島津義弘譜
年月日未詳 / 冊子 868~869頁
豊臣秀吉への献上を意識し、朝鮮在陣中の島津勢が猛虎を狩った経過を詳述する。昌原付近で虎を追い、兵が負傷・戦死する中、安田次郎兵衛らが刃を振るい、忠恒も自ら虎に迫った。 虎の肉や内臓を秀吉へ進上する計画、山中での追跡と射撃、家臣の働きを伝える臨場感ある狩猟記事。戦場外で行われた虎狩りの危険と主従の行動を知る貴重な史料。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 868~869頁
豊臣秀吉への献上を意識し、朝鮮在陣中の島津勢が猛虎を狩った経過を詳述する。昌原付近で虎を追い、兵が負傷・戦死する中、安田次郎兵衛らが刃を振るい、忠恒も自ら虎に迫った。 虎の肉や内臓を秀吉へ進上する計画、山中での追跡と射撃、家臣の働きを伝える臨場感ある狩猟記事。戦場外で行われた虎狩りの危険と主従の行動を知る貴重な史料。
年月日未詳 / 冊子 869~870頁
豊臣秀吉へ薬用の虎肉・内臓や毛皮を献上するため、朝鮮在陣中の島津勢が虎を追った経過を家久譜から詳述する。島津彰久の臣・安田次郎兵衛や長野助七郎らが接近戦を挑んだ。 虎の逆襲で死傷者を出しながら二頭を仕留め、小西行長へ成果を報告したという。狩猟の危険、家臣の戦い方、献上品調達が一体となった臨場感ある記事。
年月日未詳 / 冊子 899頁
島津彰久が文禄四年七月五日に朝鮮で病死し、享年二十九、法号を天宗慈雲大禅定門としたことを記す。 家臣の安田次郎兵衛が主君の死を追って殉死した逸話も載せ、朝鮮在陣の人的損失と主従関係を伝える。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 905頁
島津彰久が文禄四年七月五日、朝鮮巨済島の陣中で病没し、殉死者を伴って葬られた経緯を記す。 法号「天宗慈雲大禅定門」と、同年八月十日に義久が追悼文を贈ったことを掲げ、朝鮮在陣中の死と島津家の服喪を結びつける譜記事。
天明四年(日付なし) / 冊子 749頁/原整理番号 2114の3/整理ID 2114-3
大井屋敷の作事願いについて使者から伝えられた趣旨を承知したと名主貫蔵が返答する短い書状。宛先に安部次郎兵衛・鵜殿新三郎の名がある。独立した『の3』であり、作事許可の裁定そのものではない。
正月20日 / 冊子 763頁/原整理番号 812
豊後守・下野守ら談合衆と士に寒中の辛労をねぎらうこと、軍衆のため種々の祈願を行っていること、濫妨・狼藉を厳禁することを伝える。また、加勢を申し付ける必要があるか確かめて報告するよう求める。正月二十日、吉田次郎兵衛が使者となる際の伝達事項。
文禄4年7月25日 / 冊子 903~904頁
義弘は長寿を東寺まで見送った厚意を謝し、自身が七月十九日に大坂を出船、二十四日に細島へ無事着いたと知らせる。 京都の様子を尋ねる一方、船作奉行として河内にいる次郎兵衛尉、歩行困難な弥太右衛門尉の近況にも触れる帰国報告。
文化二年十二月十一日 / 冊子 580~581頁/原整理番号 5
白坂氏系図の草案に付された奥書。文法や内容に不案内な点が多いため、朱書の添削を踏まえて書き改め、鹿児島の同族にも照会して不明箇所や生没年月を補うよう求める。目録は伊地知季安奥書とし、本文末尾には津口番所詰伊地知小十郎季彬の署名がある。文化二年十二月十一日付。
明応四年四月十七日 / 冊子 567~568頁
島津忠昌が忠節の賞として、薩摩国谷山院山田村三十町と同院道祖脇内五瀬を吉田氏へ宛行い、先例に任せ知行するよう命じた宛行状。
元亀二年四月吉日 / 冊子 236頁
薩摩国加世田秋目津の九玉大明神社殿一宇を再興し、天皇の長久、国土安穏、島津貴久と日新の娘である大檀那の息災延命を祈った棟札。地頭島津尚久が遷宮し、導師・役人・大工・鍛冶・社人を列記する。本文の干支「戊午」は元亀二年と合わず、日新も既に没しているとの編者注がある。
正月20日 / 冊子 761~762頁/原整理番号 810
黄門の咳・横臥困難と十八~二十日の粥や膳の摂取量を詳記し、琢庵の診察と上洛希望、松平伊豆守らへの病状連絡を扱う。軍勢の兵糧が一か月分しかないことに驚き、後続人数の留置、江戸廻米や山川の琉球船を利用した米の出水回送、一色杢頭からの借米などを協議するよう求める。馬の削減、上使への米・大豆の贈答、天草へ三老の一人を向かわせる件も記す。正月二十日、吉田次郎兵衛が使者の際の伝達事項。
寛永14年11月3日 / 冊子 308頁/原整理番号 272の2
松倉長門守領分島原で切支丹百姓が蜂起したため、加勢の進度と公儀法度を照会する米田是季外二名連署書状。在国の者は持場と国境を守ること、幕府御横目衆へ報告したことを述べ、十一月三日付で唐津方の家老ら五名宛に結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 471頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1037
桂忠保が万治三年十月十八日に使役を命じられ、廣瀬次郎兵衛宗信とともに公命を奉じ、清国の冊封使が来琉中であったため琉球へ渡航したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 897頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2429
綱貴公御譜中に、十月二日、佐鋪王子尚益が鹿府で出船して琉球へ帰るにあたり、先例により蓑刈次郎兵衛重興を王子に添えて護送したと記す。
年月日未詳 / 冊子 915頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2489
河辺郡加世田郷大浦村の市兵衛・次郎兵衛・志摩右衛門は、母を養い助け合って暮らした。兄市兵衛の病死後、二弟が母と兄の遺児を養い、志摩右衛門は母を馬に載せ自ら轡を取って鹿府へ赴き、寺院を訪れて亡兄を弔い母の願いを満たした。元禄七年十月二十日、綱貴が母と兄弟を召し、二子の孝順を賞して青銅三千疋と耕田十斛の丁役免除を永く与えた。
元禄七年十一月廿八日 / 冊子 915~916頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2490
郡座役人が加世田郷衆中へ、光久が次郎兵衛・志摩右衛門兄弟の孝行を賞したことを受け、作職高二十五石三斗余のうち十五石三斗余について年貢・諸役を子孫まで永く免除するよう命じた証文。
天明六年二月二日 / 冊子 850~852頁/原整理番号 2344/整理ID 2344
渋谷貫富は、芝田町屋敷類焼後の届書・絵図提出、渡辺忠四郎・安部次郎兵衛らとの見分や先例の確認、町並屋敷の地面配分と再建、御留守居付役の扱いを記す。高崎・長友らの往復書面と絵図を収める。
文化14年6月29日(出生)/天保3年・6年(養子・入邸・改名等) / 冊子 507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1549
近秘野抄、見出しは斉宣公御子。定穀にヨシの傍記があり、初名久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守を掲げる。文化十四年丁丑六月二十九日江戸生、母は島津樺嵐久迅の養女、実は橘川次郎兵衛時吉の女と記す。天保三年壬辰正月に久博と名づけ、七月二十日に松平隠岐守定通の婿養子となり、八月二十八日愛宕下邸へ入る。十月に千松、十二月に刑部大輔へ改め、天保六年乙未八月に隠岐守へ改めたと記す。1548の斉興系図と本件斉宣見出し、母の養父名久尹/久迅の表記差を残し、本文の出生年月日・婿養子・入邸・各改称を別段階として採録する。
正月20日 / 冊子 760~761頁/原整理番号 808
十八日付書状と江戸からの案文を出水衆が持参したと伝える。天草へ渡った人数が山狩をしてもキリシタンはいなかったが、好天のため探索を続けるという報告を受け、加勢の相談には吉田次郎兵衛を使者として派遣する。黄門は息苦しく横になれず、食も落ちていると報じ、詳細は次郎兵衛から聞くよう述べる。
年月日未詳 / 冊子 131頁/原整理番号 214-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知杢右衛門重政が島原の陣屋で、鹿児島の士である土持平左衛門綱辰・田中善兵衛・吉田次郎兵衛康清・中上内蔵丞を饗応したことを記す。
三月八日 / 冊子 373頁/原整理番号 456
『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 444頁/原整理番号 554-2
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆五万七千七百四十一人日は人躰三千七百五、小者・夫五万四千三十六。外城衆十一万一千二百十三人日は人躰六万九千六十九、小者・夫四万二千百四十四。獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五人日は人躰一万一千五百九十九、小者・夫四千三百六十六。長島・西目・大瀬・小瀬の地下衆自飯米三千五百八十二人日を加え、総計十八万八千五百一人日、人躰八万七千九百五十五、小者・夫十万五百四十六とする。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 444~445頁/原整理番号 555
有馬出陣衆の延べ人日を一日賦で集計した別本で、鹿児島衆五万七千七百四十一、外城衆十一万一千二百十三、獅子島・長島番手の外城衆一万五千九百六十五、長島・西目・大瀬・小瀬の地下衆自飯米三千五百八十二、総計十八万八千五百一人日とする。人躰八万七千九百五十五、小者・夫十万五百四十六で、前文書と同じ集計内容だが、本文中には訂正字がある。
二月三日 / 冊子 445~446頁/原整理番号 557
本文は有馬・天草両陣と長島・獅子島番手の延べ人日を集計する。鹿児島衆十六万二千百六十六、外城衆二十六万七千二百九十六、出水・阿久根・高尾野衆一万五千九百六十五、長島等の自飯米衆三千五百八十二で計四十四万九千九人日とし、さらに前々に賦方を始めた衆二万五千二百十七人日を加え、総計四十七万四千二百二十六人日とする。本文日付は寛永二十一年二月五日だが、目録は標題を「天草立軍衆覚」、日付を二月三日とする。
年月日未詳 / 冊子 417頁
調所恒幸が初め祐恒から主神司等の職を受け、後に小次郎兵衛尉祐綱へ職掌を譲ったことなどを記す調所氏譜恒幸伝。
明和八年卯十月(日無記載) / 冊子 299頁/原整理番号 803/整理ID 803
御預犬以外の大犬・中犬を飼い置かないよう、前々から申し渡されていたが、この頃雑犬が多く見えるので捕方を申し渡す。中犬以上の犬を置いている場合には、早速遠方の外城へ差し遣わすよう示し、捕えにくい犬があれば目付方へ申し出るよう求める。この旨を支配中へ漏れなく申し渡すよう通達する。明和八年卯十月付、日と独立した宛所はなく、新納内蔵の署と大目付・久儔の注、取次木場次郎兵衛の表示を備える。冒頭に雑抄中との朱注がある。
文化12年4月15~17日法会・21日祝儀献上(記事)。使者旅程11日発14日到の注を併記 / 冊子 458頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1419
重豪公御譜中。今4月17日(自15日至17日注)、大家が野州日光山で神祖廟二百回忌法会を修したとする。明日、弓奉行知右筆頭事今井藤太兼用を日光本坊へ使者として遣わし太刀1腰・馬代金1枚を献じ代拝させたと記す一方、先期11日江戸発・14日日光到着の旅程注を付す。21日には使番知記録奉行事木場次右衛門貞良が大家へ一種千疋、右筆池田次郎兵衛貞貫が儲君へ一種、納戸奉行兼小納戸高橋甚五兵衛高智が御臺へ一種、右筆堀八郎右衛門金貴が御簾中へ同様の祝儀を献じ、法会終了を祝う。また藩邑大雄山神廟でも15~17日に法会を修し、家老町田監物久視に太刀1腰・馬代銀1枚を献じ代拝させたとする。日光と藩邑の法会、金と銀の単位枚、相手別取次と祝儀を分け、重豪本人の参詣としない。主文の明日遣と先期の旅程注は各箇所のまま保持する。
文政5年2月27日/3月1日・5日・16日 / 冊子 613頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1838
重豪公御譜。二月二十七日に勅使広橋胤定・山科忠言、院使日野資慶が江府へ入り、三月朔日に家斉が従一位左大臣、家慶が正二位内大臣へ昇任した。五日、重豪は四本孫左衛門兼房を物頭として本丸へ遣わし、家斉の転任と家慶の任槐に各太刀一腰・馬代金一枚を献じた。同日、池田次郎兵衛貞眞を西丸へ遣わし、家慶の任槐へ同品を献じ、留守居助長孝を本丸、米良仲之丞則賓を西丸へ遣わして御臺様・御簾中へ各時鯛一箱を献じた。兼房は江府の物奉行、貞眞は右筆頭、長孝は能方、則賓は馬廻として在勤中で、当日は物頭・留守居助を仮に務めたとの各注を持つ。十六日、家斉は本多豊前守正意、家慶は森川紀伊守儀知を上使として芝邸へ遣わし、重豪へ結紬を各十巻・五巻賜った。遠山美濃守友壽が代受し、番頭を両上使の邸へ、留守居を若年寄・表方使者の御側衆邸へ遣わして謝礼した。斉興・斉宣の拝賜献品は各譜に載せると結ぶ。長孝の通称の前字は留保し、各贈答の数量を合算しない。
弘化元年〔天保十五年〕十二月廿三日(本文辰年)、十二月廿八日(受渡)。天保三年閏十一月二日の養女記録を含む / 冊子 64~65頁/原整理番号 103/整理ID 103
籠姫・澄姫・邦姫の実母について、親の姓名・実名と、他人の養女の場合は養父の姓名・実名も調べた広敷御用人の報告。江戸詰同役へ問い合わせた結果を十二月二十三日付で申し越す。斉宣女の実母をお百十之方とし、真如院之方の親として亡橘川次郎兵衛と橘時吉を挙げる。斉彬女澄姫については、天保三年閏十一月二日に嶋津但馬の妹である嶋津樺嵐の養女を御母付とした記録を記す。斉彬女邦姫の実母には酒井主殿忠義(源忠薫の表示)を記す。包紙は三方の御母付と親の姓名実名の御書付一通を、天保十五年十二月二十八日に石見殿から町田孫一郎へ渡し、白木御文書十番箱へ納めたとする。籠姫の名の字形と、真如院・お百十之方の関係の細部は留保する。
正月18日 / 冊子 747~748頁/原整理番号 783
新納忠清らの有馬渡海について、船不足なら先に天草へ渡り、千人が揃わなくても大口衆などを先行させるよう求める。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・大鋸大工の手配、出水の物奉行・船奉行らとの連絡を指示する。十三日の天草久田間着船を喜び、山狩と地下衆によるキリシタン探索を徹底し、捕らえた者を杖で問い相談するよう命じる。十八日付、重国ら五名宛。
正月18日 / 冊子 750~751頁/原整理番号 788
野州老と松平伊豆守との面談や江戸への御礼に関する連絡を受け、吉田次郎兵衛の出発時に伝える旨を述べる。天草への順次渡海、軍衆法度の交付、板倉・石谷の条書返上を扱い、有馬・天草の急用を物奉行・船奉行・市来八左衛門らと調整するよう求める。長嶋・高尾野・阿久根での道具や大鋸大工の手配にも触れる。末尾では死去・病気や多忙による人手不足、書状の重複・書き落しを詫び、万事の取計らいを頼む。
正月20日 / 冊子 762~763頁/原整理番号 811
十七日付書状を受け、山田民部少輔の有馬使者派遣後の指示や三老間の相談、吉田次郎兵衛の使者派遣を伝える。黄門の病状が悪く、看病と使者対応が重なって諸事の細かな調整が難しいと述べ、霜月以来の腫物・痰血・吐血、四日頃からの息苦しさと食事低下を報じる。市来八左衛門・川越三右衛門との連絡を求め、軍衆・水手三万ほどの一か月兵糧のうち二十日分を既渡のため、人数を減らすよう天草の四名に相談する。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
(寛永15年)正月11日 / 冊子 597~602頁/原整理番号 655
島原へ出陣する諸士について、主従人数、乗馬、具足、鉄砲・弓・長刀・槍などの武具と弾薬数を個人別に列記し、総人数百九拾人、乗馬六騎、鉄砲五十六挺などを集計した人数差出帳。
(寛永14年12月より同15年2月まで) / 冊子 608~610頁/原整理番号 669
寛永十四年十二月から同十五年二月まで、有馬出陣に関わる諸衆について、人数、従軍日数、給付額を個人・地域別に記録し、総人数二万五千二百十七人、給付銀四貫四百五十五銭と集計した賦渡帳。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 623~628頁/原整理番号 671
寛永十五年正月から三月まで、志布志・高山・市来・出水・姶良・大口・須木・蒲生・福山・谷山・加久藤・高尾野・田布施・知覧・阿久根など諸外城から有馬へ出陣した軍衆について、主従・人躰・小者夫の人数と従軍日数を地域別・期間別に集計した帳簿。獅子島・長島からの番衆や蔵入夫も別記し、寛永二十一年二月五日に一日賦として照合した旨を記す。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
二月十四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 223
新納二右衛門尉が有馬へ使者となる際に渡された覚。先に出水へ派遣された南戸衆、伊豆守方に留め置かれた高岡・穆佐・相良の衆、江戸南戸衆の欠員補充、小番衆・大番衆の稽古、御番帳、病欠時の補充などについて、現地で事情を確認し報告するよう求める。
系図全体は無年次(寛永17年・正保4年・延宝6年・元禄7年などの出生記事を記載) / 冊子 602~603頁/原整理番号 105
前田右近・大炊之助・太郎四郎以下をつなぐ前田七郎右衛門家の系図。兼門の条は、寛永年間に自宅から火を出して証書などを焼失したため、右近より前の祖先は分からないと明記する。兼次が宮里壹岐正親義方に召し出された際の養子関係や、兼治が佐藤諸左衛門信實の婿養子となったことを記し、兼浮・兼貞らの出生年月日、官途、居住・婚姻先を続ける。女子の佐藤・河野・谷山吉井・堀之内・松下・鎌田・入佐家との関係や、養子を兄弟とする記述もあり、証拠文書の喪失と継承の事情が系図自体に刻まれている。
寛永十七年五月二十四日(聞き取り日) / 冊子 78~83頁/原整理番号 31
大和守久章の内衆から、京都三条宿での行動と五月十七日の失踪について聞き取った記録。好田半兵衛・池田仁左衛門・道具持・夫丸・財部権之丞らが、清水や茶屋への遊山、同伴者、銀子、挟箱、失踪当日の買物や目撃を個別に述べる。聞手は伊地知重政・相良頼員らで、証言は必ずしも一致しない。
(寛永十五年)正月十八日 / 冊子 737頁
新納加賀守の人数約千人を有馬へ渡す件について、船不足のため先に天草へ渡海させる案や、大口衆などの増援を相談する。吉田次郎兵衛の使者派遣、玉薬・兵具・船手兵粮の担当、天草での山狩と潜伏キリシタンの捕縛まで指示した長文書状。
文化12年12月6日(各手組)/文政2年12月18日(末尾保管追記) / 冊子 480~482頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1461
白木御文書八番箱中三十二。包紙に神事犬追物手組とある、文化12年十二月六日の各組配列表。犬追物の上手組・下手組、神事犬追物の上手組、犬追物の次手組、神事の下手組、「論之犬手組」と記す表、神事の次手組を順に掲げ、各表に名前・疋数・検見・喚次を配する。最初の上手組は島津又六郎二疋・相良満十郎一疋・新納十郎一疋・北郷勘解由五疋など、下手組は川上庄八郎二疋・種子嶋次左衛門一疋・村橋主計一疋など。神事上手組では新納十郎三疋、木脇伊左衛門三疋、村橋愛之介一疋、続く次手組では南郷寛太郎一疋・島津矢六郎二疋。神事下手組では碇山仲左衛門一疋・種子嶋左八郎三疋・菱刈藤馬一疋。論之犬手組では田中七左衛門二疋・菱刈藤馬二疋・島津矢六郎三疋等を記し、碇山の疋数には「三疋カ」の注を付す。最後の神事次手組は川上金十郎一疋・南郷寛太郎二疋・伊集院伊膳一疋・田中七左衛門四疋・伊勢巖次郎二疋等。検見には川上庄八郎・島津又六郎・川上十郎左衛門が表ごとに載り、喚次は主に川上四郎兵衛。末に射手奉行木脇権一兵衛、日記池田次郎兵衛・土持平左衛門、幣之役島津鐵袈裟候補・赤塚吉十郎、犬奉行岸良矢右衛門・面高眞之丞を掲げる。朱包紙注は手組八通の記録所での格護を命じられたこと、文政2年卯十二月十八日に橋口今彦・平山五右衛門が承知し白木御文書八番箱へ納置したことを記す。各表の疋数を合算せず、配列図の線・符号を人数や実績頭数へ読み替えない。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 502
『小川監物日記』は十月十六日、次郎兵衛の商売船が小松原へ着いた際、本人が元キリシタンであることから、御衆の命により窪田壱岐・大山与七兵衛が同行して即時出船させたと記す。次郎兵衛は町の伊勢千代の父で、その子らは船に乗って面会した。
年月日未詳 / 冊子 645頁
将軍徳川家光の病気に際し、家久が見舞いの使者を江戸へ送り、老中から奉書を受けたこと、その後も再び使者を派遣したことを記す系譜記事。関連奉書の写しと運搬者も注記する。