飯野剣大明神本仏裏書
弘治三年十一月廿二日 / 冊子 54頁
日向国真幸院飯野村の剣大明神の由来を記す。不動明王を本地として精舎・拝殿を建立し、毎年十一月二十二日に祭礼を行い、月三回の市を開いたこと、北原氏民部少輔の武運・家門繁栄・領内安全を祈る。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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弘治三年十一月廿二日 / 冊子 54頁
日向国真幸院飯野村の剣大明神の由来を記す。不動明王を本地として精舎・拝殿を建立し、毎年十一月二十二日に祭礼を行い、月三回の市を開いたこと、北原氏民部少輔の武運・家門繁栄・領内安全を祈る。
慶長十年十一月十一日 / 冊子 40頁
慶長十年十一月十一日に飯野白鳥権現の宝殿一宇を造立した棟札。祭神の本地・垂迹を述べ、大檀那として島津忠恒・義久・義弘を掲げ、座主・木屋奉行・大工・塗師・鍛冶など造営関係者を列記する。
(天正六年) / 冊子 560~562頁
飯野東円斉が三郡の名士へ示した長文の置文。日向・豊後の敗亡は君臣の傲慢、法秩序の破壊、奢侈や武備軽視といった無道の結果だと論じ、薩摩の勝利は正道にかなうためとする。相良義陽の恩を受けつつも、違法者を罰して国家を長久に導くべきだと諫め、孔子・漢高祖・項羽・織田信長と今川義元の例を引き、賢者を遠ざけ無道を容れれば国を失うと警告した。
天正17年2月吉日 / 冊子 427~431頁
天正十七年二月吉日付で、飯野衆中に属する多数の武士を官途名・通称とともに列挙した大規模な名書上。 冊子427~431頁にわたり、有河・河田・上井・長野・黒木・池田・土持・伊地知など広範な家々を収録する。豊臣政権服属直後の飯野地域における家臣団の構成、同族名の分布、人的規模を調べる基礎史料で、細字の人名確認には特に注意を要する。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁
飯野士壱岐七右衛門家に伝来した写本をもとに、飯野衆中の諸士名を列挙した別系統の名書上。 冊子431~432頁にわたり、No.562と重なる家名を含みつつ人名の配列・収録範囲が異なる。飯野家臣団名簿の異本比較、同名人物の識別、系譜調査に利用できるが、細字のため個々の人名は要照合。
文禄2年5月吉日 / 冊子 703~705頁
飯野郷に属する各家・給人について、負担する穀物の石高・斗升、門や屋敷の数を一人ずつ列挙した穀役台帳。 迫間・柏原・中条・松田・山田など多数の村・屋敷単位で負担量を記し、文禄期の飯野における村落構成、年貢・軍粮調達、家ごとの負担差を具体的に検討できる基礎史料。
慶長十六年九月廿二日 / 冊子 349頁
慶長十六年九月二十二日、飯野狗留孫山権現の社殿造立を記した棟札。奉造立の趣旨、大檀那島津家久、朝臣・僧侶・大工など造営関係者の名を列記する。
寛永十年三月吉日 / 冊子 364頁
飯野白鳥権現の棟札。白鳥六所大権現宝殿一宇を再興し、島津家久を大施主・大願主、法印光盛を当座主、伊集院遠江守久族を物奉行として記した。
(天正15年)5月7日 / 冊子 319~320頁
島津義珍が、高原の城主・吉田某を庄内へ退かせる件と、高原・飯野の防備を指示した書状。飯野は手堅く保持し、高原は城が弱いため敵が埋草を用いて攻め寄せた場合の対応を説く。また日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原も同様に寄進するとの立願を示しており、軍事防備と信仰上の誓願が一通に併記される。
年月日未詳 / 冊子 832頁
「飯野衆中」から高麗へ御供する人々を、野田善右衛門重俊をはじめ、高麗に渡った者・各隊に付けられた者ごとに列記した書立。高麗・釜山・加徳島などでの配置先や、どの家臣の手に属したかが分かる。 書状ではなく、朝鮮渡海に動員された薩摩の将士を一人ずつ把握できる人員名簿。地域別の動員と島津軍の編成を調べる上で価値が高い。
慶長十八年四月廿六日 / 冊子 397頁
慶長十八年四月二十六日、鹿児島支配所の加増地として飯野杉水流村内の屋敷・田畠を所付ごとに石高・面積・名請人とともに列記した加増名寄帳。
三月十八日 / 冊子 69頁
川上忠智と新納長任が、長野織部佑に翌日高原へ赴いて京衆を取り持つよう求めた連署書状。隈内で問題が起きないよう随時出向き、馬・人夫を飯野公領から手配し、小林への通路にも配慮するよう指示する。
正保三年四月二十七日 / 冊子 42頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0073
加久藤噯所案文。二人が飯野御噯衆中へ、江戸で今月七日に犬追物が行われ、無事だったとの消息を伝える。別件として、出水の大狩に伴い加州様が菱刈の人数を召し集めて前日に出立し、伊主膳正も大口に逗留しているという。様子が不明なため鹿児島の新納刑部へ内証の飛脚を出し、その帰還は明日か明後日の見込みで、新情報があれば後で注進すると述べる。
(寛永二十一年)七月八日 / 冊子 18頁/原整理番号 14
加久藤の伊地知重延ら四名が飯野の曖衆中へ、十五歳から六十歳までの百姓・名字脇の者を一人一日銀七分で算用し、八朔に狩代銀を納めることを伝える。他家の被官でも在郷で耕作する者は納銀対象とする山奉行の指示を受け、行司衆に算用を任せる扱いを相手方にも尋ねる七月八日付書状である。
(寛永二十一年)八月九日 / 冊子 18頁/原整理番号 15
加久藤の伊地知重延ら四名が飯野の曖衆中からの返書を受け、狩代銀を行司衆へ任せる扱いに同意する。自郷で先に上納した分は庄屋が取りまとめ、八朔の礼に赴く者が納めたことを述べ、耕作する諸士の被官も対象にして残る上納を進めると伝える八月九日付書状である。
正保二年正月二十六日 / 冊子 108頁/原整理番号 18
加久藤側の曖衆四名が飯野曖衆中へ、須木へ向かった検地奉行らがいつ飯野へ着くか尋ねる。あわせて殿役奉行から追立・殿役・衆中・下人の人数を書き分けて急ぎ提出するよう命じられており、札改めと算者・筆者の賄いをどうするか照会する。
天正三年八月十一日 / 冊子 437頁
島津忠平義弘夫妻子女を大檀那として飯野一之宮大明神社頭一宇を再興した棟札。地頭・先地頭、大工、小工、導師、遷宮、祝など造営関係者を列挙し、天正三年八月十一日の年紀を記す。
年月日未詳 / 冊子 675~676頁
元和三年の大風で倒壊した日向国真幸院飯野村長善寺の客殿について、領主から日七十貫の助銭を受け、元和四年二月に着工して十一月十五日に再建を終えた経緯と関係者を記す棟札。
寛永二十年正月六日 / 冊子 103頁/原整理番号 11-1
三原重庸が飯野などの曖衆へ、御蔵入の井手溝・川除の普請について代官衆と相談し、丁寧に進めるよう命じる新春の廻状。
(寛永二十一年)三月十八日 / 冊子 16頁/原整理番号 9
吉田の御狩検者として薗田刑部左衛門・松岡長右衛門、飯野の御狩検者として奥野神介・上野半兵衛を地域別に記す人員書上である。
(寛永二十一年)九月二日 / 冊子 18~19頁/原整理番号 16
飯野の曖衆四名が隣郷の弓削将監らへ、毛検者や奉行が来る時期には互いに連絡し、手配を揃えたいと答える。あわせて白鳥山などの狩代銀について、諸士の被官の扱いと墨付を得て鹿児島へ差し出す方法を相手方に尋ねる九月二日付書状である。
正保三年九月十九日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 28
山奉行所が飯野御城山での御狩に向け、吉野・脇本・加治木・有川の宿次を経て、吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林などの衆中に日限と召集を伝えるよう命じる。追而書に狩の担当者名を掲げる。
寛永二十年正月二十一日 / 冊子 104頁/原整理番号 11-3
代官の岸良兼政が、飯野上江村の井手溝は前年秋の洪水で損なわれたため、曖衆・普請奉行に人員を出させて川除と溝掘りを先に進めるよう催促する。本人は別件を済ませて現地へ赴くと伝える。
元亀三年正月十九日~二月廿九日 / 冊子 263頁
壬申年の軍事記事として、正月十九日の小村で肝付方の兵船二艘を奪い岸良治部少輔以下約二十人を討ったこと、飯野・三山境で敵八人を討ったこと、二月二十日に廻・市成境の野伏で肝付越後守以下約二十人を討ち、同二十九日に境・二川を破却したことを列記する。本文の年号表記には矛盾がある。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年五月の木崎原合戦で、新納忠元が大口から兵を直ちに差し立てて島津義弘を援けたとする。後日、飯野城移徒の祝席へ向かう途中で盗賊を討ったため遅参した忠元に対し、義弘は事情を聞いて賞賛した。また祝いの席で火に通じる名を避けた刀を用いた心配りから、武事に限らず万事に配慮する人物と重ねて褒めたという逸話を載せる。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が飯野・加久藤方面へ侵攻した際、島津義弘が大将として戦い、伊東新次郎・伊東加賀守をはじめ一門・一家あわせて五百余人を討ち取って勝鬨をあげたと伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 281~290頁
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を見破った死苦村彦六左衛門と褒賞地、三徳真成の祈祷・調伏や後世の伝承・編纂経緯まで収める総合的な合戦記。
天正元年三月下旬~四月 / 冊子 304頁
天正元年、禰寝方が肝付氏から離反し、高洲を破って日向の警固船などを奪ったことを記す。三月下旬には野頸の米良美濃守・肥田木三郎兵衛・中山主計が野心を企て、召喚に応じると偽って途中から薩摩へ逃亡した。四月には野頸城を廃して城ヶ尾へ移し、関係者と足軽約四十人が飯野へ逃れた。
年月日未詳 / 冊子 308頁
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
天正十二年四月十九日以後 / 冊子 892~893頁
四月十九日、島津義久が八代から帰国する際、義弘に伊集院忠棟・平田光宗らと八代へ残り、肥前・筑後・肥後の調略を終えるよう命じた。義弘は任務を果たした後、八代を辞して飯野へ帰った。
天正二年閏十一月廿二日 / 冊子 348頁
飯野剣大明神の十一面阿弥陀・薬師尊像を新造した際の裏書で、大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁昌、院内安全、諸人快楽を祈る。本文年紀は天正二年閏十一月二十二日と読める。
天正二年閏十一月廿二日 / 冊子 348頁
飯野剣大明神の阿弥陀如来五躰・薬師・千手観音の計七尊を新造した裏書で、七尊の功徳により大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁栄、敵退散、一結衆の七難消滅・七福招来を祈る。
元和二年十二月廿七日 / 冊子 635~636頁
飯野西方寺の阿弥陀堂一宇を再興した際の棟札で、大檀那を島津家久、大願主を島津義弘と記す。
寛永四年十月廿五日 / 冊子 46~47頁
飯野狗留孫山の三所権現宝殿一宇を島津家久が大檀那・大願主として再興した際の棟札。遷宮導師、当地頭、木屋奉行、大工の名を列記する。
四月十九日 / 冊子 65~66頁/原整理番号 17-1
江夏慶右衛門が先祖江夏友賢の由緒を述べる。友賢が内裏で易占により病状を奏し、褒賞と環瓊先生の称号を受け、如雪親王から周易と餞別歌を授かったこと、島津義弘への忠節により三百石を与えられ、飯野・栗野・帖佐・加治木へ従った家の履歴を記す。
寛永二十年正月十日 / 冊子 103頁/原整理番号 11-2
殿役奉行らが飯野などの曖衆へ、御蔵入の井手溝・川除普請を今年も行うため、諸名を札のまま追い立て、代官木助右衛門・岸良清右衛門の下知に従って夫を差し出すよう命じる。
慶長五年二月朔日 / 冊子 412頁/原整理番号 151
飯野の黒木平左衛門方にある永源庵の覚書抄。天正七年七月七日に手形が出され、八月の水俣出陣では八十程の兵船が左敷・叶石から出たことを記す。他の二ヶ条は省略されている。慶長五年二月朔日付で、飯野永源庵の印がある。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が加久藤の大明寺口を破ったため、島津義弘が飯野勢を率いて木崎原へ進み、敵を繰り返し追い詰めた戦いを記す。上野隼人佐が伊東方の大将米良筑後守を討ち取った戦功を特記し、敵を小林郷まで追撃して多数の首級を飯野へ持ち帰ったとする。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
天正十二年八月二十九日 / 冊子 924頁
八月二十九日、義弘は義久の命で三州軍を率いて飯野を発し、馬越で軍議を開いた。龍造寺政家が秋月種実を介して和睦を求めたが、肥後・筑後の領地を差し出さない和睦は謀略の疑いがあるとして、八代の使者二人を留め、残る二人を島津方使僧と秋月へ戻して再回答を待つことにした。
天正十二年十月一日~晦日 / 冊子 942~951頁
天正十二年十月一日から月末までの日記。小代・隈部・辺春らの降伏と所領・質人を処理し、宇土・合志の諸将を饗応した。龍造寺・秋月との和睦と大友陣への対応を協議し、黒木援軍要請に対して使者による撤兵要求を選んだ。和睦成立後、諸軍は高瀬から八代へ移り、覚兼は佐敷・飯野を経て宮崎へ帰国し、各地で帰陣祝賀を受けた。
書上一〇六正保三年九月十九日 / 冊子 187頁/原整理番号 106
正保三年九月十九日付、山奉行所から吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林の郷中への書状。飯野御城山での御狩には衆中が取り計らって参加するよう命じ、日程は飯野と相談して定めるとする。狩奉行は弟子丸右京亮と伊地知主膳正であると追記する。季安は、百姓の狩立を免じ、衆中中心の狩りとなった例と注す。
正保三年三月廿六日 / 冊子 243~244頁/原整理番号 174-9
正保三年三月二十六日付の書付。加久藤で新たな役席が設けられる際の座次や、飯野・馬関田など近隣諸所との関係をめぐる異議と相談を記す。従来の取決めや過去の例を挙げ、関係者間で確認して裁定するよう求める。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
正保二年四月十日 / 冊子 238~239頁/原整理番号 173-6
四月十日付の廻状。十五日の沢原野御馬追に向け、馬籠と御桟敷の普請を翌日に行うため、各地の関係者に参加を命じる。悪天候なら翌々日に延ばすこと、奉行が吉松に到着した際には知らせることを伝える。
元暦一一年六月十五日 / 冊子 520~522頁/原整理番号 329-1
江平伝左衛門の覚書。島津家の合戦における諸将の動き、城や砦の攻防、兵の動員と戦功・戦死者を回想し、関係者への処遇を記す。