白坂篤国起請文
文禄4年12月16日 / 冊子 927頁
白坂篤国は、幸侃の在所から栗野へ召し移されても「武庫」こと島津義弘への奉公に二心を抱かず、命令に従うと誓う。 島津又八郎(忠恒)の上洛供奉を願ったものの留め置かれた経緯も述べ、配置変更に際する忠誠を神仏へ誓約した起請文。
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文禄4年12月16日 / 冊子 927頁
白坂篤国は、幸侃の在所から栗野へ召し移されても「武庫」こと島津義弘への奉公に二心を抱かず、命令に従うと誓う。 島津又八郎(忠恒)の上洛供奉を願ったものの留め置かれた経緯も述べ、配置変更に際する忠誠を神仏へ誓約した起請文。
慶長三年七月四日 / 冊子 220~221頁
河上益右衛門尉・白坂助七郎が、本田助丞・富山清右衛門尉に宛てて出した請取状。「高麗御見次」の長寿調分として、銀子五百目を二包のまま、御振舞道具を種々納めた長櫃一合を受け取ったことを記す。
慶長七年七月五日 / 冊子 822-823頁
白坂為安ら五名が連署し、内府との交渉以来、惟新を見捨てず忠恒へ命を懸けて奉公すること、外部の策謀に従わず直ちに報告すること、主家のためになる事柄を隠さず申し上げることを神仏に誓った。
(慶長四年)四月十四日 / 冊子 374~375頁
上原尚張が、当地に異変がないことを伝え、留守中に子の居役所として与えられた場所の普請が整っていないため、見苦しくならないよう堅く見回ることを頼む。また日向国に関する先年の知行の話について、福永殿・野村殿らの件を内々に聞き合わせ、今後も自身に関する用向きで助力するよう求める。
慶長四年四月廿一日 / 冊子 375頁
伊勢貞成が、御勢揃いの道具代銀に四匁一分五厘の不足が生じたことを届ける。現在手元にある算用帳だけでは判明しないため、受取状などで後日調査し、どこでも清算できなければ自分が納めると申し出る。
年月日未詳 / 冊子 803~804頁
天文十一年七月四日、北郷忠相が志和池へ出兵し、三口に分かれて北原方と戦った経過を記す。白坂下総守や粟野地頭の滋谷兵庫頭ら諸将の配置・戦功を挙げる一方、各口で生じた多数の戦死者も列記し、志和池方面の合戦規模と北郷方の損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 804~806頁
北郷忠相が高城、忠親が都城を本営として伊東・北原方に備えた戦いを詳述する。敵情を探る斥候を出し、有田加賀・白坂下総守らの兵を伏せて敵を誘引した。激戦の末に北原方を退け、多数を討ち取り、両城の防衛に成功した。
年月日未詳 / 冊子 810頁
北原氏の旧領であった山田城を、北郷忠相方が包囲して伊東勢から奪取した経過を記す。白坂左衛門尉・釘村伊豫守らが城の守備・攻撃に当たり、周囲を封鎖しながら城兵を攻め、援軍を防いで攻略した。城の旧支配と新たな帰属を併せて示す。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 112~113頁
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
年月日未詳 / 冊子 115頁
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
(永禄十年)九月七日 / 冊子 167頁
島津義久が、この時期の軍事行動はいったん延期するのがよいと伝え、その詳細は白坂彦左衛門尉へ申し聞かせたとする書状。義弘の意向も同じであることを確認し、細部の記述を省く。
天正四年 / 冊子 471~472頁
天正四年、高原・小林の守備配置と境目の治安維持を記す。上野隼人佐が小林、のち吉田へ移され、内山出雲守・木嶋玄蕃らと野心ある者を討ち、求麻から来た牢人も白坂右近将監とともに討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 451~452頁
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
(慶長五年)正月七日 / 冊子 496頁
島津義弘(惟新)が宮原左近入道に、出水表の在番を特に労い、城の普請に念を入れて在番衆へ毎日怠りなく務めさせるよう命じる。普請がやむを得ない場合は太田吉兵衛丞・白坂七右衛門と相談して諸在郷へ課す一方、百姓をみだりに召し使うことは一切禁じると伝える。
年月日未詳 / 冊子 559頁
慶長五年八月朔日の伏見城攻撃で、有馬藤七兵衛純房が戦死し、その従者・小者やともに討死した者を列挙する記事。善七・善六・白坂助六篤次・井尻甚六・福永助十郎・四本人兵衛忠次・東郷源四郎重信・和田仲蔵義音・松元市右衛門・小川平左衛門・牧喜助らの名と一部の戦死事情を記す。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615頁
島津義弘(惟新)が、白坂与竹・有馬次右衛門尉の帰着と、立花方の使者がもたらした情勢を忠恒に伝える。その内容は島津方に有利と見込まれ、事態の決着に関わるため、翌朝早く富隈へ赴いて談合するよう求める。伊勢兵部にも立花方の意向を聞かせて富隈へ向かわせるとし、強風時は陸路を使い油断しないよう戒める。
八月三日 / 冊子 204~205頁
北郷某と土持某が、高城をめぐる過去の合戦について照会に答えた連署覚書。伊東・北原方の攻撃に対して城方と梶山・勝岡・山之口衆が迎撃し、敵数十人を討ち取ったこと、北原方の白坂下総守を討ち、志和池城麓まで追撃したことなどを記す。
八月廿九日 / 冊子 384~385頁
島津龍伯が、白坂七右衛門尉を介して加治木御蔵入の前年収納分の進上が遅れている件を伝え、下代への処置と般若院への指示を急がせる。あわせて伊集院宮内少輔を差し上せる旨などを示し、処置と報告を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 557頁
吉利氏元祖秀久の二男久起の娘が白坂七右衛門と離別後に壱岐幸則へ再嫁し、その娘の子が幸則家を継いだ経緯など、婚姻と家督継承を記した吉利氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 822頁
和田氏譜は、関ヶ原後に島津忠恒が帰国し、山口直友らの仲介で徳川方との和議が成立して上洛を企てた経緯を記す。領内が不安定ななか、重臣らに結束と忠誠を誓わせた。
慶長五年十月十日 / 冊子 563~564頁/原整理番号 4の1
島津惟新が白坂以益へ与えた感状。関ヶ原合戦と帰国路で片時も離れず奉公したことを賞し、知行五十石を宛行う。後半には以益と子孫の勤仕・役儀や、歴代当主・国老から受けた文書を付録した旨の系譜注記を伴う。
十月五日 / 冊子 565頁/原整理番号 4の3
島津久元が白坂以益へ送った書状。他国の商船が来航する内之浦では諸事に注意し、キリシタン宗・一向宗についても情報を集めるよう命じる。あわせて予想外に滞留しているため、暇を得て帰国後に相談すると伝える。十月五日付。
正月廿九日 / 冊子 565頁/原整理番号 4の4
島津久元が白坂以益へ送った書状。法度に背いて船を売る者がいるとの風聞を受け、公儀の沙汰となれば諸郷にも及ぶため、事情を調べ十分に注意するよう命じる。以益が島津惟新に召し仕えられた者であることにも触れる。正月廿九日付。
八月十四日 / 冊子 566頁/原整理番号 4の5
島津久慶が白坂以益へ送った書状。十一日夜の飛札と蒲地平右衛門の口上を受け取り、重ねて届いた書状の内容を主君へ報告したこと、直ちに村田藤兵衛を派遣し詳細を説明させることを伝える。八月十四日付。
六月五日 / 冊子 566頁/原整理番号 4の6
島津久通が白坂以益へ送った書状。大迫大学助の便で満尾対馬方まで届いた書状を披見し、互いの無事を喜ぶ。江戸で病に伏して出立が遅れたことなどを述べ、翌春に帰国した際に詳しく相談すると伝える。六月五日付。
五月廿五日 / 冊子 566頁/原整理番号 4の7
島津久通が白坂以益へ送った書状。神舞見物の近況に触れ、以益の息子一郎兵衛が当地で奉公し、相勤めていることを伝える。当地の様子は一郎兵衛が話すとして、近月中に下向して詳しく相談すると述べる。五月廿五日付。
十月七日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 4の8
伊勢貞豊が白坂以益へ送った書状。用向きがあるため、明日か明後日のうちに必ず来訪するよう求め、待っていると伝える。十月七日付。
七月廿一日 / 冊子 567頁/原整理番号 4の9
福屋兼昭が白坂以益・吉井主膳へ送った書状。上様の忌日に伴う禁断の周知を伝え、以益の役儀と子息勘左衛門による代勤・奉公について、関係者で相談するよう求める。七月廿一日付。
〔承応二年〕八月十七日 / 冊子 567~568頁/原整理番号 4の10
福屋兼昭が白坂以益・吉井主膳・白坂勘左衛門へ送った書状。相良主税を通じて以益の役を免じ、勘左衛門へ役を仰せ付けることになった旨を知らせ、承知するよう求める。承応二年八月十七日付。
〔承応二年〕八月十九日 / 冊子 568~569頁/原整理番号 4の11
福屋兼昭が白坂以益へ送った書状。以益が老齢のため内之浦の曖役を退く願いが認められ、子息勘左衛門へ役を仰せ付けること、以益には後見として相談に加わるよう求める。後半に白坂家の系譜注記を伴う。承応二年八月十九日付。
〔承応二年〕八月十九日 / 冊子 569~580頁/原整理番号 4の12
福屋兼昭が白坂勘左衛門へ送った書状。父以益の老齢に伴い内之浦の曖役を勘左衛門へ継がせること、以益を後見として相談するよう命じる。続いて白坂氏歴代の婚姻・役職・居住地・没年などを幕末・明治期まで記した詳細な系譜を収める。承応二年八月十九日付。
文化二年十二月十一日 / 冊子 580~581頁/原整理番号 5
白坂氏系図の草案に付された奥書。文法や内容に不案内な点が多いため、朱書の添削を踏まえて書き改め、鹿児島の同族にも照会して不明箇所や生没年月を補うよう求める。目録は伊地知季安奥書とし、本文末尾には津口番所詰伊地知小十郎季彬の署名がある。文化二年十二月十一日付。
年月日未詳 / 冊子 809~810頁
天文十二年正月二十四日、北郷忠相が伊東方の守る山田城を攻め、北原氏の旧領回復を図った戦いを記す。出陣前に霧島へ戦勝を祈誓し、白坂左衛門尉・釘村伊豫守らを配して城を包囲・攻略し、城主らを退けて山田城の支配を回復した。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
北原兼守死後に真幸院の家中が分裂し、白坂氏らが島津方へ従った経過を記す。島津方は六月三日に横川城を攻め、北原伊勢守・新助が妻子を自ら討ったのち城外で戦死し、島津勢が城を落として横川を菱刈氏へ恩賞として与えた。
年月日未詳 / 冊子 110~111頁
北原兼守死後の家督争いで伊東義祐が真幸院へ介入し、北原兼親が球磨へ逃れたのち、白坂氏・樺山玄佐・相良氏の支援で飯野へ復帰した経過を記す。大川平氏の防戦と今城築城、島津方と伊東方の境界が不安定になった事情も詳述する。
6月17日 / 冊子 12~13頁/原整理番号 11
白坂篤豊が、薩摩の麦作が良好との報を喜ぶ一方、上方では五月中旬以来の日照りで田畠が枯れたと伝える。加藤肥後守父子の預け先と肥後へ下る上使を報じ、帰国後の軍装用意や鎌田源八から届いた書状・鹿皮への謝意を谷口重成・西田時通へ申し送る。
寛永9年8月 / 冊子 23~24頁/原整理番号 30の1
白坂篤豊が知行八十五石八斗二升について、寄高を含めず自分高のみで乗馬奉公すると申し出る。手持ちの鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を申告し、馬と不足する諸道具の支給を求める。
文化二年十一月穀旦 / 冊子 561~562頁/原整理番号 2
伊地知季彬が内之浦の白坂氏系図に寄せた序。白坂氏が同地の郷士中で重きをなし、戦死者や奉公の事績を伝えてきたこと、家の由緒を系図にまとめ後世へ残す意義を述べる。文化二年十一月穀旦付。
慶応二年十月十二日 / 冊子 562~563頁/原整理番号 3
伊地知季安が白坂氏系譜に付した後序。若年時に二度内之浦の番鎮を勤め、郷士白坂篤義と親交を結んだこと、依頼を受けて同氏の系譜を稿した経緯を述べる。慶応二年十月十二日付。
年月日未詳 / 冊子 563頁/原整理番号 4
白坂氏の祖先と歴代の事績を記した系図。天正十二年生まれの篤辰(大学坊以益)が修験者となったこと、関ヶ原合戦後の帰国路で島津惟新に随従して知行五十石を与えられたことを中心に、子孫の相続と奉公を記す。
年月日未詳 / 冊子 809頁
大永三年以来伊東方に奪われていた三俣・山田方面で、忠相が北原方と協力して領地を回復し、伊東勢を退散させた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 121頁
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
永禄六年、貴久が飯野へ赴き、三山へ軍勢を送って勝利したことを記す。北原兼親の伯父が相良兵を吉松へ入れて島津方番兵を討とうとした企てが露見し、兼親の側近も離反したため、兼親を伊集院へ移し、真幸院を島津家領として義弘を飯野に置いた。
(永禄十年)七月八日 / 冊子 165~166頁
島津義久が先の談合に際して義弘が急ぎ来訪したことを喜び、その後無沙汰したことを詫びた書状。ある一箇条の処置について内々の検討を求め、自身は病気が再発して歩行も不自由なため諏訪祭礼への参詣が難しく、企てが延期される場合は名代を立てる意向を伝える。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。
(慶長五年)五月十七日 / 冊子 543~545頁
島津義弘が又八郎殿に、神五郎の狂気・不行跡と処分について留守居衆の報告や竜伯の意向を照合し、事情を詳しく調べて適切に措置するよう求める。旅庵の報告が神五郎の振る舞いを十分に伝えていないと批判し、出水の置目、狩猟禁止、土地処分、農民・百姓の居住と耕作、水利、米銭の配分などを役人衆と相談し、恣意的な取り扱いを避けるよう細かく指示する。