入来院重時屋敷宛行状
(文禄2年)6月吉日 / 冊子 706頁
上原にある屋敷一か所を入来院重時方へ宛てた、きわめて短い屋敷宛行状。 本文量は少ないが、所在地と給付対象を確認できる入来院家の所領文書。
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(文禄2年)6月吉日 / 冊子 706頁
上原にある屋敷一か所を入来院重時方へ宛てた、きわめて短い屋敷宛行状。 本文量は少ないが、所在地と給付対象を確認できる入来院家の所領文書。
四月一日 / 冊子 112頁
入来院家の世継ぎに弥一郎重高を望む意向を良縁と評価し、藤二郎妹との縁組話が平松方へ未通達であるうちに、船本に滞在する少将へ内意を伝えて了承を得るよう急がせた書状。
(天正十一年)八月一日 / 冊子 923~924頁
賀恵重時が伊集院忠棟へ、八朔の吉兆を祝い、祝儀として太刀一腰と織筋一端を進上した書状。しかるべき披露と取り次ぎを求める。
天正20年10月4日 / 冊子 608頁
入来院重時の知行方として、岩之上・宮之脇・宗楽寺・権門・木場田・上別当・市・洞辺・新開などの田地を、上田・中田・下田の等級と面積に分けて列挙する。 島津義弘の花押を伴い、田中氏に伝来した目録で、検地後に入来院氏関係の知行地を地点ごとに配分・確認した史料である。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、百石を田中源介へ遣わすことを入来院重時が認めた知行宛行状。 同日付の三通のうち最大の石高で、給付対象と数量を明記した家中の配分文書。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
天正21年正月23日 / 冊子 666~667頁
白下・赤下・上之原・田島山畑などに散在する田畠・屋敷を、地目ごとの面積とともに列挙して東郷助左衛門尉へ与える。 合計は二町一反二畝一分、米高二十石二斗五升三合三夕二才と算定されており、入来院重時家中の知行を面積と収穫高の両面から確認できる目録。
文禄4年10月6日 / 冊子 917~918頁
滝重時は上井仲五を介して京都での謁見や渡海、城替えの処置について指示を仰ぎ、遅滞なく進めたいと伝える。 加藤主計頭・毛利豊前守らの動向や現地の軍事情勢も報告し、使者から詳しく聞くよう求めた、朝鮮在陣中の長文連絡。
(慶長四年)七月晦日 / 冊子 410頁
入来院重時・平田宗増・新納為舟が阿多甚左衛門尉に、書状を拝領し、当地での勤番について特別に言葉を掛けられたことを謝する。内府の上使から庄内の件を島津方の存分に任せる旨が示されたのは大慶であり、今こそ軍勢を差し寄せる時機ではないかとして、この意向の披露を求める。
(慶長五年)三月七日 / 冊子 518頁
滝重時が伊勢兵部少輔に、志和利城の攻略に続いて六か所の端城が落去したことを祝し、都城もほどなく決着すると見込む。また天下太平となった後は上使の意向に従って伊集院源次郎を助命するのがもっともだと述べ、庄内平定後の披露を依頼する。
五月廿日 / 冊子 76頁
伊地知重時が新納仲左衛門尉に、兵庫様が無事到着し登城・目見得を済ませたことを伝えた書状。自身は十三日から中務殿と加治木で御道具改めに従事し、村田平右衛門尉へ家中の件を申し渡す予定であること、親族も無事であることを報じる。
十一月十五日 / 冊子 150~151頁
入来院重時が東助左衛門に、ある者へ持たせた一種の件は評判が悪いと聞くため差し置くよう伝え、自分に有利になるよう調法を依頼した書状。下総守の船が来た際に一札を預けたこと、遣わされた品への謝意、帰国時期が未定であること、木の子・舞茸の贈答、下総守・杢七郎の無事を喜ぶ旨を述べる。
十一月十五日 / 冊子 151頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書。所領の所在と面積を簡潔に示す。
年月日未詳 / 冊子 196頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書案。本文はNo.382と同文のため省略され、目録の日付欄は空欄である。
天正18年12月28日 / 冊子 487頁
入来院家の所蔵文書として、市比野名のうち納拾八谷津殿先に関する知行方を東郷助左衛門尉へ示した目録。入来院領内における土地の所在と給付先を短い記載から確認できる。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
年月日未詳 / 冊子 582頁
島津重時は初名を忠重、又六といい、天正元年に北郷時久の長女を母として生まれ、入来院弾正重豊の養子となって同家を継いだとする。慶長五年九月十五日に島津義弘(惟新)に従って関ヶ原に出陣し、敗戦後の帰国途中に敵と遭遇して同月二十三日に戦死、享年三十、法諱を雲庵定暁居士と記す。
年月日未詳 / 冊子 741~742頁
島津歳久一流の系図。忠隣室となった娘、忠隣戦死後に入来院重時へ再嫁した女性、北郷三久室から離別後に伊集院久洪へ再嫁した女性など、歳久の娘たちの婚姻・再婚と母方を記す。
十月三日 / 冊子 10頁
一色方面を念頭に置きながら事態が進まず日を空費していることを残念がり、相手方の動静をうらやむ心情を伝えた島津義久の書状。
二月廿五日 / 冊子 13頁
大屋形の命を受けて諸所へ軍事の手配を行い、兵庫頭と又六郎の役割について判断を求め、自身も明後日には出立すると伝えた書状。
十月三日 / 冊子 17頁
入来院氏文書に伝わる島津義久書状。本文はNo.21と同文のため省略され、一色方面の情勢停滞について述べる。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
永禄十年二月廿五日 / 冊子 162~164頁
「賦山何」を題として、島津義久・其阿・伯囿・珠玄・家久・忠元らが詠み継いだ連歌一巻。花、月、旅、恋、無常、仏道などを取り合わせた付句を連ね、末尾に各参加者の句数を記す。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 608-1
三舟浦の長崎商船から得た報告として、南蛮船2艘が番船に包囲され、江戸へ注進したものの上意は未到着であること、御政所衆2人が借用船で検分したことを伝える。各船は石火矢60丁を構え、1丁に3人を配し、積荷は玉薬のみという。出船時の召捕り、周辺国の大勢による有馬陣立同様の包囲、長崎町浜人が糧物を山へ運んだとの情報も報告する。目録年月日は『七月日』を維持する。
七月日 / 冊子 473~474頁/原整理番号 608-2
長崎の情勢を記した前文書を所次で送り、山田土佐守へ届けるよう中馬兵部左衛門・清田右京亮・木原兵左衛門に命じる添状。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
建久9年、正平6年12月23日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 62
薩摩国在国司・大前氏東郷斧渕氏の系図。敏達天皇の後胤・橘諸兄の苗裔とし、道胤は幼名菊王丸、東郷弾正少弼・左衛門尉、西前寺殿、法名慈寛を称し、東郷城に居住、建久九年に上洛して内裏大番を勤めた。道武は菊寿丸・兵衛尉・武蔵守、西前寺殿、慈光で、妻を山門院郡司秀忠の女とする。道義は平太郎・蔵人・弾正少弼・摂津守、斧渕を号し、西前寺殿・慈道。正平六年十二月二十三日に渋谷九郎重興が軍勢を催して戦った記事を伴う。道長は平次郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈法で、道張(山田)から道久・道宗(荒川)へ分かれる。道将は平六郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈徳で、道重へ続く。後半は道盛、道真(今村兵部太夫)と道時・道実(藤川)の系、道信、良道を掲げる。道信は大泉坊・不動院として平佐城・樋脇天神坊に住み三十五町を領し、法名仙香、八十二歳で没した。良道は源五郎・神力坊・不動院で入来院重時の家臣となり、子孫を入来院家臣・斧渕仁兵衛とする。
年月日不記(歴代の記事に天平・慶長・寛文等の年次を含む) / 冊子 620~625頁/原整理番号 110
平姓福崎氏の系図で、元正・聖武・孝謙天皇らから高望親王以後の平氏に至る祖先伝承を置き、福崎氏の歴代と諸分流をつなぐ。冒頭には聖武天皇期の大仏造立や行基・宇佐宮に関する記事も挟み、後段では重国以下の武家系譜に官途、婚姻、養子、出家・早世を記す。重継を『日本国中無隠兵大力』と伝え、重房・重時らの系線には島津氏への供奉、日州宮崎への下向、摂津での居住を載せる。重明の条には薩州谷山の宝動寺建立、後代には高城・入来院・鹿児島などの居住や地頭・役職、加治木・吉田・島津家家臣との婚姻を記す。古代王統に遡る由緒と、移住・奉公・養子による武家の家系継承を一冊の系図に併記する点が特徴である。
建長五年十二月廿八日 / 冊子 99頁/原整理番号 379
将軍宗尊親王家政所が、親高の五女に、大隅国祢寝院佐汰村内の田地・薗一所を、亡父親高の処分による配分地として早く領掌するよう命じた下文。別当陸奥守北条重時・相模守北条時頼らが署判する。建長五年十二月廿八日付。
「寛永十七年」五月廿三日 / 冊子 113頁
宮原景之ら三名が伊地知弥右衛門・谷口次郎左衛門へ、求麻表に変化がなく、佐敷・水俣の番手衆も従来どおりであると伝えた連署書状。相良内蔵の死去を聞いたこと、ある遺骨を高野山へ上らせるため前日に鹿児島を出て阿久根から出船したことを知らせ、追而書では相良喜平次の妻が京都から船で水俣へ到着したと報じている。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
記事成立日:未確認 / 冊子 540頁/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-A004
建長元年八月九日、将軍頼嗣卿が薩摩國阿多郡北方地頭職に補したと記す。 執権北條相模守重時と同陸奥守政村が連判した御教書一通を挙げる。 正文を家蔵すると述べる家譜の記事である。 左に記すとして三号文書を導入する。
年月日未詳 / 冊子 166~167頁/原整理番号 46
種子島氏と同じく藤原氏の跡を継ぐとする肥後氏系図。信基・信家・正信・信盛・正盛以下の系線を掲げ、信家には文永二年の切腹記事を付す。盛武は建久六年に大隅国守護代となり、先に日州穂北へ下着して一時居住した後、島津忠久に従って薩摩へ下り、東福寺城取懸を命じられ、下大隅九十五町を与えられたとする。信盛の代に下大隅山之城を取って居住し、後世は古江の知行を得て鹿児島府立野へ移り、古江氏を肥後氏一族とする由緒を記す。高盛―幸盛―盛垂の系線では盛垂が菱刈平城に住み、軍功により高城を与えられた。文明八年四月二十八日付の『肥後平盛高』頭注も載せる。末尾の盛家は周防介を称し伊集院谷口を領し、島津貴久に仕えて花棚村を与えられ、命を受けて日本国中を巡歴し、一国一部の大乗妙典を奉納した。盛吉は嫡家後嗣とされる。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
本文末年紀:建長七年十二月廿五日 / 冊子 650~651頁/原整理番号 〇五/整理ID TMP-OF-P04-D005
伊作庄預所側の重宗代盛景法師(刊本小字「法名淨空」)と、下司側の則純法師(刊本小字「法名念西」)代孫有純の相論条々を記す。 下司職について双方の申述と提出文書を検討し、常陸後家への召問を経て「可爲領家進止焉」と述べる。 続く惣公文・田所両職、給田、未進、作田、収納等の十五箇条を列挙する。 下司職が領家成敗である上は「非沙汰之限矣」とし、将軍家の仰せによる下知と記す。
三月二日 / 冊子 516頁
山田聖栄が、所領を得るため判物を携えて有力者へ披露するよう山田河内守に勧める。肝付兼重時代の知行、足利尊氏判、京都から島津貞久らへ下された文書など古い証拠を活用し、速やかに訴え出るよう促した書状。
4月16日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 183
其後御無音申移候、去年より我等事も御用に召され、弟子丸播磨守殿へ御用共候として、相調候事難成躰を述べる大迫尚信書状。旧記雑録後編五所収の長文書状で、浮世人帳や切支丹禁制、伊地知治右衛門重時の事績を論じ、卯月十六日、大迫権右衛門尉尚信から伊地知治右衛門宛で結ぶ。