島津義弘・同久保連署宛行状
(文禄2年)2月19日 / 冊子 674頁
公儀の使者として奥地の陣へ赴く薩摩衆を命じたところ、猿渡掃部兵衛尉が異議なく引き受けたことを「無比類」と賞する。 無事に帰国した際には、この軍忠に対して知行を宛て行うと島津義弘・久保が連署して約束した。危険な使者任務と恩賞を直結させた宛行状。
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(文禄2年)2月19日 / 冊子 674頁
公儀の使者として奥地の陣へ赴く薩摩衆を命じたところ、猿渡掃部兵衛尉が異議なく引き受けたことを「無比類」と賞する。 無事に帰国した際には、この軍忠に対して知行を宛て行うと島津義弘・久保が連署して約束した。危険な使者任務と恩賞を直結させた宛行状。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
(天正16年冬) / 冊子 418頁
義久が石田三成へ、秀吉から命じられた大仏殿用の柱を調達するため、直ちに屋久島へ使者を派遣し、市来掃部兵衛も上洛させる予定だと報告する。 一方で国中は疲弊し、義弘父子が長く在京しているため家中の立て直しも困難だとして、帰国実現への取り成しを懇願する。豊臣政権の造営負担と島津領国の窮状が同時に見える書状案。
年月日未詳 / 冊子 661頁
平壌退却後、朝鮮の群盗が王城―釜山間の往還を塞いだため、奉行衆が咸鏡道の加藤清正を王城へ戻して鎮圧させる方針を決める。 敷根仲兵衛が使者を志願し、猿渡掃部兵衛と鉄砲の巧者百人を伴って甲山城へ赴き、清正に帰城命令を届けた経過を記す。 島津家臣が危険な連絡路を突破し、全軍の再編命令を伝えた具体的な軍使活動が分かる。
年月日未詳 / 冊子 673頁
咸興の加藤清正が明使から朝鮮王子の引渡しを条件に帰国を促されるが拒絶し、宇喜多秀家らからも明軍接近と釜山路遮断を理由に帰陣を求められた経過を記す。 交渉使の人選が難航するなか島津義弘が引き受け、敷根伊兵衛・猿渡掃部兵衛に鉄砲兵二百人を付け、敵地を十余日進んで清正へ書状を届けさせた。島津方の危険な使者任務が分かる記事。
年月日未詳 / 冊子 303頁
島津家久譜が、慶長三年十二月六日に対馬を出帆して壱岐勝本へ着き、翌日迫門で松浦法印刑部卿の盛大な饗応を受けた帰航経路を記す。あわせて、朝鮮で前代未聞の怯弱を示した深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前で処刑し、鮫島筑右衛門尉が深野の首を斬ったこと、深野の息子二人は死罪を免じて帰国させたことを記す。
(慶長五年)八月八日 / 冊子 562頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、上方の騒乱が際限なく続き、手勢が乏しく言語に尽くせない状況であるため、少しも油断せず人数を上らせるよう求める。三月以来たびたび申し下しているのに実現していないと指摘し、詳しい様子は市成掃部兵衛が条書で伝えるとする書状。
(慶長六年)閏十一月六日 / 冊子 788頁
近衛信尹が、帰国する掃部兵衛に書状を託し、龍伯の上洛を待つ人々がいるとの京都の風聞を伝える。長十郎について玄旨からの依頼に応じ、慰めの言葉を添えるよう求めた。
(慶長八年)三月 / 冊子 885頁
島津義久の書状案。親王の筆になる名号八幅、家門の書状、加賀手綱五通などの拝領に礼を述べ、義弘らにも尊筆が届いたと報告する。市成掃部兵衛尉の下向に続き使者を遣わし、黒絹一巻を進上した。
(慶長十八年)十月廿五日 / 冊子 422~423頁
慶長十八年十月二十五日、島津義弘が、伊勢兵部少輔の上京と市成掃部兵衛妻の下向を聞き、京都への往復を急ぐよう述べるとともに、大名が集住する江戸では評判や風聞が立ちやすいとして、身持ちを慎み家臣を統率し、再会まで無事に勤めるよう訓戒した書状。
(慶長六年)八月九日 / 冊子 774頁
伊集院久治と山田有信が鎌田政近に、龍伯を迎える上方使者の下向や龍伯帰国の風聞を報じる。当国衰微で諸式が整わない事情を述べ、情報収集と周到な対応を求めた連署状。
五月八日 / 冊子 40頁
海老原為信が、過去の物品立替に伴う借状と借用金の精算について本田助丞へ回答した書状。複数の借用案件と同様に初秋に精算する方針であること、関係者にも繰り返し申し入れており、自身も処理を怠っていないことを説明する。
二月十九日 / 冊子 275~276頁/原整理番号 24の29
島津義弘・久保が猿渡掃部兵衛尉に与えた二月十九日付の連署状。公儀の使者として奥陣へ赴き、薩摩衆への命令を伝える役を異議なく引き受けたことを比類ない軍忠と評価し、帰国後に知行を宛行う旨を約する。
二月二十九日ほか / 冊子 276~294頁/原整理番号 24の30
二月二十九日付の石田三成書状は、猿渡掃部兵衛の遠国での辛労と無事帰陣を賞し、今後の用向きへの配慮を伝える。後半は伊地知季安が猿渡氏の系譜、島津氏への奉公、知行・家格、武具・家財、相続と分家間の争論を諸記録から考証し、元禄十五年十一月六日付猿渡信安書状までを収める。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
年月日未詳 / 冊子 302頁
島津義弘譜が帰航途中の動静を記す。十二月五日に鴨瀬を出帆し、義弘父子は対馬で宗義智の饗応を受け、立花宗茂・島津忠豊も同席した。翌六日に対馬を発ち、壱岐勝本を経て迫門へ着き、松浦法印の酒宴を受ける。一方、朝鮮で前代未聞の怯弱を示したとして深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前に引き出し、鮫島筑右衛門尉に処刑させたことも記す。
文禄二年正月 / 冊子 275頁/原整理番号 24の28
『征韓録』巻十一から、文禄二年正月に加藤清正が甲山から帰陣して北青城の相良頼房を救援した記事を抄出する。島津義弘が敵地を通る使者に猿渡掃部兵衛らを選び、鉄砲火の中を突破して軍情を伝えた軍功を考証し、義弘・久保の感状と石田三成書状へ続くことを示す。
天正八年十月十五日~十一月九日 / 冊子 678頁
天正八年十月十五日、島津方の兵船数百艘が矢崎城下へ着き、鬨の声を上げ火矢で放火して攻め上った。中村一太夫ら城兵は妻子を殺して切り出て戦い、島津方も市来備前守ら多数が戦死した。翌日青田城を和議で開城させ、城兵を阿蘇領へ送り、宇土で負傷者を養生し戦死者を弔った後、二十九日に熊本へ陣替えした。
二月廿九日 / 冊子 340~342頁
伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。
慶長四年四月卅日 / 冊子 377~378頁
西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。
年月日未詳 / 冊子 685頁
桐野掃部が関ヶ原で島津義弘(惟新)の側に奉公し、九月十五日から駒野越え、伊勢路、土山、伊賀、山城、住吉、堺を経て二十一日に乗船し、帖佐まで供奉した経路を記す。途中では負傷者の処置、米の調達、田辺屋道春への迎え依頼や堺の見聞を担当し、他の御側衆同様の加増を願い出た。
慶長十一年十一月廿三日 / 冊子 94頁
出水郡の検地帳を受け取った旨を記す請取状。竹本・知識・鯖淵・杉川内・大川内・高尾野・野田・長崎など各村の帳数と内訳を列記し、受領・引渡しの関係者を記す。
〔延宝五年〕九月二十五日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 1
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
〔延宝六年〕三月十三日 / 冊子 222頁/原整理番号 3
勝目助左衛門宗将が、石庵妙庵大姉の出自と猿渡家の系譜照会への対応を記した覚書。石庵妙庵大姉は天正十四年生まれ、寛永六年十月十八日に帖佐で四十四歳で没し、猿渡越中守の子・掃部兵衛の娘であるとする。系図作成に必要な返答書の催促と照会経緯を記し、延宝六年三月十三日、猿渡喜右衛門信安宛に送る。
〔延宝六年〕十一月十九日 / 冊子 222~223頁/原整理番号 4
勝目助左衛門宗将が猿渡信安の先祖由緒について返答した書状。猿渡越中が日向根白坂で戦死したとの伝承、猿渡掃部兵衛の高麗での戦死と帖佐惣禅寺の石塔、石庵妙庵大姉との関係を述べる。さらに、朝鮮で掃部兵衛と同様の働きをした敷根仲兵衛家の証書を、跡目を願う義耕和尚へ渡した経緯を記す。
延宝八年二月二十二日 / 冊子 223~224頁/原整理番号 5
猿渡信安が、安宅三郎兵衛の先祖敷根仲兵衛と自らの曽祖父猿渡掃部兵衛との高麗での関係について証した書付。文禄二年春、石田治部少輔・大谷刑部少輔・増田右衛門佐・加藤主計頭らが在陣するなか、掃部兵衛が書状・感状を携えて使者を務めた経緯と、失われた証拠書類を写しによって確認したことを記す。
〔天和二年〕六月三日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 6
猿渡信安が先祖の地頭歴を記録所へ届け出た書付。猿渡越中守が加世田・羽月地頭となり、天正年中に知行を羽月へ移して城内に居住したこと、猿渡掃部兵衛が羽月地頭となったことを記す。さらに猿渡興三の栗野地頭、猿渡喜右衛門尉の川内山田地頭就任を挙げ、不明な年代は追って調査するとする。
〔元禄二年〕正月十四日 / 冊子 225~227頁/原整理番号 7の2
猿渡信安が嫡子監物の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。曽祖父猿渡越中の加世田・羽月地頭就任と日向伊東氏・高城での大友氏との合戦、肥前知々輪での軍役、猿渡掃部兵衛の羽月地頭就任と高麗陣での奉公・戦死などを記す。歴代の相続・養子・知行・感状の伝来を述べ、監物へ至る家筋を説明する。
天正三年十一月二十八日条 / 冊子 266~267頁/原整理番号 24の15
『上井覚兼日記』天正三年十一月二十八日条から、上井覚兼が永吉へ赴き、野間座主猿渡掃部兵衛の用件を扱った記事を抄出する。永吉の盗難捜査、鹿島藤七の召置き、宇都宮次郎左衛門の子孫伝承を記し、当時の猿渡越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
天正八年八月ほか / 冊子 267頁/原整理番号 24の16
『大友御退治御日帳』三日条から、羽月の猿渡掃部兵衛尉が使僧を通じて祝儀を申し上げ、新納武蔵守も同様に申し入れた記事を抄出する。あわせて天正八年八月の肥後国水俣陣の軍記勢揃に羽月地頭猿渡掃部兵衛が見え、この時期まで越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
〔元禄二年〕正月十四日 / 冊子 225頁/原整理番号 7の1
猿渡信安が嫡子猿渡監物の初御目見と太刀進上を願った口上覚。信安自身は十歳で父監助を失い、十一歳で初御目見したこと、先祖以来太刀を進上してきたことを述べる。監物の家筋と相続事情を示し、先例どおり御目見と太刀進上を許可するよう仁礼覚左衛門に取り次ぎを求める。
〔元禄十二年〕六月十日 / 冊子 227~232頁/原整理番号 8の2
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。猿渡藤三郎の子藤四郎が武蔵守と称し、島津忠久に従って薩摩へ下向したとの伝承から説き起こす。歴代の地頭職、伊東氏・龍造寺氏との戦いや高麗陣での軍功、感状・知行・養子関係を詳述し、村山自伯らの系譜主張や焼失・散逸した証拠書類の照合経緯まで記す。
〔元禄十四年〕四月十日 / 冊子 236~240頁/原整理番号 12
猿渡信安が家の本姓を平氏から藤原氏へ改め、近衛家から由緒書を受けることについて内意を伺った口上覚。祖先猿渡藤四郎が近衛基通から藤原姓を受け、六代後の猿渡越中も近衛龍山から由緒書を得たとする。古系図・証文の焼失を述べ、歴代の合戦・地頭職・高麗陣での軍功を列挙し、近衛家による証明の許可を願う。
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
年月日未詳 / 冊子 362~364頁/原整理番号 67
求麻・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曾木へ攻め寄せた時、佐多を大将として若武者と遠見隊が防戦した記事。忠元も備えたが、敵はその支度を見て退いたとする。続く永福寺・白坂口での諸隊の働きと死傷、守備隊の交替を詳記する。五月には山野から野伏を試み、八月には加久藤・田中河内方面で陣を取り、大雨で攻撃を中止した。長陣の後、感應寺の西堂を頼って和平を申し入れたという。
年月日未詳 / 冊子 364~365頁/原整理番号 68
相良・菱刈などの連合勢が曾木へ攻め寄せた際、佐多を大将に迎え、城内の兵が切岸で防戦した記事。馬越の遠見隊が迫ると敵は退き、一山では新納刑部太輔らが城戸へ出て吉田・西田らと戦った。永福寺でも市来などの諸隊が合戦し、双方に損害が出た。五月に山野・羽月・平泉の守備が交替したことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。