帖佐方軍役究目録
慶長三年三月廿二日 / 冊子 201頁
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余とし、最終の三口合計を八万二千七十七石八斗四升八合四夕二才と記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長三年三月廿二日 / 冊子 201頁
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余とし、最終の三口合計を八万二千七十七石八斗四升八合四夕二才と記す。
年月日未詳 / 冊子 671-672頁
関ヶ原からの退路で島津義弘(惟新)に供奉した人々を、戦場御供衆・御道具衆・御小者・御鳥取などに分けて列挙した人数書上。伊集院半五郎、山田民部少輔、伊勢平左衛門、帖佐彦左衛門、木脇久作ら多数の名を収録し、張紙では慶長五年の関ヶ原退却時に路次を違わず供奉した人数と説明する。
閏七月廿八日 / 冊子 77-78頁
島津久慶と川上久國が、上様の下向に備えて当地から御道具衆二十人を御舟本まで差し上げたと知らせた連署書状。相手方にも手持ちの御道具衆を今晩から順次差し上げ、油断しないよう命じる。
二月五日 / 冊子 75頁/原整理番号 119
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌の御道具衆二人へ、黄門様から薩州様宛の書状を持たせるので披露するよう頼む。有馬から、松平伊豆守信綱が薩州様の出陣は不要と命じたとの報告があり、有馬からの書状も次飛脚に持たせたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 631-632頁
洲俣警備で島津義弘(惟新)は川の徒渉可能地点を裸の道具衆に調べさせ、竹を立てて安全な渡河線を示した。竹より下流は淵で危険なため、緊急時には竹より上流を人馬とも渡るよう命じ、対岸へ渡って洲俣に一泊した。
年月日未詳 / 冊子 632頁
洲俣対岸の桑木の中が敵で占められるなか、後続の舟が沈んで二人が死亡した。乗馬衆は前日に義弘が竹で示した徒渉線を渡り、押川郷兵衛が対岸を偵察して敵を討ち取る。翌朝、石田三成はこれを大垣での太刀初めの手柄として賞し、大判一枚を与えた。
「寛永二十年」五月十一日 / 冊子 236頁
島津久通・川上久国が、島津光久の江戸出立日と帰路を知らせた連署書状。帰国暇が五月十一日に下り、出立日は同十五日と定まったこと、船は西目方面を通る予定であるため、その心得で準備するよう伝える。注記には書状が五月二十六日に御道具衆によって届けられたことも記される。
年月日未詳 / 冊子 141頁/原整理番号 80
軍衆一紙目録として、軍衆・乗馬衆・陸衆・道具衆・手明・船頭の人数と、鉄砲・鑓・弓の数量を集計する。人数・道具数はいずれも合計1万2930と記す。
慶長18年12月朔日 / 冊子 159~166頁/原整理番号 82
慶長18年12月朔日の人数賦を起点に、家臣ごとの知行高、軍役人数、乗馬役を組・備ごとに列記する大部の軍役賦帳。一番備から左右備、城内外の諸役、町方賦役、御道具衆、船手、馬・武具の荷割まで編成と数量を集計し、末尾に慶長19年の人数賦や大坂冬・夏陣の出馬人数を後世の考証として付す。
二月九日 / 冊子 108頁/原整理番号 172
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、七日申刻に米之津へ着船した道具衆が九日八ツ時にようやく到着した遅延を咎め、使者・飛脚を昼夜速やかに継ぎ、茂棚を含む道筋を滞りなく通すよう命じる。
二月十一日 / 冊子 121~122頁/原整理番号 195
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、薩州様の船が八日に七釜まで来たと伝え、諸役人と御道具衆を早急に渡海させるよう命じる。不要な人数は留め置き、現地で必要となる者を選んで整えるよう指示する。末尾の『十二日丙午』は次の日次見出し。
「寛永二十一年」 / 冊子 339~341頁
琉球使節の参府行列次第の別紙。王子・使者を中心に、琉球供衆、騎馬、小荷駄、御道具持、薩摩側の供奉・警固役を左右・前後の位置関係に従って配し、各役の氏名と編成を図式的に記す。
年月日未詳 / 冊子 188~194頁/原整理番号 111
御旗本の手鑓・長刀から鉄砲・弓・旗・騎馬・道具衆、各外城・郷ごとの人数と乗馬を大規模に列記する島津氏の軍役賦。塩硝・鉄砲玉・火縄・具足・陣屋道具などの数量と運搬人員も定める。
寛永15年1月6日 / 冊子 363~372頁/原整理番号 346
島原陣へ派遣する薩摩方加勢軍を、軍大将・乗馬衆・各番立・外城衆・御道具衆などの編成別に列挙した軍衆賦である。諸士名と各組の人数を全巻にわたり記し、合計五千五百五十六人と集計する。末尾では兵具所に残る軍衆賦帳と内容に相違がないことを確認する。
年月日未詳 / 冊子 88~89頁/原整理番号 145-6
小原織部の取払帳。上津浦で伊地知重政付衆七人へ振舞った白米一升七合五勺、米之津・上津浦で買った塩四俵・鯛・さうち魚の代米を品目別に記す。末尾の『下文ハ二月十一日に載す』は参照注で、B列へ補入しない。
(元和七年)三月十二日 / 冊子 766頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、島津家久の子息が息災であること、上州老から贈物が届いているので後便で礼を述べること、御道具衆を早く差し上せることなどを追って伝えた連署状。
(寛永十一年)正月十三日 / 冊子 406~407頁
伊勢貞昌が種子島左近将監へ、明石掃部の子に関する急使書状の到着状況と遅延の有無を問い合わせ、過去に早打の遅延で扶持停止・道具衆追放となった事例を引いて注意を促した書状。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
年月日未詳 / 冊子 24~26頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0038
琉球使節の行列・供揃を図式で示す。国頭按司の乗物、琉球衆三十人の乗馬、琉球供衆、薩摩側の案内・警固に関わる諸役、与力小荷駄衆、道具衆等の配置と人名を複数段に列記する。
(明暦三年)七月十三日 / 冊子 344頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0739
島津久通が鎌田筑後へ、軽い使者と判形を三人分用意し、急ぎ参着させるよう求める。川内大小路・久見崎から長崎への移動と、阿蘭陀船が入り二十七人いるとの風聞を記すが、偽りの可能性も留保する。相良主税・三原伝左衛門らとの相談、入津の見届け、道具衆五六人と槕取の警固手配を求める。
年月日未詳 / 冊子 94~95頁/原整理番号 65
戦場御供之人数として67名分の項目を列記し、うち御道具衆6名・御小者2名・御馬取3名を区分する。鳴海覚右衛門尉と松下喜左衛門尉は御道具衆の人名である。末尾の貼紙は、慶長五年の関ヶ原退却時に道中を供した人数とみられる、と推定する。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁/原整理番号 740
正月十五日を中心に島原出陣者の主従人数、米之津・久見崎などへの到着日、乗船勤務と飯米支給を記録する。福崎らの主従人数、御道具衆49人、兵具持の夫丸11人などを列記し、既支給分や僧侶から出された夫の内訳を付記する。末尾に三原五郎兵衛20人・平山七兵衛15人の有馬到着を記す。季安は次の記事を十六日に分け、十五日到着者の追記を加えたと説明する。
正月廿六日 / 冊子 10頁/原整理番号 6-1
『島原軍衆人数差出留』の正月二十六日条。上津浦の土持左馬権頭以下、船廻りなどで各地へ到着した者の主従・人鉢・忰者夫丸を列挙する。鹿児島衆は計四百四十三人(人鉢四十人、御道具衆四十九人、忰者夫丸三百五十四人)。喜入舎人を米之津から帰したため除き、三口の合計を千八百四十六人(人鉢百六十六人、道具衆四十九人、忰者夫丸千六百三十一人)とする。
二月十一日 / 冊子 119~120頁/原整理番号 190
川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、薩州様の船が八日に出たものの風波で未着のため到着見込みを尋ね、東郷肥前守へ渡した絵図・書状や陣道具の受取りを指示する。江戸屋敷無事の報知を伝え、早い渡海と後報を求める。追而書では中間五人・道具衆十人を直ちに上らせるよう命じる。
二月十八日 / 冊子 151頁/原整理番号 268
島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が市来宗友へ、薩州様から伊豆守・越中守へ送る書状を御道具衆に持たせたので両所へ届けるよう求めた。木下右衛門太夫宛の書状と、琢庵からの三通もそれぞれ届けるよう命じる。
二月十八日 / 冊子 152頁/原整理番号 269
島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が川上久康と出水衆中へ、市来宗友宛にも書状を送り、有馬へ渡海する場合は御道具衆を速船で渡すよう命じたと伝える。川上久康が帰っている場合は、地元の衆で相談し、御道具衆を早々に渡海させるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 195~196頁/原整理番号 318-2
外城衆等を区分した人数帳。米津から召し帰された衆は合計二千九百二十一人で、人躰千六百四十三人と夫丸千二百七十八人(内訳合計二千九百二十一人)。上津浦衆は原記載で合計二千七百八十一人、人躰千八百六十六人、夫丸九百五十七人と見え、内訳合計は二千八百二十三人となって一致せず、傍記もある。有馬へ詰める衆は合計欄に二千五百六十人とある一方、「廿七人」の傍記があり、人躰千五百五十八人と夫丸・倅者九百六十九人の内訳合計は二千五百二十七人で、318-1の記載とも一致する。鹿児島衆の上津浦・有馬分は合計三千百五十六人で、人躰二百五十人、御道具衆四十九人、倅者・夫丸二千八百五十七人(内訳合計三千百五十六人)。各区分に属する外城名も列記する。原記載の合計・内訳・傍記の不一致は計算だけで統一しない。
年月日未詳 / 冊子 449頁/原整理番号 561-2
五月十八日夜、東郷喜右衛門と児玉利実は御前へ召され、御道具衆の総書立を作るよう命じられ、六月十三日に提出した。御道具衆を早く四百人に達させる旨を新納刑部少殿から家老へ申し上げ、添状を付して須田十郎兵衛の下向時に国元へ送ること、当該組分は町田勘解由・平田狩野介から受け取り写しを送ったことを記す。目録年月日は空欄である。
六月廿一日 / 冊子 449~450頁/原整理番号 561-3
御道具衆四百人について、前代から召し仕えた三百六十人と近年任命した四十人を挙げ、細工人の扶持、馬屋方、御船手定水衆二百人のうち近年任命の百人、作事方、犬井付衆、歴々衆の扶持銀、二十人衆の取立、小姓衆の増員、近年召し抱えた男女を列挙する。書立は権兵衛・豊前の座へ出し、奈五左衛門が受け取った。本文は正月七日付で「正保二年か」とするが、目録日付は六月二十一日である。
年月日未詳 / 冊子 410頁
池田貞安が庄内出陣時の戦功を回想する。帖佐・蒲生勢が山田新城を攻めた際、六左衛門は退却命令に対し、味方を捨てれば周辺の敵城から攻撃され全滅すると再三諫めた。中将様がその主張を採用して旗差・道具衆・軍勢を一斉に登らせ、新城と続いて本城を攻め落とし、惟新が伏見で報告を聞いて有川助兵衛から感状に相当する内談の書状が寄せられたという。
年月日未詳 / 冊子 388頁
島津家久譜に収められた軍衆一紙目録で、乗馬衆、陸立衆、道具衆、手明・指物持、夫丸、船頭・加子などの人員を区分し、総勢と鉄砲・弓・鎧などの兵具数を記したもの。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
慶安元年十一月十四日 / 冊子 141頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0257
御鷹の鶴と使者の到着・御礼、城中での拝領儀礼、又三郎・子供衆・道具衆の配置と留守居衆の処置を国許へ伝えた連署書状。
(明暦二年)九月十二日 / 冊子 303~304頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0658
久加・久詮が国元役人四人へ、長崎の唐船唐人に対する切支丹宗門の訴人を尋問し、澳門の日本人子供に宗門と唐の学文を教えて唐人として日本へ渡す企てがあるとの情報を伝える。幕府の上意として、今後唐船は陸地につけず海上で船中を改め長崎へ送る取扱いを示す。松田七左衛門へ道具衆一人を添え、この指示を長崎奉行へ追って使者で伝えるよう求める。
正月22日 / 冊子 774~775頁/原整理番号 842
黄門の吐血後の食事や容態を詳報し、少し落ち着いたものの、琢庵の見立てや年初以来の衰弱からなお懸念があると伝える。御道具衆の一部帰還にも触れ、矢文や城攻めの風聞を照合して報告するよう求める。細川肥後守への書状・音信を評価する一方、兵糧の継続供給を憂慮し、市来の米と物奉行の岩切六右衛門・川上彦左衛門を通じた手配を促す。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 30~32頁/原整理番号 45-2
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に備え、武器・軍勢・奉行・輸送・兵糧などの割当を列挙した頭書。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御道具衆の鑓200本、馬乗衆50騎(分限役の馬は別)、陸衆150人(外城衆は別)、召立乗馬50騎とする。有馬には3,262人中782人が帰り2,480人、天草には5,201人中1,624人が帰り3,577人が残り、両地の残留総数を6,057人とする。軍勢の兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、旗本・供衆、船手奉行、先備、玉薬、持道具、番道具、普請奉行、法度、武器別奉行・備頭、仮屋、使番・使衆・右筆・代官・給書・物荷・膳配・同朋・小姓・評定・医師・納戸・進物・門番・陣僧・振舞等の担当や準備事項を挙げる。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人なども定める。末尾で編者は、『旧記雑録後編五』222号文書と同文だが後半を欠くとし、以下は二月朔日の肩書により同日に写載したこと、軍衆法度の旧留は続く三公の掟を指すらしいと注記する。
年月日未詳 / 冊子 110~112頁/原整理番号 24
文禄四年十二月下旬の朝鮮在陣中の日記。歳暮の礼として竹嶋・小西・大村・天草らから届いた鳥・樽・肴などの進物、加藤・小西ら諸大名への年末の使者と書状、年男の任命、鳥狩りや鞠、道具衆・中間衆への衣服の給与を日ごとに記す。釜山浦では小西行長・寺沢正成へ進物を届け、末尾に年男らへの肩衣・袴の給与を記す。