島津竜伯感状
天正20年5月3日 / 冊子 557頁
島津義久が、前年の日向で忠節を尽くした功を改めて賞し、希望された大隅山田城の所領・処置を認めた感状。 今後も引き続き奉公に励むよう求めており、戦功評価と城地給付を結びつけた文書である。
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天正20年5月3日 / 冊子 557頁
島津義久が、前年の日向で忠節を尽くした功を改めて賞し、希望された大隅山田城の所領・処置を認めた感状。 今後も引き続き奉公に励むよう求めており、戦功評価と城地給付を結びつけた文書である。
感状本文日不記、追記:慶応4年辰二月11日受渡し・写取り・収納 / 冊子 493頁/原整理番号 661/整理ID 661
白木文書十一番箱三十七番、包紙に「御感状写」とある。島津淡路守の藩が多年報国の志を持ち、今回の襲来に際して防禦の人数を出張させたことを称え、今後も忠勤を働くよう沙汰する。原注は淡路守を忠寛とする。二月十一日に龍衛から町田孫太夫へ渡され、写しを取って同箱に収納したとの外包追記がある。感状には具体の兵員数や独立した日付はない。
7月勅書写/元治元年甲子8月慶喜の感状 / 冊子 374頁/原整理番号 536/整理ID 536
十二番箱中、包紙に勅書写とある文書を収める。七月の勅書写は、去十九日の禁闕下の大きな混乱に諸藩兵士が直ちに出張して命を懸けて防戦し速やかに鎮静した忠勤と、その後も暑熱の中で終夜警衛した苦労を称える。続く感状は、松平大膳太夫の家来の入京・禁闕砲撃と乱妨に際して薩摩勢が速やかに出張・接戦し、蛤御門・公卿門での防戦追退と天龍寺出張等の働きが抜群だったと記す。元治元年甲子八月、慶喜判、薩摩少將殿宛。朝廷の賞賛と慶喜の感状を別に示し、敵方の行動・勝敗・武功は各文書の叙述として整理する。
独立年月日不記 / 冊子 570~571頁/原整理番号 742/整理ID 742
白木御文書中にある外包について、「奥州白川滞陣」「御感状四通入」と表示する。続いて御側役衆・島津式部の名を掲げる。この項は外包の見出し・表示であり、感状四通の正文を載せるものではない。
康安六年二月七日 / 冊子 438頁/原整理番号 228
日向国北郷宮丸名について、知行と所務の扱いを示し、先例に従うよう命じる書状。
康安六年三月十一日 / 冊子 438~439頁/原整理番号 229
差し出した中条三郎左衛門尉の軍忠を報告し、その働きに応じて賞するよう求める書状。
応永四年五月十三日 / 冊子 439頁/原整理番号 233
日向国の相杵院上相左馬助跡と宮崎郡内戸次丹後守跡について、従来の下文の趣旨に従って領知するよう命じる。応永七年三月二日付。
三月19日、御感状四通の内の所収一通 / 冊子 546頁/原整理番号 706/整理ID 706
「御感状四通ノ内」として一通を収める。因州・土州・薩州・長州・大垣を掲げ、甲州勝沼駅と武州羽丹生村で賊徒が砲銃をもって要地に拠り官軍に抗したが掃撃され、初戦が軍の気鋒を高めたことが天聴に達して満足されたと述べる。なお忠誠を尽くし早く賊巣を平定して御心を安んじるよう戦士に伝えることを求める。末は三月十九日。戦況・賊徒と褒賞の評価は感状の叙述として記す。
慶応4年戊辰閏四月(日不記) / 冊子 559頁/原整理番号 722の5/整理ID 722-5
上包に薩州とある感状。今月初旬から両総・房州に屯集する賊徒の追討へ出張し、長官から士卒まで攻守の駆引が行き届き、忠を励まして速やかに平定したことを神妙と褒める。戦功を奏聞したとして感謝を示す。慶応四年戊辰閏四月、大総督の花押No.7表示を伴い、薩州藩隊長中宛とする。戦況と評価は感状の叙述として記す。
元治元年甲子8月18日茂久御判;子9月5日感状授与注 / 冊子 377頁/原整理番号 540の4/整理ID 540-4
先月十九日の長州勢襲来で、亡父野村勘兵衛が隈之城一組の物主として公家御門を警衛し、多数の敵と遭遇して防戦し戦死した働きに感じ入り、切米十五石・金五枚を宛てて優證する感状。元治元年甲子八月十八日茂久御判、野村熊太郎殿宛。子九月五日にこの感状を与えたとの注を持つ。親族宛軍賞通知との対応を示すが、同額の記載を重複支給と判断しない。
十九日戦闘・同十九日髪毛到来/8月7日優證・18日感状後記 / 冊子 378頁/原整理番号 540の5/整理ID 540-5
十九日未明、二本松御屋敷から禁闕警衛へ出た野村勘兵衛が、隊を二つに分けて公家御門や日野御門の談合役を担い、会津・越前の堅場にも援助したとする記録。蛤御門等へ多数の長州勢が押し寄せた際、勘兵衛と土卒一人が砲撃を受け戦死し手負も多かったという。遺骸を相国寺へ引き取り、公子から金子十両を与えて林光院へ葬送し、年三十五、法名忠勇明榮居士と記す。同十九日の髪毛到来と同日八ツ後の弔儀、八月七日の両公子の優證・金三十疋、福昌寺での葬式、八月十八日の感状等を続ける。戦闘の働き、死去・葬送と子への賞賜はこの記録の叙述として読み、他条の賞額や死傷数と総額・総人数へ合算しない。
建武三年三月十五日 / 冊子 653頁
筑前国宮崎合戦で大平平次郎が忠功を尽くし、手負・討死があったことを賞し、神妙であるとして抽賞を約した足利直義感状。
建武三年四月十一日 / 冊子 661頁
凶徒追討の軍忠を賞し、今後も忠節を尽くすよう牛屎左近将監(牛屎彦太郎兼隆)に命じた足利直義感状。
建武三年五月十二日 / 冊子 665頁
新田右衛門佐与同の益戸弥四郎行政・同四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使らとの新納院岩戸原彦尾合戦で、土持新兵衛尉が忠節を尽くしたことを賞した畠山直顕感状。
建武三年七月十日 / 冊子 670頁
周防五郎三郎忠兼の軍忠を神妙と賞し、恩賞を与える旨を伝えた足利尊氏感状。
建武三年八月十七日 / 冊子 671頁
渋谷平次五郎重勝の軍忠を神妙と賞し、恩賞を与える旨を伝えた足利尊氏感状。
建武三年九月三日 / 冊子 671頁
渋谷九郎重興の軍忠を神妙と賞し、恩賞を与える旨を伝えた足利尊氏感状。
建武四年三月廿八日 / 冊子 686頁
鎮西加瀬田城で軍忠を尽くした稲本十郎を賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年五月十六日 / 冊子 690頁
薩摩国での凶徒蜂起に際して合戦に参加し軍忠を尽くした宮里名主を賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年五月十七日 / 冊子 691頁
敦賀城の凶徒追討で知覧院式部三郎が尽くした軍忠を、島津三郎左衛門尉の注進により賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年五月十七日 / 冊子 691頁
敦賀城の凶徒追討で井手籠孫次郎が尽くした軍忠を、島津三郎左衛門尉の注進により賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年八月六日 / 冊子 695頁
鎮西の凶徒追討で長谷場十郎兵衛尉が尽くした軍忠を、島津修理亮七郎の注進により賞し、抽賞する旨を伝えた足利直義感状。
建武四年八月六日 / 冊子 695頁
No.1951と同趣旨で、鎮西の凶徒追討に軍忠を尽くした土持新兵衛尉を賞した足利直義感状。本文は同案のため省略される。
建武四年九月二日 / 冊子 697頁
比志島彦一丸の軍忠を、島津上総入道の注進により神妙と賞し、抽賞する旨を伝えた足利尊氏感状。
建武五年五月六日 / 冊子 712頁
日向国の凶徒追討でたびたび軍忠を尽くした土持新兵衛尉を賞し、今後も忠勤を励むよう命じた足利直義感状。
建武五年七月十一日 / 冊子 714頁
土持新兵衛尉の軍忠を、日向国大将軍島津上野修理亮七郎の注進により賞し、今後も忠節を尽くすよう命じた足利直義感状。
暦応二年四月廿日 / 冊子 719頁
肝付八郎兼重らの凶徒追討と姫籠大岩田城攻略で忠功を尽くした祢寝弥次郎を賞し、恩賞に与える旨を伝えた畠山直顕感状。
暦応二年十二月十三日 / 冊子 726頁
日向国の凶徒追討で土持新兵衛尉が尽くした軍忠を、島津修理亮七郎の注進により賞した足利直義感状。
正平四年九月廿日 / 冊子 791頁
島津貞久が、島津長門入道道忍と合戦した野田左衛門次郎について、道忍が凶徒に属すなか御方へ参陣したことを神妙と賞し、忠賞を与えるとした感状。
貞和六年十二月廿七日 / 冊子 799頁
足利直冬が満家院西俣殿へ、国中で忠節を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
貞和七年五月廿五日 / 冊子 807頁
足利直冬が渋谷九郎へ、国中で忠節を尽くしたうえ馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
貞和七年五月廿九日 / 冊子 807-808頁
足利直冬が受給者へ、国中で忠節を尽くしたうえ馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
貞和七年五月廿九日 / 冊子 808頁
佐次右衛門家所蔵文書で、No.2350と同文のため本文を省略した足利直冬感状。
貞和七年五月廿九日 / 冊子 808頁
足利直冬が武光三郎へ、馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
貞和七年六月五日 / 冊子 808頁
足利直冬が河上平次郎へ、馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
貞和七年六月五日 / 冊子 808頁
足利直冬が比志島彦太郎へ、馳せ参じたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
観応二年十月十五日 / 冊子 814頁
足利尊氏が島津周防与二次郎へ、播磨・摂津両国での忠節を神妙と賞し、急ぎ京都へ馳せ参じるよう命じた感状。
正平六年十一月十日 / 冊子 815頁
足利義詮が、播磨・摂津両国で軍忠を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月十日 / 冊子 818頁
足利尊氏が島津又三郎へ、前年九月二十八日の筑前国金隈合戦で若党らが討死し、自身も負傷したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
足利尊氏が、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父本田左衛門尉次郎入道道意が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
足利尊氏が本田熊鬼丸へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父伊集院彦五郎入道道迎が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が伊集院又五郎へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父中條六郎が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が池上弥四郎へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父池上四郎兵衛尉光久が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
観応三年四月廿五日 / 冊子 820頁
足利尊氏が伊地知彦七へ、前年九月八日の筑前国金隈合戦で父伊地知弾正忠季随が討死したことを神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
文和元年十月十三日 / 冊子 827頁
足利尊氏が島津又三郎に、大隅・薩摩両国の凶徒退治について六月二十一日付注進状を披見し、その軍忠を神妙と賞した感状。島津氏に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。島津又三郎ほかと九州ほかを結び、誰が何を対象に、どの権利・義務・処置を実行したかを具体化する。
文和元年十月三日 / 冊子 828頁
足利尊氏方が、大隅・薩摩両国の凶徒退治について六月二十七日付注進状を披見し、老体・病気でありながら氏久が両国で籌策した働きを賞した感状。島津氏・負傷に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
文和元年十月三日 / 冊子 828頁
島津師久関係の感状で、道鑑公御譜中にも収録される旨を記した注記。
観応三年十月廿九日 / 冊子 828頁
足利直冬が野辺野五郎に、日向国で忠節を尽くしたことを神妙と賞し、今後もいっそう戦功を挙げるよう求めた感状。
文和元年十二月廿五日 / 冊子 831頁
畠山直顕が、大隅国大姶良合戦での軍忠と軍勢派遣を神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
文和三年七月十日 / 冊子 855頁
一色範氏が、薩摩国凶徒退治で島津上総入道が合力した忠節を神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。軍忠・合戦に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。島津氏ほかと九州ほかを結び、誰が何を対象に、どの権利・義務・処置を実行したかを具体化する。