島津忠良書状案(No.315同文)
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
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(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
(永禄八年)四月 / 冊子 140頁
日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜んだ書状案。国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとし、わずかな進物を添えて披露を求める。
(天正14年)6月(9日) / 冊子 169頁
島津義久が進藤筑後守へ、前年十二月十三日付の書状を四月に受け取ったことを報告し、禁裏周辺の御殿整備と警固への尽力を喜んだ書状案。義久も助力したいが、国境各地で防戦が続くため直ちに上洛・奉公できない事情を説明する。京都側との関係を保ちながら、九州での軍事対応を優先せざるを得ない状況を伝える。
天文廿一年六月廿八日 / 冊子 899頁
進藤長治が樺山安藝守に、上洛後の滞在予定を問い、古市長門守のもとへ赴いて相談するよう求めた書状。
(永禄七年)六月廿八日 / 冊子 134頁
進藤長治が義久からの進物を目録どおり受け取り、官途が整ったことを祝した書状。烏帽子・大口の裏打ち・扇・匂袋などを贈り、自身が趣旨を承知して取り扱うと伝える。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
進藤長治が喜入季久の上洛を祝し、以前薩摩へ下向した際の厚遇を忘れていないと述べた副状。世上の事情と多忙で面会できないことを残念がり、具体的な用件は大泉坊へ伝えたとし、贈られた線香一把への礼を述べる。
(天正三年)三月五日 / 冊子 430頁
進藤長治が、島津家からの使者として不断光院が下向するため書状を送ったことを肝付越前守へ知らせる。詳細は自ら説明するとし、当地で使者を厚くもてなし、島津義久へ取り成すよう依頼する。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136頁
進藤長治が新納忠元に、古川主膳入道を御使として派遣することや、禁裏・近衛家周辺の事情を伝えた書状。 忠元がたびたび厚意を示していることに謝意を述べ、今後も近衛家への奉公を頼むとして、京都との取次役を果たしている。
〔天正14年〕12月13日 / 冊子 267頁
進藤長治が肝付弾正忠へ、使者として古川主膳入道宗以を下向させたことを知らせ、近衛家の御殿が禁裏近所へ移されたものの諸事が整わず難儀しているため、この機会に援助してほしいと依頼した書状。使者の取次と財政的支援を島津家臣に直接求めた内容である。
四月十六日 / 冊子 5頁
進藤長治が、御殿焼失への助成を求めて同族の左馬允を派遣したことを伝えた書状。別途送った書状の内容に従い、相手方が左馬允を馳走してくれるよう頼む。
四月十日 / 冊子 5頁
進藤長治が、同族の左馬允の上洛時に書状と唐糸一斤を贈られたことへ謝意を述べた書状。不断光院が帰国するので、相手方の家門で諸事を取り計らい馳走してほしいと頼む。
六月廿八日 / 冊子 5頁
進藤長治が、相手方の上洛後に連絡が途絶えたことを詫び、修理大夫の使者として古市長門守が上洛したと伝えた書状。修理大夫が筆を染めた短冊十枚を進上し、詳しくは後便で述べるとする。
三月五日 / 冊子 5~6頁
進藤長治が、家門の使者として不断光院が下向するので、添えた書状の趣旨を心得てほしいと頼んだ書状。貴国で諸事を馳走することは家門の祝着になるとし、修理大夫への取成しも求める。
三月十七日 / 冊子 6頁
進藤長治が、便がなく長く連絡できなかったことを詫び、両殿への取成しと近況の知らせを求めた書状。兵部大輔には別紙を送れないため伝達を頼み、詳しいことは新介から申し入れるとする。
三月九日 / 冊子 6頁
進藤長治が、使者として長く滞在した際に受けた種々の馳走と懇意へ謝意を述べた書状。家門への進物を披露し、祝着の旨を記した書状と、合点を得た一巻を進上すると伝える。
九月五日 / 冊子 6~7頁
進藤長治が、先に贈られた和歌への感謝を述べ、急便のため自作を返せないことを詫びた書状。予期せず下向した際の馳走と懇意に謝し、早速上洛して家門へ報告するとし、兵部大輔や光明寺寒汀齋らへの取次ぎも頼む。
九月廿六日 / 冊子 7頁
進藤長治が、懇ろな使者と種々の音信に謝し、龍山からの書状の趣旨を披露して返書を出したことを伝えた書状。好便がなく連絡できなかったことを詫び、家門が当地へ来るため距離が近くなることを喜び、詳報を後に期す。
十二月十三日 / 冊子 7頁
進藤長治が、使者の古川主膳入道を遣わしたことを知らせた書状。家門の御殿が禁裏近所へ移され、諸事不如意で調達が難しいため、助成と使者への馳走を頼み、家門の祝着になると伝える。
四月二日 / 冊子 8頁
進藤長治が、特別な用件はないが好便を得て消息を伝えた書状。相手方が以前上洛した際に進上した沈香は念入りに選ばれた良香で、家門がたびたび祝着の意を示していると述べ、京都で相応の用件があれば申し入れるよう勧める。
四月五日 / 冊子 8頁
進藤長治が、長く好便がなく音信できなかったことを詫び、前年の書状が届いたかを尋ねた書状。領国の無事と肥州方面の事が意向どおりに収まったことを祝し、機会があれば相応の取成しを頼む。
九月廿三日 / 冊子 52(本文は325参照)頁
進藤長治が、伊地知備前守の上洛に際して寄せられた書状と音信への礼を島津相模入道へ述べた書状。今後も京都での用向きに尽力することを約束する。本文はNo.753と同文のため本箇所では省略され、参照先本文で内容を確認した。
九月廿三日(永禄中ナラン) / 冊子 325頁
進藤長治が島津忠良に、伊地知備前守の上洛に際して届いた音信について礼を述べる。今後も京都での用務・奔走を肝要とする旨を承知し、自身もその意を心得て申し伝えるとした書状。
六月廿八日 / 冊子 348頁
進藤長治が島津修理大夫へ、進物を目録どおり受け取ったことと喜悦の旨を伝え、官途の件を取り計らうと述べた書状。烏帽子・大口の裏打ち、扇、匂袋などを贈る。
九月廿三日 / 冊子 403頁
進藤長治が、伊地知備前守の上洛に伴って白糸五斤を拝領したことに謝意を述べ、返礼として春日野百返を進覧した書状。
十二月十三日 / 冊子 643頁
近衛家の屋敷が禁裏近くへ移されるものの、諸事不如意で造営が難しいため、使者古川主膳入道への助成を取り次ぐよう依頼する。以前届けられた段子一端と自分への贈物にも謝した進藤長治書状。
六月廿八日 / 冊子 741頁
島津修理大夫の使者古市長門守が上洛し、近衛家門への贈物として御書と色紙二十枚を進上したので、その旨を承知して申し伝えるよう求めた進藤長治書状。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 128~129頁
近衛稙家が島津貴久の受領と又三郎義久の官途について朝廷・幕府へ取り成して文書を下したことを義弘へ通知し、必要があれば今後も取り成すよう求めた書状。詳細は進藤左衛門大夫長治が伝えるとする。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129頁
近衛稙家が貴久の受領と義久の官途について公武へ働き掛け、関係文書を下したことを新納忠元へ知らせ、必要時の取り成しを依頼した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 129頁
永禄七年三月、近衛稙家・前久父子の取り成しにより、貴久が修理大夫から陸奥守へ、義久が文三郎から修理大夫へ任じられた経過を記す。宣旨を進藤長治が持参し、忠元にも取り成しを求める両近衛家の判物が下され、家蔵された。
年月日未詳 / 冊子 129頁
永禄七年三月、近衛稙家・前久が島津貴久父子の官途を朝廷へ請い、十四日に貴久を陸奥守、義久を修理大夫に任じる宣旨が出たことを記す。その前日に進藤長治が忠元へ近衛父子の書状各一通を届けた。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛稙家が遠路のため無音となっていたことを詫び、貴久の受領と義久の官途を公武へ申し整えて文書を下したことを日新へ通知した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えたことを北郷時久へ通知し、その成就を祝い、必要があれば取り成すよう求めた書状。詳細は進藤長治が伝えるとする。
永禄七年十二月十五日 / 冊子 138頁
貴久が進藤長治の使者下向によって義久の官途が与えられたことを千秋万歳の慶事として祝い、義久から太刀一腰・馬一疋を受けた礼に、自身からも太刀一腰・馬一疋を贈った書状。自らの受領も過分の喜びと述べる。
十一月廿六日 / 冊子 643頁
京都で不慮の騒動が起こり、諸事に頼る先がないとして、この機会の馳走を頼み、詳細は進藤筑後守長治から伝えるとした近衛信尹書状。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129頁
近衛前久が貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を取り整え、文書を下したことを新納忠元へ通知し、今後必要があれば取り成すよう求めた書状。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛稙家が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途を整え、文書を下したことを川上左近将監へ伝えた書状。不断光院との内談に基づくとして、必要時の取り成しを求める。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 130頁
近衛前久が貴久の受領と義久の官途を取り整えて文書を下したことを川上左近将監へ知らせ、必要があれば取り成すよう求めた書状。
十二月十三日 / 冊子 642頁
禁裏近辺へ堂上衆の屋敷を移すことになったが、近衛家では諸事不如意であるため古川主膳入道を下向させたと知らせ、助成・馳走を依頼する。あわせて前年夏頃に段子一端を贈られたことを謝した近衛信尹書状。
年月日未詳 / 冊子 32頁
本田助之丞家蔵文書に収める、近衛信輔が庄内都城で興行した和歌会の作品群。「松蔭新涼」「秋日同詠松蔭新涼和歌」などを題に、近衛信輔、龍伯、大蔵少輔長治、左衛門尉長家ほか島津家臣らが、松陰・秋風・露・涼しさを詠んだ。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129(No.272同文)頁
No.272と同文として本文が省略された近衛稙家書状。貴久の受領・義久の官途を公武へ取り成したことを新納忠元へ伝え、必要時の取り成しを求める。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129(No.274同文)頁
No.274と同文として本文が省略された近衛前久書状。貴久・義久の官途を取り整えたことを忠元へ通知し、必要時の取り成しを求める。
天正十一年正月元日~三月十七日 / 冊子 765~791頁
天正十一年正月元日から三月十七日までの上井覚兼日記。鹿児島・八代・宮崎を往来しながら年頭礼、酒宴、諸将の会合、合志・阿蘇・隈本・田尻・有馬への使節と軍議、八代守備、義久の病気祈祷、南蛮僧追放、近衛家・幕府使者への応接を日次で記す。三月には秋月・龍造寺との和平、八代移転、田尻兵船などを忠平と評議した。
天正十一年三月十七日~五月二十四日 / 冊子 791~799頁
天正十一年三月十七日から五月二十四日までの上井覚兼日記。野村民部少輔殺害事件に関する村田経平らへの内密な処分と弁明、相良忠房の出頭、義久の病気と祈祷、八代の守将選定、日向帰国後の社寺参詣・普請・茶湯・狩猟を詳記する。田尻・有馬からの戦況報告、深江・安徳への援兵、十五町につき一人の軍役賦課も記す。
年月日未詳 / 冊子 919~920頁
竜伯・幸侃・貞親ら八名が、桜島、春の花、時雨、紅葉、鶴、月などを題材に詠んだ和歌をまとめる。 軍事・知行文書が続くなかで島津家中の文芸交流と季節感、各人の表現の違いを一度に比較できる貴重な詠草。
年月日未詳 / 冊子 351頁/原整理番号 50
近衛父子の吹挙によって貴久と義久が官途を得た際、忠元が取次を務めたことを記す。進藤左衛門太夫長治が取次の書類を持参し、忠元がその用件を取りまとめた。三月十三日付で近衛父子から銘と判物が下され、それを家に蔵しているという。
年月日未詳 / 冊子 351頁/原整理番号 51
近衛父子が貴久と世子の官途を推薦し、貴久が陸奥守、世子が修理太夫となったことを記す年譜。授官を述べる前日、近衛父子が進藤長治を使者として忠元に各一通の書状を贈ったという。
「永禄」(七年)三月十三日 / 冊子 352頁/原整理番号 53
先に連絡した用件を改めて伝え、修理太夫の受領と又三郎の官途について、状況に応じた取りまとめが肝要だと忠元に求める書状。詳しい内容は進藤左衛門太夫長治から伝えるとする。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136頁
近衛信尹が新納忠元に、前年秋以来の禁裏近辺と堂上衆の動向、家門をめぐる事情を知らせた書状。 古川主膳入道の件にも触れ、進藤筑後守からも詳細を伝えるとして、京都の公家社会の近況を島津家臣へ直接伝えている。