島津忠恒書状
文禄4年10月26日 / 冊子 920頁
忠恒は友枕斎の無事な帰国を祝うため、本田治右衛門尉を使者として遣わした。 長期の在京を終えて帰国したことを喜び、使者を通じて今後の用件や関係者への連絡を取り次ぐ、帰国祝いの書状。
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文禄4年10月26日 / 冊子 920頁
忠恒は友枕斎の無事な帰国を祝うため、本田治右衛門尉を使者として遣わした。 長期の在京を終えて帰国したことを喜び、使者を通じて今後の用件や関係者への連絡を取り次ぐ、帰国祝いの書状。
年月日未詳 / 冊子 360頁
一瀬崎野の御牧に三十余疋がいるため馬見廻役を定めて改めること、帖佐から二階堂伝右衛門尉・野添善兵衛尉を呼び寄せて調査させ、在々の放馬も念入りに捜すことを報告する。また出水城の構えを調べ、市来治右衛門尉に絵図作成を命じたと記す。
年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
承応三年五月二十三日 / 冊子 242~243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0506
町田久則が、橋口七左衛門・長友主水・前田蔵人三人の禄高・屋敷を列記する。三人は新納加賀の大口地頭所で諏方采女が数年預かっていたが、今回大村地頭所へ召し移すので支配するよう、高奉行の高城喜左衛門・有馬治右衛門へ命じる。末に五月二十三日町田久則印、筑前・図書の印がある。
4月16日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 183
其後御無音申移候、去年より我等事も御用に召され、弟子丸播磨守殿へ御用共候として、相調候事難成躰を述べる大迫尚信書状。旧記雑録後編五所収の長文書状で、浮世人帳や切支丹禁制、伊地知治右衛門重時の事績を論じ、卯月十六日、大迫権右衛門尉尚信から伊地知治右衛門宛で結ぶ。
宝永六年四月二日 / 冊子 834頁/整理ID 2781
奥村治右衛門が四月二日、島津帯刀へ、井上河内守への御礼について内々確かめたところ、先に本多正永から示されたとおり既に済んでいるため、今日改めて井上へ礼を伝える必要はないと知らせる。今後、御奥方から女中使を差し上げる件は大奥に問い合わせるのがよく、そのような際は女中使を用いるのが相当との意見を伝える。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.490の記事の一部と同文であるため省略されており、島津忠恒(家久)の接近射撃・敵中突入・追撃を中心とする新寨決戦記事を参照する構成となっている。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
宝永六年三月十二日 / 冊子 827–828頁/整理ID 2764
島津帯刀仲休が三月十二日、薩摩家老五名へ、琉球中山王使者の代替祝儀を先例どおりとする照会経過を報じる。朝鮮は隣国の交好による挨拶だが琉球は先祖の武威で支配したため格別とし、琉球使者の来聘は日本の威光に関わる重要事とする。海路・風に応じ早く通知し、来夏の使者を認めた件を国元へ書き留めるよう求める。方角絵図は先方に留め置かれ、口上書のみ返却されたので絵図写と琉球由緒書を追送し、奥村治右衛門を介して照会するよう伝える。
天保6年正月27日 / 冊子 1008頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2743
斉興公御譜中の記事。天保六年乙未春正月二十七日、大御所から上使安藤治右衛門を通じて、斉興へ御鷹の鶴が与えられたことを記す。
五月8日薩摩藩の届写、昨7日夕の戦闘を暫報 / 冊子 562頁/原整理番号 727/整理ID 727
五月八日付の薩摩藩の届写。斥候の有吉庄之丞・湯地治右衛門・有馬早八郎が昨七日夕に根岸辺で彰義隊の者八九人と出会い、屯集へ同行するよう囲まれ、断ると斬り掛かられて戦ったという由を報じる。三人のうち一人がその場で斬り伏せられ、敵二人を討ち六人に傷を負わせたとの報を述べる。残る二人は脱出し駒込千駄木観音堂前まで退いたが、深手を負い追撃を受け、一人が切腹し、他の一人も割腹しようとしたところ早く鉄砲で撃ち伏せられたとする。探索の者が届け出たため、追って確証を得て詳細を報じるが、まず知らせておくと結ぶ。死傷の認定は届書の暫報として示し、三名のうち誰が各記載に当たるかは割り当てない。
年月日未詳 / 冊子 384頁/原整理番号 486
『小川監物日記』は、卯月二十七日、上使の有馬引陣に船が必要なため分国から借りることとなり、舟追立として宮里壱岐守を坊津へ送ったと記す。二十八日には津留新左衛門尉・伊集院治右衛門尉を片浦へ通した。
元禄十二年八月五日 / 冊子 141頁/整理ID 503
島津図書・島津中務・喜入安房・肝付主殿が町田彌次右衛門・浅山治右衛門・神宮司外記へ、伊集院三右衛門・酒匂源左衛門が島津左京の願書と口上を届け、その内容を中将へ披露した結果、米五千石の扶助が認められ、左京へ別紙の書付を遣わしたと伝えた連署状。詳しくは両使者から聞くよう指示する。
元禄十二年八月五日 / 冊子 144頁/整理ID 506
島津図書が町田彌次右衛門・浅山治右衛門・神宮司外記へ、伊集院三右衛門・酒匂源左衛門が島津左京の願書を持参したため、同役中で相談して中将へ披露し、その意向を連署状で伝えたと知らせる書状。詳しくは両使者から聞くよう告げる。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 148–150頁/整理ID 523
神宮司外記ほか佐土原側五名が家老五名へ、島津左京の上野中堂御手伝で生じた借金、扶助米五千石と運賃米七百石、銀への換算、十年年賦による返済、知行・扶持方の削減、家中倹約を整理して申し上げた口上覚。新たな借金を避け、家老が正道を守って家中を統制し、財政を立て直す方針を示す。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 150–151頁/整理ID 525
神宮司外記ら計五名が高橋左門・野村太左衛門へ、島津左京方が銀五百五十六貫目と米五千石を借りたことを証した連署証文。米は一石六十匁替で代銀三百貫目、二口合計銀八百五十六貫目とする。来辰年から毎年銀八十五貫六百目ずつ十年年賦、毎年極月までに大坂御蔵屋敷へ滞りなく返すと定める。神宮寺外記の署には司との傍注がある。
宝永六年四月三日 / 冊子 834–836頁/整理ID 2782
島津帯刀仲休・種子島弾正伊時が四月三日、国元家老四名へ、吉貴室の女使・献上手続を詳報する。三月二十五日本多正永の指示、四月朔日井上正岑の確認を経て、二日四ツ半に岡村が西丸へ参上し、豊原の取次で家宣に御目見し、八重姫・松姫らに続き上がった。一行は十六人を二段に召し出され、岡村へ銀十枚の目録、御台君から小袖一重と銀五枚、部屋から銀二枚等を受けた経緯を記す。重ねて礼使を出す要否を照会したが不要とされ、今後の献上物も表方へ問い合わせず大奥の差図に従う旨を奥村の連絡で確認した。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁/原整理番号 746
正月十六日を中心とする島原軍衆の人数差出留。前日到着の本田らの主従人数、始良衆・佐多衆・新納らの軍衆と夫丸、乗船勤務・到着地を記し、頴娃御蔵からの米受領、各人への米支給を注記する。季安は以後を十七日条へ分けたと説明し、十六日に米津へ到着した二階堂家中・敷根・福山・須木の人数を追記する。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
(貞享三年)七月廿四日 / 冊子 763~764頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2000
中神内蔵丞・村田為左衛門経景・相良主税長清が椛山主馬らへ、御用を命じられ翌二十五日に赴くと伝える。式部少輔と島津右京が同座して各人に命令を申し伝えるよう指示されたが、右京は当分遠所にいるので、こちらから参るよう望まれた場合には面会できると知らせる。
五月六日 / 冊子 716頁/整理ID 2423
相承院が島津帯刀へ、頼朝公の鬢髪は類のない寺宝で焼失・紛失を恐れるとして、一部を国元の白幡社へ奉納するよう願う口上書。鬢髪二、三本を本尊の首にも納めたいとし、瀬治右衛門へ詳しく話したと記す。
年月日未詳 / 冊子 113~116頁/原整理番号 22-3
兼清治右衛門を起点とする肝付氏庶流系図。兼清は没年月・法名不詳とし、志布志士永山主計の二男兼陳を嗣子がないため養子に迎えたことを記す。兼陳は慶長二年生、万治三年没・六十四歳、法名亭月陳長上坐。兼林・兼高以下についても、寛永・明暦・寛文・天和・宝永・享保・宝暦・明和期の出生・没年、法名、母方を列記する。志布志士川野・久保・愛甲・瀬戸口、皿良・大脇・平田・大迫・吉国・坂元などとの婚姻を示し、別家、肥後源五左衛門・河野佐市兵衛・吉国次郎右衛門への養子、女子の嫁家を系線で整理する。末尾は兼典四郎の明和九年五月二十九日出生記事で終わる。
正文丁卯正月/目録慶応2年1月(年次異同を保持) / 冊子 401頁/原整理番号 572/整理ID 572
近年の皇国の難しい形勢に加え、先帝が崩御し新帝が幼年となったことを嘆息すると述べ、天朝の高恩を受ける当家として傍観し難いため、太守との相談の上、中将が天気を伺い今後の策を建てるべく上京することを伝える。太守も上京する予定で、在国の間は領内一同がこの趣旨を体し、職掌を励み、内外の備えを十分に行き届かせるよう命じる。丁卯正月、圖書・右衛門・龍衛・伊勢の四署の通知。感情・臣子としての責務と天朝への高恩は通知の叙述として示し、上京予定や備えの指示を実行済みの成果としない。本文を慶明雑録によって補正したとの編纂注がある。
天明7年正月吉祥日 / 冊子 113頁/原整理番号 22-2
肝付氏嫡流古系図の巻頭を掲げて当流の出自伝承を説明する、天明七年正月吉祥日付の源盛富段書。河内守兼続入道省釣の致仕後、豊前守兼隆の弟・治右衛門尉兼清を鼻祖とする伝承を示す。ただし古系図には兼隆・兼清を確認できず、年代が隔たり徴すべき文献もないため系線を接続できないと判断し、兼清を肇祖として後代の再撰の助けとなるよう、見聞に基づき世系を訂考した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 159~160頁/原整理番号 505
末吉の肝付覚左衛門家系図。上世の出所は不明と注記し、権之助豊前守兼隆が十七歳で伊東河内守を討ち、恩賞として知行六町を得たこと、二十三歳から兵道を行い、岩屋城攻めで敵三人を討ち取ったことを記す。兼隆が肝付郡高山から末吉へ移った由緒を述べ、治右衛門兼清・覚左衛門兼豊以下、伴右衛門・権右衛門らの分岐と婚姻を列記する。