島津忠兼書状
十一月廿五日 / 冊子 670頁
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
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十一月廿五日 / 冊子 670頁
島津忠兼が曽於郡衆に、雪花の手配を命じ、地頭がいない時期から一味して奉公したことを賞し、河上・伊地知・有屋田・鹿島らの協力と番の用心を頼んだ書状。
(寛永十二年)十月十一日 / 冊子 502頁
島津久慶ほか四名が、曽於郡止上社を再興するため、清水・国府・福山・日当山・加治木・帖佐・山田・蒲生・吉田・庄内などの衆へ、志に応じて奉加するよう触れた回状。
正慶二年閏二月九日 / 冊子 608頁
大隅国曽於郡重富名内折橋田七段を阿弥陀堂へ寄進し、法界衆生の平等利益を祈るとともに、調度・証文を相副えて永代に伝えるよう定めた比丘尼妙願の寄進状。
〔大永6年〕11月25日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-26
〔大永六年〕十一月二十五日、島津忠兼が曽於郡衆へ送った書状。雪花の件を承知して早急に命じて合力すると約し、澄真から詳しく聞いた曽於郡衆の比類ない懇意を喜ぶ。とりわけ地頭不在の時にも忠兼方へ一味の心で余儀なく奉公したことは永く忘れないと述べ、河上十郎左衛門尉・河上山城守・否笠佐渡守・伊地知七郎三郎・有屋田治部少輔・鹿嶋中務少輔が親密に結束しているとの報告を頼もしいと評価し、番の用心を堅固にして油断しないよう命じる。詳細は使僧に口頭で伝えさせるとする。
安永八年秋九月(記事の今茲秋九月、年は目録) / 冊子 575頁/原整理番号 1632/整理ID 1632
御譜記事の二例。甑島郡上甑島平良村の農民彌兵衛は、飢饉の年に私財を先に出して村中の貧しい者を救い、この時も同様にしたため、秋九月、官に命じて丁役を五年免じたと記す。小注には以前にも褒賞があり、その後も同様に続けた旨を付す。曽於郡末吉郷田尻村の農夫山助は、村中の二町ほどの険峻地と川床の渡りを余力で修め、五十年を積んで平地とし、行旅に便を与えた。また毎年冬になるまで人のために道路・橋梁を修めたため、秋九月に褒賞して青銅千足を与えたと記す。救貧への丁役免除と、長年の交通施設整備への青銅の褒賞は、対象人物と賞の内容が異なる。二町許の範囲の測り方は記されない。
元亨三年十一月十五日 / 冊子 508頁
台明寺折田内垣本田二段と曽於郡重留名用松名萩峰一段を、政所権律師恵弁と書生拳頭忠禅が相互の役負担を付け替えて交換した連署相博状。
元応三年正月廿八日 / 冊子 476~477頁
守部氏女が重枝名内の水田五段を、相伝証文とともに米十五石五斗で臺明寺へ永代売却した売券。売却田の所在・所当、代米受領、証文引渡しを記し、親族・相続人の違乱時には別田で担保することを約す。
正月廿九日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 45-1
川上久国・三原重庸が吉田・蒲生など諸外城の衆へ、薩州様が江戸から島原へ直行するため、先日の割当通り早急に出立するよう命じる。以前、上使から人数不要との命令を受けて途中から帰った者にも、江戸からの新命令に従い再出立を求める。少身の者は三人につき夫丸一人を付け、御蔵入地の者は出水の船元まで、持合地の者は領主が率いることとし、はぐれた者も相談して同行させ、領主不在を避けるよう指示する。調整不能または出立に堪えない者は残ってよいが、薩州様は極めて急ぎ、随行人数は本文「上下□五人」に「四十」の傍記があり、海道を昼夜通行するとの知らせが戌刻に届いたため、心して準備するよう求める回状。末尾の頭書は、この再召集と世子自らの出陣により備えも変更するとして、次の手当を導く。
二月十五日 / 冊子 140頁/原整理番号 235-2
川上久国・三原重庸が諸外城へ、薩州様が今日着くとの有馬からの報を受け、猪鹿を捕って二十日・二十一日までに届けるよう命じた廻状。猪は雄猪を差し上げ、ほかに各地で得られる肴もできる限り調達するよう求める。
大治五年十二月廿八日 / 冊子 7~8頁
宗岡重武が、必要な代価を得るため、曽於郡二条二里廿七坪にある一町の相伝所領田を成心房へ永年売り渡した売券。後日の証拠として沽券を作成し、旧本領主らの確認・加署を伴う。
長承四年五月廿七日 / 冊子 12~13頁
正八幡宮御前検校僧厳禅が、曽於郡二条二里廿七坪字墓町の田一町を、必要な代価を得て財田稲富へ永年売り渡した売券。本領主宗岡重武の旧沽券を副進し、国判による領掌を前提としている。
長承四年六月日 / 冊子 13頁
財田稲富が国司に対し、曽於郡二条二里廿七坪字墓町の田一町について、前主厳禅と本領主宗岡重武の売券に基づく国判を受け、正式に領掌させるよう申請した解。厳禅の沽文と重武の旧沽券を添えている。
建永二年三月十七日 / 冊子 104~105頁
目録標題は「僧印西田地売券」だが、本文は「譲状」と記す。曽於郡内、字花牟礼の田地一段半について、先年、法華経三部読誦の布施として鏡能房から伝得した由緒を示す。僧印西は要用が生じたため、関係証文を添えて僧弁へ譲り、この処分に問題が生じた場合は自ら沙汰すると約した。さらに後日の証拠となる券状を詳しく書き置き、建永二年三月十七日付の譲状とした。切り抜きでは代価の記載を確認できないため、売買価格や親族による違乱保証は補っていない。
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 567頁
明応四年、越中国将軍の上使として一色兵部大輔が下向し、島津忠昌が隅州曽於郡で対面したことを記す譜記事。
永正十一年九月五日 / 冊子 604頁
島津家老臣四名が連署し、大隅国曽於郡内の田地を守公神へ寄進して、坪付と面積を列記した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 654頁
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。
年月日未詳 / 冊子 655~657頁
大永六年の島津勝久と忠誉の盟約、後柏原天皇から後奈良天皇への代替わりを記す国史記事。曽於郡をめぐって本田親尚と北郷忠相らが争い、忠相が同郡を占領した経過を追う。その後の領地配分、家臣の帰属、婚姻関係、梅岳君・本田紀伊守董親の動向までを収録し、政治再編を示す。
「大永六年」五月四日 / 冊子 659頁
隈江匡久が山田安藝守に、伊東方・北郷方・都城から使者が相次いだこと、清水の番役、姫木・下大隅・曽於郡の動向を知らせ、世情を見聞するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁
本田氏の領する曽於郡の土卒が本田方に背き北郷方へ応じたため、北郷忠相が大永六年五月二十日に兵を進め、新納氏も加わって城を落とし、曽於郡を領有した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
年月日未詳 / 冊子 665頁
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
十一月四日 / 冊子 665頁
本文ではNo.2051と同文のため省略された島津忠兼書状。No.2051は本田因幡守に曽於郡の地頭職を預け、郡の運営と忠節を求める内容である。
十一月四日 / 冊子 665~666頁
島津忠兼が本田因幡守に、頼み入れる旨として曽於郡を宛行い、忠節を尽くすよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 866頁
曽於郡の領有と守備、本田董親の島津貴久への背反、清水城降伏後に忠相領内へ移った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 57頁
北郷忠相が飫肥への後援を島津貴久に頼み、永禄元年に曽於郡を献じたこと、永禄二年十一月十六日に高城で没したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 91~92頁
肝付兼続の廻城奪取後、島津方が曽於郡方面の安全確保を図りつつ大平・馬立・竹原山へ布陣した経過を記す。竹原山合戦で忠将が戦死し、島津方が反撃したこと、樺山玄佐の知行や陣所をめぐる処置まで述べる。
永禄八年二月五日 / 冊子 140頁
永禄八年二月五日、本田刑部少輔が使者として霧島権現へ参詣し、神意に従って曽於郡を神領とするという貴久の意向を伝えたことを記す私覚。内容は法印頼継と本田の二人以外に漏らさない密儀とされた。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191頁
島津義久が大隅国曽於郡内の坂上之門を霧島社領として寄進した文書。田地の内訳は別紙坪付に記すとし、後代の証拠として寄進状を発給する。
永禄十一年二月吉日 / 冊子 191頁
霧島社領として寄進した大隅国曽於郡坂上之門の田地を列挙した坪付。岩尾田・池田・松之木田・田中田・萩原などの各筆と面積を記し、島津義久が書判を据える。
永禄十一年十一月~十二月十三日 / 冊子 206頁
日新の病状が重いなか、弓箭が一時静まったので樺山玄佐が馬越へ赴き、霧島法印に曽於郡預進後の御礼や小窪名寄進などを約した。その後加世田へ戻って文宗の番を勤めている間、永禄十一年十二月十三日に日新が死去したこと、貴久は看病のため十一月から加世田に滞在していたことを記す。
永禄十二年十月九日 / 冊子 227頁
島津義久が肝付兼盛の軍忠を比類ないものと賞し、親類や年来の家臣十人が戦死・粉骨したことに感心して、大隅国曽於郡内の上三蓋堂名を宛行った文書。速やかな知行と今後の戦功を命じる。
永禄十二年十一月十五日 / 冊子 228~229頁
島津義久が弓箭祈念のため、大隅国曽於郡内の小窪名を霧島社へ寄進した文書。菱刈・牛尿両院が島津方の支配に入ったのは霧島の名鑑によるとして、武運長久、子孫繁昌、国家泰平を祈る。
永禄十三年三月吉日 / 冊子 235頁
北辰大明神領として、大隅国曽於郡郡田名萩原門内の田地を記した老臣連署坪付。寺前の三反のうちに含まれる土地であると注記する。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56頁
島津義久が袖判を加え、伊集院幸侃が念佛寺に隅州曽於郡郡田村・横川上之村内の土地を充行った領知目録。
慶長六年三月吉日 / 冊子 753頁
天下の下知に基づき、領地の減少があっても国家安全を祈るため、大隅国曽於郡山之路村内の四十石を大明寺の祭礼・修造料として支配させた寺領支配状。
慶長六年六月吉日 / 冊子 765頁
伊集院久治(抱節)と山田有信(理安)が連署し、大隅国曽於郡財部日光神村内の田地・浮免など合計十石を日光神社の知行として定めた目録。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 917頁
伊集院抱節久治と山田理安有信が連署した知行目録。大隅国曽於郡財部村内の西大河原門・右衛門浮免など各所の石高を列記し、合計高を加増として配分する旨を定める。
年月日未詳 / 冊子 538頁
昌林寺由緒帳に収める知行目録。大隅国曽於郡財部北俣名内の浮免八斗余を神領として宛行い、公役・社役を免じた。
慶長十九年八月五日 / 冊子 540頁
大隅国曽於郡重久村内の入木門と浮免、合計百石を念佛寺へ知行として宛行った四名連署知行目録。
慶長十九年八月五日 / 冊子 541頁
大隅国曽於郡重久村内の浮免三十五石余を止上神社の神領として寄附し、諸役を免じた四名連署寄進状。
元和六年五月十三日 / 冊子 732頁
曽於郡松永村内の知行百石を、布袋絵讃を進上した褒美として源七郎へ宛行い、その領有を認めた島津久元ら五名の連署知行目録。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
文禄5年12月2日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-3
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた領知目録。薩摩国伊佐郡大口のうち北柿原村五十石、栗野稲葉崎村九石、曽於郡姫城村一石、合計六十石を記し、このうち五十九石を加増とする。続く経歴記事は、松崎采女正が慶長二年に島津義久の上洛へ供奉して伏見で眼鏡を拝領し、慶長十年の国分移居に伴って国分へ移され、慶長十六年の義久死去時に剃髪して宗泉と号し、同年十一月に鹿児島へ移されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 137~145頁/原整理番号 27
『税所氏系図 大隅曽於郡系図』と題し、光孝天皇―宇多法皇―敦実親王―篤房以下を祖系として税所氏諸流を展開する系図。篤房流が天暦九年に藤原姓を給わったとの伝承、治安元年の大隅国曽於への配流、曽於御館・坂上御館を起点とする家系を記す。税所職、押領使職、大隅国大介・国大専当、曽於郡司、止上大宮司、惣検校、厚智山座主等の職掌と、曽於郡重富・重枝・重武・中津川・松永・栗野院恒次、薩摩国満家院、牛屎郡金波多村、山門院菓成河などの所領を列記する。源平争乱・和田合戦での忠節と戦傷、加世田城・横川での戦死、琉球地頭、大坂出陣などの軍歴、婚姻・養子・出家・法名・家督相続も収め、篤元ら近世の子孫へ至る。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。