田布施岩屋観音再興棟札
天文十七年六月廿八日 / 冊子 865頁
田布施岩屋観音の再興に際し、君主の長久と繁栄などを祈願して記した棟札。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
124 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
天文十七年六月廿八日 / 冊子 865頁
田布施岩屋観音の再興に際し、君主の長久と繁栄などを祈願して記した棟札。
年月日未詳 / 冊子 74頁
永禄二年八月、国家豊饒・領内安全を願って田布施牟礼城に天照大神を勧請し、正躰と鰐口を安置した際の銘文。島津忠良の名を刻む。
応長元年十一月日 / 冊子 432~433頁
薩摩州阿多郡金峯山洪鐘一口の鋳造銘。波披五障之雲霧、委以寄水田於仏前など奉納の趣旨を記し、願主・関白殿下・関東武家以下の長久を祈る。
年月日未詳 / 冊子 90頁
伊作久義が南方別府某を攻めて鵜塚に陣を構えるが、兵力不足のため進退できず、島津元久の制止で撤陣したこと、続いて田布施二階堂某を元久と攻め、降伏させて市来へ没落させたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 305頁
伊作氏と阿多氏の対立から戦闘が広がり、存忠が救援兵を送り、伊作方・田布施方らが合戦した経過を記す。各地から援軍が集まったが、伊作方の敗北と多数の戦死者に至った。
寛文七年八月十九日 / 冊子 679~680頁
虎寿丸一行が小野から加世田方面へ移り、伊集院勢の追跡を避けて潜伏・退避した経路を記す覚書。直林寺下・木場・田布施などの通過地、案内人、宿所、所持品の扱いを具体的に挙げる。長谷氏・和田氏ら関係者の支援を含め、逃避行の実務をたどれる。
年月日未詳 / 冊子 315~316頁
『伊作西福寺日新公御譜』所収の「新様以来御当家繁栄之事、付伊作場事」。新納殿・梅窓らをめぐる伊作・田布施・相州方面の所領、婚姻・後継、対立と和議、忠良の成長と家中支配の経緯を叙述する記事。
年月日未詳 / 冊子 319頁
『日新記』の記事。田布施で旱魃が起き、忠良が身を清めて七日間仏川で祈雨したところ雨が降ったため、神仏への信頼と感謝を和歌に詠んだことを記す。
年月日未詳 / 冊子 330頁
田布施の諏訪大明神をはじめ神社仏寺を漏れなく修補し、とりわけ金峯山三社を美麗に再興して白銀の幣二流を祈進した記事。
年月日未詳 / 冊子 332頁
田布施常珠寺にも塔頭を建立し、水田二町を「戦亡領」として寄進して、戦死者の法事を折々怠りなく営ませた記事。
寛政6年正月(本文)、正月10日伝達・2月2日納置の注 / 冊子 75~76頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-2
田布施城跡内の大中公誕生所に当たる小祠を基に石囲垣を取り仕立て、碑銘を立てるよう命じる添書。亀石と大中公の年競の松もあるので、粗末にならないよう囲垣を置くことを指示する。誕生所荒神の祭料が毎年不足するため、銀十五枚を渡し置き、郷士年寄の支配で祭料・石碑・囲垣の修覆料に取り計らうよう田布施地頭へ申し渡す。正月、勘解由の記載を伴う。包紙注は田布施亀城荒神祠碑銘書一通を木場次右衛門が見合のため預かったことと、2月2日納置を記す。横切書付に関する注と、寅正月10日に市来次郎左衛門から木場次右衛門へ渡された旨の注もある。碑銘の銀645銭長生銭とは別に、添書の銀十五枚という記載を保持する。
年月日未詳 / 冊子 302~304頁
松尾城・鹿児島・谷山をめぐる攻防を詳述する長編記事。久豊が籠城救援の軍勢を集め、伊集院・川邊・伊作方と各地で交戦し、城門突破、渡河戦、援軍投入、退却と再攻撃が続いた。家臣・一族の戦死と負傷、軍勢の動揺や和睦策も記す。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
永禄十年十一月以後 / 冊子 177~178頁
新納忠元が馬越城で四度の槍合わせを行い、狩俣で負傷したことを回想する。馬越城陥落後も大口城が球磨勢の加勢で持ちこたえたため、市山城の守備を貴久から命じられ、蒲生の知行を与えられた。大口が島津方へ入った後は地頭に任じられ、長年その職を勤めたとする。
天文五年七月廿三日 / 冊子 750頁
田布施池辺村の諏訪社に神鉢を奉納するにあたり、大願主島津忠良・貴久と権少僧都頼盛を記した銘文。
永禄五年仲秋 / 冊子 118頁
田布施常珠寺に伝わる妙法蓮華経巻第八の奥書。永禄五年仲秋、薩摩国加世田庄の大願主・在家菩薩日新が法華経八巻を寄進したことを記す。
永禄五年十一月吉日 / 冊子 119頁
島津貴久が法華経十部を寄進し、八角形の金塔に納めて御嶽社内に安置したことを記す金蔵院の書出。塔銘には貴久の奉納名、三千番神・十羅刹女と永禄五年十一月吉日の年紀を載せる。
安永八年十一月十八日(本文同年・目録) / 冊子 588頁/原整理番号 1654/整理ID 1654
重豪公御譜中の記事。同年十一月十八日に加世田郷へ行き、益山村で鶴一隻を得たと記す。この行きの意は鶴を獲ることにあったが、鶴は獲り難い鳥なので、城下五社と田布施郷・加世田郷の神廟に祈って助けを借り、獲ったため、各廟へ扁額一枚ずつを謹んで献じて謝したという。額の裏に事の詳細を記したので、その一つを次に挙げると結ぶ。捕獲と奉納を神助への報謝として述べた記事であり、神助の説明は記事の認識として保持する。次の祈願記を指す導入と当記事の本文を区別し、当記事には鷹の名や鳧・鴈の捕獲数を加えない。
安永八年冬十一月(自己年記)、鶴捕獲は同月十八日(本文) / 冊子 589頁/原整理番号 1655/整理ID 1655
正文在諏方社とする記。安永八年冬十一月、田布施郷へ行って放鷹し、鳧や鴈を数百隻得、さらに加世田郷の益山村で鶴一隻を獲ったと記し、その日は同月十八日だったという。画師にその様子を板へ描かせて扁額とし、加世田郷諏方大明神廟の壁に掛けた。初めから鶴を獲ることを意図していたが、鶴は形が大きく性が警戒深いため、制し難く近づき難い、実に獲り難い鳥だと説明する。そのため城下と田布施郷・加世田郷の神廟に祈って助けを借り、捕獲を群神の賜と考えて、各廟へ扁額を一つずつ献じ報謝したという。鶴を獲った鷹の名は田布施隼で、初め田布施郷で取ったため、その名を付けた。金眸玉爪の尤物であり、手ずから馴らしたと記す。末尾に源重豪記、知学事臣山本正誼薫沐敬書の記署がある。鳧・鴈を数百隻とする記載と鶴一隻を分け、田布施隼は当該鷹の名として保持し、現代の種名へ置き換えない。捕獲の神助説明は本文の認識、板画の扁額は本文中の制作・奉納記述として示す。
明治3年午11月知政所 / 冊子 772頁/原整理番号 987の10/整理ID 987-10
川畑伊右衛門を、伊作・加世田・阿多・田布施・日置・永吉の地頭に繰替するよう命じ、関係向々へ知らせる。明治三年午十一月知政所。
年月日未詳 / 冊子 214頁/原整理番号 329
田布施郷坂元安右衛門清長の書留。田布施諸士は同心して敷根筑前守の手に付き陣中で勤務した。諸所の衆は地頭に従って有馬へ詰め、戦功を挙げたが、鹿児島衆・外城衆は天草内高津浦の張番を命じられたため戦功がなかったという。有馬城落城の前後は船留が厳しく、その様子を知らなかったと記す。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 337~342頁/原整理番号 381-1
田布施士二宮太郎兵衛蔵本の、寛永十五年二月二十八日付『肥前有馬原之城高名究帳』。外題はこの名で、別本は『島原一揆ニ付高名帳』と題したという。新納加賀守・伊地知杢右衛門尉らの鑓合、敵の討取り、弓・鉄砲による射撃、本丸の屏・石垣への取付き、手負、戦死などを、各人の証跡者とともに列記する。出水・高尾野・蒲生・加久藤・大口など各衆を含み、証跡なしとする項目もある。末尾の原記載総計は百五十六人、うち戦死五人。
永禄四年十二月吉日 / 冊子 100頁
薩摩国田布施村の伊勢大神宮に奉納された鰐口の銘文。日新軒、座主俊英、鮫島藤原宗増の名と永禄四年十二月吉日の年紀を刻む。
年月日未詳 / 冊子 117頁
日新が田布施の常珠寺へ法華経八巻を寄進し、その奥書を次の記事に掲げることを記した短い譜中記事。
十二月五日 / 冊子 28頁/原整理番号 6-39
先年の廻文に応じて各地から提出された文書を進上する意思があるか、外城の役人へ早急な回答を求める。進上するなら平田清右衛門の受取書を返し、難しいならその旨を知らせるよう、田布施・加治木・都城など多数の地へ命じた十二月五日付の書状。
天正21年正月4日 / 冊子 662~663頁
高麗渡海を「一大事」と捉え、無事に帰朝して成就できるよう祈願し、金峯山で千句を興行して奉納すること、鎧一領と長太刀を寄進することを誓う。 朝鮮出兵に際し、島津義久が武具奉納と文芸的な千句興行を組み合わせて戦勝・帰還を祈った寄進状。本文は冊子662頁末から663頁冒頭へ続く。
二月十四日 / 冊子 133頁/原整理番号 219
川上久国・三原重庸が伊集院以下の諸地域へ、黄門様の養生のため好物の竹の子を献上するよう命じた廻状。各地に大名竹があるので周囲の土を掘って竹の子を採り、少しも遅延なく急送するよう求める。
延徳二年十二月廿四日 / 冊子 554~555頁
延徳二年、島津友久・忠幸が心を合わせ、田布施の諏方大明神二社の社殿を新造した際の棟札。大檀主に島津相模守友久・島津三郎左衛門忠幸、代官・地頭・律師・大工武本氏定・小工十八人など造営関係者を列記する。棟札本文では神仏への敬礼とともに、風災・水災・火災などの除去、領内安全、子孫繁昌を祈願し、十二月廿四日の造立であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 596頁
田布施金蔵院の本尊十一面観音・脇士と堂宇の建立・再興について、忠幸公の創建と寛文十年の綱久公による再興を記した由緒書。
大永四年九月廿日 / 冊子 648頁
薩摩国田布施村の常珠寺で大鐘を鋳造し、寺の再興と衆生の救済、国土安穏を願った鐘銘。
年月日未詳 / 冊子 77頁
田布施大明寺の勝手大明神へ、永禄三年に島津忠良(日新)が自筆の額一枚を奉納し、社を再興したことを記す由緒書。
寛政6年正月(本文。碑銘作成)、天和2年・永正11年の回顧を含む / 冊子 75頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0248-1
薩州田布施の邑金峰山麓の亀城と、城内の荒神祠を修めた由緒を記す碑銘。小石室は天和2年壬戌に邑人篠原佐左衛門政盈が建て、島津貴久の誕生地と記していたという。寛政6年正月に有司へ修祠・石欄設置を命じ、銀六百四十五銭を長生銭として邑吏に付け、祠事の資としたため、臣山本正公室に石へ事を記して傍らに建てさせたと述べる。貴久は日新公の子、母は薩摩守重久の娘で、永正11年5月5日に生まれたと記す。誕生舎の跡に後人が荒神祠を建て、祠から東南十五、六歩の亀石二つと、亀石から西二歩の日新公が植えたと伝わる古松を挙げる。貴久の生誕・国難平定とこの地の縁を讃え、祠を鎮護して遺跡を存し、石や松のように保つ旨の銘を結ぶ。
明応7年、永正8年10月21日、寛永15年正月11日、慶安元年11月18日、慶安2年7月20日、寛文2年冬、寛文4年12月11日・16日、寛文6年12月29日、延宝5年、延宝8年2月11日・3月4日、元禄元年9月13日・12月17日、元禄10~12年、宝永元~7年、正徳元年12月29日、享保5年正月28日、享保10年7月8日、享保11年、宝暦3年・6年・7年・11年・12年、明和4年・6年・7年、安永5年・7年、寛政2年9月15日 / 冊子 55~62頁/原整理番号 14-2
二階堂氏正統系譜の近世部分。行次の記事を受け、行治・行存の代に田布施の封邑と家勢が衰えたことを記し、定行が寛永十五年に島原の乱へ従軍した経歴へ続く。養子として正統を継いだ行格は、古系図・伝来文書を島津光久へ提出し、家の由緒を認められて寛文四年に田布施から鹿児島府下へ移住した。島津綱貴から扶助米を受け、御記録所で古系図・文書の総点検と新装・蔵函を施されたこと、御番免除や綱貴の御成を記す。行宅・行道は奥小姓・側小姓・小納戸・納殿役などを務め、家督・扶助米を継承した。末尾は行旦とその子女・養子・婚姻、家伝書留や長倉ト山覚書等の伝来を掲げ、安永七年生まれの子までを収める。
応長元年十一月日 / 冊子 332頁/原整理番号 94
薩州阿多郡金峯山の洪鐘一口を奉鋳したことを記す応長元年十一月の鐘銘。大勧進の妙法と大工の沙弥西願を記し、蔵王権現への奉納を伝える。
年月日未詳 / 冊子 670~677頁/原整理番号 683
島原へ向かう軍衆が飯米を受け取るために提出した人数差出を写し留めた帳簿。諸士・各地域衆ごとに主従、人躰、夫丸、小者等の人数と正月の出発・米津などへの到着日を記し、飯米渡しの根拠とする。末尾では不足者や指出のない者、張紙に記した有馬在陣の外城衆を含めて集計し、合人数三千百六十八人を掲げる。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 56頁
島津久義が宿意のあった南方別府某を討つため軍勢を集めたものの、慈大寺で元久の使者に制止された経緯を記す。その後、田布施二階堂をめぐる対立が再燃し、久義が市来へ退いたことまでを述べ、伊作氏と宗家の緊張・仲裁・退去の流れを示す。
年月日未詳 / 冊子 209頁
応永十年、恕翁公が伊作氏を阿多郡田布施へ派遣し、同地を管領させたことを中心とする国史記事。田布施を拠点に阿多郡周辺の所領支配を整え、渋谷重頼ら在地勢力との提携・対立へ対応した。人員配置、所領の確保、軍事行動を通じて島津元久方が薩摩南部の支配を固める過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 219頁
島津恕翁譜の記事として、伊作久義と別府氏の対立、久哲による新納実久への調停依頼、二階堂氏の立場、元久による田布施包囲へ至る経緯を記す。複数年にわたる軍事・婚姻関係を主要経過に限定した。
年月日未詳 / 冊子 219~220頁
島津国史の記事として、応永十二年冬の元久による田布施・年禮城攻撃、翌春の別府・阿多氏の救援と行貞の退城、田布施の掌握、元久の娘と伊作克久の婚姻および田布施譲与などを記す。後続の寺領記事は主要事項に限定した。
年月日未詳 / 冊子 227頁
『応永記』が、応永十三年の田布施城没落、翌十四年の総州の死去、雍州による平佐城の接収、島津元久の大軍進攻と忠朝の退城を記す記事。
応永廿八年三月十五日 / 冊子 317~318頁
大寺元幸らが、田布施を一円に譲られたことを受け、屋形への遺恨を残さず、讒言があれば衆中で相談して軽率な振舞いを避けると伊作殿に誓った連署契状。
康正三年四月廿六日 / 冊子 431頁
島津忠長が二階堂殿に対し、薩摩国田布施の所領について先例に任せて沙汰するよう命じた宛行状。
永正十年八月廿一日 / 冊子 602~603頁
島津一瓢が、田布施野崎名内の十石園門などの田地を代銭二十貫文で坊津の智徳院へ永代に売り渡し、後日の違乱を禁じた沽券。
永正十年八月廿一日 / 冊子 603頁
智徳院頼真が、田布施内十石園門の代物二十貫文を関係者へ渡したことを証明した渡状。
大永六年八月十八日 / 冊子 662頁
島津忠良が一乗院に、田布施内十穀園の門について本物を返して請け取るまで一乗院の所領とする旨を認めた証状。
年月日未詳 / 冊子 665頁
大田氏二代昌久の官途・号と、島津忠昌への川辺の居城献上、南郷・田布施への移住、大永六年十一月に島津忠兼から帖佐地頭職を与えられた経歴を記す記事。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
大永六年八月十八日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2039と同文のため省略された別伝本の島津忠良証状。田布施内十穀園の門を一乗院の所領と認める内容である。
年月日未詳 / 冊子 761頁
天文七年秋七月、宗子忠勝が城を失って一族・家臣が離散した際、十三歳の安萬が父祐久に従って田布施へ移り、梅岳君に仕えたことを記す。