が島津義久に、翌春の高麗渡海に備えて鉄砲以下の軍備を整え、留守居や妻子らの質人を手配するよう命じる十二月十四日付の朱印状。
(天正廿年)五月五日 / 冊子 296~297頁/原整理番号 72
島津義弘が高麗渡海直後に川上忠智へ送った書状の抜書を掲げ、伊集院幸侃への警戒を読み取る。季安はその後の本願寺との接触や家中の事情を引き、一向宗禁制の理由を考える。
天正20年5月6日 / 冊子 562頁
島津義弘が、渡唐船が一艘も戻らない状況下で高麗へ渡海した船頭の働きを「粉骨無比類」と評価し、帰国時に栗野へ出頭させるよう伊勢長門入道へ命じる。 危険な朝鮮航路を担った船頭への褒美を約した書下で、渡海船員の功績認定を具体的に示す。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 585頁
豊臣秀吉が、義久の到着前に梅北一類を捕らえて首を差し出した処置を認め、残党への警戒と厳罰を徹底するよう島津修理大夫入道へ命じた朱印状。家道院・兵庫頭の従前の赦免にも触れつつ、高麗へ渡る本人は助命しても、家中の悪逆者は十人・二十人でも斬首して進上せよと迫る。本文末の文禄元年七月十七日付に基づき、梅北一揆後の処分を秀吉が直接統制した厳しい命令として位置づけられる。
文禄3年2月10日 / 冊子 766~767頁
後陽成天皇が大閤・豊臣秀吉へ、近衛信尹(前左府)が高麗への渡海を志しているとの話を聞き、摂家の家統が絶えかねないと案じて、思い止まらせるのがよいのではないかと意向を示した宸翰。 末尾には、この件によって信尹が勅勘を蒙り、配流にまで及んだとの注記がある。朝鮮出兵期における天皇・秀吉・近衛信尹の緊張関係を伝える史料である。
文禄3年3月10日 / 冊子 770~771頁
義弘が、又八郎の秀吉への謁見が済んだかを尋ね、石田三成の後押しにより近日中に実現することを待ち望む。謁見後は高麗へ渡る予定で、若輩の在陣を支える供衆の手配も頼む。 又八郎は生来の下戸なので、座興を損ねても酒を一切口にさせないよう強く依頼する。源次郎の健康にも触れた、父親としての細かな心遣いが際立つ書状。
(慶長五年)三月三日 / 冊子 517~518頁
朝鮮人らが島津義弘に、朝鮮王の虐政で民衆が困窮していると訴え、朝鮮人捕虜一万人を集め、王孫李亀生を奉じて日本の威勢を背景に高麗へ渡り、旧来の苛政を改める構想を上申する。成功後は毎年聘礼を通じて和睦するとし、薩摩単独で難しければ徳川家康へ申し入れるよう求める。
〔延宝五年〕九月二十五日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 1
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
(天正20年)2月27日 / 冊子 532頁
高麗渡海を急ぐ秀吉が、小西行長・対馬守宗義智を先行させ、島津義弘にも対馬へ着陣するよう命じた朱印状。四国衆を壱岐に置き、異国相手に手ぬるくしてはならないと戒め、秀吉自身の出馬が遅れても早船で名護屋へ向かうので、油断なく準備するよう督促する。
(天正20年)4月19日 / 冊子 550~551頁
秀吉が高麗渡海に用いる九州・四国・中国の船団に対し、諸将が相談して一斉に海を渡り、高麗側の舟着場へ陣取って注進するよう命じた朱印状。順風を十分に見極めて越度のないよう慎重に渡海することを求め、先勢の行き詰まりを受けて秀吉自身が四月十九日に小倉へ着いたことも知らせる。
(文禄元年)6月21日 / 冊子 572~573頁
麻植長通が、梅北国兼・田尻荒兵衛の逆意と佐敷での鎮圧を報じ、妻子の成敗のため龍伯と細川幽斎が薩摩へ向かうことを伊勢雅楽入道へ知らせる。 一揆が朝鮮渡海軍の遅参を招いたことを嘆き、義久・義弘・久保ら島津父子の高麗渡海を急ぐよう求めており、梅北一揆と出兵動員の直結を示す書状である。
年月日未詳 / 冊子 81~82頁/原整理番号 63の23
文禄元年三月から七月の移動と高麗渡海を記す。大口出立、久保・義弘の渡海、船不足での御供不能、船の雑作と荷積み、金山浦着船を記録する。馬船不足で徒歩随行する者の悲哀、遅れての乗馬到着、増水した川の渡渉、雨中の移動にも触れる。伝聞を示す「云」の記述を含む。