島津元久宛行状
明徳五年四月七日 / 冊子 153頁
島津元久が樺山源三郎久清に、日向国北郷の宮才名を関所勤仕の際に領知させ、ほかの給人分や同郷内の所領とともに先例どおり所務するよう命じた宛行状。
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明徳五年四月七日 / 冊子 153頁
島津元久が樺山源三郎久清に、日向国北郷の宮才名を関所勤仕の際に領知させ、ほかの給人分や同郷内の所領とともに先例どおり所務するよう命じた宛行状。
明徳五年八月十五日 / 冊子 154頁
島津元久が樺山源三郎久清に、北郷北方内後交村の椎屋跡と野々三谷寺跡にある水田五町を給分として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
天正20年11月2日 / 冊子 611頁
町田久倍が米屋源三郎へ、父・彦兵衛が京田で奉公したことを理由に、源三郎も引き続き召し抱え、当郡内の知行を与えると通知する。 別紙目録の土地を確実に領知し、今後も奉公に励むよう求める。父の功績を子の召抱えと知行安堵へ結び付けた家臣処遇の書状である。
天正20年11月15日 / 冊子 615頁
薩州加世田のうち、浮免一町四反余などの土地を前田源三郎へ宛行った領知目録。 地積を具体的に記し、文禄元年の島津領内で家臣知行がどのように割り付けられたかを確認できる。
天正20年12月4日 / 冊子 616頁
切紙島地の井尻一反を前田源三郎へ宛行い、命令に従って確実に知行するよう伝えた知行目録。 一筆の土地を対象とする簡潔な給付文書で、小規模知行の実態が分かる。
明徳五年八月十五日 / 冊子 154頁
No.525と同文のため本文を省略すると注記され、同文書が梶山氏二代音久の譜中にも収められていることを示す島津元久宛行状。
(弘治三年)五月十八日 / 冊子 45~46頁
島津義久が樺山忠副の死を悼み、遺族の愁嘆を慰める書状。武道に名を残したことを本意として悲しみを和らげるよう勧め、上洛予定など近況にも触れる。
天正16年9月晦日 / 冊子 417頁
島津義久が、今後も相互に誼を結び、両者の船をそれぞれの領内で保護することを約した証状案。 安芸方面の船には薩摩・大隅の津浦で便宜を与え、上関を通る島津方の船も同様に扱うよう求めた、瀬戸内海航路の安全確保を示す。
正平十三年六月十八日 / 冊子 10頁
征西将軍宮が樺山源三郎久清の馳参を神妙と賞し、さらに軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
天文六年八月廿五日 / 冊子 758頁
島津忠朝が樺山久清に、世情が変転しても以前の約束と相互扶助を守り、困難の際には協力することを誓った契状。
「永享十二年」六月廿日 / 冊子 386~387頁
日向国野辺に居住する大覚寺義昭を早急に上進すれば忠節とし、恩賞は望みに任せるとして、野辺へ厳命するよう命じた足利義教の御教書。樺山氏四代孝久譜中に収められ、樺山源三郎久清所蔵の写しによる。
六月廿日 / 冊子 399頁
樺山源三郎久清所蔵で忠国公御譜中にも載る足利義教御教書。本文はNo.1220と同文のため省略され、義昭を早急に上進すれば忠節とし恩賞を約す文書に当たる。
永禄十年七月十三日 / 冊子 166頁
島津義久が提示された三箇条を了承し、その趣旨に違反しないことを誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇に加え、新田八幡、大隅正八幡、霧島六所権現、諏訪上下大明神、天満大自在天神などの罰を受けるとする。樺山源三郎久清に伝来した正文。
年月日未詳 / 冊子 416頁
天正十六年九月十四日、義久が娘とともに泉州堺から船出し、逆風による長い停滞を経て二十二日夜に薩州上関へ着いた記事。 到着後、上刑部少輔とその子・源三郎へ使者を送り、刑部不在のため翌日に源三郎が挨拶に来たことまで記す帰国旅程史料。
(慶長五年七月廿二日) / 冊子 554頁
島津義久(龍伯)が、六月二十五日付書状を七月二十一日に受け取り、上京命令を承知したものの、正式な早打ちの指示がなく雑説かと考えて支度を待っていると述べる。源三郎の弟二人や母・小傳次らが主人も承知しないまま下国したことを案じ、親子のうち一人は召し留めるべきであり、詳しくは上洛時に述べると伝える書状案。
嘉吉四年三月八日 / 冊子 408頁
島津持久が梶山殿へ、日向国北郷の島津井、大隅国および薩摩国魔島・知覧内の各買得地について異議がないことを認め、先例に任せて知行するよう命じた安堵状。
年月日未詳 / 冊子 417頁
天正十六年九月晦日、安芸から戻った村上刑部少輔が、先日の使者への礼を述べた際の交渉を記す。 今後、安芸国の船が薩摩方面へ来た時には他国商船より優先して便宜を与えると約し、証書・沈香・宝刀を交換した海運・商船保護の譜記事。
貞治四年閏九月廿六日 / 冊子 43頁
北郷北方一方分の田地を分配した相分注文。宮丸名内の御一向分を中心に、田名、作人、反別、請分を一筆ごとに対応させ、渋川義行・渋谷弾正少弼・樺山久清ら関係者の分を整理する。総計十五町一反余に及ぶ耕地構成と収納関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 123
天正三年十一月三・四日の出仕と酒宴を記す。三日は稲荷祭礼に供をし、御幣を取る川上源三郎へ衣服を渡した。御膳・幕の役人、宮仕の役と、寶持院の酒宴の座次を挙げる。四日には入来院・樺山らも参会し、對面所での点心・酒、三献の進行と贈物を記す。
現行年紀:寬喜元年十一月十一日 / 冊子 29頁/原整理番号 20/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0020
建部清綱が代々の御下文を帯して知行する大隅國祢寢院南俣地頭職について、曾木太郎重能の訴えにより双方を問注すべきことを記す。 重能は参上せず、智源三郎政茂が重能の譲状を得たとして関東へ参上し、問注を求めたという。 清綱は幼少で、一腹の舍兄伴太郎兼親も病気のため遅れており、政茂の上洛を挙げつつ、清綱を従前どおり安堵する。 重能がなお問注を望む場合は再び召し合わせる旨を示し、越後守殿の仰せとして執達する。
独立年月日なし(蓋紙寛政8年5月18日収録) / 冊子 124~126頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0028
相模守の続柄を、直系家族から叔父母・従弟・縁家・一統まで配列した一覧。祖母桂香院は紀伊故大納言宗直の娘、紀伊中納言治宝の叔母とする。奥方政姫、嫡子銀之進、二男永之進、雄五郎、四男寬之丞、娘お彌・お三津・お儔・お庸・お住を列記する。妹お糸は池田斉政の縁女、同お本は鷹司信茂の縁女。弟豊前守、同越中守・隠岐守、叔母圓諦院は毛利登房の母、邦媛院・酒井家奥様・伊豫守奥様等を続ける。従弟は徳川右衛門督以下を同で列記し、男女の子や婚姻先も示す。続いて公家・紀伊・諸大名家を縁家として並べ、御一統に京極・堀田・池田諸家の名前と実名注を掲げる。各人は続柄表の項目で、末尾の殿を宛名としない。相模守本人の続書であり、次の銀之進本人の続書と別に保持する。
天正三年三月十五日 / 冊子 145頁/原整理番号 80-1
天正三年三月十五日の犬追物手組。義久様二十九疋、島津上野守七疋、本田紀伊守三疋など射手ごとの犬数を列記し、検見を島津武蔵守、喚次を島津十郎左衛門尉とする。
寛永十四年(寛永十五年正月六日) / 冊子 323頁/原整理番号 170
島原陣に加勢する軍勢の割り当てを列挙した抄。軍大将は山田民部少輔と渋谷四郎左衛門、乗馬は豊後守と渋谷石見守とし、川上・堀・児玉・柏原・大嶋・福屋・始良・田上・福崎・上持・田原・村尾・佐藤・長谷場・深栖などの軍衆を配している。
文書本文の日付:未確認 / 冊子 569~570頁/原整理番号 五〇/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0050
御年貢収納のために遣わす阿多五大院神人等の交名を注進する。 一人ごとの名を二列に挙げる。 平太郎大宮司には殺害についての小字を付す。 周囲の裏判等の注記は本文の名列と区別する。
万治元年十月日 / 冊子 33~45頁/原整理番号 8-1
『御家文書所持之貴賤同考之記』として、島津家・家臣・寺院などの所持する御家関係文書、書状、口宣案、写し、案文帳などを所持者ごとに掲げ、島津家の代々に照らして日付・発給者・通数を記した文書目録。元暦二年の頼朝袖判の御下文から義久・義弘・家久期の書状までを収め、末尾に『惣合百六拾九通』とする。一方、張紙には提出帳の条書が『百五十八』と記されている旨の注記があり、両数値の関係は本文だけでは確定できない。万治元年十月付で、伊兵少老へ差し上げた帳の写しであると記す。
年月日未詳 / 冊子 543頁
川上久朗の子・久辰について、通称を源三郎、左近将監とし、母は阿多大炊助の娘、幼名は石船と記す川上氏支流系図。
永享八年十二月十三日 / 冊子 377頁
島津忠国が、島津次郎三郎(後の貴久)の加冠役として藤原満久を定めた文書。樺山氏五代満久の譜中に収載され、正文は樺山源三郎久清所蔵と注記される。
年月日未詳 / 冊子 397頁
樺山源三郎久清所蔵の足利義教御教書。本文はNo.1222と同文のため省略され、本末に年月日がない。義昭への処置が遅れていることを問い、速やかな決着を求める文書に当たる。
四月十三日 / 冊子 400頁
樺山源三郎久清所蔵で、本文はNo.1245と同文のため省略される足利義教御内書。大覚寺事件での忠節を賞し、樺山孝久へ太刀一腰を与えた文書に当たる。
長禄四年十月廿六日 / 冊子 439~440頁
北郷義久が、互いに二心なく契約を守り、諸方の出来事にも共同して対処することを誓い、違反時には神罰を受けるとした契状。正文は樺山源三郎久清所蔵。
長禄五年三月十二日 / 冊子 441頁
島津立久が樺山殿へ、後々まで二心なく契約を守り、諸方の出来事にも誠実に対処することを誓い、違反時の神罰を掲げた契状。正文は樺山源三郎久清所蔵。
年月日未詳 / 冊子 59頁
北郷久尋の三男・源三郎兵部敦久について、高城木崎口の地頭職を務め、永禄元年三月十九日に恒吉宮ヶ原で討死したことを記す系図抄。
天正元年九月 / 冊子 307頁
天正元年九月、島津軍が下大隅の咲花平に着陣した際、十三歳の川上源三郎久辰が初めて出陣し、殿軍の任務を務めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 31~33頁/原整理番号 7
島津安藝・島津大膳をはじめ、入来院石見、樺山源三郎、喜入摂津介、村田太右衛門、亀山又六、最上右近、指宿助左衛門、白濱治大夫らが所持する御家関係文書を、所持者別に列挙した記録。元暦二年の伊勢国波出御厨・須可御庄の地頭職御下文、島津御庄下司職御下文をはじめ、頼朝の判をもつ文書や後代の文書・写しを、日付・発給者・通数とともに記す。個々の文書の本文ではなく、所在と概要を示す目録である。