年代記
永禄三年十二月十一日 / 冊子 83頁
永禄三年、島津貴久の代に大隅国正八幡宮の遷宮が十二月十一日に行われたことを簡潔に記す年代記記事。
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永禄三年十二月十一日 / 冊子 83頁
永禄三年、島津貴久の代に大隅国正八幡宮の遷宮が十二月十一日に行われたことを簡潔に記す年代記記事。
年月日未詳 / 冊子 75~76頁
永禄三年、幕府が伊勢備後守貞運を派遣し、島津氏と伊東氏の停戦を調停した経過を記す。貴久が末吉で上使と会い、新納忠元・肝付兼盛・樺山幸久を通じて返答し、飲肥領有と和平条件を折衝した。正八幡宮修造にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 76頁
島津義弘が飫肥の島津忠親の猶子となり、永禄三年三月十九日に薩摩を発って飫肥へ赴き、防御を固めた経緯を記す。帰薩後に再び伊東勢来襲を聞くと、貴久父子の制止を振り切り、忠親との親子の契約を守るため救援へ駆けつけた。
年月日未詳 / 冊子 76頁
永禄三年五月十一日に戦死した財部武蔵盛慰について、戦場・所属などを注記する殉国記事。
年月日未詳 / 冊子 77頁
田布施大明寺の勝手大明神へ、永禄三年に島津忠良(日新)が自筆の額一枚を奉納し、社を再興したことを記す由緒書。
年月日未詳 / 冊子 517頁
山田氏十二代久武が永禄三年正月二十四日に生まれ、山田忠時に家統を継ぐ子がなかったため猶子となったこと、実父は上総介忠通であることを記した系譜。
年月日未詳 / 冊子 66~67頁/原整理番号 17-5
江夏氏を黄帝・陸終の末孫に連なる家として記し、難を避けて日本へ渡って旧族譜を失ったため、後世の証として近代の名ある者を列記する。続頁には永禄三年冬至吉日の年紀と、友賢・栄宗・栄守・栄春らの系譜を掲げる。
(永禄三年)三月七日 / 冊子 76頁
相良頼房が島津氏へ新春の祝意を述べ、先の使書への丁寧な返答を喜び、今後も意見を交わしたいと伝えた書状。
永禄三年六月吉日 / 冊子 77頁
島津貴久が正八幡宮御宝殿へ刀一柄を奉納した寄進状。刀の銘・作者を記す。
永禄三年六月吉日 / 冊子 77頁
島津貴久が正八幡宮御宝殿へ刀一柄を奉納した寄進状。No.147と同文として本文が省略されている。
永禄三年十二月十三日 / 冊子 83頁
No.158と同文として本文を省略し、島津貴久による正八幡宮再興・遷宮の記事であることを示す。
(永禄三年)六月二日 / 冊子 221頁
足利義輝が島津修理大夫に、両国間の争いを続けるのは不適当であり、早く和睦して無事に帰すことが肝要だと命じた御内書。同じ趣旨を伊東方にも伝え、詳細は近衛家から説明させるとする。
(永禄三年)六月二日 / 冊子 221頁
近衛植家が島津修理大夫に、日向方との争いは不適当なので和睦すべき旨の御内書が発給され、使者として伊勢備後守が派遣されたと伝えた書状。是非をいったん置いて受諾することを求める。
永禄三年六月朔日 / 冊子 342頁
島津貴久が講堂完成の報を喜び、完成までの力添えを依頼した書状。伊集院大和守を担当として申し付けるので、郷衆と協力し、分国の面目を損なわないよう尽力することを求める。
(永禄三年)十月四日 / 冊子 79~81頁
永禄三年十月四日から二十七日まで、幕府上使伊勢貞運が末吉へ下向し、島津・伊東両氏の飫肥をめぐる和平を調停した経過を樺山善久が日次で記録する。島津方は飫肥を公領として伊東へ渡さないことを主張し、上使との会見・返答・贈答を重ねた。
永禄三年十二月十三日 / 冊子 83頁
島津貴久が正八幡宮再興を進め、日秀上人を本願として国内で勧進し、知定坊を上京させて神体を造立、叡覧を経て下向させた経過を記す。永禄三年十二月十三日に遷宮し、二十五菩薩の面具、獅子皮文飾、金襴の幡二十五流、白銀の幣一流などを奉納し、八幡七字を冠した和歌十一首を詠んだ。
年月日未詳 / 冊子 77~78頁
永禄三年夏頃、伊集院忠純の家臣の言動を発端に肝付兼続が島津貴久を怨み、鹿児島を去った経緯を詳述する。兼続方は廻伊豆守の城を奇襲して奪い、伊豆守を討ち、兼続自身も廻城へ入って島津方と対立した。
年月日未詳 / 冊子 79頁
永禄三年、足利義輝が伊勢貞運を派遣して島津・伊東両氏の和平を図った際、新納忠元が樺山幸久・肝付兼寛らと末吉で応接し、調停に功績を挙げたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 81~82頁
永禄三年十月、将軍足利義輝の命で伊勢貞運が島津・伊東両氏の和談を調停した際、島津貴久が末吉で会見し、新納忠元・樺山幸久・肝付兼寛に応答を任せたことを功績として記す。
永禄3年10月吉日 / 冊子 48~49頁/原整理番号 49の1
忠久下向時以来の役人の由緒を記す。本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御剣役人とし、東条・西条・鎌田・山田とあわせ下向役人七人という。旗指は真幸ツハノの相京方(原注は愛甲)にあったが、氏久代の國合合戦で討死し、その後左近が旗指となったと伝える。永禄三年十月吉日付で、正文は貴久公御譜にあるとの注記を伴う。
年月日未詳 / 冊子 49~50頁/原整理番号 49の2
伊地知季安が永正頃の清水城の年中御式五十九ヶ条と役人の由緒を考証する。評議に加わる老臣や下向役人、愛甲から左近への旗役継承を、聖栄自記などの記録と比較し、永禄三年の書付の年代には考え難い点があるとする。さらに藤野家伝来の錦直垂・御旗に関する今川了俊書状について、肝付譜の水島説や南山巡狩録の記述を検討し、天授元年・永和元年八月二十九日の記事とあわせて掲げる。
巻二/冊子 15~18頁
島津忠国の弟季久の子忠廉が文明十八年から日向飫肥に居住した由緒と、永禄三年の将軍上使伊勢備後守による島津・伊東間和平交渉を詳録する。上使は飫肥を公領として和睦させようとするが、樺山善久ら島津方は、飫肥が頼朝以来の島津領であり伊東領ではないと反論し、伊東が飫肥へ手を出さないことや大友氏との協調を条件として確認する。続いて貴久は忠廉の孫忠廣の継子として忠平(のち義弘)を飫肥へ送る。忠平は一年後に薩摩へ戻り、その隙に伊東勢が飫肥を囲むと救援を望むが、貴久・義久に止められ、養父忠廣との関係に苦悩する。後半では肝付兼続が貴久への礼を欠き、廻城を奪って伊地知重興・禰寝重長と結び反乱したため、島津軍が竹原山・廻城で戦う。忠将は制止を聞かず敵中へ突入して戦死し、町田忠林ら七十余人も討死した。肝付方は敗れて恒吉へ退く。忠平は忠廣の勧めで薩摩へ帰り、忠廣は北郷八代系の忠親を養子とする。忠親はいったん飫肥城を伊東氏へ渡すが、同年九月に策を用いて再入城した。和平外交、忠平の養子関係、肝付反乱、忠将戦死、飫肥家継承を結ぶ記事である。
(永禄三年)五月十六日 / 冊子 76~77頁
島津貴久が歳久に、蒲生から九郎をその方へ移すことを知らせ、加世田での談合後に末吉へ上る予定や、鹿児島で迎え、月末には境へ出陣する覚悟を伝え、用心を促した書状。
(永禄三年)九月十一日 / 冊子 78~79頁
大隅国桑原郡の正八幡宮三所大菩薩の神体九躰を造立して叡覧に備えたことを賞し、檀那島津貴久の尽力を神妙・懇志大切と伝えた論旨副状。
永禄三年十月吉日 / 冊子 82頁
島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。
永禄三年十月吉日 / 冊子 82~83頁
島津忠久下向時の七役人を列挙し、本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御鎧役人などとする職掌の由来や、合戦での役目継承を記す。
「永禄三年」十月七日 / 冊子 347~350頁/原整理番号 45
伊勢備後守の下向に伴う島津・伊東間の和議交渉を、十月七日から十七日にわたり記す筆記。貴久らは上意への奉公、所領の沙汰、日向の和平、飫肥の境界と退陣を話し合う。伊東方が三国守護職を受けたとの説に対して、島津側は守護職の証文と先例を示し、仲介者が理解するまで応答を重ねた。酒宴・衣服の交換・刀剣や道具の贈答、境界料所の扱いも記す。末尾では縁組の風説を否定し、伊東との和平と所領問題を扱う調法を備後守に依頼する。
(永禄三年)十月廿八日 / 冊子 350頁/原整理番号 46
伊勢貞運が新納・樺山・肝付に、帰国後の和議の取りまとめを依頼する書状。和議が延期しているため飛脚を出し、伊東方の請書と入道殿種々の件を厳重に扱うよう求める。料所の件では意向を承り、召集する住民にも通知したいとする。下知などの調整を受けて貞運が飫肥へ向かい、豊州側も来ること、双方の年寄衆を派遣して大方で取りまとめる会合を相談する。