長寿院盛淳・鎌田政近連署領知目録
文禄2年3月23日 / 冊子 679頁
薩摩国田布施内の深溝・川野先にある浮免一反を二宮掃部助へ与えた領知目録。島津義久(竜伯)の上洛中、二宮が諏訪大明神へ毎日参詣した忠節により畠一反を与えられ、その後、田方へ所替した経緯を記す。 単なる面積記録ではなく、祈願奉仕への恩賞と土地交換の履歴まで伝える史料。
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文禄2年3月23日 / 冊子 679頁
薩摩国田布施内の深溝・川野先にある浮免一反を二宮掃部助へ与えた領知目録。島津義久(竜伯)の上洛中、二宮が諏訪大明神へ毎日参詣した忠節により畠一反を与えられ、その後、田方へ所替した経緯を記す。 単なる面積記録ではなく、祈願奉仕への恩賞と土地交換の履歴まで伝える史料。
八月十三日 / 冊子 73頁
友泰が比志嶋掃部助らに、弾正様・川上左近将監様から相良清兵衛尉へ送る書状の取次経過を報じた書状。書状を横川から求廣へ持たせ、返書を相手方へ届ける一方、使者が鹿児島へ持参する場合の通行にも配慮するよう伝える。
八月晦日 / 冊子 73頁
喜入忠政が比志嶋掃部助らに、初鷹を届けるので新納仲左衛門尉の奥方へ進上するよう依頼した書状。三日後に江戸へ向かう早便があるため、その件もあらかじめ申し入れておくよう求める。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
正月廿八日 / 冊子 75-76頁
山田有榮が新納仲左衛門尉・比志嶋掃部助に、切米取の者へ琉球米を支給してほしいとの依頼に回答した書状。琉球米が未着で、手元の米にも用途があると説明する。No.196切り抜きとの照合により、従来混入していた永吉・病人への暇に関する記述を除外した。
三月六日 / 冊子 154頁
町田久幸が比志島掃部助に、ある人物の疱瘡が順調で、道三の見立てでは二、三日中にすっかり回復する見込みだと知らせた書状。別条はなく、この状況を報告するため飛脚を差し下し、急使のため詳細は後便に譲るとして吉報を約す。
三月廿八日 / 冊子 70頁
新納忠清・高崎能乘・山田有榮が、伊作中之里名の門内屋敷・加治屋屋敷・西中間屋敷の三人付について、會木新左衛門尉へ尋ねたいことがあるため、急ぎ参会させるよう求めた連署書状。延引しないよう念を押す。
七月十三日 / 冊子 71-72頁
新納忠清と高崎能乘が、鍛冶・番匠衆の知行に関する依頼へ回答した連署書状。御老中衆が聞き届けるべき案件であり、自分たちの支配所はすでに離れているため、直接御老中衆へ申し上げるよう勧める。
(寛永十一年)八月十五日 / 冊子 445頁
栗野のうちの知行について、籾九俵一升八合、高にして三石三斗と記した阿多掃部助知行目録の写。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 142頁
『山田氏系図』の記事。友久を起点に、亀三郎丸・式部・孫三郎・掃部助・常陸守の名・称を掲げる簡略な系図。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年十一月十六日、新城勢が伏兵を置いたが敵を誘い込めず、伏兵が起つと横尾塁まで追撃した。その後、敵の反撃で味方約二十人が負傷し、吉田衆の本田宗左衛門は火矢を受けて即死、伊集院掃部助も深手を負った。三十日には山田の足軽が松坂浦で敵一人を討った。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月十二日の廻陣で島津忠将が戦死した際、肝付兼明の兄孫六・仲右衛門が竹原山で戦死し、掃部助は忠将を討ち取ったのち同月十七日に坂で切腹したことを記す指出。
(元亀四年九月 日) / 冊子 314~315頁
島津氏老臣が豊州大友氏老中へ、破船問題についてたびたび使書を受け、両家の堅い盟約に基づき法意に沿って処理すると答える。大友方から船・銀子・鹿皮・南蛮国の進物などが目録とともに贈られたことを確認し、詳細は詫時庵と相談しており、仲掃部助が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
(慶長十一年)九月九日 / 冊子 89~90頁
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、九月十三日頃に届く返事を求める。
(寛永元年)八月七日 / 冊子 818頁
蒲池備中入道が市来掃部助・頴娃長左衛門尉へ、佐八郎を後嗣として迎える話について、親子の離別、上洛供奉や軍役、普代奉公を果たせる者の必要を挙げ、奉公可能な人物を付けてほしいと願った覚書。佐八郎の子らは養育事情から当面御用に立たないとして、知行の扱いを含め裁定を求めた。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 772頁
二月二十八日の有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で撃ち、さらに敵二人と槍を合わせたことを、大口衆・鹿児島衆・高尾野衆の証跡人を挙げて、有村掃部助が二月二十九日に届けた戦功証文。
六月十二日 / 冊子 78頁
島津久元・伊勢貞昌・比志嶋國隆が、新納仲左衛門尉に縣へ使者として赴くよう命じた連署書状。当日には間に合わないため翌朝早く参上して意向を承り、本田源右衛門尉・比志嶋掃部助と相談して出発するよう指示する。
八月廿六日 / 冊子 143頁
肥後勢が芦北方面へ渡ったとの情報と日向方面の雑説を案じ、祈念を依頼した本田六右衛門尉から成就の札が届いたことを伝えた。久富木掃部助に芦北の様子を尋ねると異状はないとの返答だったため、現地事情を詳しく報告するよう少将へ求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
延徳三年二月廿日 / 冊子 557頁
延徳三年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
(慶長六年)八月廿六日 / 冊子 779頁
島津惟新が、肥後勢の芦北進出との風聞を受けて本田六右衛門らを派遣し、忠恒のため祈念札を用意したことを伝える。芦北・出水や日向方面の風聞について、現地の様子を詳しく報告するよう求めた。
正月三日 / 冊子 874頁
島津義弘が忠恒へ、関東使者が持ち帰った内府の朱印を拝見し、目見えの首尾を待つと伝える。小袖・扇子などの贈物に礼を述べ、所望の件は福島正則らと内談したうえで慎重に扱うよう依頼した。
(慶長八年)正月十九日 / 冊子 878頁
島津義弘が忠恒から届いた墨、瀬戸茶碗・水差し・皿などの贈物に礼を述べ、霜山法印への礼も依頼する。帰国時に迎えへ出す馬は、長途で疲れさせず近辺から差し出すのがよいと助言した。
慶長九年正月十四日 / 冊子 924-925頁
御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。
永仁二年七月卅日 / 冊子 377頁
『国分氏文書』。六月から七月まで警固役を勤仕したことを認定し、その旨を執達した文書。本文には署名・宛所がなく、索引では島津忠宗の書として整理され、編者注は国分掃部助殿宛と推定する。
正平十八年二月十七日 / 冊子 31~32頁
沙弥成栄が、恩賞として拝領した大隅国多禰島について、嫡子忠勝へ半分、残る半分を左京亮忠元・掃部助忠平へ分け、代々の由緒を踏まえて子孫まで違乱なく知行するよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
(慶長三年)十二月五日 / 冊子 301~302頁
舟越景直が(慶長三年)十二月五日付で島津忠恒へ、自身の小姓を国元で召し使うよう推薦した書状。小姓は番船を奪取した際に一番乗りし、首級を挙げて船を捕らえ、さらに別船へ乗り移って働いたと述べ、掃部助らもその戦功を知っているとする。処罰を受けるような者ではなく、詳しい事情は伊勢弥九郎へ伝えたとして、島津義弘にも取り計らいを求める。
正和四年七月十六日 / 冊子 446頁
谷山五郎入道覚心と大隅式部孫五郎入道慶相の相論について、山田上別符所務以下の事を検断し、過析物を返付し、百姓らの訴えの理由を糺して沙汰するよう命じた掃部助政顕の書下。
元弘三年十二月二日 / 冊子 620頁
大隅国祢寝院南俣一分地頭祢寝弥二郎の知行分について、重代相伝の所領として相違なく知行させるよう命じた掃部助某の安堵状。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 320頁/原整理番号 367
串木野の有村掃部助が、寅二月二十八日、有馬原城本丸で敵四人を鉄砲で射ち、さらに敵二人と鑓を合わせたことを届ける差出。鉄砲の働きは大口衆壱岐兵左衛門尉、鑓合は鹿児島の市来五兵衛尉が立ち合って見たとする。寛永十五年二月二十九日付で、本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一五八号文書と同文とする。
元弘三年十二月二日 / 冊子 96頁/原整理番号 376
掃部助某が、大隅国祢寝院南俣一分地頭の祢寝弥次郎に対し、重ねて使者を下すまで知行分に相違があってはならないと命じた安堵状。元弘三年十二月二日付。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
(元亀四年九月 日) / 冊子 316頁
本文はNo.692と同文のため省略される豊州老中宛返書案。破船問題を両家の盟約と法意に沿って処理し、船・銀子・鹿皮・南蛮進物などの受領と関係者による説明を伝える。
天正元年 / 冊子 318~319頁
天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退けた。
天正元年七月~天正二年正月 / 冊子 334~336頁
平床陣への肝付・伊地知勢の来攻、茶園ヶ尾の戦い、七月の諏訪祭礼で軍役が手薄になった隙を突く夜襲、家久の奮戦を叙述する。さらに敷根頼継の進言で牛根城攻めを継続し、義久の狂歌矢、切岸掘削、安楽備前守の降伏、肝付・伊地知両氏の帰順と城地配分に至るまでを記す。
(天正六年)二月十一日 / 冊子 538頁
佐伯宗天が土持親成へ、日向錯乱について報告せず土持相模守を島津方へ遣わしたことを不審とし、親類を添えて相模守を豊後へ参上させ、薩摩方の形勢を報告するよう求めた。島津勢が動けば早々に応戦して忠節を示すことが家の長久につながると説く。
(慶長四年)四月十日 / 冊子 373~374頁
入田親増が相良日向守に、先年以来の経緯を言上する。大友義統に疎略はなかったが、讒言によって召し失われそうになり籠城したこと、薩州からの書信や前中書公の懇切な書状、入田への入番奉行四人の派遣を受けて島津家に従ったことを説明する。豊州退去後も忠節を尽くし、親類一、二人が戦死した奉公も含め、事情を披露するよう求める。
寛永四年十月廿五日 / 冊子 46~47頁
飯野狗留孫山の三所権現宝殿一宇を島津家久が大檀那・大願主として再興した際の棟札。遷宮導師、当地頭、木屋奉行、大工の名を列記する。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 49~50頁
寺領への居所移転、使者の人選、比志島宮内少輔のもとへ出入りする者の礼法・監視を指示する。また、度重なる命令不履行、訴訟で自説を押し立てること、他人と相談しないことなどを問題として、宮内少輔へ申し聞かせるよう命じる覚書。
正応三年十月一日 / 冊子 362頁
国分掃部助が要害警固番役を三箇月勤仕したことを確認した島津忠宗の覆勘状。
永仁四年十月十六日 / 冊子 380頁
国分掃部助の警固番役が代官によって勤仕されたことを島津忠宗が確認し、引き続き執達するよう命じた国分氏文書。
正安元年十月十五日 / 冊子 393頁
国分掃部助の去秋分の警固番役を代官が勤仕したことを島津忠宗が確認し、引き続き執達するよう命じた国分氏文書。
年月日未詳 / 冊子 702頁
山田氏支流の友久について、亀三郎丸・式部孫三郎・掃部助・常陸守の名乗りと系統を掲げる系図記事。
正月13日 / 冊子 681頁/原整理番号 688
有馬・天草方面に出陣する軍衆へ、渡海後は使者の指示を待ち、遅延時は現地の役人と相談して独断で行動しないこと、山地の守備、人数の配分、狼藉・濫妨の停止などを命じる掟書。甲斐掃部助・有馬左近・伊地知らを指揮・相談役として挙げる。
年月日未詳 / 冊子 329頁/原整理番号 129
『島津殿御当家惟宗氏時系図』と題する惟宗氏の短い系図。元祖を蘇我大臣とし、施薬院から『千載集者』へ続く一支と、掃部助孝言から筑後守広言・久忠・忠季へ続く系線を掲げる。傍注には、往代に忠久の孫である阿蘇谷時久の時、八文字民部太夫の奉行所で系図を作成した旨を記し、久忠の表記について『下ハ上にて候』との校異注を付す。