小久保清七郎への高五十石の知行目録
延享二年乙丑閏十二月十八日 / 冊子 874~875頁/整理ID 2341
小久保清七郎に高五十石の知行を与える目録。伊集院寺脇村、志布志月野村、谷山下福元村、真幸吉田亀沢村の所領を掲げ、御家中に召し出されたうえで高五十石を下置する旨と、従来どおり知行すべきことを記す。役人五名の連署がある。
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延享二年乙丑閏十二月十八日 / 冊子 874~875頁/整理ID 2341
小久保清七郎に高五十石の知行を与える目録。伊集院寺脇村、志布志月野村、谷山下福元村、真幸吉田亀沢村の所領を掲げ、御家中に召し出されたうえで高五十石を下置する旨と、従来どおり知行すべきことを記す。役人五名の連署がある。
寛政3年亥11月(本文) / 冊子 109頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0016
佐野善次郎が清七へ出した一札。清七の娘かよを自分の姪分として、去る戌7月に松平豊後守方の抱奉公へ差し出したと述べる。結構に召し使われて御手当や御合力などが下される場合は、何事も清七へ相談し、自分だけで取り扱わないと約束する。等閑にした時は、どのように申し立てられても異存ない旨を記す。寛政3年亥11月、佐野善次郎印、清七殿宛。姪分は本約状の奉公取次上の表現で、実の親子・叔姪関係が確定したと読み替えない。
寛政5年丑5月14日(本文。年次は一件による) / 冊子 113~114頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0025
清七夫妻と佐野父子への処置を、主計(二階堂行智注)から谷村孫右衛門取次で伝え、橋口與三次宅へ呼び出して桑山が申し渡した書付写。清七夫妻・善次郎父子はいずれも難有いと請礼したと記す。清七と妻には当分の容として高輪御下屋敷御借店裏明地に家を造り、住まわせる命令を示す。家作は自分調いとし、清七に年々金27両、但し15人扶持・米27石の賦とする注、妻に年々金30両を下す。申聞きを含む取扱いは御留守居、家作造立等の吟味は承向へ指示する。丑5月14日という記事日付と、命令末尾五月・主計署を伴う。前附書の処置案から、具体的命令と受命後の請礼へ進んだ段階である。
寛政5年丑正月(本文) / 冊子 110~111頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0019
清七と妻きんが、実の娘と申し立てる嘉代の奉公後の消息と、困窮する自分たちの処置を願う書。去る戌7月に佐野善次郎を当宿として娘を屋敷へ奉公に出したが、便りがなく、善次郎にもたびたび頼んだと訴える。三、四年音信がないことから急に面会を願ってもかなわない事情を受け、国元で結構に暮らすと知った謝意と、機会があれば面会したい願いを述べる。夫妻は浪人で困窮し、娘の居所も分からないため、嘉代の奉公の縁によって御町屋敷内へ召し置き、浪人分として相応の扶持を見合って与えてほしいと願う。家内人数書を添える。寛政5年丑正月、清七印・妻きん印、薩州方役人宛。実娘は願人の申立てとして記す。
寛政5年丑正月21日(本文正月21日。年次は一件による) / 冊子 111頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0020
麻布山谷町吉兵衛店にいる浪人鈴木清七の家内を、清七印、同妻きん、同娘嘉代、同りんの順で列記し、右の通りと届ける人数書。丑正月21日付。張紙として載せられ、年次は同一件の寛政5年による。嘉代を清七の娘とするのはこの提出書の続柄記載であり、後の調査で示す兄甚五郎の娘という説明を消して親子関係を統一しない。
十二月(本文。寛政7年とする年次は一件配列による推定) / 冊子 104~105頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0009
お八百の奉公届と実の由緒が異なった件について、母・清七夫婦の一世養料と今後の取扱いを命じる内意を御取次が伝えた写し。初めは書院組同心佐野善次郎の実子として奉公を願って抱えられたが、実際には父甚五郎の娘で、五歳の時父を失い、母がその弟清七へ再縁したと判明した。清七は叔父で、再縁後に妹りんが生まれたと説明する。清七を八百の家本と取り違えないこと、由緒により母・清七へ一世の宛行を置くことを記す。ただし清七の身分格式は召し出さず、夫婦を一世養計し、りんは他の養女として相応の縁組を取り計らう。清七の後子は男女とも養子にできるが、在年に至って子ども等の養子の取扱いを等閑にしないよう相談させる。十二月、御取次佐次右衛門、岩下方恭の注。
寛政8年正月(本文) / 冊子 105~106頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0010
お八百由緒の件の別紙命令を受け、清七は今後八百の家本として取り立てるべき者ではないことを家老同席で承知し、記録・後年継承を指示する申渡書。誰がどのように申し立てても取り上げず、将来若殿様が成長して仮に沙汰をした場合も、今回の趣旨を申し上げて命令と違わないようにする旨を記す。御記録奉行への命令に添書で申し渡し、由緒等は別冊に詳記するとする。同席中が承知し、後年間違いなく継ぎ送ること、さらに沙汰の趣を理解することを約す。寛政8年辰正月、久馬・求馬・播磨・勘解由・河内に続き次頁に右膳・伯耆を記す七官途署名。目録の外六名と対応する。
独立年月日なし(八百の続書) / 冊子 106頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0011
お八百の家族の続柄を一覧にした書。父は浪人で亡くなった甚五郎、家跡はないとする。母は鈴木清七の妻で、甚五郎死後に再縁したとの注を伴う。叔父は浪人鈴木清七、妹は同人の娘りんと記す。末尾は右の通りとする短文で、独立日付・署名・宛名はない。口裏はお八百続書。八百の父甚五郎と、母の再婚相手で叔父でもある清七を同一人物としてまとめない。
寛政4年11月26日(本文11月26日、年次は書抜の標題) / 冊子 106~108頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0013
鈴木清七妻ぎんの訴えを聴取し、佐野善次郎側にも問い合わせた経緯と、双方の説明の不一致を報告する届書。寛政4年11月の鈴木清七一件書抜に含まれる。ぎんは、実娘嘉代を屋敷へ奉公に出し、善次郎を当宿としたが取次が途絶え、実の親と違う関係で扱われていると訴える。桑山は善次郎側に問い合わせ、嘉代を幼年時に引き取り奉公へ世話したこと、親類書は善次郎弟養伯の娘として書き上げたという説明を得た。清七を実父とする説明と、清七は入夫の継父だとのぎんの主張が食い違い、親類書・衣類送付・扶養・取次についても一致しないとする。娘との面会や安否確認を求める別紙願書と善次郎側の書付写二通を添え、取扱いは吟味次第に委ねる。11月26日、桑山甚助、橋口與三次宛。
寛政4年10月20日(本文) / 冊子 108頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0014
麻布山谷町吉兵衛店の浪人鈴木清七方の願いを、妻ぎんが申し立て、家主吉兵衛が添印した願書。実の娘かよが当年22才であり、書院御番頭長谷川丹後守組の佐野善次郎を当宿として御屋敷奥へ奉公に出したが、以後の安否が分からないと訴える。善次郎へたびたび取次を頼んでも便りがなく、役人衆を通じてかよの安否を知りたいとする。御屋敷へ直接訴え、娘と面談し、差し置かれた次第を聞くよう慈悲を願う。寛政4年壬子10月20日、鈴木清七願付代として妻ぎんの願人記載、家主吉兵衛印、松平豊後守方役人衆宛。これはぎん側の願いで、娘の実父・身分をここで確定した裁定ではない。
寛政4年11月26日(本文11月26日、年次は一件書抜による) / 冊子 109頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0015
大奥女中嘉代の件で、麻布山谷町の浪人鈴木清七の妻から出された願書について、御留守居付役桑山甚助の報告を橋口與三次が受け、処置を吟味するに先立って願書を差し上げる届書。願書に対する取計いは吟味中として述べ、既に面会や扶持を許したとする文面ではない。11月26日、橋口與三次署名。張紙であり、朱注に本文を岩下佐次右衛門の取次で差し出したと記す。年次は前後の寛政4年一件書抜による。
寛政5年正月23日(本文。年次は同一件による) / 冊子 110頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0018
清七妻の願いを都合よく取り計らうよう命じられたことを受け、橋口與三次が桑山を通じ夫妻に伝えた結果、謝意と別紙願書が出たと報告する。夫妻への手当と善次郎への吟味・取扱いを共に整え、嘉代については一生の養子取扱いをしても双方に問題がないようにするという意見を述べる。なお何も取り扱わずには済まないとし、当面は願いに沿って八官町御屋敷裏地、または高輪御屋敷裏地面に夫妻を召し置き、扶持方を見合って下すのがよいかと提案する。正月23日橋口署名。岩下取次の朱注を伴い、召置・扶持は実施済みの命令として断定しない。
寛政5年正月(本文正月。年次は同一件による) / 冊子 111~112頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0021
清七の身分を内々に調べるため、小野半次が本人・妻きんを訪ねて聞いた内容を桑山へ報告する。清七によれば、亡父代は土井周防守家来であったが暇を得て浪人し、兄甚五郎は江戸に住んだ。清七は三州刈屋の土井兵庫頭家の伯父に実子がないため養子となったが、兄の病中世話で江戸へ出た後、伯父に子が生まれて離縁となり、甚五郎の妻きんへ入夫したという。きんもこれに同意し、嘉代は亡夫甚五郎の娘、りんは清七との娘で14歳と説明した。きんの出身は川崎宿いさこ町百姓六右衛門の娘とする。家の転居・当夏類焼後に吉兵衛店へ仮住まいした経緯も聴取する。正月、御留守居組小頭小野半次、桑山宛。夫妻から得た由緒説明として記す。
寛政5年正月21日(本文。目録は19日) / 冊子 112頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0022
小野半次の直前の身分調査を受け、清七の身分について御見合のため内々に承り合せたことを、桑山甚助が橋口與三次へ届ける短い書。正月21日付、桑山署名、橋口宛。朱注には、本文を橋口から岩下佐次右衛門へ差し出したとある。清七の由緒を新たに裁定する書ではなく、調査結果の取次である。年次は同一件の寛政5年による。目録345の14の日付は正月19日で本文の21日と相違するため、本文日付を採り差を留保する。
寛政5年丑正月27日(本文。年次は一件による) / 冊子 112~113頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0023
嘉代の件の願書と再願について吟味した処置案を、桑山甚助が橋口へ上申する。何も取り扱わなければ公訴・外聞にも関わるとし、当初は生涯の養女として宿元に置き、金子と永続的な暇遣いを行う案も考えたが、従前の内意とは違い、妹の取扱いを特別手厚くすると振合が難しいと論じる。清七夫妻はまず町御屋敷内に召し置き、浪人分の扶持を与え、以後の取扱いは追って吟味する案を述べる。善次郎は内々の懇意を利用して養女と申し立て、清七への詮索を不十分にした不束があるため、佐野中藏を早く屋敷へ召し出して中小姓に付すと今度親子が離れ外聞にも関わると指摘する。中藏の召置と善次郎の召入れ内定の扱いは御内用方掛りとも相談し、御沙汰を願う。正月27日桑山署名、橋口宛、岩下取次朱注。
寛政5年丑正月27日(本文。年次は同一件による) / 冊子 113頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0024
桑山の吟味を受け、橋口與三次が清七夫妻と佐野父子の処置について上申する。夫妻の願いに対し嘉代が実娘であると述べ、何らかの取扱いが必要だが、外方へ置いて手当だけを与えると万端の面倒にも関わるため、当面は内願に応じ八官町・高輪町または御屋敷裏地面に召し置き、浪人分の扶持を見合って与え、後の処置を追って吟味したいとする。善次郎は嘉代を養女と偽った初発の不束があり、清七の困窮を調べず親として救う実情もなく、取究めが不十分だったと評す。善次郎の召入れを清七への処置へ引き替えることや、中藏の召出・中小姓任用は居合いを考慮すべきことを述べる。外方の振合も含め双方に無難な処置を望むが、橋口側だけでは手段を立てがたいとして御沙汰を願う。丑正月27日橋口署名。批評・提案と最終命令を区別する。
寛政5年5月(本文五月。年次は一件による) / 冊子 114頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0026
新規に召し出され中小姓に付けられた佐野縫右衛門へ、当分の大奥奉公を命じる申渡書。かよが初めて抱えられた時の、父善次郎の不束な取究めが後になって分かったので処罰・申渡しの趣旨はあり得るが、善次郎の世話でかよが奉公するに至ったことを考え、当分はこの取訳で召し置くので有難く承知するよう伝える。また善次郎を隠居仕上で抱える内定もあったが、かよの身分の説明が誤っていた点を承服した上で、今後の扶持方等を清七夫婦・かよの実方へ与えるよう命じ、善次郎には以後御構いがないとする。御留守居から程よく申し聞かせるよう指示し、五月と記す。目録は二階堂行智申渡書だが、本文に独立署名はない。
寛政5年丑7月13日(本文。目録は23日) / 冊子 114~115頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0027
先の命令で清七夫妻へ年中御給金30両と御扶持米代金27両を下し、高輪御下屋敷御借店裏明地へ召し置くことが決まっていたところ、家ができたため勝手次第に転居するよう伝え、本日家内全てが移転を済ませたと桑山甚助が報告する。今後の居所については借店同様に扱い、御留守居付役から差引きをするよう命じたことも清七へ伝えたと記す。丑7月13日付、桑山署名、橋口宛。次頁に橋口が右の通り桑山からの申出を上申する同日書付を付し、朱注で谷村孫右衛門取次による差出しとする。目録345の19は7月23日だが、記事首・本書・橋口上申は13日なので本文日付を採り、差を留保する。
年月日不記(慶長三年・天文元年などは各人の生没・事績年) / 冊子 630~639頁/原整理番号 114
平姓加世田氏の長大な系図で、桓武天皇五代の平良文を祖とし、村岡・鎌倉などの系線から薩州へ続くとする家伝、各代の婚姻・養子・官途・法名を載せる。景通を源頼光朝臣の四天王の一人とし、信道らを代々川辺の城主と記す。益盛には十三歳で肥後の首級を得たこと、高城での働きと知行加増の記事があり、忠吉には平治元年の追罰による琉黄島への流罪を記す。後代では家長が慶長三年に朝鮮国の番船で戦死し、子がなかったため景昌が跡を継いだとする。末尾の別紙には加世田新兵衛尉の朝鮮国での戦死、弟次兵衛の別家創設、折田清七郎三男を養子に迎えたことを記し、嫡流と分家の継承を補う。
寛政5年丑正月23日(本文) / 冊子 109~110頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0017
嘉代をめぐる清七妻ぎんの願いについて、去冬の報告後の聴取と再提出を桑山甚助が報告する。ぎんが度々訪れ、善次郎の不埒な取扱いを公訴として取り上げたいと訴える一方、桑山は清七夫妻の浪人暮らしと困窮を考慮し、願いを放置すれば外聞にも関わると述べる。正月18日に夫婦を呼び、嘉代が国元で結構に暮らすと聞いて有難いとする夫妻の意向を確認した。即時面会を強く望むのではなく、機会があれば願いたいことと、夫婦の今後の取扱いを内願として整えさせ、20日に清七が願書を持参したとする。別紙を添え、処置の吟味を願う。正月23日桑山署名、橋口宛。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 458~460頁/原整理番号 266-4
記録所による家筋の調書。島津備前守忠清から新納家への系譜、養子・家督相続、所領の継承を史料に照らして検討する。