新納忠元書状
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
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〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
(慶長四年)十一月廿五日 / 冊子 469頁
島津惟新が樺山権左衛門に、高麗での辛労を忘れてはいないが、取り紛れて書状を送らなかったのは疎意によるものではないと詫びる。庄内表での寒中在陣をねぎらい、置目・諸法度を緩みなく施行し、勝利は見込まれるが油断しないよう命じる。山口勘兵衛丞が上使として再び下向するので、現地に狼藉がないよう申し付け、上方は無事だと伝える。
(慶長十年)正月十日 / 冊子 2頁
島津義久(龍伯)が樺山権左衛門尉へ、新年を祝い、自身は三月頃の上洛を予定していると伝えた書状。島津義弘(惟新)の身上について何らかの取り沙汰がないかを尋ね、その事情が自らの上京にも関わるため、現地の様子を密かに聞き合わせて詳しく報告するよう求めている。
(慶長十年)七月十一日 / 冊子 23頁
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
(慶長十三年)十一月廿四日 / 冊子 198頁
十一月二十四日、島津家久が樺山権左衛門尉に、肥後で変事が起こるとの風説について現地の情報を問い、事実にかかわらず境目の警戒を怠らず、新たな動きがあれば直ちに報告するよう命じた書状。
(慶長九年)十一月五日 / 冊子 943-944頁
島津惟新義弘が樺山久高へ、目貫代の銀三十目を送り、尾形作の進捗を尋ねる。翌春の忠恒上洛が遅れないよう気遣い、常用の脇差用目貫を正阿弥らと相談して念入りに調製するよう求めた。
慶長五年十一月十五日 / 冊子 115頁
出水境目と普請を油断なく固めるよう命じ、水俣まで黒田如水・加藤清正の軍勢が進出しているが、出水は堅固に守らせたので安心せよと伝え、見舞いの使者を送った書状。
正月十日 / 冊子 116頁
長期在京の辛労をねぎらい、奥州のために諸事を整えるよう求め、山口殿宛ての書状に惟新の書状と太刀を添えて適任者に持参させ、肩衝茶入は公方の上覧前なので下向時に相談するとした書状。
十一月廿四日 / 冊子 172頁
肥後で変事が起こりそうだとの風説を受け、現地でどのように取り沙汰されているかを問い、真偽不明ながら心得として飛札を送った。どのような事態でも境目の警備を厳重にし、新事があれば直ちに報告するよう命じた書状。
(慶長十一年)六月六日 / 冊子 76頁
島津家久譜の記事。慶長十一年六月六日、麗陽城楼門前の板橋が新たに完成し、渡り初めとなった。同日、伏見にいた島津忠恒が、国元の家老島津図書入道紹益・樺山権左衛門久高へ自筆の書を下し、来秋には必ず大島を討つので決して怠ってはならないと命じたことを記す。
寛保三年(月日記載なし) / 冊子 748頁/整理ID 1942
三人は島津権左衛門宛てに、諸方と大守・姫君・子らの健勝を喜び、刑部卿の御簾中の安産について公方・右大将から大守・姫君へ祝儀の品が下されたこと、重陽にも例年どおり拝領物があったことへの謝意を伝えた。返事を一通の書状にまとめた旨も記す。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615-616頁
島津義弘(惟新)が樺山久高に対し、出水境の普請を油断なく進めるよう命じる。水俣までは黒田如水・加藤主計頭が兵を出しているが、出水は堅固に備えさせているので安心するよう伝え、しばらく音信がないため見回りの使者を送り、現地の様子を詳しく知らせるよう求める。
(慶長九年)十二月十八日 / 冊子 948頁
島津忠恒が樺山久高へ、寺沢正成と龍伯を屋敷に泊めたことを謝す。家康・秀忠の上洛予定を踏まえ、老衰した龍伯の上洛が遅れる場合は忠恒が先に上洛する案を山口直友へ照会し、自身も準備すると伝えた。
(慶長九年)十二月十九日 / 冊子 949頁
島津龍伯義久が樺山久高へ、病後の老衰と虫患い・吐逆のため寒中の上洛は困難と述べる。忠恒を先に上洛させ、自身は養生して初夏ごろ出立する案を示し、山口直友の指示に従うよう求めた。
(慶長九年)十二月十九日 / 冊子 949-950頁
島津龍伯義久が樺山久高へ、父子同時上洛の困難と自身の三月出立案を述べ、山口直友に公儀との調整を求める。十二月十六日の東西海岸の大浪で家屋・人命に被害が出て船頭確保も難しいと報じ、脇差目貫の調製も依頼した。
寛保元年 / 冊子 675~676頁/整理ID 1754
荻原・岡田・藤えは、大守らの健勝を伝え、当月十一日に薩摩守の前髪を取る儀礼が行われたことを祝う。寒中の近況や菊姫の祝意も伝え、関係者に申し上げるよう頼む。
寛保二年正月吉日 / 冊子 676頁/整理ID 1755
荻原・岡田・藤えは、年が明け、当地の人々がそろって健勝で春を迎えたことを喜ぶ。相手方の年始の祝儀にも謝意を述べ、今後も変わらぬ交流を願う。
(文禄元年) / 冊子 527頁
島津久保が、又八郎を公家に取り立てる件、知音の確保、小嶋屋道察への相談、馬乗・旅中役・代官などの担当者を箇条書きにした覚書。上井神五郎には二役、樺山権左衛門尉には旅中の役を命じるなど、久保周辺の随行・家政・交渉を担う人員配置を具体的に示す。
(慶長十年)五月廿一日 / 冊子 19頁
島津竜伯(島津義久)が島津惟新(島津義弘)に、枕山権左衛門尉を市成へ遣わす件を聞いたこと、徳右衛門尉派遣への謝意、鷹一そうの扱い、宮内原の鞍掛、石漕舟の手配などを返答した書状。追而書では、屋久島から鳩を二羽取り寄せ、一羽は目を患って死んだが、もう一羽は昼夜によく鳴き、雨の際に外へ出して羽を伸ばす様子もたいへん愛らしいと述べ、惟新にも一羽取り寄せて飼うよう勧めている。
年月日未詳 / 冊子 24頁
七月十七日戌刻、島津忠恒が島津常久の宿所を訪れ、樺山権左衛門尉・伊勢兵部少輔・町田勝兵衛尉らと酒食をともにした記事。翌十八日に忠恒が伏見から大坂へ向かう際に常久も供奉し、二十日に博多へ出航した船を川舟で追ったが、命により大坂へ戻り、翌日伏見へ帰着した。
(慶長十年)十二月六日 / 冊子 40頁
寺沢広忠が島津忠恒に、蜜柑五百個入りの籠四つを贈られた礼を述べ、枕山権左衛門・平田太郎左衛門を召し出したと報じた書状。大船献上の命を受け、忠恒が十六・七端帆の船二艘を、自身も十八端帆の船を進上することに触れる。
年月日未詳 / 冊子 202頁
又八郎の求めに応じて詮議すべき事項として、馬乗源兵衛尉、土井神五郎への役命、樺山権左衛門尉への放中役、村尾の処遇、伊集院忠棟が相良吉右衛門尉を代官に任じた件を列挙した老臣覚書。
慶長四年七月廿八日 / 冊子 409~410頁
島津忠長が署判した薩州谷山内の知行目録で、山田村、田中之門、名古屋敷、山科村、老町田屋敷などの知行地と石高を列挙し、合計高を示す。所領の範囲と数量を確定するための目録である。
慶長七年六月三日 / 冊子 818頁
島津忠長・鎌田政近・比志島国貞・樺山久高が連署し、薩摩国川辺郡田部田村・鹿籠村内の諸地、合計百四十三石余を加増として宛行った目録。
年月日未詳 / 冊子 818頁
島津氏譜抄は、和久甚兵衛が鎌田政近らと同行し、慶長七年六月三日に下着したことを記す。島津忠長・鎌田政近・比志島国貞・樺山久高の名を掲げる。
慶長七年十二月廿四日 / 冊子 867頁
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の百石を霧島山普門院へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
慶長七年十二月廿四日 / 冊子 868頁
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の三十石を加久藤二宮社へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
慶長八年六月廿六日 / 冊子 899頁
樺山久高と鎌田政近が連署し、京泊から入津する唐船に関して、公方への礼物を理由に商人へ不当な買付けを強いてはならず、川内の唐人を含む当事者の自由な交易を妨げないよう命じる。違反者は厳罰とした。
年月日未詳 / 冊子 928頁
島津家久譜は、慶長九年三月に徳川家康が江戸から上洛したため、山口直友の催促を受けた島津忠恒も鹿児島を発ち京都へ向かったと記す。喜入忠続ら家臣を伴い海路を進み、風待ちや寄港を重ねた上洛行程を述べる。
年月日未詳 / 冊子 931-932頁
樺山紹剣(久高)の自記。慶長九年の島津忠恒上洛に随行し、京都での用務から帰国までを記す。前年は留守役だったが今回は同行し、屋形の土地を受け取って、堀・門・町割りなどを整えた居所を築いた経緯も述べる。
年月日未詳 / 冊子 936-937頁
樺山久高譜は、慶長九年の島津忠恒上洛に久高が供奉し、忠恒の陸奥守任官と八月帰国を見届けたと記す。京都で屋形用地を受け取り、門・堀・建物を整備して居所を造営した経緯を詳述する。
十月十一日 / 冊子 329頁
前日の使者がまだ戻らず案じていると述べ、早々に来訪するよう重ねて促し、義弘も当日来るので油断なく帰るよう命じた島津家久書状。
(明暦元年)十月廿日 / 冊子 267~268頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0585
満尾貞信が伊地知権左衛門へ二度の書状に返答し、法事の準備、出家衆六人と相伴の者などに触れる。文禄元年の高麗での戦い、負傷と戦死、伊作・阿多・肝付・伊集院・蒲生での祖先や旧家臣の奉公・召移の来歴を記憶に基づき詳述する。隈元金兵衛が蒲生の別当となったが今はその跡がないとも伝える。
延宝三年九月二十七日 / 冊子 655頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1646
島津忠広と新納久了が伊地知権左衛門へ、子が男女いずれでも御台所で養育し、乳母と女房を付け、養育・仕置の担当者や取次を定めることなどを、島津光久の意向として急ぎ申し達するよう命じた連署書状。
延宝三年九月二十七日 / 冊子 655~656頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1647
新納久了・島津忠広が御台所役の伊地知権左衛門へ、出産を控える子について、男子でも女子でも台所で養育し、乳一人と女房衆を付け、中将光久方の幼少の子と同様に養育する旨を伝える。中将の子分として万事を軽く扱わず、両殿の意向として詳細を早急に報告するよう求める。
延宝三年十月朔日 / 冊子 656~657頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1649
島津光久が伊地知権左衛門へ、二之丸に置く女房衆と懐妊中の源太夫妹に関し、出産後の乳母・養育者・取次・女房の配置や子の養育方法を定め、関係者へ申し渡すよう命じた直書。
元禄5年9月23日 / 冊子 566頁/原整理番号 64
伊地知助右衛門重英が鹿屋権左衛門へ、同家の先祖鹿屋周防介が島津元久の家老職を務めたことについて、証書が多く、鹿屋家の系図にも載っていると述べ、後日の証拠とするため改めて尋ねた書状。元禄5年壬申9月23日付で重英の花押を据える。本文の末尾には『古文書雑集』と貼紙の注記があり、直前の鹿屋氏系図に記された家老職の由緒を確認する照会である。
年月日未詳 / 冊子 820~821頁
忠恒は十月十四日に壱岐勝本を出帆し、強風を受けながら対馬府中へ到着して池田紀伊介の宿に入った。二十六日に対馬皇浦を発ち、同日夜に釜山浦へ着くと、翌日には白浜次郎五郎らを早舟で唐島へ送り、到着を義弘側へ報告した。 二十八日には唐島から樺山権左衛門・喜入摂津守らが迎えに来た。忠恒の朝鮮渡海を日付・風向・宿泊地・使者・迎船まで詳しく記す航海記事。
(慶長九年)十月廿四日 / 冊子 943頁
山口直友が忠恒側近へ、将軍家康は翌月下旬、右大将秀忠は翌年二月上旬に上洛予定と報じる。本多正純の内意により、忠恒も遅滞なく上洛するよう促し、樺山権左衛門にも伝えた。
寛保四年(月日記載なし) / 冊子 754~755頁/整理ID 1961
藤ゑらは年始の祝儀の書状に答え、相手方の健勝と家中がにぎやかに春を迎えたことを喜んだ。こちらでも年始を祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、幾久しく平穏であるよう願う。
寛保四年(月日記載なし) / 冊子 755頁/整理ID 1962
藤ゑらは年頭の知らせに答え、相手方の健勝を喜んだ。こちらでも大守らがそろって春を迎え、年頭の祝いとして鏡飾り一飾りを進めたことを感謝し、今後も変わらぬ健勝を願う。菊姫の病状に関する書状ではない。
延享元年(月日記載なし) / 冊子 758頁/整理ID 1972
藤ゑらは上巳の祝儀の書状に答え、相手方一同が健勝でにぎやかに祝ったことを喜ぶ。こちらも祝い、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、菊姫にも同じ趣旨を伝えるよう頼む。病中見舞いの書状ではない。
延享元年四月三日 / 冊子 760~761頁/整理ID 1980
藤ゑらは端午の祝儀の書状に答え、相手方が健勝でにぎやかに祝ったことを喜ぶ。こちらも大守らがそろって祝っており、目録どおりの品を進めたことに謝意を述べ、菊姫にも同じ趣旨を伝えるよう頼む。年頭の挨拶ではなく端午の祝儀である。
延享元年(月日記載なし) / 冊子 764頁/整理ID 1993
藤ゑらは土用の厳しい暑さの中での書状に答え、相手方の健勝を喜び、大守・姫君・子らの無事を伝える。贈られた箱入りの品にも謝意を示し、引き続き暑さに障りがないよう気遣った。
延享元年五月十七日 / 冊子 764~765頁/整理ID 1994
藤ゑらは七夕の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫らの健勝を喜ぶ。こちらも大守らがにぎやかに祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ健勝を願う。
延享元年五月十七日 / 冊子 765頁/整理ID 1995
藤ゑらは本文で「御生身玉」と記す祝儀の書状に答え、相手方の健勝を喜ぶ。こちらも目録どおりの品を進めたことを感謝し、これからも変わらず健勝・繁昌であるよう願う。
延享元年五月十七日 / 冊子 765~766頁/整理ID 1996
藤ゑらは八朔の祝儀の書状に答え、相手方と菊姫の健勝を喜ぶ。こちらも大守らがそろって祝っており、目録どおりの品を進めたことへの謝意を述べ、今後も変わらぬ繁栄を願う。
元禄十五年十二月六日 / 冊子 397頁/整理ID 1341
米良陳章(権左衛門)が松平薩摩守家中の本城源四郎・藤野休左衛門へ、幕府の諸国絵図改訂に伴い、椎葉山の下絵図を鹿児島へ提出し、清絵図が江戸評定所へ納められた経緯を記す。鹿児島で椎葉山絵図控写一枚と、変地その他の改訂目録控写を受領した証として出した請取状。
年月日未詳 / 冊子 164~165頁/原整理番号 508
伊勢豊松内の肝付権左衛門家系図。肝付豊前兼隆の三番目の弟で、初め権右衛門、のち七郎右衛門を称した人物を祖とする。七歳の時に肝付落城に遭って出家し、十四、五歳で還俗して伊勢兵部の家来となり、その後も奉公を続けた由緒を記す。以下、権之助・権左衛門・堅右衛門・権右衛門・文十郎らの分岐と母方・婚姻を列記する。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。